●太宰治の津軽を歩く -4- 【木造・千畳敷・深浦・鰺ヶ沢編】
    初版2010年10月23日
    二版2013年11月15日 <V01L01> 鰺ヶ沢を追加 暫定版

 今回は「太宰治の津軽を歩く」の第四回です。昭和19年5月25日(木曜日)の太宰治を「津軽」に沿って、歩いてみました。前日まで金木の実家に泊っており、25日になると木造の父親の生家に向かいます。その日のうちに五能線で深浦にたどり着き、秋田屋に宿泊しています。


「木造駅」
<木造駅>
 太宰は昭和19年5月25日(木曜日)の太宰治を「津軽」に沿って、追ってみました。前日まで金木の実家に泊っており、25日になると木造の父親の生家に向かいます。
 太宰治の「津軽 五 西海岸」からです。
「…、私は金木を出発して五所川原に着いたのは、午前十一時頃、五所川原駅で五能線に乗りかへ、十分経つか経たぬかのうちに、木造駅に着いた。ここは、まだ津軽平野の内である。私は、この町もちよつと見て置きたいと思つてゐたのだ。降りて見ると、古びた閑散な町である。人口四千余りで、金木町より少いやうだが、町の歴史は古いらしい。精米所の機械の音が、どつどつと、だるげに聞えて来る。どこかの軒下で、鳩が鳴いてゐる。ここは、私の父が生れた土地なのである。金木の私の家では代々、女ばかりで、たいてい婿養子を迎へてゐる。父はこの町のMといふ旧家の三男かであつたのを、私の家から迎へられて何代目かの当主になつたのである。この父は、私の十四の時に死んだのであるから、私はこの父の「人間」に就いては、ほとんど知らないと言はざるを得ない。…」
 昭和19年4月の時刻表によると、津軽鉄道線の金木発9時57分、五所川原着が10時33分で上記の”午前十一時頃”とほぼ合います。乗り継ぎですが、この時間帯で五能線の木造に向かうには五所川原発が10時38分で、うまく乗り継げます。この列車だと、次の駅の木造に到着するのが10時52分となります。

 大正7年(1918)、陸奥鉄道が川部(奥羽本線) - 五所川原を開業しています。大正13年には太宰治が下車した木造駅が開業します。昭和2年になると陸奥鉄道は国に回収され、五所川原線に編入されます。深浦まで開通するのは昭和9年になります。現在の五所川原 - 津軽中里間を走っている津軽鉄道は、陸奥鉄道が国に買収されたのち、買収によって陸奥鉄道設立時の出資額の倍の支払いを受けた株主たちが津軽における次なる鉄道として五所川原 - 中里間(金木駅も含まれる)の鉄道を計画し、昭和5年に五所川原 - 中里(現在の津軽中里)間が全通します。(ウイキペディア参照)

写真は現在のJR五能線 木造駅です。JR五能線は奥羽本線川部駅から五所川原、鰺ヶ沢、深浦を通って東能代までの線です。木造駅は大正13年開業で、駅舎は平成4年に建て直されており、現在の駅は東北の駅100選に選ばれている駅です。以前の駅舎の写真があるのですが、昭和19年当時の駅舎かどうかは不明でした。

「つがる警察署」
<木造警察署>
 太宰は木造駅で下車し、父親の実家を探します。木造駅から町へは駅前の道一本ですからわかりやすい町です。
 太宰治の「津軽 五 西海岸」からです。
「 …その日も、ひどくいい天気で、停車場からただまつすぐの一本街のコンクリート路の上には薄い春霞のやうなものが、もやもや煙つてゐて、ゴム底の靴で猫のやうに足音も無くのこのこ歩いてゐるうちに春の温気にあてられ、何だか頭がぼんやりして来て、木造警察署の看板を、木造警察署と読んで、なるほど木造の建築物、と首肯き、はつと気附いて苦笑したりなどした。…」

 太宰は蟹田の町でも警察署の場所を書いていますので、土地の場所を示す建物としては丁度良いのかもしれません。ネットで”木造”と検索すると、上記に太宰が書いたように、”木で造った建物”という意味で、山のような検索件数が出てきます。困ったものです。

