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最終更新日:2006年4月2日

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●藤田宜永のモダン東京「哀しき偶然」を歩く 初版2002年6月29日 V01L03

fujita-modern3-11w.jpg 今週は昨年の第125回直木賞(日本文学振興会主催)を受賞された 藤田宜永 さん(「愛の領分」で受賞)作品の第二弾として”モダン東京3「哀しき偶然」”を歩いてみたいと思います。この作品は大正から昭和初期のモダニズムを舞台にしたアメリカ帰りの私立探偵 的矢健太郎の活躍を描くハードボイルド作品です。児玉清さんの解説を読むと「藤田作品の特徴である端正で精緻なる筆致から眼前に髣髴とさせる当時の東京の街並と、そこに住む人々の機微や人情といったものが、もう二度と還らぬ黄金時代、青春といった感じで猛烈なノスタルジーを僕にもたらしたのだ。それはもう圧倒されるような懐しさなのだ。」とあり、まさに私が藤田宜永作品を対好きなわけが書かれています。登場する地名、駅名、お店の名前、登場人物がノスタルジックな想像をかきたてる名になっているのですね、たとえば最初に出てくる渋谷区鉢山町は代官山のすぐ側で、一度は訪ねてみたくなる場所です。(本を読んでいない方はあまり面白くないと思います)

<主人公 的矢健太郎>
 東京・深川生まれの三十歳。麻布区霞町の友人所有の文化住宅に住む。昭和3年〜5年米国での商社勤務を経て、アル中の私立探偵フランクの助手を務め、帰国後銀座に探偵事務所を開く。父の形見のシトロエンに乗り現場に駆けつける。(登場人物紹介より)

<藤田宜永(ふじたよしなが)>
 小説家;エッセイスト、昭和25年4月生まれの福井県福井市出身、早大文学部中退(さすが!)
 昭和48年フランスに渡り仏日の翻訳を手掛けます。昭和61年に「野望のラビリンス」で文壇にデビュー。平成7年「鋼鉄の騎士」で日本推理作家協会賞を、平成13年「愛の領分」で直木賞を受賞します。藤田さんの妻、小池真理子さんは、96年2月(第114回)に直木賞を「恋」で受賞しており、夫婦での直木賞作家が誕生しました。

fujita-modern3-12w.jpg渋谷区鉢山町>
 モダン東京3「哀しき偶然」の書き出しから素敵な地名がでてきます。上記にも書きましたが、現在でもモダンな場所として有名な代官山近くの渋谷区鉢山町です。渋谷区鉢山町の一角にある、なだらかな坂道を、私はシトロエンに乗ってゆっくりと上がっていった。商業学校の角を左に折れ、製紐会社のところを、さらに左折した。植松八重子と名乗る女の屋敷は製紐会社の裏手の小道にあった。ハーフティンバー方式の洒落た木造二階建ての家屋。屋敷を囲むようにして、常緑樹に混じり、棒の葉が赤く色づいていた。」とあります。

左の写真の交差点が上記に書かれている”商業学校の角”にあたります。商業学校とは都立第一商業学校で、写真右側からの”なだらかな坂道”を登り切った所が写真の交差点になります。製紐会社は現在はありませんが、商業学校の交差点を左折して、もう一度左折して鉢山町の植松八重子邸に向かいます。


「渋谷区鉢山町付近」地図
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fujita-modern3-14w.jpgギャング団のアジト>
 渋谷区鉢山町の植松八重子邸に押し入ったギャング団の一人を捕まえて、そのアジトに向かいます。平助少年を自動車に乗せ、八幡通に出た。窃盗団のアジトは、青山高樹町にあるというのだ。私は半信半疑だった。青山高樹町は上品な住宅街である。泥棒が巣くうような建物があるとは思えなかった。平助は、長い間、風呂に入っていないらしく、車内にすえた臭いが拡がった。「おら、自動車ちゅうもんに乗るのは、これが初めてじゃ……」少年は無邪気な笑顔をみせて、きょろきょろしていた。市電の線路に沿って高樹町の停留場を目指し、自動車を足らせた。アジトが近づくにつれ、平助が無口になり落ち着きを失った。「怖がることはない」「本当に、大将も助けてくれるよな。お、おらが、そう頼んだって、言ってくれるか、旦那」「心配するな。それより、郵便局の次の角を右でいいんだな」「ああ。風呂屋が右にある。その少し先じゃ」とあります。的矢健太郎は愛車のシトロエン タイプC3で渋谷区鉢山町から八幡通りを抜けて青山通りに入り、市電の通りにしたがって郵便局の前を通って高樹町停留所に向かいます。現在の骨董通りを富士フィルムの本社がある高樹町交差点に向かっているわけです。昭和初期の六本木通りは直接渋谷に抜けておらず、高樹町から青山通り経由でした。高樹町の交差点を東京女学館(日赤前)方向に右折します。

