●村上春樹のジャズ喫茶を歩く 東京編
    初版2008年8月30日
    二版2008年9月7日
    三版2008年9月22日
    四版2009年2月8日 <V02L03> 神保町「響」を追加

先週に引き続いて村上春樹の「ジャズ喫茶を歩く 東京編」を掲載します。1970年代の東京のジャズ喫茶を村上春樹と一緒に早稲田から新宿、吉祥寺と歩きました。殆どの店が無くなっていましたが、一部のお店は当時のままにJAZZを鳴らしていました。


「jazzLife」
<jazzLife(昭和57年6月臨時増刊)[神戸編と共通]>
 「jazzLife」を発行していた「立東社」が2001年に倒産し、どうなるかとおもっていたら、三栄書房が発売元で再発行されました。今回の村上春樹氏インタビュー記事掲載の「jazzLife」は1982年6月ですので、立東社が発行していたころの雑誌となります。
「── かつて国分寺と千駄ヶ谷に“ピーター・キャット”という名のジャズ喫茶があった。そのオーナーが、実はここで紹介する小説家の村上春樹氏だったのである。
 「風の歌を聴け」で群像新人賞を受けデビュー後、「1973年のピンボール」や近作では糸井重里との「夢で会いましょう」、それからF.フイッツジェラルドの翻訳集など、独得の喝いた文体の中に現代を描く、クールな新時代の作家である彼に、ジャズとのかかわりを聞いてみた。
……
──それ以前はクラシックとかも……。
村上:クラシックと、いわゆるポップスですね。
──そういうものを聴いてきて、アート・ブレイキーに出会った時の衝撃はどんな感じだったんですか?
村上:あのね。わかんない音楽があるというのはスリルなんですよね。初めて聴いてもわかんないんです。あの−、ショーターとハバードとカーテイス・フラーでしょう、むずかしい訳ですよ。これはモードですしね。わかんない。わかんないと、なんとか追究してみたいという気がするんです。わかんないなりにね。…」

 1985年頃までの村上春樹氏へのインタビュー記事は、どの月刊誌や雑誌に掲載されたものでも、それなりに面白いものばかりです。まだ駆け出しの頃でインダビューになれておらず、率直にありのままを語っていたためだとおもいます。

左上の写真は「jazzLife」の昭和57年(1982)6月号臨時増刊です。26年前になります。昔のjazzLifeも結構面白かったのですね!!

「フォー・ビート跡」
フォー・ビート>
 早稲田のジャズ喫茶といえば「もず」が一番最初に出てくるかとおもったら、そうでもないようです。今週も「jazzLife」を参考にしながら歩いてみました。
「…──それから東京に来られてやっぱりジャズ喫茶をハシゴするとかしました?
村上:早稲田に
“4ビート”というのがあって、今はないと思うけど……広くてきたない店でね。あとは“ヴィレッジゲイド、“ヴァンガード”それから“ビザールてあと女の子と行く時には“デイグ”とか“キャット”とか。
──当時はジャズ喫茶が隆盛をきわめてた時期で。
村上:そうですね。あと、吉祥寺の
“メグ”とか“ファンキー”とかありました。
──その頃は最初と較べて噂好は変わってきました?
村上:やっぱりメインストリームは聞いていたけれど、それと同時に、白人のジャズとか好きになりましたね。コニッツとかゲッツとかね。『インサイド・ハイファイ』(リー・コニッツ)とか好きで、今でもそうですけど。
──A@の「ケリーズ・トランス」とか。
村上:うん、あれはいい。…」

 平岡正明の「昭和のジャズ喫茶伝説」にも「フォービート」について書かれていました。もっとも「もず」の方が中心に書かれていましたが!
 「…スタックスのオール・コンデンサー使用するときうのが、うたい文句だった。行ってみたが、ジャズの音ではなかっ…た。……この店はすぐに無くなった。」
 かなり厳しいことを書いています。私は行ったことが無いのでコメントのしようがありません。

左上の写真の右から二軒目に「フォービート」がありました。推定ですが、建物は建て直されているようです。右のお店は「キッチン ミキ」で、当時と変わっていませんでした。 吉祥寺の「メグ」「ファンキー」の写真を掲載しておきます。「ファンキー」は一度場所が変わっています。

「スウィング跡」
スウィング>
 村上春樹がアルバイトしたお店として有名な水道橋のジャズ喫茶「スウィング」です。村上春樹は結婚後、ジャズ喫茶を開くため、夫婦でアルバイトを始めます。開店資金を稼ぐだけではなくて、お店経営のノウハウを掴みたかったのだとおもいます。
「…──大学時代にジャズ喫茶をやりたいと思ったことはあるんですか?
村上:いや、ないですね。大学出て、TV局に入ったんですけど、行ってもつまんないと思った。そうするとやることないんですよ。何が出来るかというと、ジャズぐらいしかわからないんですよ。
だからジャズ喫茶をやろうと。それで何年かアルバイトして、お金貯めて……。
──最初は
“スウィング”で。
村上:“スウィング”でやってもお金は儲らないですけどね。
──でもメインストリートでなく“スウィング”でやったということは大きな栄養になっているということはあるんでしょうか?
村上:何でもそうだけど、一時代前のことをやるというのは、大事だと思うんですよね。ところがそういう機会はなかなかない。…」

