●第二十二回群像新人文学賞
    初版2007年1月13日
    二版2007年12月10日 「走ることについて語るときに僕の語ること」を追加
    三版2009年5月30日 <V01L01> 「特集 新人文学賞の二十五年」を追加

村上春樹と芥川賞」を特集してから約一年経ちましたので、村上春樹が世に出るきっかけになった群像新人文学賞について特集してみました。


「群像79/6」
<群像 昭和54年(1979)6月号>
 群像新人文学賞授賞当時のことは1979年5月4日号の週刊朝日に克明に書かれていました。
「群像新人文学賞=村上春樹さん(29歳)は、レコード三千枚所有のジャズ喫茶店店主
 東京・千駄ヶ谷でジャズ喫茶(夜はバー)を経営している二十九歳の青年、村上春樹さんの小説「風の歌を聴け」(二百枚)が、第二十二回「群像新人文学賞」に人選した。選考委員五氏が全員一致、文句なしの決定だった。変わり種作家が続出する現代文学風景の中に、またひとり異色新人の登場である。夜はピアノの生演奏もあるというその店を、昼間おとずれたら、白いエプロンを胸にかけグラスを磨いていた、髪を短くカットした青年が、「僕が村上です」 なるほど、受賞作「風の歌を……」の作者のイメージは、まさにこうでなければならないのだろう。…」

 群像新人文学賞の発表が4月ですから、殆ど同じ時期に取材していたのでしょう。小説の主人公と自分自身をかなりだぶらせています。ピーターキャット(この記事ではお店の名前は伏せられている)が国分寺から千駄ヶ谷に移転したのが52年ですから二年目に受賞したことになります。国分寺や千駄ヶ谷のお店には名の知れた人が顔を出していたようです。
「…店には村上龍もよく顔を出した。…… 「私の店には、若い編集者のかたが見えますよ。中上健次さんも編集者に連れて来られた一人で、ちょっと話したことありますけど。…」
お店のセンスがよかったのでしょう。評判が評判を生みます。

左上の写真は群像新人文学賞が掲載された群像6月号です。群像新人文学賞の応募締め切りは前年の11月末ですからかなり前から準備をしていたとおもいます。
「…早稲田を出るにあたって、「アメリカ映画における旅の系譜」という卒業論文を書いた。「駅馬車」から「宇宙の旅」にいたるまで、アメリカ映画の発達とテーマは人と物の移動にある。
── という論旨だった。それを読んだ印南高一教授が「君は小説が書けるんじゃないかね」ともらした。その言葉が頭にひっかかっていて、ふとペンをとらせたということらしい。その処女作がいきなり入選作となった。この新人、日本の小説は、ほとんど読んだことがない。八年前、読むものがないのでたまたま目についた谷崎潤一郎の「細雪」を読んだくらいのもの。…」

小説を書くに当たってはかなり準備をしたのではないでしょうか。「風の歌を聴け」の構成、文章の出来はかなりのものです。

<村上春樹氏の受賞のことば>
 学校を出て以来殆んどペンを取ったこともなかったので、初めのうち文章を書くのにひどく手間取った。フィツジェラルドの「他人と違う何かを語りたければ、他人と違った言葉で語れ」という文句だけが僕の頼りだったけれど、そんなことが簡単に出来るわけはない。四十歳になれば少しはましなものが書けるさ、と思い続けながら書いた。今でもそう思っている。
 受賞したことは非常に嬉しいけれど、形のあるものだけにこだわりたくはないし、またもうそういった歳でもないと思う。

