●太宰治の津軽を歩く -6- 【小泊編】
    初版2010年12月25日 <V01L01> 暫定版

 今回は「太宰治の津軽を歩く」の第六回です。前回は五所川原を歩きましたので、金木を除いて「津軽」はほぼ歩いたとおもいます(実は鰺ヶ沢が残っている)。今回は最終回として「津軽」に沿って小泊を歩きました。金木については全く別に掲載したいとおもっております。時期は少しかかるかとおもいます。


「小説「津軽」の像」
<小説「津軽」の像>
 「太宰の津軽を歩く」の最終回となります。青森から今回の小泊で六回にわたる掲載でした。今回は事前にかなり調査してから現地を訪ねたため、二日程で「津軽」に関係する全てを取材することができました。ただ、原稿にすると足らないところも多く、もう一度訪問して追加掲載したいとおもっています。
 まずは太宰治の「津軽 五 西海岸」からです。
「…「あすは小泊の、たけに逢ひに行くんださうです。」けいちやんは、何かとご自分の支度でいそがしいだらうに、家へ帰らず、のんきに私たちと遊んでゐる。
「たけに。」従姉は、真面目な顔になり、「それは、いい事です。たけも、なんぼう、よろこぶか、わかりません。」従姉は、私がたけを、どんなにいままで慕つてゐたか知つてゐるやうであつた。
「でも、逢へるかどうか。」私には、それが心配であつた。もちろん打合せも何もしてゐるわけではない。小泊の越野たけ。ただそれだけをたよりに、私はたづねて行くのである。…」

 前回は、五所川原に住んでいる津島歯科医院の叔母きゑを訪ねたところまででした。昭和19年5月26日のことです。太宰は翌日、小泊の”たけ”のところに向かいます。太宰の「津軽」はこの”たけ”のところを訪ねた場面で終わります。太宰らしい終わり方なのかもしれませんが、最後は文章も含めてなかなかの終わり方です。この「津軽」がすばらしいところはこの最後のところかもしれません。(「津軽」の最後の文章は終わりに掲載しています)

写真は小泊の「小説『津軽』の像記念館」にある”太宰治とたけの像”です。五月の連休に訪ねたのですが、ほとんと人はいませんでした。金木からここまで来るのは大変かもしれません。ここの館長さんはなかなか面白い方です。訪ねられた方は一はお話を伺うといいとおもいます。

「津軽鉄道津軽中里駅」
<津軽鉄道津軽中里駅>
 太宰は「津軽」での最後の旅として五所川原から津軽鉄道で津軽中里に向かいます。たけさんに合うためでした。
 太宰治の「津軽 五 西海岸」からです。
「… 一番の八時の汽車で五所川原を立つて、津軽鉄道を北上し、金木を素通りして、津軽鉄道の終点の中里に九時に着いて、それから小泊行きのバスに乗つて約二時間。あすのお昼頃までには小泊へ着けるといふ見込みがついた。日が暮れて、けいちやんがやつとお家へ帰つたのと入違ひに、先生(お医者さんの養子を、私たちは昔から固有名詞みたいに、さう呼んでゐた)が病院を引上げて来られ、それからお酒を飲んで、私は何だかたわいない話ばかりして夜を更かした。
 翌る朝、従姉に起こされ、大急ぎでごはんを食べて停車場に駈けつけ、やつと一番の汽車に間に合つた。…」

 昭和19年4月の時刻表によると、津軽鉄道五所川原駅発の一番列車は7時58分発です。津軽中里駅着が8時54分となります。太宰はこの列車にのったものとおもわれます。

写真は津軽鉄道津軽中里駅プラットホームです。終点ですのでプラットホームも一本しかありません。到着している列車は”走れメロス号”です。津軽中里駅駅舎の写真も掲載しておきます。

「中里駅前バス停留所」
<中里駅前バス停留所>
 太宰は津軽中里駅前からバスで小泊に向かいます。中里駅から小泊まで約27Kmほどの距離です。
 太宰治の「津軽 五 西海岸」からです。
「…「ぢや、また。」などと、いい加減なわかれかたをして、さつさとバスに乗つてしまつた。バスは、かなり込んでゐた。私は小泊まで約二時間、立つたままであつた。中里から以北は、全く私の生れてはじめて見る土地だ。津軽の遠祖と言はれる安東氏一族は、この辺に住んでゐて、十三港の繁栄などに就いては前にも述べたが、津軽平野の歴史の中心は、この中里から小泊までの間に在つたものらしい。バスは山路をのぼつて北に進む。路が悪いと見えて、かなり激しくゆれる。私は網棚の横の棒にしつかりつかまり、背中を丸めてバスの窓から外の風景を覗き見る。…」
 当時のバスの時刻表を探したのですが、見つけることが出来ませんでした(鉄道の時刻表に掲載されてきない)。青森県立図書館で探したのですが見つけることが出来ませんでした。もう少し探してみます。 

