●太宰治の津軽を歩く -8- 【弘前編】
    初版2018年8月31日 <V01L01>  暫定版

 今回は「太宰治の津軽を歩く」の別編です。遅くなりましたが太宰治の弘前を歩きます。昭和2年4月、旧制青森中学から旧制弘前高等学校に進み、昭和5年3月の卒業まで親戚の藤田豊三郎方に下宿し、弘前で3年間学生生活を送っています。この頃については書いたモノが余りなく、詳細はよく分からないことが多いです。


「弘前城」
<弘前城>
 弘前と言うと、弘前城なので最初に書いておきます。太宰も「津軽」に弘前について詳細に書いています。

 太宰治の「津軽 五 西海岸」からです。
「… 弘前城。ここは津軽藩の歴史の中心である。津軽藩祖大浦為信は、関ヶ原の合戦に於いて徳川方に加勢し、慶長八年、徳川家康将軍宣下と共に、徳川幕下の四万七千石の一侯伯となり、ただちに弘前高岡に城池の区劃をはじめて、二代藩主津軽信牧の時に到り、やうやく完成を見たのが、この弘前城であるといふ。それより代々の藩主この弘前城に拠り、四代信政の時、一族の信英を黒石に分家させて、弘前、黒石の二藩にわかれて津軽を支配し、元禄七名君の中の巨擘とまでうたはれた信政の善政は大いに津軽の面目をあらたにしたけれども、七代信寧の宝暦ならびに天明の大飢饉は津軽一円を凄惨な地獄と化せしめ、藩の財政もまた窮乏の極度に達し、前途暗澹たるうちにも、八代信明、九代寧親は必死に藩勢の回復をはかり、十一代順承の時代に到つてからくも危機を脱し、つづいて十二代承昭の時代に、めでたく藩籍を奉還し、ここに現在の青森県が誕生したといふ経緯は、弘前城の歴史であると共にまた、津軽の歴史の大略でもある。津軽の歴史に就いては、また後のペエジに於いて詳述するつもりであるが、いまは、弘前に就いての私の昔の思ひ出を少し書いて、この津軽の序編を結ぶ事にする。…」

<弘前城(ひろさきじょう)>
 青森県弘前市にある日本の城である。別名・鷹岡城、高岡城。江戸時代に建造された天守や櫓などが現存し国の重要文化財に指定されている。また城跡は国の史跡に指定されている。江戸時代には弘前藩津軽氏4万7千石の居城として、津軽地方の政治経済の中心地となった。城は津軽平野に位置し、城郭は本丸、二の丸、三の丸、四の丸、北の郭、西の郭の6郭から構成された梯郭式平山城である。創建当初の規模は東西612メートル、南北947メートル、総面積385,200平方メートルに及んだ。現在は、堀、石垣、土塁等城郭の全容がほぼ廃城時の原形をとどめ、8棟の建築と現存12天守に数えられる内の天守1棟が現存する。現存建築はいずれも、国の重要文化財に指定されている。小説家の司馬遼太郎は紀行文集『街道をゆく - 北のまほろば』で、弘前城を「日本七名城の一つ」と紹介している。(ウイキペディア参照)

写真は桜の季節の弘前城です。弘前は桜の季節が一番の観光シーズンです。

「現 弘前大学」
<旧制弘前高等学校>
 太宰は昭和2年3月、旧制青森中学校4年(5年制)を卒業、4月に無事、旧制弘前高等学校文科甲類(英語)に進みます。文科乙類(ドイツ語)三年には山崎富栄の兄がいました。新入生は寮生活が義務づけられていましたが母親の意向で藤田豊三郎方に下宿します。贅沢な息子です。

 太宰治の「津軽 五 西海岸」からです。
「 …いまは、弘前に就いての私の昔の思ひ出を少し書いて、この津軽の序編を結ぶ事にする。  私は、この弘前の城下に三年ゐたのである。弘前高等学校の文科に三年ゐたのであるが、その頃、私は大いに義太夫に凝つてゐた。甚だ異様なものであつた。学校からの帰りには、義太夫の女師匠の家へ立寄つて、さいしよは朝顔日記であつたらうか、何が何やら、いまはことごとく忘れてしまつたけれども、野崎村、壺坂、それから紙治など一とほり当時は覚え込んでゐたのである。…」

<旧制弘前高等学校(きゅうせいひろさきこうとうがっこう)>
 大正9年(1920)にネームスクールでは9番目に設立された官立の旧制高等学校。略称は「弘高」。 旧制高等学校は最終的には全国に39あったが、明治期に創設された旧制一高から旧制八高までは「ナンバースクール」と呼ばれた。戦後の昭和24年、弘前大学になっています。後発の官立旧制高等学校はナンバーを校名にふることを止めて自治体名を用いたことからナンバースクールと区別する意味でネームスクールと呼ばれた。但し、ナンバースクール、ネームスクールのいずれも、公文書や書籍・資料類等で使用実績があっても法律上で規定された定義名称ではなく、あくまで慣習的な愛称として用いられたもの(ウイキペディア参照)。

