●太宰治の津軽を歩く -7- 【金木周辺編】
    初版2014年1月11日 <V01L02> 暫定版

 今回は「太宰治の津軽を歩く」の第七回です。全体として金木とその周辺が残っていますので、今回は金木周辺を歩きました。時間が無くて十分に周り切れていませんので、ウイキペディアの写真も一部参照させて頂きました。再度訪問する予定です。


「川部駅」
<川部駅>
 太宰治は昭和19年5月13日、青森に到着、「津軽」の取材で蟹田、三厩経由で竜飛に向い、20日頃引き返して蟹田の中村貞次郎さん宅に宿泊、昭和19年5月21日頃、実家の金木に向います。

 まずは太宰治の「津軽 四 津軽平野」からです。
「…北端は竜飛である。まことに心細いくらゐに狭い。これでは、中央の歴史に相手にされなかつたのも無理はないと思はれて来る。私は、その「道の奥」の奥の極点の宿で一夜を明し、翌る日、やつぱりまだ船が出さうにも無いので、前日歩いて来た路をまた歩いて三厩まで来て、三厩で昼食をとり、それからバスでまつすぐに蟹田のN君の家へ帰つて来た。歩いてみると、しかし、津軽もそんなに小さくはない。その翌々日の昼頃、私は定期船でひとり蟹田を発ち、青森の港に着いたのは午後の三時、それから奥羽線で川部まで行き、川部で五能線に乗りかへて五時頃五所川原に着き、それからすぐ津軽鉄道で津軽平野を北上し、私の生れた土地の金木町に着いた時には、もう薄暗くなつてゐた。蟹田と金木と相隔たる事、四角形の一辺に過ぎないのだが、その間に梵珠山脈があつて山中には路らしい路も無いやうな有様らしいので、仕方なく四角形の他の三辺を大迂回して行かなければならぬのである。」
 上記の文章では竜飛で一泊して、翌日、三厩で昼食をとって蟹田の中村貞次郎さん宅まできたと書いています。竜飛の奥谷旅館には昭和19年5月18日に宿泊していますので、蟹田の中村貞次郎さん宅には19日に着いたことになります。翌々日の21日、青森、川部、五所川原経由で金木に着きます。

写真は現在の奧羽本線「川部駅」です(写真はウイキペディア参照)。太宰治は蟹田から船で青森に着き、青森から列車で金木に向います。奧羽本線は15時15分青森発、16時7分川部着、ここで五能線に乗り換えて16時36分川部発、17時18分五所川原着です。五所川原で津軽鉄道に乗り換え、17時30分五所川原発、18時7分金木着となります。日の入りは18時52分なのでまだ明るいうちに実家に着いたことになります。蟹田から青森の船の便が分りませんでした。もう少し調べてみます。

「金木農場」
<青森県の修錬農場>
 太宰は昭和19年5月21日夕方、金木の実家に到着します。ここで24日まで滞在し、実家の人達と金木の近隣に出かけています。

 太宰治の「津軽 五 西海岸」からです。
「…「停車場や何か出来て、この辺は、すつかり変つて、高流には、どう行けばいいのか、わからなくなりました。あの山なんですがね。」と私は、前方に見える、への字形に盛りあがつた薄みどり色の丘陵を指差して言つた。「この辺で、少しぶらぶらして、アヤたちを待つ事にしませう。」とお婿さんに笑ひながら提案した。
「さうしませう。」とお婿さんも笑ひながら、「この辺に、青森県の修錬農場があるとか聞きましたけど。」私よりも、よく知つてゐる。
「さうですか。捜してみませう。」
 修錬農場は、その路から半丁ほど右にはひつた小高い丘の上にあつた。農村中堅人物の養成と拓士訓練の為に設立せられたもののやうであるが、この本州の北端の原野に、もつたいないくらゐの堂々たる設備である。秩父の宮様が弘前の八師団に御勤務あそばされていらつしやつた折に、かしこくも、この農場にひとかたならず御助勢下されたとか、講堂もその御蔭で、地方稀に見る荘厳の建物になつて、その他、作業場あり、家畜小屋あり、肥料蓄積所、寄宿舎、私は、ただ、眼を丸くして驚くばかりであつた。…」

