●太宰治の河津を歩く
    初版2014年10月18日 <V01L02> 暫定版

 今回は「太宰治の河津を歩く」です。太宰治についてはもっと更新しないといけないのですが、時間がなくて調べきれていないので、更新までなかなかたどり着けません。今回は昭和15年7月の伊豆、河津を歩きます。井伏鱒二の「南豆荘の将棋盤」でも有名な洪水のお話しです。


「文士たちの…」
<「文士たちの伊豆漂泊」、鈴木邦彦>
 太宰治は昭和15年7月3日から15日まで伊豆に滞在しています。そのときのことを詳細に書かれたのが、鈴木邦彦さんの「文士たちの伊豆漂泊」です。内容が豊富で非常に面白いです。

 鈴木邦彦さんの「文士たちの伊豆漂泊」からです。
「  伊豆の文学と私−あとがきにかえて

 文学散歩という形ではじめて伊豆の文学に出会ったのは、昭和三十九年、大学四年の夏休みである。教育実習でお世話になった母校松崎高校の当時の文芸部の顧問、中山高明先生が、文芸部員の夏休みの研修旅行である伊豆湯ヶ島中心の文学散歩に誘ってくださったのである。…

また、昭和十五年、太宰、井伏・亀井らが、河津南豆荘で水害に遭った話を、南豆荘の女将池田芳子さんから直接伺うことができた。その後、その他の太宰治と伊豆に関する事蹟を探り、それらをまとめて、昭和四十六年「太宰治と伊豆」として「伊豆新聞」に二十回連載させていただいた。…

 平成九年、静岡県が始めた伊豆文学フェスティバルの、伊豆文学の案内書を静岡新聞社から出すことになり、静岡新聞出版局長の小柳津隆弘氏がその著者として私を推薦して下さり、写真入りの『伊豆文学紀行』が完成した。
 本書、「文士たちの伊豆漂泊」は、小柳津局長が、もっとくわしい伊豆の文学の本をまとめてみたら、とすすめて下さり、太宰没後五十年の今年、出版されることになったものだ。…」

 上記の鈴木邦彦さんの「文士たちの伊豆漂泊」では、太宰治(井伏鱒二)、川端康成、梶井基次郎、三島由紀夫、若山牧水、井上靖の伊豆について書かれています。

写真は平成10年に静岡新聞社から発行された鈴木邦彦さんの「文士たちの伊豆漂泊」です。非常に詳細に書かれており、平成10年と現在の違いだけを見ておけばいいので、助かりました。

「回想の太宰治」
<「回想の太宰治」 津島美知子>
 津島美知子さんも昭和15年7月の伊豆についてはかなり詳細に書かれています。結婚してから1年半ほどですから、まだ楽しかった頃だとおもいます。

 人文書院、津島美知子さんの「回想の太宰治」からです。
「… 昭和十五、六年頃はまだ戦争の影響もさほどでなく、太宰の身辺も平穏であった。
 この頃は小旅行をよく試みた。そのうちで私が同行したのは、十六年の小正月の伊東への一泊旅行と、十五年七月の伊豆旅行の帰途とである。……

 十五年の七月初めに、太宰は大判の東京明細地図を携えて執筆のために伊豆の湯ヶ野へ出発した。
 出発のときの約束に従い十二日に私は滞在費を持って迎えに行った。その宿は、伊豆の今井浜から西へ入った、ほんとに温泉が湧いているというだけのとり所のない山の湯宿で、私が二階の座敷に通されたとき太宰は襖をさして、あの梅の枝に鶯が何羽止まっているか数えてごらんと言った。粗末な部屋であった。夕方散歩に出たが蝉が暑苦しく鳴き、宿の裏手は山腹まで畑で、南瓜の蔓が道にのびていた。
 翌日ここを発って河津温泉の南豆荘に寄った。ここは井伏先生のお馴染の宿で、井伏先生は広々した涼しそうな座敷に滞在中であった。簾越しに眺められる庭は、縁どりに小松や咲き残りのくちなしとあじさいが植えてあるだけの自然の芝庭であった。…」

