●太宰治の「狂言の神」を歩く
    初版2011年3月26日 <V01L01> 暫定版

 「太宰治を巡って」の更新を続けます。今回は「太宰治の「狂言の神」を歩く」です。太宰治は昭和10年3月、都新聞の就職試験を受けますが落ちます。余りの落胆に鎌倉で縊死を企てています。その当時のことを後に「狂言の神」として書いています。今回はこの「狂言の神」に従って江ノ島から鎌倉を歩いてみました。


「江ノ島」
<江ノ島>
 太宰治の「狂言の神」は場所的には銀座の歌舞伎座から始まり、浅草のひさごやで呑み、横浜本牧で泊ります。翌日、藤沢に向かい、江ノ電で江ノ島に向かっています。今回は「狂言の神」の中で、江ノ島から鎌倉を歩いてみます。
 太宰治の「狂言の神」からです。
「… 読者、不要の穿鑿(せんさく)をせず、またの日の物語に期待して居られるがよい)私は、煮えくりかえる追憶からさめて、江の島へ下車した。
 風の勁(つよ)い日で、百人ほどの兵士が江の島へ通ずる橋のたもとに、むらがって坐り、ひとしく弁当をたべていた。こんなにたくさんの人のまえで海へ身を躍らせたならば、ただいたずらに泳ぎ自慢の二三の兵士に名をあげさせるくらいの結果を得るだけのことであろう。私は、荒れている灰色の海をちらと見ただけで、あきらめた。橋のたもとの望富閣という葦簾(よしず)を張りめぐらせる食堂にはいり、ビイルを一本そう言った。ちろちろと舌でなめるが如く、はりあいのない呑みかたをしながら、乱風の奥、黄塵に烟る江の島を、まさにうらめしげに、眺めていたようである。…」

 江ノ電は明治43年には藤沢から小町(当初の駅は鎌倉駅東側の若宮大路にあり、昭和24年に鎌倉駅西側に移転)まで開通しています。田辺あつみ(本名:田部シメ子)と小動崎で心中未遂(田部シメ子は死亡)をおこしたのは 昭和5年11月28日夜半なので、5年前になります。「狂言の神」の初出は「東陽」、昭和11年(1936)年10月ですから、鎌倉で縊死を企ててから一年半後には書いてしまっています。太宰らしいと言えばらしいですね。

写真は現在の”湘南すばな通り商店街”です。江ノ電江ノ島駅(昔は片瀬駅)から江ノ島に向かう路です。江戸時代から江ノ島神社詣での通り道として賑わい、現在も商店街となっています。昭和初期の江ノ島から見た絵はがきを掲載しておきます。上記に書かれている”橋のたもとの望富閣”は調査不足でよくわかりませんでしたが、昔の絵はがきを見た感じとしては弁天橋の東側付近、上記写真の少し先の左側付近にあったのではないかとおもっています。



太宰治、戦前の江ノ島地図



「長谷駅前の飲食店」
<長谷駅前の飲食店>
 太宰治は江ノ島から江ノ電に乗って鎌倉に向かいますが、食事をするため途中の長谷で下車します。江ノ島でビールを呑んだはずなのですが、とうしたのでしょうか。
 太宰治の「狂言の神」からです。
「…がったん、電車は、ひとつ大きくゆれて見知らぬ部落の林へはいった。微笑ましきことには、私はその日、健康でさえあったのだ。かすかに空腹を感じたのである。どこでもいい、にぎやかなところへ下車させて下さい、と車掌さんにたのんで、ほどなく、それではここで御降りなさいと教えられ、あたふたと降りたところは長谷であった。雨が頬を濡らして呉れておお清浄になったと思えて、うれしかった。成熟した女学生がふたり、傘がなくて停車場から出られず困惑の様子で、それでもくつくつ笑いながら、一坪ほどの待合室の片隅できっちり品よく抱き合っていた。もし傘が一本、そのときの私にあったならば、私は死なずにすんだのかも知れない。溺れる者のわら一すじ。深く、けわしく、よろめいた。誓う。あなたのためには身を粉にして努める。生きてゆくから、叱らないで下さい。けれどもそれだけのことであった。語らざれば、うれい無きに似たりとか。その二人の女のうち笹眉をひそめて笑う小柄のひとに、千万の思いをこめて見つめる私の瞳の色が、了解できずに終ったようだ。ひらっと、できるだけ軽快に身をひるがえして雨の中へおどり出た。つばめのようにはいかなかった。あやうく滑ってころぶところであった。ふりかえりたいな。よせ! すぐ真向いの飲食店へさっさとはいった。薄暗い食堂の壁には、すてきに大きい床屋鏡がはめこまれていて、私の顔は黒眼がち、人なつかしげに、にこにこしていた。意外にも福福しい顔であったのだ。一刻も早く酔いしれたく思って、牛鍋を食い散らしながら、ビイルとお酒とをかわるがわるに呑みまぜた。…」
 ”空腹を感じた”のではなく、トイレへ行きたかったではないでしょうか!!