 津軽鉄道の五所川原−金木間が開通したのが昭和5年7月ですから、太宰治が東京帝国大学文学部仏蘭西文学科入学が同年4月なので同じ時期になります。

写真は現在の「弘前大学農学生命科学部附属生物共生教育研究センター金木農場(俗に弘前大金木農場)」です。昭和31年に青森県農業総合試験場金木実験農場の管理が弘前大学農学部に移任され、”青森県の修錬農場”が国立弘前大学附属に変っています、名前の長さに驚きます。弘前大金木農場は広くて、東京ドーム8個分の広さだそうです。

「岩木山」
<岩木山>
 金木から岩木山がよく見えるようです。残念ながら私は見ることができませんでした。再度、訪問して見てみるつもりです。天気が良くないとダメなので、日を選ばないと見れないようです。

 太宰治の「津軽 五 西海岸」からです。
「…「や! 富士。いいなあ。」と私は叫んだ。富士ではなかつた。津軽富士と呼ばれてゐる一千六百二十五メートルの岩木山が、満目の水田の尽きるところに、ふはりと浮んでゐる。実際、軽く浮んでゐる感じなのである。したたるほど真蒼で、富士山よりもつと女らしく、十二単衣の裾を、銀杏の葉をさかさに立てたやうにぱらりとひらいて左右の均斉も正しく、静かに青空に浮んでゐる。決して高い山ではないが、けれども、なかなか、透きとほるくらゐに嬋娟たる美女ではある。…」
 弘前市内からの岩木山は見ることが出来ました。弘前市立図書館付近から撮影した岩木山の写真を掲載しておきます。 

写真は弘前市松木平附近から撮影した岩木山です(ウイキペディア参照)。弘前駅から南に約5Km附近からの撮影です。岩木山の南東からの撮影ですから逆光にならずに綺麗に撮影できています。金木側だと午前中に撮影しないと逆光になって綺麗に撮れないようにおもわれまます。

「鹿の子川溜池」
<鹿の子川溜池>
 太宰は「津軽」では金木の周辺を数カ所程訪ねたことになっています。金木に到着した翌日は”翌る日は、雨であつた。”とありますので、22日は一日実家にいたようです。
・5月23日:金木町から一里ほど東の高流
・5月24日:金木の東南方一里半くらゐの、鹿の子川溜池
を訪ねたと「津軽」では書かれています。

 太宰治の「津軽 五 西海岸」からです。
「… 翌る日は前日の一行に、兄夫婦も加はつて、金木の東南方一里半くらゐの、鹿の子川溜池といふところへ出かけた。出発真際に、兄のところへお客さんが見えたので、私たちだけ一足さきに出かけた。モンペに白足袋に草履といふいでたちであつた。二里ちかくも遠くへ出歩くなどは、嫂にとつて、金木へお嫁に来てはじめての事かも知れない。その日も上天気で、前日よりさらに暖かかつた。私たちは、アヤに案内されて金木川に沿うて森林鉄道の軌道をてくてく歩いた。軌道の枕木の間隔が、一歩には狭く、半歩には広く、ひどく意地悪く出来てゐて、甚だ歩きにくかつた。私は疲れて、早くも無口になり、汗ばかり拭いてゐた。お天気がよすぎると、旅人はぐつたりなつて、かへつて意気があがらぬもののやうである。…」
 ”金木川に沿うて森林鉄道の軌道”の場所は下記の地図を参照してください。森林鉄道は大正から昭和初期にかけて建設されましたが、戦後の昭和30年代後半から昭和40年代前半かけて全て廃止されています。トラックに取って代わられたからです。(近代化遺産 国有林森林鉄道全データ 東北編 秋田魁新報社を参照)