 岡崎武志の「古本でお散歩」にも”ジャズ喫茶のマスターとしての村上春樹」で書かれていました。もう一冊書かれていた本があったのですが、見つからないので、後で追加したいとおもいます。

左上の写真の正面付近の歩道の所に「スウィング」がありました。道路が拡張され、お店があった建物自体が無くなっています。店は飯田橋に移って現在はありません(飯田橋のお店も無くなりました)。ジャズ喫茶が経営的に成り立つ時代ではありませんので、大変だったと思います。

「響跡」
<響>   2009年2月8日 追加(09年2月22日写真を更新)
 村上春樹がアルバイトしていたお店は水道橋のジャズ喫茶「スイング」でしたが、奥様の方がアルバイトしたお店がジャズ喫茶「響」です。お二人がよく食事したお店は「てんぷら いもや」でした。と、…… 書いたのですが、どの本に書いてあったか、忘れてしまいました。思い出したら、出典を書きたいとおもいます。お二人がアルバイトしていた頃は、千石の奥様の実家に住んでいたとおもいます。実家は都営三田線の千石駅近くなので、水道橋や神保町は乗換無しの一本で来ることが出来ました。ですから、このお店を選んだとおもいます。
 出典を思い出しました。水道橋のスイングが開店25周年を記念してまとめた「スイング25年の歩み(昭和58年1月発行)」の中に村上春樹が書いていました。昭和47年までアルバイトしていたそうです。

右の写真の正面に「響」がありました。残念ながら無くなっています。湘南の方に移られたようです。現在の住所で、神田神保町一丁目12、版画堂の所です。(前回の写真は「コンボ」の写真でした)。


村上春樹の東京地図


村上春樹の年表
和 暦 西暦 年  表 年齢 村上春樹の足跡
昭和52年 1977 巨人優勝 28 ジャズ喫茶「ピーター・キャット」を千駄ヶ谷に移転
昭和53年 1978 ヤクルト優勝 29 4月 神宮球場で「僕は小説を書けると悟った」
昭和54年 1979 イラン革命
NECがパソコンPC8001を発表
30 「風の歌を聴け」 (『群像』6月号)
5月 第22回群像新人文学賞を受賞
昭和55年 1980 光州事件
山口百恵引退
31 「1973年のピンボール」 (『群像』3月号)
昭和56年 1981 チャールズ皇太子とダイアナが婚約
向田邦子航空機事故で死去
横溝正史死去
32 千葉県船橋市に転居
12月 「風の歌を聴け」が映画化
ホットドッグ・プレス
昭和57年 1982 フォークランド紛争 33 「jazzLife」6月号臨時増刊
「羊をめぐる冒険」 (『群像』8月号)



「カルテザック跡」
カルテザック>
 このお店は私はまったく知りませんでした。なにせ、渋谷区神宮前二丁目なので、村上春樹が千駄ヶ谷で「ピーターキャット」を経営していたころのお話ではないかとおもいます。
「…──いろんなお店過っていて、この辺がいいなアと思ったところありますか?
村上:雰囲気次第ですね。
“キャット”は割と好きだった。でたらめなところがいいですよね。
ちょっと前のジャズ喫茶じゃないけど、神宮前の
“カルテザック”もムチャクチャですね。テクノの次にナット・キング・コールがかかったり、ああいう雰囲気はいいですよね。ひとつの姿勢みたいなものだから、音楽的に。これからの店は、ただ新譜かけてるだけじゃダメなんです。…」
 1995年度版「ジャズ日本列島」にも「カルテザック」が書かれていましたので、つい最近まで店はあったのだとおもいます。残念ながら現在はありませんでした。

左上の写真正面の白いマンションの一階に「カルテザック」がありました。明治通りの神宮前一丁目交差点から東に少し入ったところですので、場所的にはあまりよくありません。

「ダグ」
ダグ(DUG)>
 あまりに有名なお店なので、なにも云うことはありません。
「… 村上:だから僕は自分でジャズ喫茶やる時も、そういうのをなるべく避けたかった。そうするとどうしてもシヴイアな店はできないですね。端的に言うと、“ダグ”のコピーですよね。
──それでも
“ダグ”とは雰囲気が違ってましたね。
村上:かなりインティミットなものにしたかったんです。僕が目の届く範囲でやりたいし、人には任せられないしね。…」

 私はここ5〜6年訪ねておりません。昔は良く行きました。

右の写真左側の入り口を地下に下りると現在の「DUG」です。店の前は靖国通り、新宿市役所前交差点です。村上春樹が訪ねたころのDUG(昭和42年(1967)オープン)は紀伊国屋書店の裏口の横のビル地下にありました。

