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最終更新日:2018年06月07日


●村上春樹と芥川賞
  初版2006年3月11日 
  二版2007年12月9日 「走ることについて語るときに僕の語ること」を追加
  三版2008年1月29日 <V01L02> 「ダカーポ  芥川賞・直木賞を徹底的に楽しむ」を追加

 今週は散歩から少し離れて文藝春秋の今月号(2006年4月号)に掲載された、村上春樹の「ある編集者の生と死 安原顯氏のこと」から、村上春樹氏がとれなかった芥川賞について書いてみました。



<文藝春秋 2006年4月号>
 四月号の表紙を見ても村上春樹の”は”の字も書いていないのですが、目次には「生原稿流失事件 50枚 村上春樹 ある編集者の生と死 安原顯氏のこと」と書かれています。この号が出版されたあと、テレビやインターネットの記事で大々的に取り上げられていました。村上春樹氏がこのようなことを書くとは信じられませんでした。一種の私小説です。私はこの「生原稿流失事件」の事ではなくて、この中に書かれていた”村上春樹氏と文壇について”を参考にしながら芥川賞について考えてみました。「…僕は千駄ヶ谷の鳩森神社の近くでジャズの店を経営していて、彼は当時のお客だったのだ。…… 僕もやはり「異分子」のひとりだった。僕の書くものは、当時のいわゆる「文壇主流」と呼ばれている人々の作品からは、あまりに遠くかけ離れていた。僕の書いたものを受け入れるまいと心を固く決めている人々が数多くいた。デビューの母胎である「群像」との関係も、編集者の異動もあり、それほど温かいものではなくなっていった。…… 僕は安原さんという一本の線で、かろうじてこの文芸業界と結びついていたようなものだった。安原さんは反文壇みたいなことを豪語していたのだが、本質的には文壇指向の人であったと思う。というか、彼の中で文壇という存在が大きかったからこそ、そのぶん反文壇(反権威)という姿勢も強く押し出されていたのではないか。だから彼が去ってしまうと、僕がその世界と関わりを持たなくてはならない理由はまったくなくなってしまった。愛想が尽きた、というほどのことでもないのだが、この世界とのあいだにはもう借りもなければ貸しもないんだという気持ちになった。ある意味ではすっと気楽になれたわけだ。それも安原さんが与えてくれた、ひとつわ結果的に良き状況であるということになるだろう。…」。水上勉氏の本などを読んでいると、文壇の中での位置づけや先輩に対する気の使いようが滲み出てきます。どんなに良い小説を書いても突然芥川賞がとれるわけではないでしょう。文壇との付き合いが殆ど無い村上春樹氏にとっては、芥川賞はそうとうチャレンジャブルだったことでしょう。

左上の写真は文藝春秋 2006年4月号の表紙です。中身は文藝春秋4月号を買って読んでください。かなり面白いですよ。


<走ることについて語るときに僕の語ること> 2007年12月9日追加
 もう芥川賞について書くことはないのではないかとおもっていましたら、最新作の「走ることについて語るときに僕の語ること」の中に少しだけ書かれていました。
「…『風の歌を聴け』 と『1973年のピソボール』 は芥川賞の侯補になり、どちらも有力候補と言われたのだが、賞は結局とれなかった。でも僕としては正直なところ、どっちでもいいやと思っていた。とればとったで取材やら執筆依頼やらが続々舞い込んでくるだろうし、そんなことになったら店の営業に差し支えるんじゃないかと、そっちの方がむしろ心配だった。…」
 ニューヨークタイムス12月2日付けの書評面「2007年注目の本100冊」で、「アフターダーク」英語版が小説・詩部門で選ばれています。少し前では「海辺のカフカ」が「05年の本ベスト10冊」に選ばれています。ノーベル賞候補ですから、芥川賞などは気にもとめないのかとおもったら、やっぱり、取れなかったことを気にしているようです。