左の写真は南青山7丁目11番付近からが高樹町停留所方向を撮影したものです。正面の大きなビルが富士フィルム本社ビルです。この写真の左側辺りがギャング団のアジト付近です。

「高樹町付近」地図
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fujita-modern3-27w.jpg川崎第百銀行大森支店跡>
  的矢健太郎は殺された植松八重子の手帳に書かれていた長瀬要二郎の自宅(大森区久ケ原)に、品川から大森経由で向かいます。「品川に出、そのまま東京湾に沿ってシトロエンを足らせた。潮の香りがし始めた。このまま大森海岸辺りを散歩したいような気分になった。だが、私は八幡橋を過ぎたところで右折し、海とおさらばした。やがて 『我が国最初の凶悪ギャング団』に白昼襲われ、一挙に有名になった川崎第百銀行大森支店が右に見えてきた。アメリカのギャング映画みたいだ、と言われて市民を興奮させた犯人だったが、密輸ピストルから足がつき、意外や意外、超スピード逮捕と相成った。」と大森付近のことを書いています。八幡橋と川崎第百銀行大森支店は既にありません。川崎第百銀行は現在の東京三菱銀行で、大森駅の西側に大森支店があります。この我が国初の銀行ギャング団は本当にあった話で、昭和7年10月11日の朝日新聞には「銀行襲撃のギャング、全部三人捕縛さる、共産党系が資金集めの犯行」と書かれています。この事件は後に、特高警察の共産党に対するスパイ事件に発展していきます。当時の大森支店は現在は雑居ビルになっています。このあと的矢健太郎は池上本門寺の本行寺に向かいます。「池上本門寺のところの派出所に立ち寄り、詳しい場所を訊ねた。要二郎の屋敷は本行寺という寺の近くにあった。黒塀に囲まれた静かな日本風の仔まい。ビルディング建設も手がけている会社の社長宅だから、てっきり洋館だと思っていたので、私はいささか拍子抜けした。」とあります。池上本門寺の派出所は現在はありません。現在は池上通りから直線で池上本門寺まで通じていますが、当時はその道はなく、その道の入り口辺りに派出所があったようです 。池上本門寺の階段のところを左に曲がり、少し歩くと本行寺です。

右の写真は現在の大森銀座です。昭和初期には大森付近で東海道線を通るには、このガードのあるこの道しかなかったようです。当時の川崎第百銀行大森支店は写真の右側奥の角です。正面が東海道線を潜るガードです。

「大森、池上付近」地図
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fujita-modern3-26w.jpg<妙祐寺>
  的矢健太郎は植松八重子邸の管理をしていた渋谷の井筒産業を訪ねます。「「宮益坂を渋谷から行くと右側に、妙祐寺という寺がある。その並びだから行ってみなさればすぐに分かりますよ」私はもう一度、礼を言って屋敷を出た。道玄坂を青山方面に向かう。玉川電鉄がレールを軋らせて私の横を走っていた。省線のガードをくぐったあたりで私はスピードをゆるめた。大阪貯蓄銀行渋谷支店の並びをつぶさに見ていく。やがて、妙祐寺らしい寺が見えた。そして、その二軒ほど先が、井筒産業だった。あんな屋敷を管理しているとは思えない汚い木造の二階屋。私は少しそのまま直進し、シトロエンを路地に駐車した。そして、徒歩で井筒産業に向かった。」とあります。宮益坂は渋谷駅から青木通りへ向かう坂で並木はが綺麗な通りです。妙祐寺は現在はなく、戦後の昭和27年、世田谷区烏山に移転しています。その跡地にあるのが宮益坂ビルです。

