●太宰治の津軽を歩く -1- 【青森編】
    初版2010年6月5日 <V01L01> 暫定版

 今週から「太宰治の津軽を歩く」の改版を始めます。また東京から離れてしまいますがご容赦ください。まず最初は「津軽」の始まりである青森から歩き始めます。今回は外ヶ浜太宰会の皆様をはじめ、多くの方々のご協力を得ました。ありがとうございました。かなり詳細に回りましたので、掲載回数が増えそうです。


「津軽」
<太宰治「津軽」>
 太宰治の「津軽」については、書かれた本も多く、また、ホームページも数限りなくあります。Googleで検索すると、8万件以上ヒットします。あえて掲載するかなともおもったのですが、究極の「太宰治の津軽を歩く」を掲載することにしました。しかしながら今回の取材でもまだまだ不足のところが多く、時間が掛かりそうです。
 まずは太宰治の「津軽」の書き出しからです。
「 津軽の雪
 こな雪 つぶ雪 わた雪 みづ雪 かた雪 ざらめ雪 こほり雪
 (東奥年鑑より)

序編

 或るとしの春、私は、生れてはじめて本州北端、津軽半島を凡そ三週間ほどかかつて一周したのであるが、それは、私の三十幾年の生涯に於いて、かなり重要な事件の一つであつた。私は津軽に生れ、さうして二十年間、津軽に於いて育ちながら、金木、五所川原、青森、弘前、浅虫、大鰐、それだけの町を見ただけで、その他の町村に就いては少しも知るところが無かつたのである。…」


 【津軽の雪の種類について】
  こな雪 :さらさに乾いた湿気のない雪
  つぶ雪 :粒状の雪
  わた雪 :綿のような雪
  みづ雪 :水分の多い雪
  かた雪 :積雪が氷結して固くなつたもの
  ざらめ雪 :雪が結晶を繰返して粒子が見えるようになつたもの
  こほり雪 :氷結して硬くなり氷に近い状態

 この「津軽」は小山書店の新風土記叢書として発刊されています。昭和19年11月の発刊です。新風土記叢書は第一編が宇野浩二の「大阪」で、「熊野路」、「佐渡」、「出雲・石見」、「日向」と発刊され、第七編として「津軽」が発刊されますす。数が合いませんね。「津軽」の前は五編しがありません。無くなったのは戦後発刊された稲垣足穂の「明石」です。昭和19年11月の東京空襲で、神田錦町にあった日本出版配給統制会社の倉庫が焼け、印刷されていた「明石」が焼けてしまい、発刊することができなくなったからです。同じ発刊月だった「津軽」は既に発送済みで助かっています。

写真は新潮文庫の「津軽」です。斜陽館の前にあるお土産屋さん「北川本店」で購入したものです。何か記念にとおもって購入しました。もっとも、この本は何処で買っても同じなのですが、裏に「北川本店」のラベルが貼ってあったので、買った場所が分かるとおもって購入しました。初版は昭和26年11月です(私が買った本は95版でした)。昭和24年に八雲書店で太宰治全集が発刊されていますので、戦後はこの全集に掲載されたのが初めてではないかとおもいます。

「津軽」
<「津軽」>
 次に紹介する「津軽」は「名作 旅訳 文庫」の「津軽」です。中身は太宰治の「津軽」そのものなのですが、中に解説が書かれており、旅行するときに読む本としては面白い本です。私もこの本を持って今回の津軽旅行をしました。ただ、解説と言っても、一般的なもので、オタク的な所までは書かれていません。
「名作 旅訳 文庫」の「津軽」の書き出しです。
「…『津軽』は昭和19年5月12日から6月4日までの旅

 作家・太宰治が『津軽』を書く目的で東京・上野駅を出発したのは1944(昭和19)年5月12日金曜日、午後5時半。夜行列車で青森へ向かった。翌13日の午前8時に青森に到着し、6月4日まで津軽を旅して回った。小山書店から新風土記叢書第7編として、小説の執筆を依頼されたのである。当時、太宰は30代半ば、山梨県立都留高等女学校で教師をしていた石原美知子と見合い結婚し、1941(昭和16)年には長女・園子も誕生して、戦争が激化する中でも東京・三鷹で平穏な生活を送っていた。
 しかし中央大学文学部教授の渡部芳紀氏は 「三十五年の生涯を振り返り一体自分の存在は何であったのかに思いを馳せたのであろう。この旅は、津軽発見の旅であると共に、自己を発見し、自己という存在を確認する旅でもあった」と述べる (別冊太陽「太宰治」所収)。太宰は津軽の旅から4年後、玉川上水へ入水自殺する。
 現在では、上野から青森への夜行列車は奥羽線周りの寝台特急「あけぼの」1本のみ。上野発・午後9時15分、青森着・午前9時56分。最も安いヨロンシート」 で1万4000円ほどである。…」

