●太宰治の金木を歩く
    初版2018年7月9日 <V01L01> 
   二版2018年7月16日 <V01L01> 斜陽館を追加 暫定版

 2018年7月9日(YouTube版 太宰治の世界 No.01)
 《太宰治の世界》をYouTube化しましたので見て頂ければとおもいます。
 今回は、「太宰治の金木を歩く(上)」、金木駅から雲祥寺、南台寺、現 金木小学校まで歩きます。
 上記をクリックするとダイレクトでYouTubeに飛びます。

2018年7月16日(YouTube版 太宰治の世界 No.02)
 《太宰治の世界》をYouTube化しましたので見て頂ければとおもいます。
 今回は、「太宰治の金木を歩く(下 斜陽館編)」、太宰治記念館 「斜陽館」です。
 上記をクリックするとダイレクトでYouTubeに飛びます。

 太宰治の青森関連で残っていた「太宰治の金木を歩く」を始めます。金木(かなぎ)については分かっているようで、分からないところが多いところです。時間も多くは取れなかったので、一般的な所を回って見ました。また来る機会があると思いますので時間を掛けて改版していきたいとおもいます。


「津軽鉄道 金木駅」

<津軽鉄道 金木駅>
 「太宰治の金木を歩く(上)」は津軽鉄道 金木駅(かなぎ)から歩き始めます。津軽鉄道 金木駅が出来たのは昭和5年で太宰治が東京帝国大学に入学した年なので、それまでは下記の「思い出」に書いてあるように馬車や徒歩で五所川原まで通っていたようです(五所川原は既に鉄道が通っていました)。

 太宰治の「思い出」より
「… 私は姉たちには可愛がられた。いちばん上の姉は死に、次の姉は嫁ぎ、あとの二人の姉はそれぞれ違ふまちの女學校へ行つてゐた。私の村には汽車がなかつたので、三里ほど離れた汽車のあるまちと往き來するのに、夏は馬車、冬は橇、春の雪解けの頃や秋のみぞれの頃は歩くより他なかつたのである。姉たちは橇に醉ふので、冬やすみの時も歩いて歸つた。…」
 “三里ほど”と書かれていますので、約12Km弱ですから、“汽車のある町まち”は五所川原とおもわれます。

<津軽鉄道>
JR五能線の前身である川部駅 - 五所川原駅間の鉄道を運営していた陸奥鉄道が国に買収されたのち、買収によって陸奥鉄道設立時の出資額の倍の支払いを受けた株主たちが津軽における次なる鉄道として五所川原 - 中里間の鉄道を計画し、これを建設・運営するため設立された。昭和5年(1930)7月五所川原 - 中里間が開通した。(ウイキペディア参照)

写真は現在の津軽鉄道 金木駅です。改築される前の金木駅の外観と、改札口の写真を掲載しておきます。

「太宰治 疎開の家」
<太宰治 疎開の家>
 太宰治(津島修治)は昭和20年7月31日、甲府から4日かかって金木に疎開してきます。そして母屋の離れに居候します。勘当された身で良く戻ってこれたとおもいます。現在も離れが残っているのですが、場所が斜陽館の敷地ではなくて、200m程東に移っています。これは津島家が昭和23年に母屋(斜陽館)を売却したときに、当主の津島文治(当時は青森県知事)が金木の住まいとして移動させて残したためです。太宰治は翌年の昭和21年11月まで滞在しています。

 太宰治の「庭」からです。
「 東京の家は爆弾でこわされ、甲府市の妻の実家に移転したが、この家が、こんどは焼夷弾でまるやけになったので、私と妻と五歳の女児と二歳の男児と四人が、津軽の私の生れた家に行かざるを得なくなった。津軽の生家では父も母も既になくなり、私より十以上も年上の長兄が家を守っている。そんなに、二度も罹災する前に、もっと早く故郷へ行っておればよかったのにと仰言るお方もあるかも知れないが、私は、どうも、二十代に於いて肉親たちのつらよごしの行為をさまざまして来たので、いまさら図々しく長兄の厄介になりに行けない状態であったのである。しかし、二度も罹災して二人の幼児をかかえ、もうどこにも行くところが無くなったので、まあ、当ってくだけろという気持で、ヨロシクタノムという電報を発し、七月の末に甲府を立った。そうして途中かなりの難儀をして、たっぷり四昼夜かかって、やっと津軽の生家に着いた。生家では皆、笑顔を以って迎えてくれた。私のお膳には、お酒もついた。  しかし、この本州の北端の町にも、艦載機が飛んで来て、さかんに爆弾を落して行く。私は生家に着いた翌る日から、野原に避難小屋を作る手伝いなどした。  そうして、ほどなくあの、ラジオの御放送である。 …」

