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最終更新日:2006年4月2日

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●司馬遼太郎の「本所深川散歩」 初版2001年4月21日 V01L02

 三名の作家で歩く”深川”の最終回として、司馬遼太郎の「本所深川散歩・神田界隈」の中から”深川木場”、”江戸っ子”、”深川の富”に沿って歩いてみたいと思います。この「本所深川散歩」は墨東地区の深川から本所まで広い範囲について書かれていましたので、特に深川に関する所を中心に紹介したいと思います。

fukagawa31w.jpg 司馬遼太郎の「本所深川散歩・神田界隈」の書き出しは、材木問屋が多い木場の成り立ちと、おきゃんな深川芸者の話から始まります。この”おきゃん”という言葉は明治以降、樋口一葉の「たけくらべ」や夏目漱石の「ぼっちゃん」(マドンナも余っ程気の知れないおきゃんだ)等にも使われいますが、本来の意味は江戸時代の深川芸者の心意気をあらわす言葉だった様です。

<紀ノ国屋文左衛門>
 「ともかくも、江戸第一期の繁栄期である元禄時代(1688〜1704)には、深川木場は大いににぎわった。とくに江戸中期までは経済社会の密度も粗かったから、巨利を得る者が多く、ときににわか成金も出た。そういう者が、色町で財を散じた。色町では、大づかみで散財してくれる者を??お大尽″とよび、下にもおかぬもてなしをした。十七世紀の紀州人で、紀伊国屋文左衛門などは、その代表だったろう。略して”紀文”とよばれたこの人物は、材木商として巨利を博した。かれのあそびの豪儀さを讃美して、二朱判吉兵衛という野間が、「大尽舞」という囃子舞をつくって大いにひろめた。歌詞は、まことにばかばかしい。そもそもお客の始まりは、高麗もろこしは存ぜねど、今日本にかくれなき、紀ノ国文左でとどめたり」と紀伊国屋文左衛門について書かいていますが、墓も深川の成等院に残っています。紀伊国屋文左衛門については皆様よくご存知の通り紀州の人で、若海三浦実誠著『墓所一覧遺稿』に、「紀伊国屋文左衛門、別所氏、俳名千山、享保三年正月二日没、年五十四、法号本覚院還誉到億西岸信士、葬深川霊巌寺中成等院」と書かれています。江戸に出てきて材木商となり、老中柳沢吉保と結び、上野寛永寺の建築材納入で、多大の財をなしたと伝えられています。また一方で文人墨客と交遊があり、宝井其角の門人となって、俳名を千山と号しています。正徳(1711〜1715)の頃には、家運も衰え、深川八幡一の鳥居付近(現門前仲町一丁目)に住み、そこで死去したようです。(江東文化財より)

左の写真が紀伊国屋文左衛門の碑です。碑の左側に小さなお墓がありますがこれが紀伊国屋文左衛門の墓です。成等院の右側にありますのですぐに分かります。

fukagawa32w.jpg<奈良屋茂左衛門>
お大尽にもう一人”奈良屋茂左衛門”についても司馬遼太郎は書いています。「紀文とならんでにわか分限になったのが、通称”奈良茂”とよばれた奈良屋茂左衛門だった。奈良茂は、深川の裏店にすんでいた木場人足の子としてうまれた。少年のころから利発で、界隈ではめずらしく読み書きに長じていたという。はじめ宇野という材木問屋に奉公して商いのことを見習い、二十七、八で暇をとって独立した。といって、問屋は免許制だからそうそう店をひらけるわけでもなく、わずかな丸太や竹などを扱っていた。さきの紀文が上野寛永寺の中堂の普請でもって財をなしたといわれるが、奈良茂が頭をもたげたきっかけは、日光山東照官の普請だった。」、奈良屋茂左衛門は、姓を神田氏といい、紀伊国屋文左衛門と豪遊を競った富豪の材木商であったといわれています。

