●太宰治の津軽を歩く -3- 【今別・三厩・竜飛編】
    初版2010年7月24日 <V01L01> 暫定版

 今回は「太宰治の津軽を歩く」の第三回です。前回は昭和19年5月14日(日曜日)まで掲載しました。太宰治はその後、暫く、Nくん宅に滞在し、原稿を書いています。次に発ったのが17日になります。N君と今別から三厩を経由して竜飛に向かいます。……やっぱりお酒が!!


「Mさん宅跡」
<Mさん宅>
 太宰は昭和19年5月14日(日曜日)に、蟹田でT君(外崎勇三)、Hさん(樋口定夫)、Sさん(下山清次)、今別のMさん(松尾清照)、N君(中村貞次郎)と宴会をしています。その後の2〜3日はN君宅で原稿を書いており、竜飛に向けて出たのは17日頃になるようです。まだ津軽線は開通しておらず、海路かバスでの旅になります。
 太宰治の「津軽 3.外ヶ浜」からです。
「…、私たちのバスはお昼頃、Mさんのゐる今別に着いた。今別は前にも言つたやうに、明るく、近代的とさへ言ひたいくらゐの港町である。人口も、四千に近いやうである。…
…私たちはMさんの書斎に通された。小さい囲炉裏があつて、炭火がパチパチ言つておこつてゐた。書棚には本がぎつしりつまつてゐて、ヴアレリイ全集や鏡花全集も揃へられてあつた。「礼儀文華のいまだ開けざるはもつともの事なり。」と自信ありげに断案を下した南谿氏も、ここに到つて或いは失神するかも知れない。
「お酒は、あります。」上品なMさんは、かへつてご自分のはうで顔を赤くしてさう言つた。「飲みませう。」
「いやいや、ここで飲んでは、」と言ひかけて、N君は、うふふと笑つてごまかした。
「それは大丈夫。」とMさんは敏感に察して、「竜飛へお持ちになる酒は、また別に取つて置いてありますから。」…」


 国鉄津軽線が青森から蟹田まで開通したのが昭和26年(1951)12月、終点の三厩まで開通したのが昭和33年(1958)10月ですから、全線開通までかなり時が掛かっています。津軽海峡線が開通したのは昭和66年(1988)です。太宰が津軽を訪ねた昭和19年当時は、青森合同乗合自動車株式会社が青森〜蟹田〜三厩間で乗合自動車を運行していました。昭和26年の津軽線開通による経営悪化で、昭和28年に青森市営バスに買収されています。当時のバス停は駅前の道を少し歩いた右側になります。残念ながら青森からのバス路線が無く、太宰と同じ道を辿ることは出来ませんでした。

写真は今別のMさん宅跡です。現在、今別にはMさんのご親族の方がお住まいで、「マツオ調剤薬局」を経営されています。当時は写真のお住まいで、借りられていたようです。現存していたのでびっくりしました。この建物も外ヶ浜太宰会の皆様に教えて頂きました。ありがとうございました。JR津軽線、今別駅も撮影しておきましたので掲載しておきます。

