●村上春樹のジャズ喫茶を歩く 神戸編
    初版2008年8月23日
    二版2020年1月31日 YouTube版「村上春樹の世界」 No.12 神戸を歩く 其の二 ジャズ喫茶を歩く <V01L02>

 2020年1月31日(YouTube版 村上春樹の世界 No.12 神戸 其の二)
 《村上春樹の世界》をYouTube化しましたので見て頂ければとおもいます。
今回は、「No.12 神戸を歩く 其の二 ジャズ喫茶を歩く」です。

 お盆のお休み明けで少しボッとしていますが、元気にやりたいとおもいます。今週は村上春樹の「ジャズ喫茶を歩く 神戸編」を掲載します。村上春樹氏インタビュー記事が掲載されている「jazzLife」の1982年6月号臨時増刊を手に入れることができましたので、この中の記事を参考にしながら神戸を歩いてみました。


「jazzLife」
<jazzLife(昭和57年6月臨時増刊)[東京編と共通]>
 「jazzLife」を発行していた「立東社」が2001年に倒産し、どうなるかとおもっていたら、三栄書房が発売元で再発行されました。今回の村上春樹氏インタビュー記事掲載の「jazzLife」は1982年6月ですので、立東社が発行していたころの雑誌となります。
「── かつて国分寺と千駄ヶ谷に“ピーター・キャット”という名のジャズ喫茶があった。そのオーナーが、実はここで紹介する小説家の村上春樹氏だったのである。
 「風の歌を聴け」で群像新人賞を受けデビュー後、「1973年のピンボール」や近作では糸井重里との「夢で会いましょう」、それからF.フイッツジェラルドの翻訳集など、独得の喝いた文体の中に現代を描く、クールな新時代の作家である彼に、ジャズとのかかわりを聞いてみた。
……
──それ以前はクラシックとかも……。
村上:クラシックと、いわゆるポップスですね。
──そういうものを聴いてきて、アート・ブレイキーに出会った時の衝撃はどんな感じだったんですか?
村上:あのね。わかんない音楽があるというのはスリルなんですよね。初めて聴いてもわかんないんです。あの−、ショーターとハバードとカーテイス・フラーでしょう、むずかしい訳ですよ。これはモードですしね。わかんない。わかんないと、なんとか追究してみたいという気がするんです。わかんないなりにね。…」

 1985年頃までの村上春樹氏へのインタビュー記事は、どの月刊誌や雑誌に掲載されたものでも、それなりに面白いものばかりです。まだ駆け出しの頃でインダビューになれておらず、率直にありのままを語っていたためだとおもいます。

左上の写真は「jazzLife」の昭和57年(1982)6月号臨時増刊です。26年前になります。昔のjazzLifeも結構面白かったのですね!!

「マスダ名曲堂跡」
マスダ名曲堂>
 ジャズ喫茶というか、先ずは神戸のレコード屋を歩いてみました。「jazzLife」には書かれていませんが、「村上朝日堂 夢のサーフシティ」の中に、神戸のレコード屋が名前入りで書かれていました。
「…★ラフマニノフの三番のコンチェルト
 ところでこの映画の重要なモチーフになるラフマニノフの三番のコンチェルトは、僕は昔から好きでした。というのは、十代の半ばにクラシック音楽に目覚めたころ、ウラジミール・アシュケナージのこの曲の素晴らしい演奏に触れたからです。今ではアシュケナージといえば押しも押されもせぬ大家だけれど、当時のアシュケナージは西欧デビューしたばかりで、ほんとうに新鮮で若々しかった。
 マゼールと共演したチャイコフスキーのコンチェルトも見事だったけど、フィストラーリと共演したこのラフ3も良かったですよ。若者の見果てぬ夢が息吹となってそのまま結晶しているような、名演だった。僕は神戸の
マスダ名曲堂でこのレコード(ロンドンの輸入盤)を買って、ほんとうに何度も何度も繰り返して聴きました。そのレコードは今でも大事に持っています。…」
 ”ラフマニノフの三番のコンチェルト”から突然「マスダ名曲堂」というレコード屋がでてきます。私は知らなかったのですがこの「マスダ名曲堂」は神戸では有名なレコード屋だったそうです。このレコード屋の店主である増田豊太郎氏は絵描きとしても有名だそうで、残念ながら現在と亡くなられています。お店も同時に閉められたようです。ラフマニノフの三番は私も好きで ウラジミール・アシュケナージのCDをもっております。