写真は“太宰治 疎開の家”の書斎です。太宰はこの部屋で小説を書き続けます。YouTubeを見て下さい。


「太宰治記念館 「斜陽館」」
<太宰治記念館 「斜陽館」>
 2018年7月16日 追加
 太宰治(津島修治)の生家です。津島家は明治中頃から後半にかけて二百五十町歩の新興地主になります。明治30年、曽祖父の惣助は県内長者番付十二位になっています。明治34年、津島家の当主源右衛門は青森県会議員となり、明治37年には県内長者番付第四位に躍進しています。明治39年、源右衛門はこの新邸宅の建築に着手、翌40年に完成。大宰治(津島修治)は新築間もない大邸宅で生まれた最初の子供でした。(参考文献:人間太宰治の研究T、ウイキペディア)

 太宰治の「津軽」からです。
「…金木は、私の生れた町である。津軽平野のほぼ中央に位し、人口五、六千の、これといふ特徴もないが、どこやら都会ふうにちよつと気取つた町である。善く言へば、水のやうに淡泊であり、悪く言へば、底の浅い見栄坊の町といふ事になつてゐるやうである。…」
 太宰から見ると上記のように見えるんですね、私だと、他と変らない田舎の雰囲気なんですが!

太宰は、この家を「苦悩の年鑑」の中で
「…この父はひどく大きい家を建てたものだ。風情も何もないただ大きいのである…」
と書いています。

<斜陽館>
 主屋は西を正面とし、西面南寄りに入母屋屋根の玄関がある。玄関の左手には「店」(金融執務室)、右手には事務室があり、「店」の奥には和室がある。玄関を抜けた先は居住空間で、南側を幅の広い「通りにわ」(土間)とし、北側は東西3室・前後2列の計6室を設ける。室名は前列が西から「前座敷」、「茶の間」、「常居」、後列が西から「仏間」、「小座敷」、「小間」となる(室名は資料によって差異がある)。これらの室の東側は広い「板の間」とする。板の間は天井を張らず、トラスの小屋組を見せる。土間の南、建物の東南側の室は現在は休憩室となっているが、当初は女中部屋で、その後炊事場となっていた。玄関脇の階段を上った2階は洋間の応接室のほか、和室7室を設ける。主屋の東に「中の蔵」、その東に「米蔵」、主屋の北に「文庫蔵」(現・展示室)が建つ。津島家住宅は、津軽地方の伝統的な町屋の形式を踏襲しつつ、店、応接室などに洋風意匠を取り入れている。当住宅は、著名作家の生家であるとともに、大規模で質の高い邸宅建築で、蔵、煉瓦塀、庭園などを含む屋敷構えが良好に保存されていることから、文化財としての価値も高い。(ウイキペディア参照)

写真は太宰治記念館 「斜陽館」です。明治40年6月に落成。米蔵にいたるまで日本三大美林のヒバを使い、階下11室278坪、2階8室116坪、付属建物や泉水を配した庭園など合わせて宅地約680坪の豪邸です。(斜陽館パンフレットより) 建物の中に関しては、YouTubeを見て下さい。


「金木第一尋常小学校跡」
<金木第一尋常小学校跡>
 太宰治(津島修治)は大正5年、6歳のときに金木第一尋常小学校に入学します。長篠康一郎さんの「人間太宰治の研究T」によると、成績は兄弟の中でもっとも良ったようです。ただ腕白坊主で、何度も教室の外に立たされたりしたようです。性格はやさしく、家の使用人達にも好かれていたようです。

