<群像 昭和54年(1979)6月号>
群像新人文学賞授賞当時のことは1979年5月4日号の週刊朝日に克明に書かれていました。
「群像新人文学賞=村上春樹さん(29歳)は、レコード三千枚所有のジャズ喫茶店店主
東京・千駄ヶ谷でジャズ喫茶(夜はバー)を経営している二十九歳の青年、村上春樹さんの小説「風の歌を聴け」(二百枚)が、第二十二回「群像新人文学賞」に人選した。選考委員五氏が全員一致、文句なしの決定だった。変わり種作家が続出する現代文学風景の中に、またひとり異色新人の登場である。夜はピアノの生演奏もあるというその店を、昼間おとずれたら、白いエプロンを胸にかけグラスを磨いていた、髪を短くカットした青年が、「僕が村上です」 なるほど、受賞作「風の歌を……」の作者のイメージは、まさにこうでなければならないのだろう。…」。
群像新人文学賞の発表が4月ですから、殆ど同じ時期に取材していたのでしょう。小説の主人公と自分自身をかなりだぶらせています。ピーターキャット(この記事ではお店の名前は伏せられている)が国分寺から千駄ヶ谷に移転したのが52年ですから二年目に受賞したことになります。国分寺や千駄ヶ谷のお店には名の知れた人が顔を出していたようです。
「…店には村上龍もよく顔を出した。…… 「私の店には、若い編集者のかたが見えますよ。中上健次さんも編集者に連れて来られた一人で、ちょっと話したことありますけど。…」
お店のセンスがよかったのでしょう。評判が評判を生みます。
★左上の写真は群像新人文学賞が掲載された群像6月号です。群像新人文学賞の応募締め切りは前年の11月末ですからかなり前から準備をしていたとおもいます。
「…早稲田を出るにあたって、「アメリカ映画における旅の系譜」という卒業論文を書いた。「駅馬車」から「宇宙の旅」にいたるまで、アメリカ映画の発達とテーマは人と物の移動にある。
── という論旨だった。それを読んだ印南高一教授が「君は小説が書けるんじゃないかね」ともらした。その言葉が頭にひっかかっていて、ふとペンをとらせたということらしい。その処女作がいきなり入選作となった。この新人、日本の小説は、ほとんど読んだことがない。八年前、読むものがないのでたまたま目についた谷崎潤一郎の「細雪」を読んだくらいのもの。…」
小説を書くに当たってはかなり準備をしたのではないでしょうか。「風の歌を聴け」の構成、文章の出来はかなりのものです。
<村上春樹氏の受賞のことば>
学校を出て以来殆んどペンを取ったこともなかったので、初めのうち文章を書くのにひどく手間取った。フィツジェラルドの「他人と違う何かを語りたければ、他人と違った言葉で語れ」という文句だけが僕の頼りだったけれど、そんなことが簡単に出来るわけはない。四十歳になれば少しはましなものが書けるさ、と思い続けながら書いた。今でもそう思っている。
受賞したことは非常に嬉しいけれど、形のあるものだけにこだわりたくはないし、またもうそういった歳でもないと思う。
それにしても芥川賞が取れなかったのが不思議ですね。やっぱり選考委員が問題かな。
昭和54年当時の群像新人文学賞と芥川賞の選考委員は丸谷才一と 吉行淳之介がだぶっています。
<群像 昭和57年(1982)6月号>
2009年5月30日 「特集 新人文学賞の二十五年」を追加
「群像新人文学賞」から3年後に”新人賞前後”という小文を「群像」に書いています。「群像」の”特集 新人文学賞の二十五年”で頼まれたのだとおもいます。
「小説を書いた動機は自分の気持に区切りをつけるためだった。気障に言えば「青春への訣別」みたいなものである。一度書いてざっと書きなおして、それでも気に入らなくてもう一度書きなおした。…
……原稿用紙に穴をあけて紐をとおし、小包にして神宮前郵便局に持っていった。小雨の降る肌寒い午後で、原稿の包みはレインコートの下に入れていった。なんだかすごく悪いことをしているような気がした。どうしてそんな風に思ったのか今でもよくわからない。…
……僕が今でも曲りなりにも小説を書いていられるのはこの期間があったせいだと思う。新人賞をとった時、担当のMさんに「いけると思っても二年間は今の仕事をやめない方がいいですよ」と忠告されたけれど、本当にそのとおりだったと思う。少くとも二年間は現実生活との接点を押えておかないと、どうしても文章が飛んでしう。一度飛んでしまった文章はなかなかもとに戻らない。…」。
上記の文章は一部です。かなりマジで書いています。
★左上の写真は「特集 新人文学賞の二十五年」が掲載された群像6月号です。何人かの方が村上春樹について、コメントされています。下記にまとめておきました。皆さん、村上春樹が予想外に頑張っているという感じですか!!
<走ることについて語るときに僕の語ること>
2007年12月10日 「走ることについて語るときに僕の語ること」を追加
「走ることについて語るときに僕の語ること」を読むと、群像新人文学賞の頃の村上春樹の心境がよく分かります。この頃は自信に満ち溢れていたのではないでしょうか。若さが全てを可能にしてしまいます。
「…新宿の紀伊国屋書店に行って、原稿用紙を一束と、千円くらいのセーラーの万年筆を買ってきた。ささやかな資本投下だ。それが春のことで、秋には四百字詰めにして二百枚くらいの作品を書き終えた。書き終えて気持ちはさっぱりとした。できあがった作品をどうすればいいのかよくわからないまま、勢いのようなもので、文芸誌の新人賞に応募してみた。応募時にコピーをとらなかったところを見ると、落選して原稿がそのままどこかに消え失せてしまってもべつにかまわないと思っていたようだ。現在『風の歌を聴け』というタイトルで出版されている作品だ。僕としては作品が日の目を見るか見ないかよりは、それを書きあげること自体に関心があ ったわけだ。…… 翌年の春の始めに「群像」の編集部から「あなたの作品が最終選考に残りました」という電話がかかってきたときには、自分が新人賞に応募したことなんてすっかり忘れていた。日々の生活があまりにも忙しかったからだ。急にそう言われても最初のうちは何のことやらよく理解できなかった。「はあ?」という感じだった。いずれにせよその作品は新人賞をとり、単行本として夏に出版された。本はそこそこの評判になった。僕は三十歳にして、何がなんだかよくわけのわからないまま、そんなつもりもないまま、新進小説家としてデビューを遂げることになった。…」。
時間が経つにつれて少しづつ表現が違ってきます。”新人賞に応募したことなんて忘れていた”と書いていますが、逆で、ほっておいても賞は取れると思っていたのではないでしょうか!!
★左上の写真は「走ることについて語るときに僕の語ること」の表紙です。自身のマラソン歴について書いているのですが、その他も少々書いています。かなり面白いですよ。