写真は現在の「つがる警察署」です。平成17年の市町村の合併で、「木造警察署」から「つがる警察署」に名前が変わっています。多分、場所は変わっていないとおもいます(確認はとっていません)。

「コモヒ」
<コモヒ>
 太宰が「津軽」に書いている”コモヒ”は現在も残っていました。最初は何のことが分からなかったのですが、実際に見てみると直ぐに理解することが出来ました。要するに、雪避けですね、雪が積もっても買い物などが出来るように通路を屋根も横も全て覆ってしまう作り物のことだとわかりました。雁木とも同じようですが、雁木は屋根だけのこととおもいます。
 太宰治の「津軽 五 西海岸」からです。
「…木造は、また、コモヒの町である。コモヒといふのは、むかし銀座で午後の日差しが強くなれば、各商店がこぞつて店先に日よけの天幕を張つたらう、さうして、読者諸君は、その天幕の下を涼しさうな顔をして歩いたらう、さうして、これはまるで即席の長い廊下みたいだと思つたらう、つまり、あの長い廊下を、天幕なんかでなく、家々の軒を一間ほど前に延長させて頑丈に永久的に作つてあるのが、北国のコモヒだと思へば、たいして間違ひは無い。しかも之は、日ざしをよけるために作つたのではない。そんな、しやれたものではない。冬、雪が深く積つた時に、家と家との聯絡に便利なやうに、各々の軒をくつつけ、長い廊下を作つて置くのである。吹雪の時などには、風雪にさらされる恐れもなく、気楽に買ひ物に出掛けられるので、最も重宝だし、子供の遊び場としても東京の歩道のやうな危険はなし、雨の日もこの長い廊下は通行人にとつて大助かりだらうし、また、私のやうに、春の温気にまゐつた旅人も、ここへ飛び込むと、ひやりと涼しく、店に坐つてゐる人達からじろじろ見られるのは少し閉口だが、まあ、とにかく有難い廊下である。コモヒといふのは、小店の訛りであると一般に信じられてゐるやうだが、私は、隠瀬あるいは隠日《こもひ》とでもいふ漢字をあてはめたはうが、早わかりではなからうか、などと考へてひとりで悦にいつてゐる次第である。…」
 商店街の一部が”コモヒ”になっていました。夏は取るのかとおもったら、一年中作り付けのようです。

写真の正面の右側にある通路が”コモヒ”です。一種のアーケードではないかとおもいました。一般にアーケードは道路全体を覆いますが、歩道だけを覆ったのが”コモヒ”です

「松木家跡」
<M薬品問屋>
 太宰は”コモヒ”を歩いた後、父親 津島源右衛門の生家である松木家を見つけます。
 太宰治の「津軽 五 西海岸」からです。
「…そのコモヒを歩いてゐたら、M薬品問屋の前に来た。私の父の生れた家だ。立ち寄らず、そのままとほり過ぎて、やはりコモヒをまつすぐに歩いて行きながら、どうしようかなあ、と考へた。この町のコモヒは、実に長い。津軽の古い町には、たいていこのコモヒといふものがあるらしいけれども、この木造町みたいに、町全部がコモヒに依つて貫通せられてゐるといつたやうなところは少いのではあるまいか。いよいよ木造は、コモヒの町にきまつた。しばらく歩いて、やうやくコモヒも尽きたところで私は廻れ右して、溜息ついて引返した。……
…いつそこのまま帰らうか、などと悶えて歩いてゐるうちに、またもとのM薬品問屋の前に来た。もう二度と、来る機会はないのだ。恥をかいてもかまはない。はひらう。私は、とつさに覚悟をきめて、ごめん下さい、と店の奥のはうに声をかけた。Mさんが出て来て、やあ、ほう、これは、さあさあ、とたいへんな勢ひで私には何も言はせず、引つぱり上げるやうに座敷へ上げて、床の間の前に無理矢理坐らせてしまつた。ああ、これ、お酒、とお家の人たちに言ひつけて、二、三分も経たぬうちに、もうお酒が出た。実に、素早かつた。
「久し振り。久し振り。」とMさんはご自分でもぐいぐい飲んで、「木造は何年振りくらゐです。」
「さあ、もし子供の時に来た事があるとすれば、三十年振りくらゐでせう。」
「さうだらうとも、さうだらうとも。さあさ、飲みなさい。木造へ来て遠慮する事はない。よく来た。実に、よく来た。」…」