写真は江ノ電長谷駅の西側踏切です。駅前の飲食店は写真の長兵衛というトンカツ屋のみでした。

「深田久弥宅跡」
<深田久弥宅>
 太宰は長谷から鎌倉の深田久弥宅に向かいます。深田久弥宅については「堀辰雄の鎌倉・逗子を歩く」も参照して下さい。
 太宰治の「狂言の神」からです。
「…かねて思いはかっていたよりも十倍くらいきちんとしたお宅だったので、これは、これは、とひとりごとを言いながら、内心うれしく、微笑とめてもとまらなかった。石の段段をのぼり、字義どおりに門をたたいて、出て来た女中に大声で私の名前を知らせてやった。うれしや、主人は、ご在宅である。……
…私は、ふと象戯(しょうぎ)をしたく思って、どうでしょうと誘ったら、深田久弥も、にこにこ笑いだして、気がるく応じた。日本で一ばん気品が高くて、ゆとりある合戦をしようと思った。はじめは私が勝って、つぎには私が短気を起したものだから、負けた。私のほうが、すこし強いように思われた。深田久弥は、日本に於いては、全くはじめての、「精神の女性」を創った一等の作家である。この人と、それから井伏鱒二氏を、もっと大事にしなければ。
 ―― 対一ということにして。
 私は象戯の駒を箱へしまいながら、
 ―― 他日、勝負をつけましょう。
 これが深田氏の、太宰についてのたった一つの残念な思い出話になるのだ。…」

 省いたのですが、上記の文章の前に”三曲りして、四曲りした角に、なんなく深田久弥のつつましき門札”と書いていますので、何処からかなとおもって探してみました。若宮大路から数えると四曲りとなります。下記の地図を参照して下さい。
 その当時、深田久弥氏の奥様であった北畠八穂さんが「透きとおった人々」の中にこの時の太宰治との出会いについて書かれています(お二人はその後離婚しています)。
「… わりに暖かい早春の午後、鎌倉・歌の橋の宅の玄関に、帝大の制服で長身の青年が立ちました。
 手の中に角帽を揉みながら、ていねいに、
「太宰でございます。」
 悪たれの俊才と聞く新進作家が、こうていねいな青年とは内心意外で取り次ぎ、離れの座敷に案内しました。しばらくして果物を持って行くと、将棋をさしていた太宰さんは駒を手の中で振って、その手をちょいと鼻へ持ってゆき、「おわかりになりませんか。」
 つい、そうしてしまった恥らいが面長な顔にみなぎりました。…
… 歩いて三、四十分の行った先で、祝膳についていると、友人の婚約者のお嬢さんが、
「お宅からお迎えに見えまして、どうぞおあがり下さいますように申し上げましたが。」
 出て見ると太宰さんが立っていて、夕食を食べて帰りたいからとのこと。祝膳を半ばにする詫びをして、太宰さんと連れ立ち、切り通しを抜けて近道し、八幡官境内も斜に横切って、梅の古木の終わり花を見ました。
 帰宅してトリ鍋に酒も少々出して夕食をすませ、お泊まりなさいと勧めたのに、太宰さんは見覚えの、濃いみごとな睫をしばしばと、「熱海へゆくことになっていますから。」
 たって夜八時ごろ帰ってゆくとき、妙に何度も振り返りました。
太宰さんは、この足で、うちの灯が眼下に見える山へ登り、縊れて死のうとして果たさなかったと、後で小説に書きました。…」

 よく記憶されているのでびっくりしました。少し作ったところがあるかもしれませんが、お話は面白いです。

写真の右側小径から左に二軒分が深田久弥宅跡です。深田久弥宅入口の階段は電柱のところになります。

「日蓮上人辻説法跡の塚」
<日蓮上人、辻説法跡の塚>
 鎌倉にはこのような塚はたくさんあるのですが、太宰が何故”日蓮上人辻説法跡”を書いたのかわかりません。鎌倉らしいところを示すために書いたのかなともおもいました。
 太宰治の「狂言の神」からです
「…黄昏の巷、風を切って歩いた。路傍のほの白き日蓮上人、辻説法跡の塚が、ひゅっと私の視野に飛び込み、時われに利あらずという思いもつかぬ荒い言葉が、口をついて出て、おや? と軽くおどろき、季節に敗けたから死ぬるのか、まさか、そうではあるまいな? と立ちどまって、詰問した。否、との応えを得て、こんどはのろのろ歩きはじめた。…」
 日蓮上人の辻説法を聞いて、思いとどまるのかなとおもったのですが、そうでもないようです。