 それにしても芥川賞が取れなかったのが不思議ですね。やっぱり選考委員が問題かな。
 
昭和54年当時の群像新人文学賞と芥川賞の選考委員は丸谷才一と 吉行淳之介がだぶっています。

選考委員 昭和54年 第二十二回群像新人文学賞
選  評
受賞作 ○小説当選作 「風の歌を聴け」      村上 春樹
○評論優秀作 「文学の終末について」  宇野 邦一
〇評論優秀作 「意識の暗室」       富岡幸一郎
佐々木基一  この作品を入選にしたのは、第一にすらすら読めて、後味が爽やかだったからである。アメリカの現代小説にこういうふうなものがたくさんあると丸谷才一さんが云っていたが、わたしはほとんど読んでいない。ただ、ポップアートみたいな印象を受けた。しかもそれがたんに流行を追うというのでなく、かなり身についたものとしてでてきているように感じた。非常に軽い書き方だが、これはかなり意識的に作られた文体で、したがって、軽くて軽薄ならず、シャレていてキザならずといった作品になっているところがいいと思った。ポップアートを現代美術の一ジャンルとして認めるのと同様に、こういう文学にも存在権を認めていい.だろうとわたしは思った。こういう作品はかなり手間ひまかけて作らないと、軽くて軽薄になるおそれがあることに、作者が留意してくれることを望む。
佐多稲子  「風の歌を聴け」を二度読んだ。はじめのとき、たのしかった、という読後感があり、どういうふうにたのしかったのかを、もいちどたしかめようとしてである。二度目のときも同じようにたのしかった。それなら説明はいらない、という感想になった。ここで聴いた風の音はたのしかった、といえばそれでいいのではなかろうか。若い日の一夏を定着させたこの作は、智的な抒情歌、というものだろう。作中の鼠は主人公の分身だ、と吉行さんが云われたが、私もそうおもう。同一人物という印象から脱け切ってはいない。が、観念の表白の手段としてのこの人物の設定は利いている。「ジェイズ・バー」のジェイ、その夏逢った女としての彼女、この二人は主人公とともに好もしく、しゃれた映画の中の人物を見るようだった。作者は、ためらいを見せつつ書出し、誇りで結んでいる。この作は選者たちの一致した意見で当選となった。
島尾敏雄 …ところで最後に村上春樹さんの「風の歌を聴け」が残ってしまったが、そのハイカラでスマートな軽さにまず私の肩の凝りのほぐれたことを言っておこう。しゃれたTシャツの略画まで挿入されていた。実は今何が書いてあったのか思い出せないのだが、筋の展開も登場人物の行動や会話もアメリカのどこかの町の出来事(否それを描いたような小説)のようであった。そこのところがちょっと気になったが、他の四人の選考員がそろって入選に傾き、私もそのことに納得したのだった。
丸谷才一 …村上春樹さんの『風の歌を聴け』は現代アメリカ小説の強い影響の下に出来あがったものです。カート・ヴォネガットとか、ブローティガンとか、そのへんの作風を非常に熱心に学んでゐる。その勉強ぶりは大変なもので、よほどの才能の持主でなければこれだけ学び取ることはできません。昔ふうのリアリズム小説から抜け出さうとして抜け出せないのは、今の日本の小説の一般的な傾向ですが、たとへ外国のお手本があるとはいへ、これだけ自在にそして巧妙にリアリズムから離れたのは、注目すべき成果と言っていいでせう。 しかし、たとへばカート・ヴォネガットの小説は、填実のすぐうしろに盗れるほどの悲しみがあって、そのせいでの苦さが味を引き立ててゐるのですが、『風の歌を聴け』の味はもつとずつと単純です。たとへばディスク・ジョッキーの男の読みあげる病気の少女の手紙は、本来ならもつ.と前に出て来て、そして作者はかういふ悲惨な人間の条件ともつとまともに渡りあはなければならないはずですが、さういふ作業はこの新人の手に余ることでした。この挿話は今のところ、小説を何とか終らせるための仕掛けにとどまってゐる。あるいは、せいぜい甘く言っても、作者が現実のなかのある局面にまったく無知ではないことの請拠にとどまってゐる。このへんの扱ひ方には何となく、日本的抒情とでも呼ぶのが正しいやうな趣があります。もちろんわれわれはそれを、この作者の個性のあらはれと取っても差文へないわけですけれど。そしてここのところをうまく伸してゆけば、この日本的抒情によって塗られたアメリカふうの小説といふ性格は、やがてはこの作家の独創といふことになるかもしれません。とにかくなかなかの才筆で、殊に小説の流れがちっとも淀んでゐないところがすばらしい。二十九歳の青年がこれだけのものを書くとすれば、今の日本の文学趣味は大きく変化しかけてゐると思ほれます。この新人の登場は一つの事件ですが、しかしそれが強い印象を与へるのは、彼の背後にある(と推定される)文学趣味の変革のせいでせう。この作品が五人の選考委員全員によって支持されたのも、興味深い現象でした。
吉行淳之介 …「風の歌を聴け」は、あえて点数で言ってみれば、六十点の作品か八十五点(九十点といってもいい)の作品か、どうもよく分らないので再読した。その結果、これは良い作品だとおもったし、あえていえば近来の収穫である。これまでわが国の若者の文学では、「二十歳(とか、十七歳)の周囲」というような作品がたびたび書かれできたが、そのようなものとして読んでみれば、出色である。乾いた軽快な感じの底に、内面に向ける眼があり、主人公はそういう眼をすぐに外にむけてノンシャランな態度を取ってみせる。そこのところを厭味にならずに伝えているのは、したたかな芸である。しかし、ただ芸だけではなく、そこには作者の芯のある人間性も加わってきているようにおもえる。そこを私は評価する。「鼠」という少年は、結局は主人公(作者)の分身であろうが、ほぼ他人として書かれているところにも、その手腕が分る。一行一行に思いがこもり過ぎず、その替り数行読むと微妙なおもしろさがある。この人の危険な岐れ目は、その「芸」のほうにポイントが移行してしまうかどうかにある。
出典                                    群像 昭和54年6月号



