●太宰治の津軽を歩く -5- 【五所川原編】
    初版2010年11月13日
    二版2013年11月11日 <V01L01> 旭座関連と写真を追加 暫定版

 今回は「太宰治の津軽を歩く」の第五回です。太宰は昭和19年5月25日(木曜日)、木造から深浦を訪ねています。翌日は鰺ヶ沢から五所川原に向かっています。今回は五所川原を「津軽」に沿って歩いてみました。


「五所川原駅」
<五所川原駅>
 太宰は昭和19年5月25日(木曜日)、木造から深浦を訪ねています。翌日は鰺ヶ沢から五所川原に向かっています。今回はこの五所川原を「津軽」に沿って歩いてみました。

 太宰治の「津軽 五 西海岸」からです。
「…、 鰺ヶ沢の町を引上げて、また五能線に乗つて五所川原町に帰り着いたのは、その日の午後二時。私は駅から、まつすぐに、中畑さんのお宅へ伺つた。中畑さんの事は、私も最近、「帰去来」「故郷」など一聯の作品によく書いて置いた筈であるから、ここにはくどく繰り返さないが、私の二十代に於けるかずかずの不仕鱈の後仕末を、少しもいやな顔をせず引受けてくれた恩人である。しばらく振りの中畑さんは、いたましいくらゐに、ひどくふけてゐた。昨年、病気をなさつて、それから、こんなに痩せたのださうである。…」
 今回も時刻表を参照して太宰治を追ってみます。昭和19年4月の時刻表によると、五能線の深浦発9時9分、鰺ヶ沢着が10時22分、鰺ヶ沢発が12時36分、五所川原着が13時13分となります。上記には”午後二時着”と書いていますが、この列車以外はその前後でありませんので、間違いないとおもいます(次の列車は16時50分着)。

 上記に書かれている”不仕鱈”の読みは”ふしだら”、鱈は魚の”たら”の字です。これで”ふしだら”と読ますのかなとおもいました。

写真は現在のJR五能線 五所川原駅です。左側に津軽鉄道の五所川原駅があります。津軽鉄道については別途掲載したいとおもっています。当時の駅の写真を探しましたが、見つけることが出来ませんでした。もう少し探してみます。

「旭座跡」
<旭座>
 2013年11月11日 「旭座」を追加
 「津軽」から少し離れますが、太宰が五所川原で記憶していたのが、駅前にあった「旭座」です。この「旭座」は大正11年(1922)9月30日に焼失していますので、太宰が13歳(明治42年(1909)生まれ)の時です。青森中学校に入学する前年ですから良く覚えているはずです。「旭座」の場所については「立佞武多の館(たちねぶた)」及び観光案内所の方々に大変お世話になりました。ありがとうございました。

 太宰治の「五所川原」からです。短いので全文掲載します。。
「叔母が五所川原にいるので、小さい頃よく五所川原へ遊びに行きました。旭座の舞台開きも見に行きました。小学校の三、四年生の頃だったと思います。たしか友右衛門だった筈です。梅の由兵衛に泣かされました。廻舞台を、その時、生れてはじめて見て、思わず立ち上ってしまった程に驚きました。この旭座は、そののち間もなく火事を起し、全焼しました。その時の火焔が、金木から、はっきり見えました。映写室から発火したという話でした。そうして、映画見物の小学生が十人ほど焼死しました。映写技師が罪に問われました。過失傷害致死とかいう罪名でした。子供にも、どういうわけだか、その技師の罪名と運命を忘れる事が出来ませんでした。旭座という名前が「火」の字に関係があるから焼けたのだという噂も聞きました。二十年も前の事です。
 七ツか、八ツの頃、五所川原の賑やかな通りを歩いて、どぶに落ちました。かなり深くて、水が顎のあたりまでありました。三尺ちかくあったのかも知れません。夜でした。上から男の人が手を差し出してくれたのでそれにつかまりました。ひき上げられて衆人環視の中で裸にされたので、実に困りました。ちょうど古着屋のまえでしたので、その店の古着を早速着せられました。女の子の浴衣でした。帯も、緑色の兵古帯でした。ひどく恥かしく思いました。叔母が顔色を変えて走って来ました。
 私は叔母に可愛がられて育ちました。私は、男ッぷりが悪いので、何かと人にからかわれて、ひとりでひがんでいましたが、叔母だけは、私を、いい男だと言ってくれました。他の人が、私の器量の悪口を言うと、叔母は、本気に怒りました。みんな遠い思い出になりました。」