 気象庁のホームページで当時の天気を調べてみました。青森市の一日の降水量しかわかりませんでした。
・5月18日:22.6mm 竜飛の奥谷旅館泊
・5月19日: 8.8mm 蟹田の中村貞次郎さん宅泊
・5月20日: 2.1mm 蟹田の中村貞次郎さん宅泊
・5月21日: 4.4mm 金木の実家泊
・5月22日: 0.1mm 金木の実家泊
・5月23日: −     金木の実家泊
・5月24日: −     金木の実家泊

 太宰が「津軽」で書いている天気と若干食い違います。竜飛の奥谷旅館に滞在した日から4日間ほどは雨模様だったようです。青森市内と金木の違いはありますが、22日は殆ど降っていません。

写真は現在の「鹿の子ため池」です。このため池の石碑には昭和12年起工、昭和16年竣工と記されていますので、太宰が東京に出てからになります。ですから、初めての訪問だったのではないでしょうか。

「鹿の子滝」
<鹿の子滝>
 「鹿の子ため池」から東に1.4Km程先に滝があります。言うほどの大きな滝ではありませんが金木川では唯一の滝かもしれません。道からは木々の間にやっと見えるくらいです。11月でやっとですから夏は全く見えないかもしれません。

 太宰治の「津軽 五 西海岸」からです。
「…水の落ちる音が、次第に高く聞えて来た。溜池の端に、鹿の子滝といふ、この地方の名所がある。ほどなく、その五丈ばかりの細い滝が、私たちの脚下に見えた。つまり私たちは、荘右衛門沢の縁《へり》に沿うた幅一尺くらゐの心細い小路を歩いてゐるのであつて、右手はすぐ屏風を立てたやうな山、左手は足もとから断崖になつてゐて、その谷底に滝壺がいかにも深さうな青い色でとぐろを巻いてゐるのである。
「これは、どうも、目まひの気味です。」と嫂は、冗談めかして言つて、陽子の手にすがりついて、おつかなさうに歩いてゐる。…」


写真の正面の微かに滝が見えます。道路に標識があるので場所は何とか分るのですが、一番よく見えるところでこれくらいですからが、他からは殆ど見えません。川原に下らないとダメかもしれません。滝壺のある川原に下る道も良く分りませんでした。

「高山稲荷神社」
<お稲荷さん>
 太宰が「津軽」の中で回想として思い出した「高山」を訪ねて見ました。金木からは約13.7Km程ありますから徒歩ではかなりの距離です。小学生では4時間位掛かったのではないでしょうか。

 太宰治の「津軽 五 西海岸」からです。
「…     五 西海岸

 前にも幾度となく述べて来たが、私は津軽に生れ、津軽に育ちながら、今日まで、ほとんど津軽の土地を知つてゐなかつた。津軽の日本海方面の西海岸には、それこそ小学校二、三年の頃の「高山行き」以外、いちども行つた事がない。高山といふのは、金木からまつすぐ西に三里半ばかり行き車力といふ人口五千くらゐのかなり大きい村をすぎて、すぐ到達できる海浜の小山で、そこのお稲荷さんは有名なものださうであるが、何せ少年の頃の記憶であるから、あの服装の失敗だけが色濃く胸中に残つてゐるくらゐのもので、あとはすべて、とりとめも無くぼんやりしてしまつてゐる。…」

 上記に書かれている”お稲荷さん”とは「高山稲荷神社」ことです。訪ねて見てびっくりしました。こんな辺鄙なところに大きなお稲荷さんがありました。敷地もかなり広く鳥居の大きさは伏見稲荷に負けていません。ただ中に入ると伏見稲荷とは規模が少し違うようです。