左上の写真の正面やや左付近に「マスダ名曲堂」がありました。昭和40年代の地図を見ると右側角から三軒目にありました。右隣はエースコーヒーでした。現在は全てビルになってしまっています。


村上春樹の神戸地図


村上春樹の年表
和 暦 西暦 年  表 年齢 村上春樹の足跡
昭和54年 1979 イラン革命
NECがパソコンPC8001を発表
30 「風の歌を聴け」 (『群像』6月号)
5月 第22回群像新人文学賞を受賞
昭和55年 1980 光州事件
山口百恵引退
31 「1973年のピンボール」 (『群像』3月号)
昭和56年 1981 チャールズ皇太子とダイアナが婚約
向田邦子航空機事故で死去
横溝正史死去
32 千葉県船橋市に転居
12月 「風の歌を聴け」が映画化
ホットドッグ・プレス
昭和57年 1982 フォークランド紛争 33 「jazzLife」6月号臨時増刊
「羊をめぐる冒険」 (『群像』8月号)



「バンビ跡」
バンビ(バンビー?)>
 「jazzLife」の昭和57年6月号臨時増刊に登場する神戸のジャズ喫茶は二軒でした。
「…ジャズ喫茶に通いはじめたのは高校のとき、ハシゴもしましたね。
──村上さんは関西の御出身ですけども、高校時代にジャズ喫茶に通いはじめたんですか?
村上:ええ、行きましたね。あんまりポピュラーじゃなかったんですけど。
──当時だと
“さりげなく”(店の名前)ですか?
村上:“さりげなく”は高校出てからできたんです。それまでは
“バンビ”というのがあったんですよね。
──山手界隈とか三ノ宮のあたり?
村上:三ノ宮駅の近くでした。ちょうどね、マイルスの『イン・ヨーロッパ』とか、コルトレーンの『ブルー・トレイン』とかあの辺ですね。
──いつ頃からそういうものを聴き始めたんですか。
村上:中学3年の時にアート・プレイキーを聴いて、レコード買うようになって、高校に入ってからジャズ喫茶に行くようになりました。…」

 「さりげなく」と「バンビ」の2軒になります。最初は「バンビ」です。当時の地図を見ると「バンビ」ではなくて「キッサ バンビー」と書かれていました。そこで昭和51年度版「ジャズ日本列島」を見ると「バンビ」と書かれていました。「バンビ」が正解のようです。

左上の写真正面のところに「バンビ」がありました。JR三ノ宮駅、阪急三ノ宮駅から直ぐの所です。昭和51年以降は掲載が無いので、かなり前に無くなっていたようです。

「さりげなく跡」
さりげなく>
 もう一軒が「さりげなく」です。こちらはトアロードと北長狭通(サンセット通)との交差点にありました。現在は無くなっていますが、経営者は変わられたようですが、後をついで阪急三ノ宮駅山側に同名のお店があります。こちらのお店の写真も掲載しておきます。ビルの二階にありますので、ビルの入り口の写真を掲載しておきます。

左の写真中央のビルの地下にありました。写真の右側の通りは北長狭通(サンセット通)で、手前左右がトアロードとなります。当時の地図では、写真左角にキャンドルという喫茶店があり、右隣が北京飯店で、その北京飯店地下に「さりげなく」がありました。キャンドルも北京飯店も現在は無くなっています。