 
「群像82/6」
<群像 昭和57年(1982)6月号>
  2009年5月30日 「特集 新人文学賞の二十五年」を追加
 「群像新人文学賞」から3年後に”新人賞前後”という小文を「群像」に書いています。「群像」の”特集 新人文学賞の二十五年”で頼まれたのだとおもいます。
「小説を書いた動機は自分の気持に区切りをつけるためだった。気障に言えば「青春への訣別」みたいなものである。一度書いてざっと書きなおして、それでも気に入らなくてもう一度書きなおした。…
……原稿用紙に穴をあけて紐をとおし、小包にして神宮前郵便局に持っていった。小雨の降る肌寒い午後で、原稿の包みはレインコートの下に入れていった。なんだかすごく悪いことをしているような気がした。どうしてそんな風に思ったのか今でもよくわからない。…
……僕が今でも曲りなりにも小説を書いていられるのはこの期間があったせいだと思う。新人賞をとった時、担当のMさんに「いけると思っても二年間は今の仕事をやめない方がいいですよ」と忠告されたけれど、本当にそのとおりだったと思う。少くとも二年間は現実生活との接点を押えておかないと、どうしても文章が飛んでしう。一度飛んでしまった文章はなかなかもとに戻らない。…」

 上記の文章は一部です。かなりマジで書いています。

左上の写真は「特集 新人文学賞の二十五年」が掲載された群像6月号です。何人かの方が村上春樹について、コメントされています。下記にまとめておきました。皆さん、村上春樹が予想外に頑張っているという感じですか!!



  特集・新人文学賞の二十五年──選考のことなど
十八歳への危惧慎
佐多稲子
…小説での中沢けいさん、村上春樹さんのその後はここで云うまでもない。第二十一回の当選発表は五十三年だから、それから四年が経過したが、中沢さんにはすでに三冊の、翌年の村上春樹さんには、私の知る限りだが、二冊の著書がある。このお仕事ぶりを喜ぶなどと、口はばったいことを云うつもりはないが、ただ、中沢けいさんについては、新人文学賞の選考のときをおもい合せて、よかった、という気のすることがある。
文学賞の選考ということ
吉行淳之介
…次回の村上春樹氏の当選も、印象に強い。選者としては、あえて冒険をした気分だったが、このごろでは「新時代の旗手」という扱われ方をされたりもしていて、この点本人としては警戒しなくてはなるまい。
新人文学賞の歴史と現在
上田三四二
…村上春樹は、ぼくには非常にわからない部分もあるけれども、何もないという一つの感性が文体として置かれている。そこは、ぼくはいいと思う。
出典                                    群像 昭和57年6月号