右の写真は奈良屋茂左衛門のお墓があった雄松院です。雄松院にあった墓石は、大正12年の関東大震災で失われてしまい、現在過去帳のみが残っているそうです。それによると茂左衛門は数代あり、何代目の茂左衛門が紀文と競ったかはよくわからないようです。(江東文化財より)

fukagawa33w.jpg<深川江戸資料館>

 司馬遼太郎は深川江戸資料館についても書いています。「「深川江戸資料館」 というのである。そこに、江戸時代の深川の町家のむれが、路地・掘割ごと、いわば界隈ぐるみ構築され、再現されており、吹抜けの三階からみれば屋根ぐるみ見えるし、また階下におりれば、店先に立つこともできる。春米屋とその土蔵、八百屋、船宿から、各種の長屋もある。火の見櫓もそびえており、また掘割には猪牙舟もうかんでいる。水茶屋もあれば、屋台も出ており、すべて現寸大である。」、実際に深川江戸資料館に入ると、地下1階、地上2階の吹き抜けの中に、江戸天保時代(明治まで僅か20年)の(1842年)の江戸深川佐賀町下之橋の橋際一体を、そのままここに再現しています。深川佐賀町とは、先週の泉鏡花の「深川浅景」の中で紹介していますが、永代橋を越えて角の交番の所をすぐに左に曲がった所から清洲橋までの地域です。永代橋に近い所から下之橋、中之橋、上之橋とあり、ここで再現しています下之橋は首都高速9号線と交わる辺りです。当時の資料を元にして実物大のスケールで再現したのがこの深川江戸資料館で、階段を下りると深川佐賀町の表通り、左側に油問屋の大店(おおだな)、右側に長屋の裏木戸をはさんで八百屋と米屋が並んでいます、少し先に進むと船宿が2軒並び火の見やぐらに”いなり”や”天ぷら”の屋台など、クギ一本まで当時のままに再現されています。ここを見ずに深川を語るなかれですね。300円は安い!!

左の写真の右側の建物が深川江戸資料館です。今回は車で訪問したのですが無料の駐車場がありました。深川江戸資料館の向こう側は有名な霊巌寺があります。往時ほどの境内をもっていませんが、境内の墓地には白河の地名の発祥になった白河候松平定信の墓もあります。

fukagawa34w.jpg<富岡八幡宮>
 「深川が市街化しはじめるのは、三代将軍家光の寛永(1624〜1644)のころからである。長盛とやらいう法印が発願し、幕府の許可をえて富岡八幡宮を建てたことによる(富岡は、『江戸名所花暦』では富賀岡と表記されている。鎌倉の鶴岡八幡宮を意識してそうよばれていたのだろう)。この神社は誕生早々から江戸市民の関心をよび、寛永二十年(1643)には、はじめて祭礼がおこなわれた。その後、??深川の祭礼″ は江戸市民のたのしみの一つになった。当然ながら、門前に茶屋がならび、妓をかかえ、色をひさがせた。」、富岡八幡宮は江戸時代の”富くじ”と”勧進相撲”で有名ですが、現在では8月15日に開催されます”深川八幡祭り”が特に有名です。赤坂の日枝神社の山王祭、神田明神の神田祭とともに「江戸三大祭」の一つに数えられ、3年に1度、八幡宮の御鳳輦が渡御を行う年は本祭りと呼ばれ、大小あわせて120数基の町神輿が担がれ、その内大神興ばかり54基が勢揃いして連合渡御する様は「深川八幡祭り」ならではのものです。

右の写真が富岡八幡宮の正面です。富岡八幡宮には元禄時代に豪商として名を馳せた紀伊国屋文左衛門が奉納したとされる総金張りの宮神輿が3基ありましたが関東大震災でも焼失しています。平成3年に日本―の黄金大神輿が奉納され宮神輿が復活しています。(富岡八幡宮ホームページより)

最後に川柳を一つ
「江戸っ子の 生まれぞこない かねをため」

深川付近地図



【参考文献】
・本所深川散歩・神田界隈:朝日文庫、司馬遼太郎
・江東区の文化財:江東区教育委員会
・江東区辞典:江東区教育委員会
・文人悪食:新潮文庫 嵐山光三郎

【交通のご案内】
・都営大江戸線「清澄白河駅」下車 徒歩3分

【住所紹介】
・成等院:東京都江東区三好1-6-13
・雄松院:東京都江東区白河1-1-8
・江東区深川江戸資料館:東京都江東区白河1−3−28 ?Z03-3630-8625
富岡八幡宮ホームページ