 当時の旭座火災状況調査報告書によると、映写室から出火したようです。当時のフィルムはセルロイド製で燃えやすかったからだとおもわれます。一階に避難口がなく16名が焼死しています。

写真は五所川原駅前の道を100m程歩いた右側を撮影したものです。当時この道は無く、この先17m付近に「旭座」がありました。(当時は停車場通りが幅4間(約7m)、停車場通りより右側に11間(約20m)入ったところにありました。)

「中畑慶吉さん宅」
<中畑慶吉さん宅>
 太宰は五所川原駅で下車し、直ぐに中畑慶吉さん宅へ向かいます。中畑慶吉さん宅は駅前の道一本を少し歩いて右に曲がったところです。歩いて5分程度です。

 太宰治の「津軽 五 西海岸」からです。
「 …「時代だぢやあ。あんたが、こんな姿で東京からやつて来るやうになつたものなう。」と、それでも嬉しさうに、私の乞食にも似たる姿をつくづく眺め、「や、靴下が切れてゐるな。」と言つて、自分で立つて箪笥から上等の靴下を一つ出して私に寄こした。
「これから、ハイカラ町へ行きたいと思つてるんだけど。」
「あ、それはいい。行つていらつしやい。それ、けい子、御案内。」と中畑さんは、めつきり痩せても、気早やな性格は、やはり往年のままである。五所川原の私の叔母の家族が、そのハイカラ町に住んでゐるのである。私の幼年の頃に、その街がハイカラ町といふ名前であつたのだけれども、いまは大町とか何とか、別な名前のやうである。五所川原町に就いては、序編に於いて述べたが、ここには私の幼年時代の思ひ出がたくさんある。四、五年前、私は五所川原の或る新聞に次のやうな随筆を発表した。…」

 太宰は中畑慶吉さんには本当にお世話になっています。鎌倉小動崎での情死の時や、結婚の時も全て中畑慶吉さんが後始末や面倒をみています。当然お金は金木の実家から出ているのですが、お目付役としては最適の人だったのでしょう。
 「月刊噂」昭和48年6月号よりです。
「… 太宰が初代さんと一緒になり、あちらこちらの下宿を転々としていた時代にも、私は月に一度は必ず彼の所に寄りました。私が仕入れをするために上京するのは、毎月十日前後でした。三等寝台で行き、食堂車で食事をして上野から宿まで円タクを奮発しても、乗車券ともども十一円だった時代です。太宰はときおり、両国にあった私の常宿までやってきては、「近くまで来たから寄った。いま、全然ないから、中畑さん、十円貨してくれや。じきにお返ししますから」などと申しておりました。私はいつでも「よろしゆうおわす、ご用だてしましょ」と答えることにしていました。…
…… 少し話が飛んで恐縮ですが、太宰が亡くなってからしばらくというもの、年に百人以上の方が、五所川原の拙宅を訪れ、最近でも三十人以上の方が太宰についての話を聞きたいと言っておいでになります。この頃は学生さんが多く、ときには団体でおいでになることもありますが、その九〇パーセント近くの人が、「長兄の文治さんの太宰に対する仕打ちはひどいではないか、どういう気持だったんでしょうか」という疑問を出されます。文治さんの秘めた愛情に比してみるとき、誠に遺憾であります。
 文治さんは、すべてのことをのみこんでおりました。太宰のことだって、ああもしてやりたい、こうもしてやりたいと思っていたのでしょう。……」

 田舎の人は本当に家族おもいです。”津島家が呉服費として毎月支払う金は、五百円を下まわるということがありま
せんでした”とも書いていますので、中畑慶吉さんの呉服屋も津島家からはそうとう面倒を見て貰っていたとおもいます。
太宰の書いた「帰去来」も読んで頂ければとおもいます。

写真の先に中畑慶吉さん宅があります。駅前の道を少し歩いて右に曲がった先です。まだご家族の方がお住まいのようなので、直接の写真は控えさせて頂きました。いまは少し寂れていますが、当時は繁華街だったとおもいます。