 青森県が作った「太宰治と歩く現代の「津軽」の旅」によると、松木家は
「…太宰の父・津島源右衛門は、木造村(現・つがる市)の名門松木家出身である。藩政時代には、苗字帯刀を許された郷士であった。源右衛門(松木永三郎)の父、八代目七右衛門の時代に薬種問屋に転業するまで造り酒屋を営んでいた。松木家は間口が36間(約65.5m)、奥行きが32間(約58m)の大邸宅であった。…」
とあります。かなりの家柄だったようです。

写真の木造郵便局の付近一帯が松本家跡です。間口の広さから見ると、手前の木造郵便局からあおもり信用金庫木造支店までが丁度65m、奥行きは裏の川までが57mなので、当時の松木家の大きさがわかります。残念ながら全て人手に渡っているそうです。郵便局の左隣の建物の玄関は当時そのままとお聞きしました。

「千畳敷」
<千畳敷>
 太宰は木造の父親の実家 松本家を辞して、深浦に向かいます。深浦を訪ねた理由についてはよく分かりません。「津軽」では深浦に向かう途中にある「千畳敷」について書いていました。
 太宰治の「津軽 五 西海岸」からです。
「…私は、心の中でMさんの仕合せを祈り、なほも引きとめられるのを汗を流して辞去し、午後一時の深浦行きの汽車にやつと間に合ふ事が出来た。
 木造から、五能線に依つて約三十分くらゐで鳴沢、鰺ヶ沢を過ぎ、その辺で津軽平野もおしまひになつて、それから列車は日本海岸に沿うて走り、右に海を眺め左にすぐ出羽丘陵北端の余波の山々を見ながら一時間ほど経つと、右の窓に大戸瀬の奇勝が展開する。この辺の岩石は、すべて角稜質凝灰岩とかいふものださうで、その海蝕を受けて平坦になつた斑緑色の岩盤が江戸時代の末期にお化けみたいに海上に露出して、数百人の宴会を海浜に於いて催す事が出来るほどのお座敷になつたので、これを千畳敷と名附け、またその岩盤のところどころが丸く窪んで海水を湛へ、あたかもお酒をなみなみと注いだ大盃みたいな形なので、これを盃沼《さかづきぬま》と称するのださうだけれど、直径一尺から二尺くらゐのたくさんの大穴をことごとく盃と見たてるなど、よつぽどの大酒飲みが名附けたものに違ひない。…」

 この千畳敷は寛政4年(1792)の地震によりできたもので、比較的新しい岩浜です。現在はJR五能線の千畳敷駅がありますが、太宰が訪ねた当時は駅はありませんでした(昭和29年に仮停車場として開設)。ですから、書いただけで、多分訪ねていないとおもいます。

写真の記念碑は太宰治の「津軽」の”千畳敷”の一説を書いています。当時の時刻表で、五所川原→木造:14分、木造→深浦:1時間49分となります。

「深浦駅」
<深浦駅>
 太宰は木造駅で”午後一時の深浦行きの汽車に乗った”と書いていますから、当時の時刻表で調べて見ました。五所川原発13時15分、木造発13時25分に乗ったのだとおもわれます。
 太宰治の「津軽 五 西海岸」からです。
「… 深浦町は、現在人口五千くらゐ、旧津軽領西海岸の南端の港である。江戸時代、青森、鯵ヶ沢、十三などと共に四浦の町奉行の置かれたところで、津軽藩の最も重要な港の一つであつた。丘間に一小湾をなし、水深く波穏やか、吾妻浜の奇巖、弁天嶋、行合岬など一とほり海岸の名勝がそろつてゐる。しづかな町だ。漁師の家の庭には、大きい立派な潜水服が、さかさに吊されて干されてゐる。何かあきらめた、底落ちつきに落ちついてゐる感じがする…」
 深浦町は上方(関西)と蝦夷地を結ぶ北前船の風待ち港として明治時代中期まで賑わっていたそうです。私が調べるとこのくらいですが、太宰はかなり詳細に調べています。上記に書かれた内容の方よく分かりますね。