●泉鏡花の「深川浅景」 2001年4月14日 V03L04

 三名の作家の”深川”を追いかけて見たいと思います。今週は二人目の作家として泉鏡花の「深川浅景」に沿って歩いてみます。この「深川浅景」は大東京繁昌記 下町編に昭和2年(関東大震災から4年目)に書かれたもので、泉鏡花54歳の時です。ほとんど同じ世代の永井荷風(昭和2年:48歳)が昭和9年に清洲橋から書き始めているのに対してオーソドックスに永代橋から書き始めています。両者の違いが出ていてなかなか面白いです。

fukagawa20w.jpg 「…大川からこゝへ流れ口が、下之橋で、こゝが即ち油堀……」「あゝ、然うか」「間に中之橋があって、一つは上に、上之橋を流れるのが仙台堀川じゃあありませんか。……断って置きますが、その川筋に松永橋、相生橋、海辺橋と段々に架っています。……あゝ、家らしい家が皆取払われましたから、見通しに仙台堀も見えそうです。すぐ向うに、煙だか、雲だか、灰汁のような空にたゞ一ケ処、樹がこんもりと、青々して見えましょう。−岩崎公園。大川の方へその出っ端に、お湯屋の煙突が見えましょう。何ういたして、あれが、霧もやの深い夜は、人をおびえさせたセメント会社の大煙突だから驚きますな。中洲と、箱崎を向うに見て、隅田川も漫々渺々たる処だから、あなた驚いてはいけません」。」は永代橋を渡ってすぐに左に曲がった所から清洲橋の間のことが書かれています。永代橋寄りから下之橋、中之橋、上之橋とありましたが、堀が埋め立てられて、3橋ともすでにありません。ただ上之橋の橋柱だけが道の両側に4本残っています。 岩崎公園(清澄公園:旧岩崎邸)、セメント工場は永井荷風も清洲橋を渡った所で書いており、当時としては有名な場所だったようです。

左の写真が上之橋の橋柱です。両側に2本づつ4本残っています。左の木の向こうに清洲橋が微かに見えます。

fukagawa21w.jpg<蓬莱橋(巴橋)>
 「いま、兵庫岡本の谷崎潤一郎さんが、横浜から通って、某活動写真の世話をした事がある。場所を深川に選んだのに誘われて、其の女優……否撮影を見に出掛けた。年の暮で、北風の寒い日だった。八幡様の門前の一寸したカフェーで落合って……いまでも覚えている、谷崎さんは、牡蠣のフライをおかわりつき、俗にこみで誂えた。私は腹を痛めて居た。何、名物の馬鹿貝、蛤なら、鍋で退治て、相拮抗する勇気はあったが、西洋料理の献立に、そんなものは見当らない。……壜ごと熱爛で引掛けて、時間が来たから、のこり約一合半を外套の衣兜に忍ばせた。洋杖を小脇に、外套の襟をきりゝと立てたのと、連立って、門前通りを裏へ−越中島を畝って流るゝ大島川筋の蓬莱橋にかゝると、汐時を見計らったのだから、水は七分来た。」、泉鏡花は谷崎潤一郎を”さん付け”して呼んでいますが、この年谷崎潤一郎41歳でかなり年下です。谷崎潤一郎は大正12年の関東大震災のあと、武庫郡本山(兵庫県神戸市東灘区)に移住しています。丁度このころ谷崎潤一郎は芥川龍之介と論争中で、7月には芥川龍之介が自殺しています。蓬莱橋は今はなくというより、昭和の初めより(昭和16年の地図にはすでに巴橋となっています)すでに名前が変わっていたようです。

上記に書かれている活動写真が分かりました。(2001/4/22)
題名:「葛飾砂子」(1920/12/28)、原作:泉鏡花、脚色:谷崎潤一郎、映画会社:大正活動写真株式会社(のち大正活映と改称=大活と略称)
上記の某女優は上山珊瑚さんだと思われます。

<泉鏡花の食について>
 泉鏡花は上記に谷崎潤一郎と一緒に牡蠣を食べられない理由をあれこれ述べていますが、嵐山光三郎の「文人悪食」によると「食べることが恐ろしく、食べる事への強迫観念から逃れられない性格だったようです。魚の刺身は食べられない、肉は鶏肉以外は食べられない、バイ菌恐怖症で、それでも木村屋のあんパンは好きだったが、餡を抜いて表も裏もあぶって食べ、手でつまんでいた部分はポイと捨ててしまう」、すごい潔癖症てすね、これでは絶対牡蠣は食べられません。

