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第81回昭和54年度上半期芥川賞 芥川賞選評
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第83回昭和55年度上半期芥川賞 芥川賞選評
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芥川賞
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「やまあいの煙」:重兼芳子 「愚者の夜」:青野聰 (「風の歌を聴け」がノミネート)
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該当作品無 (「一九七三年のピンボール」がノミネート)
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文藝春秋
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井上靖
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特に村上春樹氏への記述無し
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「一九七三年のピンボール」は、新しい文学の分野を拓こうという意図の見える唯一の作品で、部分的にはうまいところもあれば、新鮮なものも感じさせられるが、しかし、総体的に見て、感性がから廻りしているところが多く、書けているとは言えない。
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開高健
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特に村上春樹氏への記述無し
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特に村上春樹氏への記述無し |
丹羽文雄
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特に村上春樹氏への記述無し
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特に村上春樹氏への記述無し |
丸谷才一
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次に授賞はしなかったがわたしが注目した二作について。村上春樹さんの『風の歌を聴け』は、アメリカ小説の影響を受けながら自分の個性を示さうとしています。もしもこれが単なる模倣なら、文章の流れ方がこんなふうに淀みのない調子ではゆかないでせう。それに、作品の柄がわりあい大きいやうに思ふ。 |
村上春樹さんの中編小説は、古風な誠実主義をからかひながら自分の青春の実感である喪失感や虚無感を示さうとしたものでせう。ずいぶん上手になったと感心しましたが、大事な仕掛けであるピンボールがどうもうまくきいていない。双子の娘たちのあつかひ方にしても、もう一工夫してもらひたいと思いました。
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安岡章太郎
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特に村上春樹氏への記述無し
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特に村上春樹氏への記述無し
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瀧井孝作
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村上春樹氏の『風の歌を聴け』は、二百枚余りの長いものだが、外国の翻訳小説の読み過ぎで書いたような、ハイカラなバタくさい作だが……。このような架空の作りものは、作品の結晶度が高くなければ駄目だが、これはところどころ薄くて、吉野紙の漉きムラのようなうすく透いてみえるところがあった。しかし、異色のある作家のようで、わたしは長い目で見たいと思った。 |
特に村上春樹氏への記述無し
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中村光夫
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特に村上春樹氏への記述無し
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「一九七三年のピンボール」にも共通します。ひとりでハイカラぶってふざけてゐる青年を、彼と同じやうに、いい気で安易な筆づかひで描いても、彼の内面の挙止は一向に伝達されません。現代のアメリカ化した風俗も、たしかに描くに足る題材かも知れない。しかしそれを風俗しか見えぬ浅薄な眼で揃へてゐては、文学は生れ得ない、才能はある人らしいが惜しいことだと思ひます。
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吉行淳之介
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特に村上春樹氏への記述無し
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村上春樹、尾辻克彦両氏の作品がおもしろかった。……村上春樹「一九七三年のピンボール」は、この時代に生きる二十四歳の青年の感性と知性がよく指かれていた。主人公は双生児の女の子二人と同棲しているのだが、この双子の存在感をわざと稀薄にして描いているところなど、長い枚数を退屈せずに読んだ。
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遠藤周作
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村上氏の作品は憎いほど計算した小説である。しかし、この小説は反小説の小説と言うべきであろう。そして氏が小説のなかからすべての意味をとり去る現在流行の手法がうまければうまいほど私には「本当にそんなに簡単に意味をとっていいのか」という気持ちにならざるをえなかった。こう書けば村上氏は私の言わんとすることを、わかってくださるであろう、とに角、次作を拝見しなければ私は氏の本当の力が分かりかねるのである。
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特に村上春樹氏への記述無し |
大江健三郎
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今日のアメリカ小説をたくみに模倣した作品もあったが、それが作者をかれ独自の創造に向けて訓練する、そのような方向付けにないのが、作者自身にも読み手にも無益な試みのように感じられた。
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そのような作品 として、村上春樹の仕事があった。そこにはまた前作につなげて、カート・ヴォネガットの直接の、またスコット・フィッジェラルドの間接の、影響・模倣が見られる。しかし他から受けたものをこれだけ自分の道具として使いこかせるということは、それはもう明らかな才能というほかにないであろう。
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参考文献
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文藝春秋 昭和54年9月号
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文藝春秋 昭和55年9月号
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