<江ノ島>
太宰治の「狂言の神」は場所的には銀座の歌舞伎座から始まり、浅草のひさごやで呑み、横浜本牧で泊ります。翌日、藤沢に向かい、江ノ電で江ノ島に向かっています。今回は「狂言の神」の中で、江ノ島から鎌倉を歩いてみます。
太宰治の「狂言の神」からです。
「… 読者、不要の穿鑿(せんさく)をせず、またの日の物語に期待して居られるがよい)私は、煮えくりかえる追憶からさめて、江の島へ下車した。
風の勁(つよ)い日で、百人ほどの兵士が江の島へ通ずる橋のたもとに、むらがって坐り、ひとしく弁当をたべていた。こんなにたくさんの人のまえで海へ身を躍らせたならば、ただいたずらに泳ぎ自慢の二三の兵士に名をあげさせるくらいの結果を得るだけのことであろう。私は、荒れている灰色の海をちらと見ただけで、あきらめた。橋のたもとの望富閣という葦簾(よしず)を張りめぐらせる食堂にはいり、ビイルを一本そう言った。ちろちろと舌でなめるが如く、はりあいのない呑みかたをしながら、乱風の奥、黄塵に烟る江の島を、まさにうらめしげに、眺めていたようである。…」。
江ノ電は明治43年には藤沢から小町(当初の駅は鎌倉駅東側の若宮大路にあり、昭和24年に鎌倉駅西側に移転)まで開通しています。田辺あつみ(本名:田部シメ子)と小動崎で心中未遂(田部シメ子は死亡)をおこしたのは 昭和5年11月28日夜半なので、5年前になります。「狂言の神」の初出は「東陽」、昭和11年(1936)年10月ですから、鎌倉で縊死を企ててから一年半後には書いてしまっています。太宰らしいと言えばらしいですね。
★写真は現在の”湘南すばな通り商店街”です。江ノ電江ノ島駅(昔は片瀬駅)から江ノ島に向かう路です。江戸時代から江ノ島神社詣での通り道として賑わい、現在も商店街となっています。昭和初期の江ノ島から見た絵はがきを掲載しておきます。上記に書かれている”橋のたもとの望富閣”は調査不足でよくわかりませんでしたが、昔の絵はがきを見た感じとしては弁天橋の東側付近、上記写真の少し先の左側付近にあったのではないかとおもっています。