「本覚寺」
<本覚寺>
 太宰の「津軽」に登場する「本覚寺」です。おもしろおかしく書いていますので、楽しく読むことができました。この辺は太宰ならではの書き方だとおもいます。
「 …今別には本覚寺といふ有名なお寺がある。貞伝和尚といふ偉い坊主が、ここの住職だつたので知られてゐるのである。貞伝和尚の事は、竹内運平氏著の青森県通史にも記載せられてある。すなはち、「貞伝和尚は、今別の新山甚左衛門の子で、早く弘前誓願寺に弟子入して、のち磐城平、専称寺に修業する事十五年、二十九歳の時より津軽今別、本覚寺の住職となつて、享保十六年四十二歳に到る間、其教化する処、津軽地方のみならず近隣の国々にも及び、享保十二年、金銅塔婆建立の供養の時の如きは、領内は勿論、南部、秋田、松前地方の善男善女の雲集参詣を見た。」といふやうな事が記されてある。そのお寺を、これから一つ見に行かうぢやないか、と外ヶ浜の案内者N町会議員は言ひ出した。…
…「それぢや、その本覚寺に立寄つて、それからまつすぐに三厩まで歩いて行つてしまはう。」私は玄関の式台に腰かけてゲートルを巻き附けながら、「どうです、あなたも。」と、Mさんを誘つた。
「はあ、三厩までお供させていただきます。」
「そいつあ有難い。この勢ひぢや、町会議員は今夜あたり、三厩の宿で蟹田町政に就いて長講一席やらかすんぢやないかと思つて、実は、憂鬱だつたんです。あなたが附合つてくれると、心強い。奥さん、御主人を今夜、お借りします。」
「はあ。」とだけ言つて、微笑する。少しは慣れた様子であつた。いや、あきらめたのかも知れない。
 私たちはお酒をそれぞれの水筒につめてもらつて、大陽気で出発した。さうして途中も、N君は、テイデン和尚、テイデン和尚、と言ひ、頗るうるさかつたのである。お寺の屋根が見えて来た頃、私たちは、魚売の小母さんに出逢つた。曳いてゐるリヤカーには、さまざまのさかなが一ぱい積まれてゐる。私は二尺くらゐの鯛を見つけて、
「その鯛は、いくらです。」まるつきり見当が、つかなかつた。
「一円七十銭です。」安いものだと思つた。…」


 この辺りの距離を掲載しておきます。蟹田←25Km→今別←6Km→三厩(みんまや)村上旅館←11Km→竜飛となります。蟹田〜今別間はバスでの移動、三厩から竜飛は徒歩で三時間の距離です。

写真は今別の本覚寺です。280号線から少し山側に入ったところにあります。大きなお寺ではないので、太宰が「津軽」で書いた”うんちく”を読みながら訪ねるとよいでしょう。

「丸山旅館跡」
<三厩の宿>
 太宰とN君は蟹田からバスで今別まで向かい、今別のMさん宅でMさんを誘って三厩の宿まで歩きます。上記にも書きましたが、今別のMさん宅から三厩(みんまや)村上旅館まで6Km、一時間半の距離となります。
「…三厩の宿に着いた時には、もう日が暮れかけてゐた。表二階の小綺麗な部屋に案内された。外ヶ浜の宿屋は、みな、町に不似合なくらゐ上等である。部屋から、すぐ海が見える。小雨が降りはじめて、海は白く凪いでゐる。
「わるくないね。鯛もあるし、海の雨を眺めながら、ゆつくり飲まう。」私はリユツクサツクから鯛の包みを出して、女中さんに渡し、「これは鯛ですけどね、これをこのまま塩焼きにして持つて来て下さい。」
 この女中さんは、あまり悧巧でないやうな顔をしてゐて、ただ、はあ、とだけ言つて、ぼんやりその包を受取つて部屋から出て行つた。
「わかりましたか。」N君も、私と同様すこし女中さんに不安を感じたのであらう。呼びとめて念を押した。「そのまま塩焼きにするんですよ。三人だからと言つて、三つに切らなくてもいいのですよ。ことさらに、三等分の必要はないんですよ。わかりましたか。」N君の説明も、あまり上手とは言へなかつた。女中さんは、やつぱり、はあ、と頼りないやうな返辞をしただけであつた。
 やがてお膳が出た。鯛はいま塩焼にしてゐます、お酒はけふは無いさうです、とにこりともせずに、れいの、悧巧さうでない女中さんが言ふ。
「仕方が無い。持参の酒を飲まう。」「さういふ事になるね。」とN君は気早く、水筒を引寄せ、「すみませんがお銚子を二本と盃を三つばかり。」
 ことさらに三つとは限らないか、などと冗談を言つてゐるうちに、鯛が出た。ことさらに三つに切らなくてもいいといふN君の注意が、実に馬鹿々々しい結果になつてゐたのである。頭も尾も骨もなく、ただ鯛の切身の塩焼きが五片ばかり、何の風情も無く白茶けて皿に載つてゐるのである。私は決して、たべものにこだはつてゐるのではない。食ひたくて、二尺の鯛を買つたのではない。読者は、わかつてくれるだらうと思ふ。私はそれを一尾の原形のままで焼いてもらつて、さうしてそれを大皿に載せて眺めたかつたのである。…」