右の写真は現在の巴橋です。蓬莱橋は、大島川(大横川)に架かっていた橋で、富岡八幡宮の表門の前から大島川を超えて佃町(牡丹3丁目) へ渡る橋でした。別称「がたくり橋」といわれています。架橋年代は不明ですが、寛延3年(1750)に架け替えられているので、それ以前と考えられます。橋の規模は長さ一六間〜一七間(約28m〜約30m)、幅二間(約3.6m)。この橋の南詰は深川佃町で、深川七場所の一つ、佃新地であり、人々の往来も多かったと思われます。昭和4年に現在の巴橋が架けられていますが、昭和12年の陸地測量部作成の地図には蓬釆橋と記されており、この頃はまだ両名が使われていた様です。(江東文化財より)

fukagawa22w.jpg<汐見橋>

 「早く汐見橋へ駆け上ろう。来るわ、来るわ。船。筏。見渡す、平久橋、時雨橋、二筋、三筋、流れを合せて、清々たる水面を、幾艘、幾流、左右から寄せ合うて、五十伝馬船、百伝馬船、達磨、高瀬、挨船、泥船、釣船も遠く浮く。就中、筏は馳る。汐は瀬を造って、水脚を千筋の綱に、を上るのである。さし上る水は潔い。…私は学者でないから、此の汐は堀割を、上へ、凡そ、どのあたりまで浄化するかを知らない。けれども、驚破洪水と言えば、深川中、波立つ湖となること、伝えて一再に留まらない。高低と汐の勢いで、あの油堀、仙台堀、小名木川、−且辿り、且見た堀は、皆満々と鮮しい水を流すであろう。冬木の池も湛えよう。…「成程、汐見橋は汐見橋ですな」同伴が更めて感心した。…大欄干(此にも大がつく) から、電車の透き間に、この汐のさしひきを、今はじめて知った ・・・一人来た、二人来た、見ぬ間に三人、−−追羽子の唄に似て、気の軽そうな女たち、銀杏返しのも、島田なのも、ずゝと廂髪なのも、何処からともなく出て来て、おなじように欄干に立って、しばらく川面を見おろしては、ふいと行く。」、潮が満ちてきて、船や筏が潮に乗って川を上っていくところを汐見橋の上から見ています。この風景の描写が泉鏡花らしい、少し古めの明治時代風の書き方ですね(昭和初期では時代後れですが)、この当時から堀の水はあまり綺麗ではなかったようです。

左の写真が現在の汐見橋です。永代橋通りにあり、東京湾の方から撮影しています。潮の満ち引きの時間が分からないので上記の雰囲気をまだ味わっていません。

fukagawa24w.jpg<閻魔堂(法乗院)>
 「もう一度、念入りに川端に突き当って、やがて出たのが黒亀橋。−こゝは阪地で自慢する(……四ツ橋を四つわたりけり)の趣があるのであるが、講釈と芝居で、いずれも御存じの閻魔堂橋だから、裟婆へ引返すのが、三途に迷った事になって−面白い。……いや、面白くない。が、無事であった。・・・時に扇子使いの手を留めて、黙拝した。常光院の閻王は、震災後、本山長谷寺からの入座だと承わった。忿怒の面相、しかし威あって猛からず、大閻魔と申すより、口をくわっと、唐辛子の利いた関羽に肖ている。従って古色蒼然たる脇立の青鬼赤鬼も、蛇矛、長槍、張飛、趨雲の概のない事はない。」と閻魔堂自身のことを泉鏡花は詳細に紹介しています。永井荷風は閻魔堂そのものの紹介はせずに付近の風景や景色を上手に描写して読み手を楽しませます。両者を読み比べると非常に面白いです。

右の写真が法乗院、閻魔堂です。閻魔堂橋とは、昭和50年に埋め立てられた油堀川に架かっていた清澄通りの橋のことです。油堀川は今は首都高速9号深川線になっています。又閻魔堂橋の本名は富岡橋のことで、近くに法乗院の閻魔堂があったのでこの橋を通称「えんまどう橋」と呼んでいたようです。閻魔堂の「えんまさま」は、大正12年の関東大震災で焼失しています。なお、この富岡橋(江戸切絵図参照)は、明治34年まで架けられていた橋の名前で、市区改正事業で、同じ位置に新橋が架けられて、黒亀橋と称していました。(昭和16年の地図には富岡橋と黒亀橋の二つ名称の橋があります)。現在の閻魔堂は法乗院に入ってすぐ左側にあり、中に電動式の賽銭箱があります。賽銭を自分のお願い事(交通安全とか)に入れるとお言葉が聞けます。ほんとですよ〜自動的に。(永井荷風の「深川の散歩」第二回と同じです)。

深川付近地図



【参考文献】
・大東京繁昌記 下町編:平凡社
・江東区の文化財:江東区教育委員会
・江東区辞典:江東区教育委員会
・文人悪食:新潮文庫 嵐山光三郎

【交通のご案内】
・営団東西線/都営大江戸線「門前仲町駅」下車徒歩10分

【住所紹介】
・心行寺:東京都江東区深川2-16-7
・法乗院:東京都江東区深川2-16-3

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