左上の写真は「走ることについて語るときに僕の語ること」の表紙です。自身のマラソン歴について書いているのですが、その他も少々書いています。かなり面白いですよ。


<ダカーポ (芥川賞・直木賞を徹底的に楽しむ)> 2008年1月29日追加
 もう少し早く掲載する予定だったのですが、ダカーポ(2006年7月19日号)の入手が遅れて年明けになってしまいました。この雑誌のテーマは『現代が3時間でわかる情報誌』なので、「芥川賞・直木賞」特集ならば、村上春樹についても必ず書いてあるとおもったら、やはり書いてありました。
「…なぜ彼は芥川賞を逃したのか、その理由を文芸評論家の川村湊さんに開いた。
 「3つの要因があると思います。一つ日は、その頃の約10年間が、『受賞作なし』が多い時期に当たり、78年から86年までに、受賞作なしの回が9回もあって、全般的に選考が厳しかったこと」
 そして2つ目は、1969年度上半期の受賞作、庄司薫の『赤頭巾ちゃん気をつけて』が影響していると指摘する。
 「あくまでも推測ですが、この小説もアメリカ文学の影響を受けた作品だったんです。しかし、受賞後しばらくして庄司薫は文壇から消えてしまった。そのマイナスイメージが当時の選考委員の頭に残っていたのでは。『風の歌を聴け』もアメリカ文学の影響を強く受けている作品で、選考委員の多くが、そうした新人に1回目のノミネートで賞を与えることを躊躇したのではないかと思うんです」
 そして、この時は2人の選考委員の意見が対立した(当時の選者各員は左ページに紹介)。
 「10人の選考委員のうちー村上春樹を推したのが丸谷才一で、反対したのが瀧井孝作。この2人の対立になって、結果は選考委員の中で存在感が大きかった瀧井孝作に残りの多くが賛同し、村上春樹は受賞できなかった。ひょっとしたら庄司薫の二の舞いになるのではないか、という思いを抱いた選考委員が多かったのでは。あと1〜2回様子を見てみよう、という結論になったと思います」
 ちなみに、当時の選評を掲載した79年の『文藝春秋』9月号では、丸谷才一は「村土春樹さんの『風の歌を聴け』は、アメリカ小説の影響を受けながら自分の個性を示さうとしてゐます。もしこれが単なる模倣なら、文章の流れ方がこんなふうに淀みのない調子ではゆかないでせう。それに、作品の柄がわりあひ大きいやうに思ふ」と述べている。
 いっぽう、同誌で瀧井孝作は「外国の翻訳小説の読み過ぎで書いたような、ハイカラなバタくさい作だが……。このような架空の作りものは、作品の結晶度が高くなければ駄目だが、これはところどころ薄くて、吉野紙の漉きムラのようなうすく透いてみえるところがあった」と評している。

3回目の挑戦があれば確実に芥川賞はとれた?

 そして3つ目の理由は、2回目のノミネート作「一九七三年のピンボール」にある。
 「この作品は『風の歌を聴け』の続編で、新鮮味が少なく、インパクトも前作よりは弱かった。だから、うまくなっているのは認めつつも、選考委員は誰も積極的に推していない。3作目、4作目に期待しましょうという感じだったと思います」
 ところが翌年、村上春樹は長編小説『羊をめぐる冒険』を発表する。これで、芥川賞受賞の目はなくなったと川村さんは見る。
 「芥川賞は短編・中編が対象で、長編を書いた人は上がり、つまりもう新人ではないと見なされる。普通は3作目ぐらいが正念場なんですが、長編は対象にならないのでとれなかった。この年にもし原稿用紙100枚〜200枚の短・中編の作品を発表していたら、私は間違いなく受賞できたと思います。これも私の推測ですが、村上春樹は『芥川賞はもういいや』って思っていたのかもしれない。日本よりも世界で認められたいと思ったのか、その後、自分から積極的にアメリカの翻訳出版界に乗り込んでいます」…」

 選考委員間のどろどろしたところを書いてあるのかと期待したのですが、誰でも分かる表面面(ひょうめんづら)を書いただけでした(若干匂わせているところもありますが!)。残念でした。「芥川賞・直木賞」特集のダカーポは2006年7月で、文藝春秋の「生原稿流失事件 50枚 村上春樹 ある編集者の生と死 安原顯氏のこと」は4月ですから川村湊さんは文藝春秋を読んでいたはずです。

左上の写真はダカーポ(2006年7月19日号)「芥川賞・直木賞を徹底的に楽しむ」です。もう少し突っ込んで書いてほしかったです。表紙の写真は上部が芥川龍之介、下部が直木三十五です。直木三十五については特集する予定です。

                    <村上春樹氏の芥川賞へのチャレンジ>
 村上春樹氏が芥川賞を取れるチャンスは二度ありました。一度目は「風の歌を聴け」で昭和54年5月に第23回群像新人文学賞を受賞したときでした。その時の夏に芥川賞にノミネートされます。しかしこのときは、下記の二作品になります。芥川賞選考委員の何人かの方が村上春樹氏の「風の歌を聴け」についてコメントしています。当時としてはこんなコメントで良かったのかもしれませんが、今読んでみると・・・みたいですね。