 ここでは、「津軽」では有名な”鯛”事件となります。東京的に普通に考えれば”鯛を焼いて”と頼むと、一匹まるまる焼いてくるのが普通ですが、津軽では”鯛一匹”など珍しくなくて、食べやすいように態々切り身に分けて焼いたのだとおもいます。

写真の正面には太宰の「三厩の宿」、村上旅館がありました。残念ながら更地になっていました。青森県立図書館で調べた住宅地図で確認していますので間違いないとおもいます。ここで面白いのは、写真の右に交通標識(国道の番号が書かれている)があるのですが、国道280号線と国道339号線の標識が上下にあります。国道280号線と国道339号線の境になるわけです。

 国道280号は、青森県青森市から北海道函館市までの一般国道である。青森県東津軽郡外ヶ浜町で一旦途絶えているが、海上区間によって北海道へ至り、北海道内は国道228号と重複して函館市に通じている。青森県東津軽郡外ヶ浜町(旧三厩村)〜北海道松前郡福島町間38kmの三福航路には、1965年より東日本フェリーがフェリーを運航し、青函トンネルの建設資材運搬にも当たっていたが、1998年以降休止しており、就航再開の目処が立っていない。
 国道339号は、青森県弘前市から東津軽郡外ヶ浜町に至る一般国道である。東津軽郡外ヶ浜町龍飛の龍飛岬附近に「階段国道」と呼ばれる区間があることで有名。(ウイキペディア参照)

 JR津軽線の終点三厩駅も撮影しましたので、掲載しておきます。

「義経寺」
<義経寺>
 昭和19年5月18日、太宰とN君は三厩(みんまや)の村上旅館で一泊後、竜飛岬に向かいます。
「… お昼頃、雨がはれた。私たちは、おそい朝飯をたべ、出発の身仕度をした。うすら寒い曇天である。宿の前で、Mさんとわかれ、N君と私は北に向つて発足した。
「登つて見ようか。」N君は、義経寺の石の鳥居の前で立ちどまつた。松前の何某といふ鳥居の寄進者の名が、その鳥居の柱に刻み込まれてゐた。
「うん。」私たちはその石の鳥居をくぐつて、石の段々を登つた。頂上まで、かなりあつた。石段の両側の樹々の梢から雨のしづくが落ちて来る。
「これか。」
 石段を登り切つた小山の頂上には、古ぼけた堂屋が立つてゐる。堂の扉には、笹竜胆(ささりんだう)の源家の紋が附いてゐる。私はなぜだか、ひどくにがにがしい気持で、
「これか。」と、また言つた。
「これだ。」N君は間抜けた声で答へた。
 むかし源義経、高館をのがれ蝦夷へ渡らんと此所迄来り給ひしに、渡るべき順風なかりしかば数日逗留し、あまりにたへかねて、所持の観音の像を海底の岩の上に置て順風を祈りしに、忽ち風かはり恙なく松前の地に渡り給ひぬ。其像今に此所の寺にありて義経の風祈りの観音といふ。
 れいの「東遊記」で紹介せられてゐるのは、この寺である。
 私たちは無言で石段を降りた。
「ほら、この石段のところどころに、くぼみがあるだらう? 弁慶の足あとだとか、義経の馬の足あとだとか、何だとかいふ話だ。」N君はさう言つて、力無く笑つた。私は信じたいと思つたが、駄目であつた。鳥居を出たところに岩がある。東遊記にまた曰く、
「波打際に大なる岩ありて馬屋のごとく、穴三つ並べり。是義経の馬を立給ひし所となり。是によりて此地を三馬屋と称するなりとぞ。」
 私たちはその巨石の前を、ことさらに急いで通り過ぎた。故郷のこのやうな伝説は、奇妙に恥づかしいものである。…」

 全国各地に残っている義経伝説の一つだとおもいます。義経終焉の地と言われている平泉の衣川館(高館)を逃れて蝦夷へ向かう途中に寄ったところになっています。その先はモンゴルのチンギスカン(成吉思汗)!!