写真は津軽鉄道津軽中里駅前の弘南バス停留所です。ここからは小泊行きと五所川原行きが出ています。系統的には五所川原から小泊行きで、その途中に中里に止まるようです。バス停の時刻表を見ると、小泊行きは一日六本でした。昔とあまり変わらないようです。中里から小泊までは1時間15分です。

「越野金物屋跡」
<金物屋の越野さん>
 太宰は小泊でバスを下りた後、たけさんの家を探します。田舎で、小さな町ですから、聞けば直ぐに教えてもらえます。
 太宰治の「津軽 五 西海岸」からです。
「…「越野たけ、といふ人を知りませんか。」私はバスから降りて、その辺を歩いてゐる人をつかまへ、すぐに聞いた。
「こしの、たけ、ですか。」国民服を着た、役場の人か何かではなからうかと思はれるやうな中年の男が、首をかしげ、「この村には、越野といふ苗字の家がたくさんあるので。」
「前に金木にゐた事があるんです。さうして、いまは、五十くらゐのひとなんです。」私は懸命である。
「ああ、わかりました。その人なら居ります。」
「ゐますか。どこにゐます。家はどの辺です。」
 私は教へられたとほりに歩いて、たけの家を見つけた。間口三間くらゐの小ぢんまりした金物屋である。東京の私の草屋よりも十倍も立派だ。店先にカアテンがおろされてある。いけない、と思つて入口のガラス戸に走り寄つたら、果して、その戸に小さい南京錠が、ぴちりとかかつてゐるのである。他のガラス戸にも手をかけてみたが、いづれも固くしまつてゐる。留守だ。…」

 越野金物店は弘南バス案内所の先を左に曲がり、川を渡って少し歩いた先になります(下記の地図を参照して下さい)。ご本人は昭和58年(1983)に85歳で亡くなられています。

写真の正面が越野金物店跡です。建物は火災等で建て直されて当時の面影はありません。又、建物は他の方の手に渡っています。ご長男の死去後転売されたようです。

「横野たばこ店」
<筋向ひの煙草屋>
 太宰が越野家のことを聞きに行った”筋向ひの煙草屋”さんを探しました。
 太宰治の「津軽 五 西海岸」からです。
「…溜息をついてその家から離れ、少し歩いて筋向ひの煙草屋にはひり、越野さんの家には誰もゐないやうですが、行先きをご存じないかと尋ねた。そこの痩せこけたおばあさんは、運動会へ行つたんだらう、と事もなげに答へた。私は勢ひ込んで、
「それで、その運動会は、どこでやつてゐるのです。この近くですか、それとも。」
 すぐそこだといふ。この路をまつすぐに行くと田圃に出て、それから学校があつて、運動会はその学校の裏でやつてゐるといふ。
「けさ、重箱をさげて、子供と一緒に行きましたよ。」
「さうですか。ありがたう。」…」


写真正面が”筋向ひの煙草屋”です。”太宰治”とお店に書いていますので直ぐに分かります。”越野金物店”よりも手前にありますので、先に此方の方が目に付きます。

「運動場」
<運動場>
 次は運動会が行われていた運動場です。こちらは「小説『津軽』の像記念館」の下側にありますので直ぐに分かりました。
 太宰治の「津軽 五 西海岸」からです。
「…運動場のまんなかを横切つて、それから少女は小走りになり、一つの掛小屋へはひり、すぐそれと入違ひに、たけが出て来た。たけは、うつろな眼をして私を見た。
「修治だ。」私は笑つて帽子をとつた。
「あらあ。」それだけだつた。笑ひもしない。まじめな表情である。でも、すぐにその硬直の姿勢を崩して、さりげないやうな、へんに、あきらめたやうな弱い口調で、「さ、はひつて運動会を。」と言つて、たけの小屋に連れて行き、「ここさお坐りになりせえ。」とたけの傍に坐らせ、たけはそれきり何も言はず、きちんと正座してそのモンペの丸い膝にちやんと両手を置き、子供たちの走るのを熱心に見てゐる。…」