左の写真の右側が宮益坂ビルです。

fujita-modern3-17w.jpgダンスホール『バッカス』>
 渋谷区鉢山町の植松八重子邸で的矢健太郎はダンスホール『バッカス』のマッチを見つけます。「正午少し前、私は、タキシードを着用して、家を出た。六本木の交差点を通り過ぎ、やがて、溜池に出た。右側にエセックスなどの自動車ディーラーのビルが見える。今にも雨の降りそうな重い空だが、日曜日なので、心なしか通行人も自動車も、のんびりとした晩秋の一時を楽しんでいるかのように感じられた。私は溜池郵便局を少し越えたところにシトロエンを停めた。ダンスホール 『バッカス』 は、通りに面した第一日枝会館の三階にあるのだ。今年に入って開業した新しいダンスホールである。溜池のダンスホールといえば、『フロリダ』だが、その一流ダンスホールにも引けを取らぬ立派なものなのだ。……シトロエンを料理屋の塀の様につけ待った。」とあります。外堀通りの溜池郵便局は現在はなく、日商岩井が入っている国際赤坂ビルの隣の白亜ビルの所と思われます。その赤阪よりの隣のビルの所に第一日枝会館があったようです。このあと的矢健 太郎は裏の料理屋に車を止めて「パッカス」から宇津見が出てくるのを待ちます。「やがて、チェスターフィールド型のコートを着た宇津見が、口髭を生やしたトランペッターと一緒に出てきた。…オースチンが大通りに向かって走り出した。山王下の方に左折。私はシトロエンを勢いよくスタートさせた。…… オースチンは新宿駅に入る手前で停まった。巡査が交通整理を行っていたのである。私は『中村屋』の前あたりで停止し、様子を見た。青バスがシトロエンの前に出て、私の視界を遮った。やがて、標識が”ススメ”に変わり、自動車の流れがゆっくりと動き出した。私はウインドウから顔を出し、オースチンを見た。字津見は、中野方面行きの市電をやり過ごしてから、自動車をUターンさせた。私は、『東京パン』の角を左に曲がり、そこで停まった。ピアニストは 『甘栗太郎』の前にオースチンを寄せた。私は自動車を降り、建物の陰から様子を窺った。字津見は車道を渡った。どうやら、『中村屋』か『高野』のフルーツパーラーで人と待ち合わせをしているらしい。案の定、字津見は 『高野』 に入っていった。」とあります。有名なお店の名前がでてきますね。「中村屋」と「高野」は当時と同じところに現在もあります。「東京パン」と「甘栗太郎」は現在はありませんが新宿駅側の角のところに「東京パン」がありました 。中村屋に関しては別に特集していますのでそちらをご覧下さい。

左の写真が外堀通りから、手前のピンクの看板の白亜ビル、その先の国際赤阪ビルです。左側に遠目に見えるのが溜池交差点です。

【昭和初期の新宿角筈付近地図】←クリック

「溜池、三崎町付近」地図
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fujita-modern3-22w.jpgアテネフランセ>
 的矢健太郎は井筒産業の社長の井筒ヨネが殺害されたため、井筒産業と関係がある三崎町の三神商事を訪ねます。「やがて、神保町の交差点に出た。交差点には左に腕章を巻いた巡査が立っていて、信号の切り換えを行っていた。右折し水道橋の方に向かう。タイルや銅板を張った商店がずらっと並んでいる通り。やはり、本屋が目立つ。三崎町の市電停留場の手前を左折し日本大学の前に出、そのまま新川橋の手前まで進んだ。右に折れる。この界隈が三崎町三丁目なのだ。米穀商、石炭商、製本屋、製材所などが外濠に沿って並んでいる。三神商事はアテネフランセの角を入った通りにあった。」とあります。現在のアテネフランセはお茶の水駅に近いところにあります。上記に書かれている日本大学や新川橋は現在もあり、旧アテネフランセのは所は現在は駐車場になっていました。

右の写真は現在のアテネフランセです。水道からお茶の水に線路の右側を登っていくと右側に色が派手な建物がありますのですぐにわかります。

<アテネフランセとは>
1913年1月21日 東京帝国大学講師アグレジェ・デ・レットル ジョゼフ・コット先生が神田区東京外国語学校内で「高等仏語」の名でフランス文学の講義を始めたのが始まり。(1922年 第一次世界大戦後学生数が急増し500名を超えたため神田三崎町の新校舎に移転。戦後、神田駿河台文化学院内で授業を再開しています。)


  《その他の登場場所》
銀座、『千疋屋』『大徳』『三銀陶器店』『青柳菓子舗』 現在の銀座8丁目8番の銀座通り側にありました。現在残っているのは千疋屋のみで、お店の場所も違います。
【昭和初期の銀座付近地図】←クリック
神楽坂、東京貯蓄銀行牛込支店 現在の東京三菱銀行神楽坂支店
大森区入新井五丁目 鷲神社 現在の大森北一丁目14番地にあります。
大森一丁目『富田家』待合 現在の大森本町2丁目付近(旧三業地があった所)。

【参考文献】
・モダン東京3「哀しき偶然」:藤田宜永、小学館文庫
・新宿区の民俗:新宿区歴史博物館

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