 旅行目的の本なので、丁重に旅行案内が書かれていますが、残念なことに地図がありません。地図が無いと距離感や、その場所のイメージがわきませんね。もの書きに地図を書かせると、さっぱり分からない地図になります。地図を書く人と分けないとだめです。その上で、現地を訪ねて足で稼いで地図を書かないとよく分かる地図になりません。

写真はJTBパブリッシングの「名作 旅訳 文庫 『津軽』」です。JTBらしい本です。旅行中に読む本としては最高です。

「『津軽』の旅」
<「太宰治と歩く『津軽』の旅」>
 最後にもう一冊紹介します。飯塚恒雄さんの「みんなみんなやさしかったよ 太宰治と歩く津軽の旅」です。よく調べられている本だなとおもいました。実際に津軽を歩いて書いておられるので、現地に立つと本の内容がよく分かります。
 飯塚恒雄さんの「みんなみんなやさしかったよ 太宰治と歩く津軽の旅」からです。
「 太宰治が津軽へ旅立った列車は急行でも上野、青森間を十四時間三十分もかかって走った。遥かなる北端の地だった津軽も、今では五時間で玄関口の青森に着く。
 『津軽』 によると、太宰は上野発午後五時三十分の急行に乗り、午前八時に青森駅に着いた。…」

 JTBパブリッシングと同じ書き出しだなとおもったのですが、此方の本の方が古いので、飯塚恒雄さんが先だとおもいます。こちらも地図が無くて、残念でした。

写真は飯塚恒雄さんの「みんなみんなやさしかったよ 太宰治と歩く津軽の旅」(愛育社)です。飯塚恒雄さんは「村上春樹の聴き方」等の村上春樹本を何冊か書かれている方とおもいます。

「青森駅」
<青森駅>
 そろそろ、「太宰治の津軽を歩く」を始めたいとおもいます。最初は青森駅です。
「…ああ早く青森に着いて、どこかの宿で炉辺に大あぐらをかき、熱燗のお酒を飲みたい、と頗る現実的な事を一心に念ずる下品な有様となつた。青森には、朝の八時に着いた。T君が駅に迎へに来てゐた。私が前もつて手紙で知らせて置いたのである。
「和服でおいでになると思つてゐました。」
「そんな時代ぢやありません。」私は努めて冗談めかしてさう言つた。
 T君は、女のお子さんを連れて来てゐた。ああ、このお子さんにお土産を持つて来ればよかつたと、その時すぐに思つた。…」

 青森駅は明治24年(1891) 日本鉄道の駅として開業、同時に盛岡−青森間が開通します。明治39年(1906) 駅舎改築により、玄関が新町通り側に移動します。明治41年(1908)青函連絡船が運航開始しています。昭和20年7月の青森空襲では奇跡的に被災を免れます。昭和34年(1959)現在の東口駅舎が竣工しています。

写真は現在の青森駅です(5年ほど前の写真)。当時の駅舎は一筋北寄りにあったようです。当時の青森駅舎の写真を掲載しておきます。太宰が「津軽」の取材のため訪ねた翌年には疎開のため再度青森に戻ってきます。太宰一家は、昭和20年7月28日に金木に疎開するため甲府から東京上野に,向かいますが、28日夜の上野駅では混雑で青森行きに乗れず、29日の朝にやっと東北本線の列車に乗ることができます(「たずねびと」参照)。青森空襲が7月27日夜で大混乱の後だったので、大変だったとおもいます。

「時刻表」
<時刻表>
 上記に解説した本に当時の時刻表のお話が書かれていましたので、少し調べて見ました。「時刻表復刻版 <戦前・戦中編>」で、昭和19年11月発行の時刻表を見ると、太宰治が乗車した列車が掲載されていました。
「…十七時三十分上野発の急行列車に乗つたのだが、夜のふけると共に、ひどく寒くなつて来た。私は、そのジヤンパーみたいなものの下に、薄いシヤツを二枚着てゐるだけなのである。ズボンの下には、パンツだけだ。冬の外套を着て、膝掛けなどを用意して来てゐる人さへ、寒い、今夜はまたどうしたのかへんに寒い、と騒いでゐる。私にも、この寒さは意外であつた。東京ではその頃すでに、セルの単衣を着て歩いてゐる気早やな人もあつたのである。私は、東北の寒さを失念してゐた。私は手足を出来るだけ小さくちぢめて、それこそ全く亀縮の形で、ここだ、心頭滅却の修行はここだ、と自分に言ひ聞かせてみたけれども、暁に及んでいよいよ寒く、心頭滅却の修行もいまはあきらめて、ああ早く青森に着いて、どこかの宿で炉辺に大あぐらをかき、熱燗のお酒を飲みたい、と頗る現実的な事を一心に念ずる下品な有様となつた。青森には、朝の八時に着いた。…」
 太宰治が青森に向かった日は、昭和19年5月12日(金)なので、上記の時刻表は少し後になります。上野駅17時30分発、列車番号203、常磐線経由の急行青森行きです。上野から青森は距離的には東北本線経由よりは常磐線経由の方が距離が短くなりますので、戦後も青森行きは常磐線経由が多かったと記憶しています。