 「回想の太宰治」を読むと、奥様の津島美知子さんはそうとう苦労されたようです。奥様の方が記憶力、頭の良さでは太宰治を上回っていたのではないでしょうか。

写真は、人文書院、津島美知子さんの「回想の太宰治」増補改訂版です。昭和53年が初版発行です。

「福田屋」
<福田屋>
 湯ヶ野の福田屋については「川端康成の「伊豆の踊子」を歩く」で一度掲載しています。なぜ、太宰治が伊豆で福田屋を撰んだのか、やっぱり川端康成に対する当てつけの意味が一番大きかったのではないでしょうか。福田屋については決して良くは書いていません。

 鈴木邦彦さんの「文士たちの伊豆漂泊」からです。
「…     宿帳が語る『東京八景』時代

 川端康成の宿として知られる伊豆湯ヶ野の福田家に、ちょっと珍しい宿帳が残っている。単に珍しいというだけでなく、太宰文学研究の資料としても意味をもつ。…

 宿帳には、次のように書かれている。
    「七月三日。(前夜宿泊地)自宅。(住所)東京府下三鷹町下蓮雀一一二。(職業)文筆。(氏名)太宰治。男、三十二。」
万年筆書きの、まぎれもなく太宰自身の筆跡と認められる、太宰ファンにはなつかしい独特の枯れた字体だ。『東京八景』の中で、太宰は、
  私はいまは一箇の原稿生活者である。旅に出ても宿帳にはこだわらず文筆業としている。
と書いている。太宰の「文筆業」としてやっていこうという意気込みが、黒みがかったインクからにおってくるようだ。
 太宰はこの「福田家」に、昭和十五年七月三日から十二日まで滞在し、中期の代表作の一つである、『東京八景』を書き上げた。…」

 当時の宿帳がまだ残っていたようです。住所も三鷹の住所そのままです。

 太宰治の「東京八景」からです。
「… 東京市の大地図を一枚買って、東京駅から、米原まいばら行の汽車に乗った。遊びに行くのでは、ないんだぞ。一生涯の、重大な記念碑を、骨折って造りに行くのだぞ、と繰返し繰返し、自分に教えた。熱海で、伊東行の汽車に乗りかえ、伊東から下田行のバスに乗り、伊豆半島の東海岸に沿うて三時間、バスにゆられて南下し、その戸数三十の見る影も無い山村に降り立った。ここなら、一泊三円を越えることは無かろうと思った。憂鬱堪えがたいばかりの粗末な、小さい宿屋が四軒だけ並んでいる。私は、Fという宿屋を選んだ。四軒の中では、まだしも、少しましなところが、あるように思われたからである。意地の悪そうな、下品な女中に案内されて二階に上り、部屋に通されて見ると、私は、いい年をして、泣きそうな気がした。三年まえに、私が借りていた荻窪おぎくぼの下宿屋の一室を思い出した。その下宿屋は、荻窪でも、最下等の代物しろものであったのである。けれども、この蒲団部屋の隣りの六畳間は、その下宿の部屋よりも、もっと安っぽく、侘わびしいのである。…」
 太宰治の「東京八景」のなかの”Fという宿屋”は福田屋のことですね。余り良く書かれていません。田舎の湯治場の旅館ですから、決して待遇がいいとはいえませんが、もう少し書き方があるのではないかとおもいました。

写真は湯ヶ野温泉 福田屋さんです。「伊豆の踊子」に書いてある通り、下田街道から少し下り、河津川に架かっている小橋を渡った所にある温泉旅館です。建物も当時のままで、写真の右側には「伊豆の踊子文学碑」があります。