写真はJR深浦駅です。深浦に到着したのが15時16分となります。木造から1時間49分の旅となります。

「円覚寺の仁王門」
<円覚寺>
 深浦で一番有名な場所が円覚寺です。戦前でも絵はがきになるほどですから相当有名なわけです。
 太宰治の「津軽 五 西海岸」からです。
「… 駅からまつすぐに一本路をとほつて、町のはづれに、円覚寺の仁王門がある。この寺の薬師堂は、国宝に指定せられてゐるといふ。私は、それにおまゐりして、もうこれで、この深浦から引上げようかと思つた。完成されてゐる町は、また旅人に、わびしい感じを与へるものだ。私は海浜に降りて、岩に腰をかけ、どうしようかと大いに迷つた。まだ日は高い。東京の草屋の子供の事など、ふと思つた。なるべく思ひ出さないやうにしてゐるのだが、心の空虚の隙《すき》をねらつて、ひよいと子供の面影が胸に飛び込む。私は立ち上つて町の郵便局へ行き、葉書を一枚買つて、東京の留守宅へ短いたよりを認めた。…」
 太宰治は上記に”この寺の薬師堂は、国宝に指定せられてゐるといふ”と書いていますが、現在は、「薬師堂内厨子」が重要文化財となっています。円覚寺は大同二丁亥年(807)、征夷大将軍坂上田村麻呂が蝦夷東征のときに、厩戸皇子作の十一面観世音菩薩を安置し、観音堂を建立したのに始まると伝えられています。その時、田村麻呂が兜の中に納めていたと伝えられている影顕石守仏(えいけんいしまもりほとけ)が、今なお、円覚寺に保存されています。江戸時代には津軽藩の庇護のほかに、北前船等の商人、船乗りの信仰を集めた寺でもありました。京・大阪と蝦夷地とを結ぶ北前航路の寄港地で、「澗口観音」(まぐちかんのん:港の入り口にあって航海安全・商売繁盛を守護する観音様という意味)と船頭・水主たちに崇敬されました。(深浦町観光協会ホームヘージ他より)

写真は円覚寺仁王門です。昔の絵はがきがありましたので、掲載しておきます。深浦の町並み円覚寺仁王門です(戦前とおもわれます)。

「ふかうら文学館(秋田屋旅館)」
<行きあたりばつたりの宿屋>
 太宰治は深浦で一泊しています。なぜ一人で深浦で宿泊したのかはよく分かりません。「津軽」には、翌朝に旅館の主人が兄 英治と中学校の同期生だったことが分かったと書いています。推定ですが、事前に兄に深浦の同級生の話を聞いており、そのため深浦を訪ね、秋田屋旅館に宿泊したのだとおもいます。
 太宰治の「津軽 五 西海岸」からです。
「… たまらない気持がして私は行きあたりばつたりの宿屋へ這入り、汚い部屋に案内され、ゲートルを解きながら、お酒を、と言つた。すぐにお膳とお酒が出た。意外なほど早かつた。私はその早さに、少し救はれた。部屋は汚いが、お膳の上には鯛と鮑の二種類の材料でいろいろに料理されたものが豊富に載せられてある。鯛と鮑がこの港の特産物のやうである。お酒を二本飲んだが、まだ寝るには早い。津軽へやつてきて以来、人のごちそうにばかりなつてゐたが、けふは一つ、自力で、うんとお酒を飲んで見ようかしら、とつまらぬ考へを起し、さつきお膳を持つて来た十二、三歳の娘さんを廊下でつかまへ、お酒はもう無いか、と聞くと、ございません、といふ。……
…「あなたは、津島さんでせう。」と言つた。
「ええ。」私は宿帳に、筆名の太宰を書いて置いたのだ。
「さうでせう。どうも似てゐると思つた。私はあなたの英治兄さんとは中学校の同期生でね、太宰と宿帳にお書きになつたからわかりませんでしたが、どうも、あんまりよく似てゐるので。」…」


