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選考委員
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昭和54年 第二十二回群像新人文学賞
選 評
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受賞作
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○小説当選作 「風の歌を聴け」 村上 春樹
○評論優秀作 「文学の終末について」 宇野 邦一
〇評論優秀作 「意識の暗室」 富岡幸一郎
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佐々木基一
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この作晶を入選にしたのは、第一にすらすら読めて、後味が爽やかだったからである。アメリカの現代小説にこういうふうなものがたくさんあると丸谷才一さんが云っていたが、わたしはほとんど読んでいない。ただ、ポップアートみたいな印象を受けた。しかもそれがたんに流行を追うというのでなく、かなり身についたものとしてでてきているように感じた。非常に軽い書き方だが、これはかなり意識的に作られた文体で、したがって、軽くて軽薄ならず、シャレていてキザならずといった作品になっているところがいいと思った。ポップアートを現代美術の一ジャンルとして認めるのと同様に、こういう文学にも存在権を認めていい.だろうとわたしは思った。こういう作品はかなり手間ひまかけて作らないと、軽くて軽薄になるおそれがあることに、作者が留意してくれることを望む。
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佐多稲子
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「風の歌を聴け」を二度読んだ。はじめのとき、たのしかった、という読後感があり、どういうふうにたのしかったのかを、もいちどたしかめようとしてである。二度目のときも同じようにたのしかった。それなら説明はいらない、という感想になった。ここで聴いた風の音はたのしかった、といえばそれでいいのではなかろうか。若い日の一夏を定着させたこの作は、智的な抒情歌、というものだろう。作中の鼠は主人公の分身だ、と吉行さんが云われたが、私もそうおもう。同一人物という印象から脱け切ってはいない。が、観念の表白の手段としてのこの人物の設定は利いている。「ジェイズ・バー」のジェイ、その夏逢った女としての彼女、この二人は主人公とともに好もしく、しゃれた映画の中の人物を見るようだった。作者は、ためらいを見せつつ書出し、誇りで結んでいる。この作は選者たちの一致した意見で当選となった。
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島尾敏雄
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ところで最後に村上春樹さんの「風の歌を聴け」が残ってしまったが、そのハイカラでスマートな軽さにまず私の肩の凝りのほぐれたことを言っておこう。しゃれたTシャツの略画まで挿入されていた。実は今何が書いてあったのか思い出せないのだが、筋の展開も登場人物の行動や会話もアメリカのどこかの町の出来事(否それを描いたような小説)のようであった。そこのところがちょっと気になったが、他の四人の選考員がそろって入選に傾き、私もそのことに納得したのだった。
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丸谷才一
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村上春樹さんの『風の歌を聴け』は現代アメリカ小説の強い影響の下に出来あがったものです。カート・ヴォネガットとか、ブローティガンとか、そのへんの作風を非常に熱心に学んでゐる。その勉強ぶりは大変なもので、よほどの才能の持主でなければこれだけ学び取ることはできません。昔ふうのリアリズム小説から抜け出さうとして抜け出せないのは、今の日本の小説の一般的な傾向ですが、たとへ外国のお手本があるとはいへ、これだけ自在にそして巧妙にリアリズムから離れたのは、注目すべき成果と言っていいでせう。 しかし、たとへばカート・ヴォネガットの小説は、填実のすぐうしろに盗れるほどの悲しみがあって、そのせいでの苦さが味を引き立ててゐるのですが、『風の歌を聴け』の味はもつとずつと単純です。たとへばディスク・ジョッキーの男の読みあげる病気の少女の手紙は、本来ならもつ.と前に出て来て、そして作者はかういふ悲惨な人間の条件ともつとまともに渡りあはなければならないはずですが、さういふ作業はこの新人の手に余ることでした。この挿話は今のところ、小説を何とか終らせるための仕掛けにとどまってゐる。あるいは、せいぜい甘く言っても、作者が現実のなかのある局面にまったく無知ではないことの請拠にとどまってゐる。このへんの扱ひ方には何となく、日本的抒情とでも呼ぶのが正しいやうな趣があります。もちろんわれわれはそれを、この作者の個性のあらはれと取っても差文へないわけですけれど。そしてここのところをうまく伸してゆけば、この日本的抒情によって塗られたアメリカふうの小説といふ性格は、やがてはこの作家の独創といふことになるかもしれません。とにかくなかなかの才筆で、殊に小説の流れがちっとも淀んでゐないところがすばらしい。二十九歳の青年がこれだけのものを書くとすれば、今の日本の文学趣味は大きく変化しかけてゐると思ほれます。この新人の登場は一つの事件ですが、しかしそれが強い印象を与へるのは、彼の背後にある(と推定される)文学趣味の変革のせいでせう。この作晶が五人の選考委員金員によって支持されたのも、興味深い現象でした。
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吉行淳之介
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「風の歌を聴け」は、あえて点数で言ってみれば、六十点の作品か八十五点(九十点といってもいい)の作品か、どうもよく分らないので再読した。その結果、これは良い作品だとおもったし、あえていえば近来の収穫である。これまでわが国の若者の文学では、「二十歳(とか、十七歳)の周囲」というような作品がたびたび書かれできたが、そのようなものとして読んでみれば、出色である。乾いた軽快な感じの底に、内面に向ける眼があり、主人公はそういう眼をすぐに外にむけてノンシャランな態度を取ってみせる。そこのところを厭味にならずに伝えているのは、したたかな芸である。しかし、ただ芸だけではなく、そこには作者の芯のある人間性も加わってきているようにおもえる。そこを私は評価する。「鼠」という少年は、結局は主人公(作者)の分身であろうが、ほぼ他人として書かれているところにも、その手腕が分る。一行一行に思いがこもり過ぎず、その替り数行読むと微妙なおもしろさがある。この人の危険な岐れ目は、その「芸」のほうにポイントが移行してしまうかどうかにある。
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出典
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群像 昭和54年6月号
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