 
「走ることについて…」
<走ることについて語るときに僕の語ること>
  2007年12月10日 「走ることについて語るときに僕の語ること」を追加
 「走ることについて語るときに僕の語ること」を読むと、群像新人文学賞の頃の村上春樹の心境がよく分かります。この頃は自信に満ち溢れていたのではないでしょうか。若さが全てを可能にしてしまいます。
「…新宿の紀伊国屋書店に行って、原稿用紙を一束と、千円くらいのセーラーの万年筆を買ってきた。ささやかな資本投下だ。それが春のことで、秋には四百字詰めにして二百枚くらいの作品を書き終えた。書き終えて気持ちはさっぱりとした。できあがった作品をどうすればいいのかよくわからないまま、勢いのようなもので、文芸誌の新人賞に応募してみた。応募時にコピーをとらなかったところを見ると、落選して原稿がそのままどこかに消え失せてしまってもべつにかまわないと思っていたようだ。現在『風の歌を聴け』というタイトルで出版されている作品だ。僕としては作品が日の目を見るか見ないかよりは、それを書きあげること自体に関心があ ったわけだ。…… 翌年の春の始めに「群像」の編集部から「あなたの作品が最終選考に残りました」という電話がかかってきたときには、自分が新人賞に応募したことなんてすっかり忘れていた。日々の生活があまりにも忙しかったからだ。急にそう言われても最初のうちは何のことやらよく理解できなかった。「はあ?」という感じだった。いずれにせよその作品は新人賞をとり、単行本として夏に出版された。本はそこそこの評判になった。僕は三十歳にして、何がなんだかよくわけのわからないまま、そんなつもりもないまま、新進小説家としてデビューを遂げることになった。…」
 時間が経つにつれて少しづつ表現が違ってきます。”新人賞に応募したことなんて忘れていた”と書いていますが、逆で、ほっておいても賞は取れると思っていたのではないでしょうか!!

左上の写真は「走ることについて語るときに僕の語ること」の表紙です。自身のマラソン歴について書いているのですが、その他も少々書いています。かなり面白いですよ。



村上春樹の1980年代年表
和 暦 西暦 年  表 年齢 村上春樹の初期三部作
昭和53年 1978 ヤクルト優勝 29 11月 第22回群像新人文学賞に応募
昭和54年 1979 イラン革命
NECがパソコンPC8001を発表
30 4月 第22回群像新人文学賞(発表)
5月 「風の歌を聴け」 (『群像』6月号)
8月 上半期芥川賞を逃す
昭和55年 1980 光州事件
山口百恵引退
31 2月 「1973年のピンボール」 (『群像』3月号)
8月 上半期芥川賞を逃す
昭和56年 1981 チャールズ皇太子とダイアナが婚約
宋慶齢死去
32 10月 北海道を訪ねる(『すばる』1982/1
(「羊をめぐる冒険」の下調べか)
昭和57年 1982 フォークランド紛争 33 7月 「羊をめぐる冒険」 (『群像』8月号)
11月 野間文芸新人賞(発表)(『群像』1983/1月号)
昭和60年 1985 石川達三死去
夏目雅子死去
36 6月 「世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド」 (新潮社)
8月 谷崎潤一郎賞(発表)(『中央公論』11月号)
昭和62年 1987 国鉄分割民営化 38 9月 「ノルウェーの森」 (講談社)
昭和63年 1988 ソウル五輪開催
リクルート事件
39 10月 「ダンス・ダンス・ダンス」 (講談社)