写真は三厩(みんまや)の義経寺です。丘の上にあります。”石の鳥居”と”石段のくぼみ”はよく分かりませんでした(鳥居は木に、石段はコンクリートになっていた)。”堂の扉には、笹竜胆(ささりんだう)の源家の紋”については見つけることができました。現在のお堂の左側の扉に笹竜胆(ささりんだう)の紋があります。

「奥谷旅館」
<奥谷旅館>
 三厩(みんまや)の村上旅館から竜飛までへ向かいます。距離で11km、三時間の距離です。昔の人はよく歩きますね!
「…「竜飛だ。」とN君が、変つた調子で言つた。…露路をとほつて私たちは旅館に着いた。お婆さんが出て来て、私たちを部屋に案内した。この旅館の部屋もまた、おや、と眼をみはるほど小綺麗で、さうして普請も決して薄つぺらでない。まづ、どてらに着換へて、私たちは小さい囲炉裏を挟んであぐらをかいて坐り、やつと、どうやら、人心地を取かへした。
「ええと、お酒はありますか。」N君は、思慮分別ありげな落ちついた口調で婆さんに尋ねた。答へは、案外であつた。
「へえ、ございます。」おもながの、上品な婆さんである。さう答へて、平然としてゐる。N君は苦笑して、
「いや、おばあさん。僕たちは少し多く飲みたいんだ。」
「どうぞ、ナンボでも。」と言つて微笑んでゐる。……」

 竜飛岬までの道は現在は広くなっていますが、当時はパスが一台やっと通れる道だったとおもいます。大変な道を歩いてきていますが、やっぱり、最後はお酒でした!

写真の建物が奥谷旅館(現龍飛岬観光案内所)です。2001年に撮影した奥谷旅館の写真がありますので掲載しておきます。一時、休館していた頃の写真だとおもいます。竜飛には太宰治記念碑もあるのですが、訪ねる度に場所が変わっていました。昔は竜飛岬の突端にあったのですが、現在は奥谷旅館(現龍飛岬観光案内所)の斜め前にあります。現在の太宰治記念碑2001年の太宰治記念碑の写真を掲載しておきます。

つづきます。


太宰治年表
和 暦 西暦 年  表 年齢 太宰治の足跡
昭和14年
1939 ドイツ軍ポーランド進撃 31 1月8日 杉並の井伏鱒二宅で太宰、石原美智子と結婚式をあげる。甲府の御崎町に転居
9月1日 東京府三鷹村下連雀百十三番地に転居
昭和17年 1942 ミッドウェー海戦 34 12月 今官一が三鷹町上連雀山中南97番地に転居
昭和19年 1944 マリアナ海戦敗北
東条内閣総辞職
レイテ沖海戦
神風特攻隊出撃
36 1月10日 上野駅でスマトラに向かう戸石泰一と面会
5月12日 「津軽」の取材に青森に向かう
11月 「津軽」発刊
昭和20年 1945 ソ連参戦
ポツダム宣言受諾
37 4月 三鷹から妻美智子の実家、甲府市水門町に疎開
7月28日 津軽に疎開(青森空襲)
昭和21年 1946 日本国憲法公布 38 11月13日 東京に帰京する太宰一家が仙台に立ち寄る
12月 中鉢家の二階を借りる
昭和22年 1947 織田作之助死去
中華人民共和国成立
39 1月 小山清が三鷹を去る
2月 下曽我に太田静子を訪ねる、三津浜で「斜陽」を執筆
3月 山崎富枝、屋台で太宰治と出会う
4月 田辺精肉店の離れを借りる
5月 西山家を借りる
8月 千草の二階で執筆



太宰治の津軽地図



太宰治の今別・三厩地図