「熱川館」
<熱川館>
 湯ヶ野の福田屋に滞在し「東京八景」を執筆中の太宰治は、昭和15年7月8日、井伏鱒二等に熱川に呼び出されます。

 鈴木邦彦さんの「文士たちの伊豆漂泊」からです。
「… 太宰が「福田家」で『東京八景』を書き出して間もない七月八日、熱川の「熱川館」に井伏鱒二、亀井勝一郎、伊馬春部、小山祐士らがやってきた。劇作家、小山祐士の『魚族』出版祝いのためである。福田家で奮闘中の太宰も呼び出されて「熱川館」に一泊。入浴中の井伏と太宰を伊馬春部が撮った写真が残っている。翌九日は河津に繰り出して鮎釣り、伊馬春部、小山祐士は帰京して、井伏、亀井、太宰が「南豆荘」泊。太宰だけは再び福田家へ戻って、『東京八景』を書き継ぎ、十二日完成。東京から美知子夫人を呼び寄せて「南豆荘」に向かう。…」
 小山祐士の『魚族』(ぐろりあ・そさえて、昭和十五年六月二十六日発行(この本の装幀は棟方志功です)) の出版を祝っての会でした。小山祐士は中村地平、太宰治と井伏鱒二門下の3羽ガラスといわれていました。

小山祐士(こやま ゆうし、明治39年(1906)3月29日 - 昭和57年(1982)6月10日)
 広島県福山市笠岡町生まれ。誠之館中学(現福山誠之館高校)を経て慶應義塾大学法学部卒(1931年)。在学中は小山内薫に私淑、卒業後は井伏鱒二に紹介された岸田國士に師事しています。昭和7年(1932)、菅原卓らと同人誌『戯作』を創刊。昭和8年(1933)に発表した戯曲『十二月』が築地座で上演、翌同9年(1934)の『瀬戸内海の子供ら』で第2回芥川龍之介賞候補に選ばれ、劇作家としての地位を確立します。この作品はチェーホフに学び、陰影の濃い台詞を福山地方の方言で描く手法で、戦争のにおい漂う瀬戸内の鬱屈した青春を描き、第2回芥川賞に決定と新聞発表までされながら、戯曲は対象外として取り消された事でも有名。昭和12年(1937)、文学座創立に脚本家として参加。昭和17年(1942)にはNHK嘱託となり放送劇も書いています。戦後は、叙情的作風に、原爆や公害問題を織り込む作風で活動。原爆の傷跡を描いた『二人だけの舞踏会』で昭和31年(1956)岸田演劇賞受賞。その他大久野島の毒ガス製造問題を告発した『日本の幽霊』(1965年)、『泰山木の木の下で』(1962年)などを発表。戦争や原爆の暗い影を背負った人間の孤独を描写し続けていました。昭和43年(1968)芸術選奨文部大臣賞(文学評論)受賞。昭和50年(1975)、紫綬褒章受章。昭和57年死去しています。(ウイキペディア参照)

写真は現在の伊豆、熱川の熱川館です。現在は立派なビルになっています。現在の熱川は駅前土産物屋も閉まり、潰れた旅館やホテルの廃墟がかなりあり、寂しい限りです。それでも駅前には旅館・ホテルの送迎バスが並び、何とか持ちこたえているいようです。

「三日月跡」
<飲み屋「三日月」>
 太宰は9日熱川から湯ヶ野の福田屋に戻り「東京八景」を書き終え、12日、美知子さんに原稿料を持ってこさせて13日、夫婦で井伏鱒二等の居る河津の「南豆荘」に向かいます。

 鈴木邦彦さんの「文士たちの伊豆漂泊」からです。
「…飲み屋「三日月」
 昭和十五年七月十三日、太宰治と井伏鱒二、亀井勝一郎の三人が、河津温泉の「南豆荘」で洪水に遭う直前まで飲んでいた「三日月」は、現在も「南豆荘」跡の筋向かいにある。飲み屋としての営業はやめているが、建物は昔のままだ。…

 藤原きみさんは昭和四十九年、七十七歳で亡くなったが、息子の時男さんは河津町内で「三日月食堂」を営んでいるという。その店は、「三日月」から河津川の上流約一キロの河畔にあり、早速、訪ねてみた。…」

 太宰は本当にお酒がないとダメですね。暇を見つけてはお酒を飲もうとします。

写真は現在の「三日月」跡です。写真の左側辺りにあったようです。「河津文化の家図書館」の方に教えて頂きました。ありがとうございました。鈴木邦彦さんが「文士たちの伊豆漂泊」を書かれた頃には家はまだ残っていたようです。「文士たちの伊豆漂泊」に写真が掲載されていました。現在は残念ながら更地になっています。

「南豆荘跡」
<南豆荘>
 太宰治、井伏鱒二、亀井勝一郎が泊った旅館がこの「南豆荘」です。元々は井伏鱒二が人から紹介してもらって訪ねた宿だそうです。鮎釣りのためにはこんなに遠くまでも来るようです。趣味のためなら何でもしますね!