 太宰治の「思い出」からです。
「… やがて私は故郷の小學校へ入つたが、追憶もそれと共に一變する。たけは、いつの間にかゐなくなつてゐた。或漁村へ嫁に行つたのであるが、私がそのあとを追ふだらうといふ懸念からか、私には何も言はずに突然ゐなくなつた。その翌年だかのお盆のとき、たけは私のうちへ遊びに來たが、なんだかよそよそしくしてゐた。私に學校の成績を聞いた。私は答へなかつた。ほかの誰かが代つて知らせたやうだ。たけは、油斷大敵でせえ、と言つただけで格別ほめもしなかつた。 …」

写真はつがる西北五広域連合 かなぎ病院です。この病院の駐車場付近が金木第一尋常小学校跡のようです。


「雲祥寺」
<雲祥寺>
 次は太宰治の「思い出」に登場する曹洞宗の雲祥寺です。「思い出」の中にこのお寺のことが書かれています。“地獄極楽の御絵掛地”ついては、このお寺にある「十王曼荼羅」のこととおもわれます。“黒い鐵の輪”は、門を入った直ぐ左にある太宰治の記念碑にあります。訪ねたときに見て頂ければとおもいます。

 太宰治の「思い出」からです。
「…お寺へ屡々連れて行つて、地獄極楽の御絵掛地を見せて説明した。火を放けた人は赤い火のめらめら燃えてゐる籠を背負はされ、めかけ持つた人は二つの首のある青い蛇にからだを巻かれて、せつながつてゐた。血の池や、針の山や、無間奈落といふ白い煙のたちこめた底知れぬ深い穴や、到るところで、蒼白く痩せたひとたちが口を小さくあけて泣き叫んでゐた。嘘を吐けば地獄へ行つてこのやうに鬼のために舌を抜かれるのだ、と聞かされたときには恐ろしくて泣き出した。
 そのお寺の裏は小高い墓地になつてゐて、山吹かなにかの生垣に沿うてたくさんの卒堵婆が林のやうに立つてゐた。卒堵婆には、滿月ほどの大きさで車のやうな黒い鐵の輪のついてゐるのがあつて、その輪をからからして、やがて、そのまま止つてじつと動かないならそのした人は極樂へ行き、一旦とまりさうになつてから、又からんと逆にれば地獄へ落ちる、とたけは言つた。たけがすと、いい音をたててひとしきりつて、かならずひつそりと止るのだけれど、私がすと後戻りすることがたまたまあるのだ。秋のころと記憶するが、私がひとりでお寺へ行つてその金輪のどれをして見ても皆言ひ合せたやうにからんからんと逆りした日があつたのである。私は破れかけるかんしやくだまを抑へつつ何十囘となく執拗にしつづけた。日が暮れかけて來たので、私は絶望してその墓地から立ち去つた。 …」


写真は曹洞宗の雲祥寺です。太宰治の記念碑は門を入った直ぐ左にあります。

「南台寺」
<南台寺>
 南台寺は太宰治(津島修治)の実家 津島家の菩提寺です。津島家のお墓もここにあります。太宰治は勘当されていますので、ここには無く三鷹の禅林寺にあります。このお寺の梵鐘は津島家が寄進したそうです。又、「思い出」に出てくる日曜学校や本の貸出しもこのお寺が行なっていました。

 太宰治の「思い出」からです。
「… 六つ七つになると思ひ出もはつきりしてゐる。私がたけといふ女中から本を讀むことを教へられ二人で樣々の本を讀み合つた。たけは私の教育に夢中であつた。私は病身だつたので、寢ながらたくさん本を讀んだ。讀む本がなくなればたけは村の日曜學校などから子供の本をどしどし借りて來て私に讀ませた。私は默讀することを覺えてゐたので、いくら本を讀んでも疲れないのだ。 …」

<津島家>
 津島家は明治初期はは僅か十町歩ほどの小地主に過ぎませんでしたが、明治中頃から後半にかけては二百五十町歩の新興地主になります。明治30年、曽祖父の惣助は県内長者番付十二位になっています。当時、津島家は通称「津惣」という屋号で呼ばれていましたが、明治33年に曽祖父惣助の隠居により源右衛門が家督を継ぐことになります(祖父惣五郎は明治22年に病歿)明治34年、津島家の当主源右衛門は青森県会議員となり、明治37年には県内長者番付第四位に躍進しています。明治38年、曽祖父惣助死去。明治39年前戸主の一周忌のあと源右衛門は周囲の反対を押し切つて大邸宅の新築に着手、翌40年に落成。初秋、一家は新邸宅に移ります。大宰治(津島修治)は新築間もない大邸宅で生まれた最初の子供でした。(参考文献:人間太宰治の研究T、ウイキペディア)