写真は「時刻表復刻版 <戦前・戦中編>」の「時刻表 第20巻11号(5号)1月25日改正」の東北本線下りのページです。この当時の時刻表は毎月発行されず、二ヶ月に一回程度の発行だったとおもいます。この列車の時刻表を詳細に見ると、”当分運転休止”と書かれており、太宰治が乗った後、運転休止になったものとおもいます。

「外崎勇三宅跡」
<外崎勇三宅>
 太宰は蟹田に向かうバスの時刻まで青森市寺町の外崎勇三宅で休息を取ります。上記に書かれているT君とは、外崎勇三氏のことで、当時は東青病院の検査技師でした。元々津島家の使用人だったので太宰治はよく知っていたわけです。当時の津島家での使用人はほとんどが借金のカタに働いています。戦前の東青病院の場所の写真を掲載しておきます(青森市役所の前の通り、国道四号線の橋本二丁目交差点の手前、青森駅側の北側、三井生命青森ビルの所です)。

「… 「とにかく、私の家へちよつとお寄りになつてお休みになつたら?」
「ありがたう。けふおひる頃までに、蟹田のN君のところへ行かうと思つてゐるんだけど。」
「存じて居ります。Nさんから聞きました。Nさんも、お待ちになつてゐるやうです。とにかく、蟹田行のバスが出るまで、私の家で一休みしたらいかがです。」
 炉辺に大あぐらをかき熱燗のお酒を、といふ私のけしからぬ俗な念願は、奇蹟的に実現せられた。T君の家では囲炉裏にかんかん炭火がおこつて、さうして鉄瓶には一本お銚子がいれられてゐた。
「このたびは御苦労さまでした。」とT君は、あらたまつて私にお辞儀をして、「ビールのはうが、いいんでしたかしら。」
「いや、お酒が。」私は低く咳ばらひした。…」

 当時の青森市から蟹田に向かうバスを調べたのですが、よく分からず、調査不足です。バスの時間が分かれば、外崎勇三宅に滞在した時間も分かるのですが、残念です。

写真は太宰が青森中学校時代に下宿していた豊田家の向側を撮影しています。”外崎勇三宅は豊田家の向側にあった”というところまで分かっていますが、詳細の場所は不明です(現在の本町二丁目4〜5付近)。

次回は蟹田を歩きます。


太宰治年表
和 暦 西暦 年  表 年齢 太宰治の足跡
昭和14年
1939 ドイツ軍ポーランド進撃 31 1月8日 杉並の井伏鱒二宅で太宰、石原美智子と結婚式をあげる。甲府の御崎町に転居
9月1日 東京府三鷹村下連雀百十三番地に転居
昭和17年 1942 ミッドウェー海戦 34 12月 今官一が三鷹町上連雀山中南97番地に転居
昭和19年 1944 マリアナ海戦敗北
東条内閣総辞職
レイテ沖海戦
神風特攻隊出撃
36 1月10日 上野駅でスマトラに向かう戸石泰一と面会
5月12日 「津軽」の取材に青森に向かう
11月 「津軽」発刊
昭和20年 1945 ソ連参戦
ポツダム宣言受諾
37 4月 三鷹から妻美智子の実家、甲府市水門町に疎開
7月28日 津軽に疎開(青森空襲)
昭和21年 1946 日本国憲法公布 38 11月13日 東京に帰京する太宰一家が仙台に立ち寄る
12月 中鉢家の二階を借りる
昭和22年 1947 織田作之助死去
中華人民共和国成立
39 1月 小山清が三鷹を去る
2月 下曽我に太田静子を訪ねる、三津浜で「斜陽」を執筆
3月 山崎富枝、屋台で太宰治と出会う
4月 田辺精肉店の離れを借りる
5月 西山家を借りる
8月 千草の二階で執筆



太宰治の青森地図