写真は現在の日蓮上人辻説法跡になります。若宮大路からは一筋東になります。堀辰雄が昭和14年にこの日蓮上人辻説法跡と同じ道筋にある鎌倉小町の笠原宅二階に住んでいます。

「丸山稲荷社」
<やしろ、小さい鳥居>
 太宰が鎌倉で縊死を企てた場所を探してみました。
「…私は鎌倉駅まえの花やかな街道の入口まで来て、くるりと廻れ右して、たったいま、とおって来たばかりの小暗き路をのそのそ歩いた。……
…人がこわくてこわくて、私は林のさらに奥深くへすすんでいった。いってもいっても、からだがきまらず、そのうちに、私のすぐ鼻のさき、一丈ほどの赤土の崖がのっそり立った。見あげると、その崖のうえには、やしろでもあるのか、私の背丈くらいの小さい鳥居が立っていて、常磐木が、こんもりと繁り、その奥ゆかしさが私をまねいて、私は、すすきや野いばらを掻きわけ、崖のうえにゆける路を捜したけれども、なかなか、それらしきものは見当らず、ついには、崖の赤土に爪を立て立て這い登り、月の輪の無い熊、月の輪の無い熊、と二度くりかえして呟いた。やっとのことで崖の上までたどりつき、脚下の様を眺めたら、まばらに散在している鎌倉の街の家々の灯が、手に取るように見えたのだ。……
…顔一めんが暗紫色、口の両すみから真白い泡を吹いている。この顔とそっくりそのままのふくれた河豚づらを、中学時代の柔道の試合で見たことがあるのだ。そんなに泡の出るほどふんばらずとも、と当時たいへん滑稽に感じていた、その柔道の選手を想起したとたんに私は、ひどくわが身に侮辱を覚え、怒りにわななき、やめ! 私は腕をのばして遮二無二枝につかまった。思わず、けだもののような咆哮が腹の底から噴出した。一本の外国煙草がひと一人の命と立派に同じ価格でもって交換されたという物語。私の場合、まさにそれであった。縄を取去り、その場にうち伏したまま、左様、一時間くらい死人のようにぐったりしていた。…」

 太宰が鎌倉で縊死を企てた場所については、本人しか分かりませんので、上記のから”やしろ”、”小さい鳥居”、”崖の上”を参考にして探してみました。場所は当然鶴岡八幡宮の裏手になるわけです。調べて見ると”やしろ”は白旗神社、祖霊社、丸山稲荷社しかありません。その中で崖の上は”丸山稲荷社”のみでした。

写真は現在の丸山稲荷社です。”崖の上”と”小さい鳥居”はぴったりです。崖の下から撮影した写真と、入口から撮影した写真を掲載しておきます。太宰が鎌倉で縊死を企てた場所は、推定、丸山稲荷社としておきます。


太宰治年表
和 暦 西暦 年  表 年齢 太宰治の足跡
昭和9年 1934 丹那トンネル開通 26 8月 静岡県三島市の坂部武郎方に滞在
昭和10年 1935 第1回芥川賞、直木賞 27 3月10日 都新聞社の就職試験を受ける
3月17日 鎌倉で縊死を企てる
4月初旬 盲腸炎の手術で阿佐ヶ谷の篠原病院に入院
5月上旬 世田谷の経堂病院に移る
7月1日 病後療養のため、杉並の天沼から千葉県船橋町に転居
9月 授業料未納により東京帝国大学を除籍
昭和11年 1936 2.26事件 28 2月中旬 芝済生会病院に入院
8月群馬県谷川温泉 川久保屋に宿泊
10月13日 江古田の東京武蔵野病院に入院
11月12日 杉並区荻窪の光明院裏の照山荘アパートに転居
11月15日 天沼一丁目238番地の碧雲荘に転居
11月25日 熱海に向かう
12月7日 村上旅館に移る
昭和12年 1937 蘆溝橋で日中両軍衝突 29 3月下旬 群馬県谷川温泉 川久保屋に宿泊
6月 初代と離婚成立
6月21日 天沼一丁目213の鎌滝方に転居



太宰治、鎌倉地図(1)



太宰治、鎌倉地図(2)