この「高山稲荷神社」について調べようとおもってホームページを探したのですが見当たりませんでした(ホームページが無い神社は珍しいです)。仕方が無いので境内案内図の横に書かれている由緒を掲載しておきます。
「 当社の御創建の年代は明らかでないが、鎌倉時代から室町期にかけて此のあたりを統治していた豪族安倍安東(藤)氏の創建と伝えられる。
江戸時代の古地図には、高山の地は三王(山王)坊山と記されており、当社の境内社である三王神社創建の社説には、十三湊東方に山王日吉神社を中心に十三宗寺が建ち並ぶ一大霊場があり、安東(藤)の祈願所として栄えるも1443年(嘉吉三)[または1432年(永享四)]頃に南部勢の焼き討ちにより消失。この時、山王大神さまが黄金の光を放って流れ星のように高山の聖地に降り鎮まられた、と伝えられる。
 稲荷神社創建の社伝には、江戸時代の元禄十四年(1701)、播磨国赤穂藩主浅野内匠頭長矩(あさのたくみのかみながのり)の江戸城内での刃傷事件による藩取りつぶしの際、赤穂城内に祀っていた稲荷大神の御霊代を藩士の寺坂三五郎が奉載し、流浪の果て津軽の弘前城下に寓し、その後鯵ヶ沢に移り住み「赤穂屋」と号し、醸造業を営み栄える。その子孫が渡島に移住するにあたり、この高山の霊地に祀れとのお告げにより移し祀った、と伝えられる。稲荷創建の社伝は他にも諸説あるが、いずれも江戸時代に入ってからのことである。
 これらを総合して考えると、元々は三王神社が祀られ、その後江戸時代に稲荷神社が創建され、江戸時代の稲荷信仰の隆盛とともに稲荷神社が繁栄し元々の三王神社が後退したものと考えられている。」

 「高山稲荷神社」の周りには村もなく、近いところが上記に書かれている”車力”で、3Kmはありますから大変です。普通は門前町があるのですが、ここには全くありません。突然、大鳥井が出現するのです。必ず驚きます。

写真は現在の「高山稲荷神社」前の大鳥居です。正確には、このかなり手前にもう一つ大鳥居がありますので二つ目の鳥居となります。本殿の写真も掲載しておきます。この「高山稲荷神社」の裏、数百mで日本海です。砂丘からみた日本海の写真を掲載しておきます。

 続きます。


太宰治年表
和 暦 西暦 年  表 年齢 太宰治の足跡
昭和14年
1939 ドイツ軍ポーランド進撃 31 1月8日 杉並の井伏鱒二宅で太宰、石原美智子と結婚式をあげる。甲府の御崎町に転居
9月1日 東京府三鷹村下連雀百十三番地に転居
昭和17年 1942 ミッドウェー海戦 34 12月 今官一が三鷹町上連雀山中南97番地に転居
昭和19年 1944 マリアナ海戦敗北
東条内閣総辞職
レイテ沖海戦
神風特攻隊出撃
36 1月10日 上野駅でスマトラに向かう戸石泰一と面会
5月12日 「津軽」の取材に青森に向かう
11月 「津軽」発刊
昭和20年 1945 ソ連参戦
ポツダム宣言受諾
37 4月 三鷹から妻美智子の実家、甲府市水門町に疎開
7月28日 津軽に疎開(青森空襲)
昭和21年 1946 日本国憲法公布 38 11月13日 東京に帰京する太宰一家が仙台に立ち寄る
12月 中鉢家の二階を借りる
昭和22年 1947 織田作之助死去
中華人民共和国成立
39 1月 小山清が三鷹を去る
2月 下曽我に太田静子を訪ねる、三津浜で「斜陽」を執筆
3月 山崎富枝、屋台で太宰治と出会う
4月 田辺精肉店の離れを借りる
5月 西山家を借りる
8月 千草の二階で執筆



太宰治の津軽地図



太宰治の金木周辺地図
赤線は森林鉄道跡です