 「津軽」で書かれている運動会は小泊尋常小学校の運動会です。現在も小泊小学校は直ぐ横にありました。

写真のネットのある運動場で運動会が開かれました。小泊小学校は右側になります。

「竜神様」
<竜神様>
 なぜ太宰が小泊の”竜神様”を書いたかよくわかりません。運動会の場ではたけさんとの会話の場がつくれなかったのかもしれません。
 太宰治の「津軽 五 西海岸」からです。
「…「竜神様の桜でも見に行くか。どう?」と私を誘つた。
「ああ、行かう。」
 私は、たけの後について掛小屋のうしろの砂山に登つた。砂山には、スミレが咲いてゐた。背の低い藤の蔓も、這ひ拡がつてゐる。たけは黙つてのぼつて行く。私も何も言はず、ぶらぶら歩いてついて行つた。砂山を登り切つて、だらだら降りると竜神様の森があつて、その森の小路のところどころに八重桜が咲いてゐる。たけは、突然、ぐいと片手をのばして八重桜の小枝を折り取つて、歩きながらその枝の花をむしつて地べたに投げ捨て、それから立ちどまつて、勢ひよく私のはうに向き直り、にはかに、堰を切つたみたいに能弁になつた。
「久し振りだなあ。はじめは、わからなかつた。金木の津島と、うちの子供は言つたが、まさかと思つた。まさか、来てくれるとは思はなかつた。小屋から出てお前の顔を見ても、わからなかつた。修治だ、と言はれて、あれ、と思つたら、それから、口がきけなくなつた。運動会も何も見えなくなつた。…」


写真が現在の竜神様です。建て直されて場所も変わっているかもしれません。上記に書かれている”砂山を登り切つて、だらだら降りると竜神様の森があつて、その森の小路のところどころに八重桜が咲いてゐる”は全くありませんでした。森もなく、桜の木もありません。もう少し現地で状況を聞いてくれば良かったです。竜神様の場所についてはわかりにくいので記念館の方に聞かれた方がよいとおもいます。

「太宰とたけ再開の道」
<「津軽」の終わりに>
 最後になります。小泊では「太宰とたけ再開の道」の道標がいくつも建てられています。小泊は「津軽」の中では観光という面では一番整備された町だとおもいます。交通の便がイマイチなのは残念です。本当に太宰治が好きな人しか訪ねないような気がします。
 太宰治の「津軽」の終わりです。
「…私はたけの、そのやうに強くて不遠慮な愛情のあらはし方に接して、ああ、私は、たけに似てゐるのだと思つた。きやうだい中で、私ひとり、粗野で、がらつぱちのところがあるのは、この悲しい育ての親の影響だつたといふ事に気附いた。私は、この時はじめて、私の育ちの本質をはつきり知らされた。私は断じて、上品な育ちの男ではない。だうりで、金持ちの子供らしくないところがあつた。見よ、私の忘れ得ぬ人は、青森に於けるT君であり、五所川原に於ける中畑さんであり、金木に於けるアヤであり、さうして小泊に於けるたけである。アヤは現在も私の家に仕へてゐるが、他の人たちも、そのむかし一度は、私の家にゐた事がある人だ。私は、これらの人と友である。
 さて、古聖人の獲麟を気取るわけでもないけれど、聖戦下の新津軽風土記も、作者のこの獲友の告白を以て、ひとまづペンをとどめて大過ないかと思はれる。まだまだ書きたい事が、あれこれとあつたのだが、津軽の生きてゐる雰囲気は、以上でだいたい語り尽したやうにも思はれる。私は虚飾を行はなかつた。読者をだましはしなかつた。さらば読者よ、命あらばまた他日。元気で行かう。絶望するな。では、失敬。…」

 本当に最後は上手です。
 
写真は小泊の「太宰とたけ再開の道」の道標です。なにか、墓標みたいです。太宰に贈る墓標かもしれません。「太宰治を巡って」はまだまた追加改版していきます。ご期待ください!!!


太宰治年表
和 暦 西暦 年  表 年齢 太宰治の足跡
昭和14年
1939 ドイツ軍ポーランド進撃 31 1月8日 杉並の井伏鱒二宅で太宰、石原美智子と結婚式をあげる。甲府の御崎町に転居
9月1日 東京府三鷹村下連雀百十三番地に転居
昭和17年 1942 ミッドウェー海戦 34 12月 今官一が三鷹町上連雀山中南97番地に転居
昭和19年 1944 マリアナ海戦敗北
東条内閣総辞職
レイテ沖海戦
神風特攻隊出撃
36 1月10日 上野駅でスマトラに向かう戸石泰一と面会
5月12日 「津軽」の取材に青森に向かう
11月 「津軽」発刊
昭和20年 1945 ソ連参戦
ポツダム宣言受諾
37 4月 三鷹から妻美智子の実家、甲府市水門町に疎開
7月28日 津軽に疎開(青森空襲)
昭和21年 1946 日本国憲法公布 38 11月13日 東京に帰京する太宰一家が仙台に立ち寄る
12月 中鉢家の二階を借りる
昭和22年 1947 織田作之助死去
中華人民共和国成立
39 1月 小山清が三鷹を去る
2月 下曽我に太田静子を訪ねる、三津浜で「斜陽」を執筆
3月 山崎富枝、屋台で太宰治と出会う
4月 田辺精肉店の離れを借りる
5月 西山家を借りる
8月 千草の二階で執筆



太宰治の津軽地図



太宰治の小泊地図