 二回目のチャンスは翌年です。この時は該当作品無で終わってしまいます。村上春樹氏に圧倒的な勢いがあったのですが、お年寄りばかりの選考委員では、分からなかったのでしょう。表参道や青山三丁目界隈を歩いて、喫茶店でお茶でも飲んでいるような選考委員がいないと分からなかったのでしょう。選評に相変わらず頓珍漢なことを書いている方もいます。選考委員の顔を見ると、昭和三十年代の安保世代以前で、あえて言うならば戦前から戦後間もなくの世代です。昭和40年代の学園紛争世代ではないですね。時代のギャップが大きすぎたのでしょう。


第81回昭和54年度上半期芥川賞
芥川賞選評
第83回昭和55年度上半期芥川賞
芥川賞選評
芥川賞
「やまあいの煙」:重兼芳子
「愚者の夜」:青野聰
(「風の歌を聴け」がノミネート)
該当作品無
(「一九七三年のピンボール」がノミネート)
文藝春秋
井上靖
特に村上春樹氏への記述無し
「一九七三年のピンボール」は、新しい文学の分野を拓こうという意図の見える唯一の作品で、部分的にはうまいところもあれば、新鮮なものも感じさせられるが、しかし、総体的に見て、感性がから廻りしているところが多く、書けているとは言えない。
開高健
特に村上春樹氏への記述無し
特に村上春樹氏への記述無し
丹羽文雄
特に村上春樹氏への記述無し
特に村上春樹氏への記述無し
丸谷才一
次に授賞はしなかったがわたしが注目した二作について。村上春樹さんの『風の歌を聴け』は、アメリカ小説の影響を受けながら自分の個性を示さうとしています。もしもこれが単なる模倣なら、文章の流れ方がこんなふうに淀みのない調子ではゆかないでせう。それに、作品の柄がわりあい大きいやうに思ふ。 村上春樹さんの中編小説は、古風な誠実主義をからかひながら自分の青春の実感である喪失感や虚無感を示さうとしたものでせう。ずいぶん上手になったと感心しましたが、大事な仕掛けであるピンボールがどうもうまくきいていない。双子の娘たちのあつかひ方にしても、もう一工夫してもらひたいと思いました。
安岡章太郎
特に村上春樹氏への記述無し
特に村上春樹氏への記述無し
瀧井孝作
村上春樹氏の『風の歌を聴け』は、二百枚余りの長いものだが、外国の翻訳小説の読み過ぎで書いたような、ハイカラなバタくさい作だが……。このような架空の作りものは、作品の結晶度が高くなければ駄目だが、これはところどころ薄くて、吉野紙の漉きムラのようなうすく透いてみえるところがあった。しかし、異色のある作家のようで、わたしは長い目で見たいと思った。 特に村上春樹氏への記述無し
中村光夫
特に村上春樹氏への記述無し
「一九七三年のピンボール」にも共通します。ひとりでハイカラぶってふざけてゐる青年を、彼と同じやうに、いい気で安易な筆づかひで描いても、彼の内面の挙止は一向に伝達されません。現代のアメリカ化した風俗も、たしかに描くに足る題材かも知れない。しかしそれを風俗しか見えぬ浅薄な眼で揃へてゐては、文学は生れ得ない、才能はある人らしいが惜しいことだと思ひます。
吉行淳之介
特に村上春樹氏への記述無し
村上春樹、尾辻克彦両氏の作品がおもしろかった。……村上春樹「一九七三年のピンボール」は、この時代に生きる二十四歳の青年の感性と知性がよく指かれていた。主人公は双生児の女の子二人と同棲しているのだが、この双子の存在感をわざと稀薄にして描いているところなど、長い枚数を退屈せずに読んだ。
遠藤周作
村上氏の作品は憎いほど計算した小説である。しかし、この小説は反小説の小説と言うべきであろう。そして氏が小説のなかからすべての意味をとり去る現在流行の手法がうまければうまいほど私には「本当にそんなに簡単に意味をとっていいのか」という気持ちにならざるをえなかった。こう書けば村上氏は私の言わんとすることを、わかってくださるであろう、とに角、次作を拝見しなければ私は氏の本当の力が分かりかねるのである。
特に村上春樹氏への記述無し
大江健三郎
今日のアメリカ小説をたくみに模倣した作品もあったが、それが作者をかれ独自の創造に向けて訓練する、そのような方向付けにないのが、作者自身にも読み手にも無益な試みのように感じられた。
そのような作品 として、村上春樹の仕事があった。そこにはまた前作につなげて、カート・ヴォネガットの直接の、またスコット・フィッジェラルドの間接の、影響・模倣が見られる。しかし他から受けたものをこれだけ自分の道具として使いこかせるということは、それはもう明らかな才能というほかにないであろう。
参考文献
文藝春秋 昭和54年9月号
文藝春秋 昭和55年9月号

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