 鈴木邦彦さんの「文士たちの伊豆漂泊」からです。
「…夕刻から降り出した大雨は、夜中になっても止む気配もない。帰りのあまり遅い三人を、「南豆荘」のおかみさんが迎えに行ったのが二時ごろのこと。
 寝入りばなの三時すぎ、おかみさんは「お母さん、大変よ、水ですよ、水ですよ」
という娘さんのけたたましい叫び声に飛び起きた。すでにまわりの畳が水びたしである。あわててメリンスの腰巻をたくし上げ、井伏をたたき起こし、離れに寝ていた太宰夫妻のところへ駆けつけた。
 昨夜の深酒でぐっすり寝込んでいた太宰も一ぺんに酔いが覚めた様子、床の間に置いてあったためまだ濡れていなかった美知子夫人の着物を抱え、三人で部屋を脱け出した。母家への渡り廊下は既に脛までの水、台所から、おわんやら鍋やらがフカフカ流れ出してきていた。稲妻が光る中を、おかみさんは美知子夫人の紅い腰紐で自分の体をゆわえつけ、太宰夫妻にその腰紐をつかまらせて命からがら二階へ駆け上がった。…」

 「南豆荘」の直ぐ北側を流れている小さな川が氾濫したようです。川幅5〜6m位の川なのですが、よほどの雨量だったのだとおもいます。

 「サンケイ新聞_昭和44年3月18日 夕刊」から井伏鱒二が亀井勝一郎について書いているところからです。
「…真夜中のことであつた。気がついたときには、畳がふとんとともに水に浮かんで私はその浮巣の上にいた。驚いて二階の亀井君の部屋に避難すると、離れに寝ていた太宰君がつづいて駈けこんで来た。ほかの客も宿の人も亀井君の部屋に逃げて来た。
 水かさが刻々に殖えて一階のトタンのひさしを沈めた。みんな寝間着を着たきりだが、太宰君たけは着物を着て角帯をしめ『人間は死ぬときが大事だ』と言っていた。…」

 こういう時のお話しはだんだん尾ひれがついて大きくなっていくものです。仕方が無いので、こういう時に一番正確だとおもわれる、津島美知子さんに登場してもらいます。

 津島美知子の「回想 太宰治」より。
「… この宿で三人落ち合って釣と酒の清遊を楽しむ約束になっていた。そのころはどんよりしてはいたが、降ってはいなかったのに、夜半、洪水に急襲されたのである。夕食後、三人の先生方がしめし合わせて、どこかへ出かけた頃から降り出し、夜ふけて帰ってきたときには土砂降りだった。当時まだ使われていない言葉だが「集中豪雨」に見舞われたのであろう。玄関わきの私どもの部屋に裾端折りで大宰が帰ってきて寝入ってしばらく経ってから私は、奥の調理場と思われる方角からはげしい雨音に交って女の人が何ごとか叫ぶ声で目を覚まし、電灯をつけて縁側に出た。するとほんの二間ほど先から縁側の板の上を音もなく、ねずみのようにするすると、水が這い寄ってくるのが見えた。それから大宰を叩き起こしたのだが、泥酔しての寝人りばななので手間どってやっと起こして、枕もとの乱れ籠の衣類をとり上げると、一番下に入れておいた単え帯に水がしみていた。もう畳の上まで浸水していたのである。井伏先生の部屋にまわり、先生とご一緒に二階の亀井さんの部屋に避難しようとしたときは、膝近くまで増水していて足もとが危いので、私の絞りの腰紐に順々に掴まって階段を上った。…」
 本当に正確に覚えていたようです。それにしても凄い雨量だったようです。短期間で床下浸水から床上浸水になっています。