写真の建物が”行きあたりばったりの宿屋”、秋田屋旅館です。太宰はこの宿に二回宿泊しています。一回目はこの「津軽」の取材時、昭和16年12月25日です。二回目は昭和20年7月、金木に家族で疎開する途中に訪ねています。

「鰺ヶ沢」
<鰺ヶ沢(あじがさわ)>
 2013年11月15日 鰺ヶ沢を追加
 昭和19年5月26日、太宰治は深浦から鰺ヶ沢経由で五所川原に向います。鰺ヶ沢を訪ねたのは、この地が昔は津軽での水運の中心地であったからではないかとおもいます。「津軽」に中に書こうとおもったのではないでしょうか。

 太宰治の「津軽 五 西海岸」からです。
「…  鰺ヶ沢。私は、深浦からの帰りに、この古い港町に立寄つた。この町あたりが、津軽の西海岸の中心で、江戸時代には、ずいぶん栄えた港らしく、津軽の米の大部分はここから積出され、また大阪廻りの和船の発着所でもあつたやうだし、水産物も豊富で、ここの浜にあがつたさかなは、御城下をはじめ、ひろく津軽平野の各地方に於ける家々の食膳を賑はしたものらしい。……
…飲食店が多いやうである。昔は、ここは所謂銘酒屋のやうなものが、ずいぶん発達したところではあるまいかと思はれる。今でも、そのなごりか、おそばやが四、五軒、軒をつらねて、今の時代には珍らしく「やすんで行きせえ。」などと言つて道を通る人に呼びかけてゐる。ちやうどお昼だつたので、私は、そのおそばやの一軒にはひつて、休ませてもらつた。おそばに、焼ざかなが二皿ついて、四十銭であつた。おそばのおつゆも、まづくなかつた。それにしても、この町は長い。海岸に沿うた一本街で、どこ迄行つても、同じやうな家並が何の変化もなく、だらだらと続いてゐるのである。…」


 私が鰺ヶ沢について知っていることと云えば、つげ義春の漫画「リアリズムの宿」の舞台であった事ぐらいです。映画化もされています。

写真は現在の鰺ヶ沢駅です。駅前にある観光案内所で、太宰治と同じように昼食は”蕎麦”にしようとおもって場所を聞いたのですが、鰺ヶ沢には現在は蕎麦屋は無いそうです。ラーメン屋はあるそうです。町中を少し歩いたのですが、残念ながら、町は寂れています。寂しいかぎりです。

太宰治年表
和 暦 西暦 年  表 年齢 太宰治の足跡
昭和14年
1939 ドイツ軍ポーランド進撃 31 1月8日 杉並の井伏鱒二宅で太宰、石原美智子と結婚式をあげる。甲府の御崎町に転居
9月1日 東京府三鷹村下連雀百十三番地に転居
昭和17年 1942 ミッドウェー海戦 34 12月 今官一が三鷹町上連雀山中南97番地に転居
昭和19年 1944 マリアナ海戦敗北
東条内閣総辞職
レイテ沖海戦
神風特攻隊出撃
36 1月10日 上野駅でスマトラに向かう戸石泰一と面会
5月12日 「津軽」の取材に青森に向かう
11月 「津軽」発刊
昭和20年 1945 ソ連参戦
ポツダム宣言受諾
37 4月 三鷹から妻美智子の実家、甲府市水門町に疎開
7月28日 津軽に疎開(青森空襲)
昭和21年 1946 日本国憲法公布 38 11月13日 東京に帰京する太宰一家が仙台に立ち寄る
12月 中鉢家の二階を借りる
昭和22年 1947 織田作之助死去
中華人民共和国成立
39 1月 小山清が三鷹を去る
2月 下曽我に太田静子を訪ねる、三津浜で「斜陽」を執筆
3月 山崎富枝、屋台で太宰治と出会う
4月 田辺精肉店の離れを借りる
5月 西山家を借りる
8月 千草の二階で執筆



太宰治の津軽地図



太宰治の木造地図



太宰治の深浦地図