「ヴィレッジゲイド跡」
ヴィレッジゲイト>
 こうなると昭和40年代、1970年付近の新宿ジャズ喫茶まわりです。
「…──それから東京に来られてやっぱりジャズ喫茶をハシゴするとかしました?
村上:早稲田に“4ビート”というのがあって、今はないと思うけど……広くてきたない店でね。あとは
“ヴィレッジゲイト”、“ヴァンガード”それから“ビザール”てあと女の子と行く時には“ディグ”とか“キャット”とか。
──当時はジャズ喫茶が隆盛をきわめてた時期で。…」

 良く当時のジャズ喫茶の名前を覚えているなとおもいます。「キャット」の写真も掲載しておきます。武蔵野館の前のビルの地下になります。村上春樹がアルバイトしていたレコード屋の右隣と云った方が早いかもしれません。

左上の写真左側のビルの地下に「ヴィレッジ・ゲイト」がありました。”中山健次の新宿を歩く”でも掲載していますのでそちらも見てください。

「ヴァンガード跡」
ヴァンガード(バンガード)> 2008年9月6日 地図を追加
 こちらも「ビートたけしの新宿を歩く」で紹介したジャズ喫茶です。いろいろな意味で有名なお店です。詳細は「ビートたけしの新宿を歩く」を見てください。
 
右の写真正面のビルのところに「ヴァンガード(ビレッジ・バンガード)」がありました。
同じような名前のジャズ喫茶が新宿にはたくさんありましたのでここで整理します。
・ビレッジ・バンガード:新宿区歌舞伎町10(石川ビル2F)
ジャズ・ビレッジ(新名:V):新宿区歌舞伎町15
ヴィレッジ・ゲイト:新宿区歌舞伎町17 喫茶王城の前

となります。この住所は全て昭和43年6月号のスイングジャーナル誌からです。この雑誌にはビレッジバンガードの広告が掲載されており、その中に上記3店の地図が掲載されていました。経営者は同じだったのかなとおもっています。

「DIG跡」
DIG(ディグ)>
 最後はDIGです。昭和36年(1961)オープンで、こちらも有名ですね。アカシアのお店の三階にあったお店です。アカシアはロールキヤベツで有名なので結構はやっています。お店の名前は”アカシヤ”ではなくて”アカシア”が正解です。

左の写真、右側から二軒目がアカシアです。お店の右側の階段を三階まで上がると、DIGがありました。

「ビサール」をまだ紹介しておりませんでしたが、現存しておりますので写真のみ掲載しておきます。

今回で「村上春樹のジャズ喫茶を歩く」は終了です。

村上春樹の新宿地図



「ジャンク跡」
<銀座 ジャンク> 2008年9月22日 銀座ジャンクを追加
 昭和56年6月に「音楽の手帳」から「ジャズ」という雑誌が出版されています。この中に村上春樹が「ジャック・ウイルソンはなんとなく僕をひきつけた」というテーマで書いています。
「…ジャック・ウィルソンは一九八一年三月十一日の夜、銀座のジャズ・クラブ「ジャンク」のステージに現われた。とはいってもこの夜の主役はウィルソンではなく、ロレツ・「ザ・グレート」・アレクサンドリアである。
……「ずっとあなたのファンだったんですよ」と僕は言った。休憩時間で、ジャックはロレツと並んでカウンターでグラスを傾けていた。
「ふうん」と彼はなんだかよくわからないといった風に返事をした。
「レコードにサインをしてもらえますか?」
「いいとも」
 僕が三枚のレコードを持ち出すと、彼はずいぶん驚いたようだった。
「僕のレコードを三枚も持っていてくれた人が日本にいたんだねえ」と彼は言った。
「あら、ずいぶんなつかしいレコードじゃない」と横からロレツ。
 ジャック・ウィルソンは長い時間をかけて三枚の自分のレコードをまじまじと眺めた。どこかに置き忘れてきた自分の影に出会った時のような表情だった。
「どうもありがとう、ミスタ・……」
「ムラカミです」
「どうもありがとう、ミスタ・ムラカミ。君に会えて本当に嬉しい」
「サインをしてもらえますか?」
「あ、そうだ、サインだ」
 彼は三枚のレコードのそれぞれに長いメッセージを書いてくれた。”Thank you very mach for buying my records ──
Jack Wilson” 素敵なメッセージだ。…」

 昭和56年(1981)ですから、前年に「1973年のビンポール」を発表した後で、千駄ヶ谷のピーターキャットを人に任せて、千葉に移り住んだ時です。
 
右の写真正面やや左の茶色いビルが青柳ビルです(銀座八丁目、銀座通りから一筋北側に入った通りです)。このビルの4Fに「ジャンク」がありました。残念ながら現在はありません。本人はサインがあまり好きではないそうですが、貰うのは積極的ですね!!