写真は南台寺です。少し先の右側に梵鐘があります。津島家のお墓は本堂の左側にあります。

「太宰治 思い出の広場」
<太宰治 思い出の広場>
 南台寺から現在の金木小学校(目的は明治高等小学校)に向かって歩いていたら、途中に“太宰治 思い出広場”というコーナーが道の脇にありました。南台寺門前から450m程の距離です。途中何もないので少々不安になります。この広場には太宰治の大正14年からの作品名が掲示されています。最後は“グッド・バイ”ですね。

 <太宰治 思い出広場>
「この広場は、「太宰治思い出道路整備事業」の一環として建設されたもので、郷土の作家太宰治が大正十四年から昭和二三年までに発表した作品名を掲示しています。…
…太宰は、この前の道路を通って明治高等小学校へ通学し、また疎開中には、家族や友人たちと連れ立って芦野公園まで散歩していました。
 なお、広場名は太宰の長女津島園子氏の揮ごうによるものです。… …」


写真は“太宰治 思い出広場”です。字は上記に記載されていますが津島園子氏です。

「明治高等小学校跡」
<明治高等小学校跡>
 今回の最後は明治高等小学校です。現在の金木小学校が明治高等小学校跡と聞いていたので、歩いて行きました。南台寺から450m位あり、アップダウンもあって遠く感じました。記念碑は、金木小学校を過ぎて100m位歩いた右側にあります。立派な石碑がありました。太宰はこの学校に一年通って、青森市内にある旧制青森中学校に入学します。

 太宰治の「思い出」からです。。
「… 私は程なく小學校を卒業したが、からだが弱いからと言ふので、うちの人たちは私を高等小學校に一年間だけ通はせることにした。からだが丈夫になつたら中學へいれてやる、それも兄たちのやうに東京の學校では健康に惡いから、もつと田舍の中學へいれてやる、と父が言つてゐた。私は中學校へなどそれほど入りたくなかつたのだけれどそれでも、からだが弱くて殘念に思ふ、と綴方へ書いて先生たちの同情を強ひたりしてゐた。  この時分には、私の村にも町制が敷かれてゐたが、その高等小學校は私の町と附近の五六ヶ村と共同で出資して作られたものであつて、まちから半里も離れた松林の中に在つた。私は病氣のためにしじゆう學校をやすんでゐたのだけれどその小學校の代表者だつたので、他村からの優等生がたくさん集る高等小學校でも一番になるやう努めなければいけなかつたのである。…」

写真は明治高等小学校の記念碑です。上記に“半里も離れた”と書いていますが、斜陽館から800m位です。太宰は大げさです。

 今回はここまでです。次回は斜陽館です。


太宰治年表
和 暦 西暦 年  表 年齢 太宰治の足跡
明治42年 1909 伊藤博文ハルビン駅で暗殺 0 6月19日 太宰治(戸籍名・津島修治)青森県北津軽郡金木村大字金木字朝日山四一四番地において、父津島源右衛門、母たね(先代惣五郎長女)の六男として生まれました。
明治45年 1912

中華民国成立
タイタニック号沈没

2 同近村たけ(越野たけ)十四歳で津島家の子守りとして奉公にあがる
大正5年 1916 世界恐慌始まる 6 4月 金木村尋常小学校に入学
大正9年 1920 国際連盟成立 10 2月 北津軽郡金木村に町制施行され金木町となる
大正11年 1922 ワシントン条約調印 12 3月 金木町尋常小学校を卒業
4月 学力補充のため、明治高等小学校(組合立)に進学、一年間通学
大正12年 1923 関東大震災 13

3月4日 父源右衛門、貴族院議員在任中、東京市神田区小川町の佐野病院において死去、亨年五十三歳(数え年)
4月 県立青森中学校に人学
(遠縁にあたる豊田太左衛門(呉服商)宅から通学)




太宰治の青森地図



太宰治の金木地図