写真の正面左側のところが「南豆荘」跡です。一時、更地になっていたようですが、現在は家が建っています。道の先に氾濫した川の橋があり、直ぐ先の左側に「隠れ家 石田屋」という旅館があります。

「伊豆急河津駅」
<伊豆急河津駅>
 伊豆半島の西側は大正13年に伊豆箱根鉄道駿豆線が修善寺まで開通したのに対して、東側の鉄道敷設は遅れます。昭和13年12月、当時の国鉄の伊東線開通により、熱海から伊東まで鉄道が敷設され、それに続き一度は伊東−下田間延長の閣議決定がされましたが、戦後その計画は中止されます。昭和31年2月、東京急行電鉄は伊東−下田間地方鉄道敷設免許を申請します。昭和36年2月、社名を「伊豆急行株式会社」とし同年12月10日伊東−下田間が全線開通しています(伊豆急行ホームページを参照)。と言うことは井伏鱒二や太宰治が伊豆を訪ねて河津まで来たときは鉄道の便がなかった訳です。当時は東海自動車というバス會社があり、伊東から下田までバスの便しかありませんでした。

 太宰治の「東京八景」からです。
「…  東京市の大地図を一枚買って、東京駅から、米原行の汽車に乗った。遊びに行くのでは、ないんだぞ。一生涯の、重大な記念碑を、骨折って造りに行くのだぞ、と繰返し繰返し、自分に教えた。熱海で、伊東行の汽車に乗りかえ、伊東から下田行のバスに乗り、伊豆半島の東海岸に沿うて三時間、バスにゆられて南下し、その戸数三十の見る影も無い山村に降り立った。…」
 太宰治の湯ヶ野 福田屋までのルートを考えます。
・三鷹発(9時頃)→(中央線)→東京着(9時50分頃)
・東京発(9時55分)→(伊東行)→伊東着(12時44分)
・伊東発(12時50分)→(バス)→河津浜(15時20分頃、乗換)→(バス)→湯ヶ野着(16時頃)
 という感じで、計7時間程掛かります。
 よっぽどのことがないとこんなところには行かないですね、やっぱりなにかあるのです。

写真は現在の「伊豆急河津駅」です。


太宰治年表
和 暦 西暦 年  表 年齢 太宰治の足跡
昭和14年
1939 ドイツ軍ポーランド進撃 31 1月8日 杉並の井伏鱒二宅で太宰、石原美智子と結婚式をあげる。甲府の御崎町に転居
9月1日 東京府三鷹村下連雀百十三番地に転居
昭和15年 1940 北部仏印進駐
日独伊三国同盟
32 6月 河津川であゆ釣り
7月 湯ヶ野 福田屋 、熱川館、河津 南豆荘
昭和16年 1941 真珠湾攻撃、太平洋戦争 33 2月 清水市の三保の松原に滞在
昭和17年 1942 ミッドウェー海戦 34 2月 御嶽ハイキング
12月 今官一が三鷹町上連雀山中南97番地に転居
昭和19年 1944 マリアナ海戦敗北
東条内閣総辞職
レイテ沖海戦
神風特攻隊出撃
36 1月10日 上野駅でスマトラに向かう戸石泰一と面会
5月12日 「津軽」の取材に青森に向かう
11月 「津軽」発刊
昭和20年 1945 ソ連参戦
ポツダム宣言受諾
37 4月 三鷹から妻美智子の実家、甲府市水門町に疎開
7月28日 津軽に疎開(青森空襲)
昭和21年 1946 日本国憲法公布 38 11月13日 東京に帰京する太宰一家が仙台に立ち寄る
12月 中鉢家の二階を借りる
昭和22年 1947 織田作之助死去
中華人民共和国成立
39 1月 小山清が三鷹を去る
2月 下曽我に太田静子を訪ねる、三津浜で「斜陽」を執筆
3月 山崎富枝、屋台で太宰治と出会う
4月 田辺精肉店の離れを借りる
5月 西山家を借りる
8月 千草の二階で執筆



太宰治の伊豆地図(川端康成の地図を流用)



太宰治の河津地図