「津島歯科医院」
<津島歯科医院>
 2013年11月11日 写真を追加
 太宰は五所川原の祖母きゑさんを訪ねます。昔からかわいがって貰っていたようです。

 太宰治の「津軽 五 西海岸」からです。
…。けいちやんと一緒にハイカラ町の叔母の家へ行つてみると、叔母は不在であつた。叔母のお孫さんが病気で弘前の病院に入院してゐるので、それの附添に行つてゐるといふのである。
「あなたが、こつちへ来てゐるといふ事を、母はもう知つて、ぜひ逢ひたいから弘前へ寄こしてくれつて電話がありましたよ。」と従姉が笑ひながら言つた。叔母はこの従姉にお医者さんの養子をとつて家を嗣がせてゐるのである。
「あ、弘前には、東京へ帰る時に、ちよつと立ち寄らうと思つてゐますから、病院にもきつと行きます。」
「あすは小泊の、たけに逢ひに行くんださうです。」けいちやんは、何かとご自分の支度でいそがしいだらうに、家へ帰らず、のんきに私たちと遊んでゐる。…」

 太宰は何処へ行っても歓迎されますね。

写真の正面の右側に津島歯科医院があります(2010年撮影)。2013年現在はこの付近の区画整理が進み、かなり変ってしまっています。津島歯科医院も建て直されていました。新たに、「太宰治が過ごした藏跡地」の看板が出来ていました。

「乾橋」
<いぬゐばし>
 太宰は中畑さんのひとり娘のけいちやんと一緒に五所川原を歩きます。

 太宰治の「津軽 五 西海岸」からです。
「… 中畑さんのひとり娘のけいちやんと一緒に中畑さんの家を出て、
「僕は岩木川を、ちよつと見たいんだけどな。ここから遠いか。」
 すぐそこだといふ。
「それぢや、連れて行つて。」
 けいちやんの案内で町を五分も歩いたかと思ふと、もう大川である。子供の頃、叔母に連れられて、この河原に何度も来た記憶があるが、もつと町から遠かつたやうに覚えてゐる。子供の足には、これくらゐの道のりでも、ひどく遠く感ぜられたのであらう。それに私は、家の中にばかりゐて、外へ出るのがおつかなくて、外出の時には目まひするほど緊張してゐたものだから、なほさら遠く思はれたのだらう。橋がある。これは、記憶とそんなに違はず、いま見てもやつぱり同じ様に、長い橋だ。
「いぬゐばし、と言つたかしら。」
「ええ、さう。」
「いぬゐ、つて、どんな字だつたかしら。方角の乾だつたかな?」
「さあ、さうでせう。」笑つてゐる。
「自信無し、か。どうでもいいや。渡つてみよう。」
 私は片手で欄干を撫でながらゆつくり橋を渡つて行つた。いい景色だ。東京近郊の川では、荒川放水路が一ばん似てゐる。河原一面の緑の草から陽炎がのぼつて、何だか眼がくるめくやうだ。さうして岩木川が、両岸のその緑の草を舐めながら、白く光つて流れてゐる。…」


写真が岩木川の乾橋です。駅正面の道を真っ直ぐ(少し左に曲がっている)850m位です。駅からのんびり歩いて15分くらいです。太宰は中畑慶吉さん宅から橋まで”5分”位と書いていますが、中畑慶吉さん宅から橋まで740mですから10分位かかるとおもいます。

続きます!!



太宰治の五所川原地図



太宰治の津軽地図



太宰治年表
和 暦 西暦 年  表 年齢 太宰治の足跡
昭和14年
1939 ドイツ軍ポーランド進撃 31 1月8日 杉並の井伏鱒二宅で太宰、石原美智子と結婚式をあげる。甲府の御崎町に転居
9月1日 東京府三鷹村下連雀百十三番地に転居
昭和17年 1942 ミッドウェー海戦 34 12月 今官一が三鷹町上連雀山中南97番地に転居
昭和19年 1944 マリアナ海戦敗北
東条内閣総辞職
レイテ沖海戦
神風特攻隊出撃
36 1月10日 上野駅でスマトラに向かう戸石泰一と面会
5月12日 「津軽」の取材に青森に向かう
11月 「津軽」発刊
昭和20年 1945 ソ連参戦
ポツダム宣言受諾
37 4月 三鷹から妻美智子の実家、甲府市水門町に疎開
7月28日 津軽に疎開(青森空襲)
昭和21年 1946 日本国憲法公布 38 11月13日 東京に帰京する太宰一家が仙台に立ち寄る
12月 中鉢家の二階を借りる
昭和22年 1947 織田作之助死去
中華人民共和国成立
39 1月 小山清が三鷹を去る
2月 下曽我に太田静子を訪ねる、三津浜で「斜陽」を執筆
3月 山崎富枝、屋台で太宰治と出会う
4月 田辺精肉店の離れを借りる
5月 西山家を借りる
8月 千草の二階で執筆