写真は現在の弘前大学正門です。弘前大学には太宰治関連の記念碑があります。先ず、太宰治の記念碑です。太宰治の写真と「津軽」の一節が書かれています。又、弘校生青春之像には卒業生名簿が記されており、太宰治の名前もあります。

「旧藤田家住宅」
<旧藤田家住宅>
 昭和2年4月、旧制弘前高等学校に進み、昭和5年3月の卒業までの3年間、弘前高等学校近くの遠縁の藤田豊三郎方に下宿しています。この下宿についての太宰の書き物を探したのですが、見つける事ができませんでした(もう少し探してみます)。この藤田豊三郎方については道路建設の区画整理で場所を移して保存されています。当時の住所で弘前市富田新町五七です。

2005年に区画整理直前の移転前の建物の写真を撮影していますので掲載しておきます。
1.玄関 → 現在の玄関
2.弘前女子厚生学院方面(右に藤田宅)
3,建物1
4.建物2 → 現在の写真
 
写真は太宰治まなびの家(藤田家住宅)です。旧地から南東に100m移っています。建物の中も写真撮影がOKだったので、太宰の部屋も撮影してきました。

「義太夫の女師匠の家跡」
<義太夫の先生>
 太宰は昭和2年に弘前高等学校に入学しますが、その年の8月頃から義太夫を習い始めます。竹本咲栄(本名 中村ソメ)という女師匠でした。下宿先の藤田豊三郎方から北西に200m程の距離の所でした。

 太宰治の「津軽 五 西海岸」からです。
「…私は、この弘前の城下に三年ゐたのである。弘前高等学校の文科に三年ゐたのであるが、その頃、私は大いに義太夫に凝つてゐた。甚だ異様なものであつた。学校からの帰りには、義太夫の女師匠の家へ立寄つて、さいしよは朝顔日記であつたらうか、何が何やら、いまはことごとく忘れてしまつたけれども、野崎村、壺坂、それから紙治など一とほり当時は覚え込んでゐたのである。どうしてそんな、がらにも無い奇怪な事をはじめたのか。私はその責任の全部を、この弘前市に負はせようとは思はないが、しかし、その責任の一斑は弘前市に引受けていただきたいと思つてゐる。義太夫が、不思議にさかんなまちなのである。ときどき素人の義太夫発表会が、まちの劇場でひらかれる。私も、いちど聞きに行つたが、まちの旦那たちが、ちやんと裃を着て、真面目に義太夫を唸つてゐる。いづれもあまり、上手ではなかつたが、少しも気障なところが無く、頗る良心的な語り方で、大真面目に唸つてゐる。…」

写真の右側辺りに竹本咲栄(本名 中村ソメ)という女師匠宅があったようです。この場所については、弘前市郷土文学館の太宰治コーナーに記載があり、文学館の方に詳細の場所を教えて頂きました。弘前は空襲にあっていないので、時間があれば調べられたのですが、確認の調査は行なっていません。時間が取れたら再度訪問して確認作業をするつもりです。

「現 珈琲屋万茶ン」
<土手の珈琲屋万茶ン(まんちゃん)>
 太宰が通った喫茶店として有名なお店です。創業が昭和4年ですから太宰が旧制弘前高等学校を卒業する昭和5年3月まで、1年程の期間だったとおもいます。当時としてはコーヒーを飲ますハイカラなお店だったのだとおもいます。

 太宰治の「津軽 五 西海岸」からです。
「…私もまた、ここに三年ゐたおかげで、ひどく懐古的になつて、義太夫に熱中してみたり、また、次のやうな浪曼性を発揮するやうな男になつた。次の文章は、私の昔の小説の一節であつて、やはりおどけた虚構には違ひないのであるが、しかし、凡その雰囲気に於いては、まづこんなものであつた、と苦笑しながら白状せざるを得ないのである。 「喫茶店で、葡萄酒飲んでゐるうちは、よかつたのですが、そのうちに割烹店へ、のこのこはひつていつて芸者と一緒に、ごはんを食べることなど覚えたのです。少年はそれを別段、わるいこととも思ひませんでした。粋な、やくざなふるまひは、つねに最も高尚な趣味であると信じてゐました。城下まちの、古い静かな割烹店へ、二度、三度、ごはんを食べに行つてゐるうちに、少年のお洒落の本能はまたもむつくり頭をもたげ、こんどは、それこそ大変なことになりました。芝居で見た『め組の喧嘩』の鳶の者の服装して、割烹店の奥庭に面したお座敷で大あぐらかき、おう、ねえさん、けふはめつぽふ、きれえぢやねえか、などと言つてみたく、ワクワクしなが.ら、その服装の準備にとりかかりました。紺の腹掛。あれは、すぐ手にはひりました。あの腹掛のドンブリに、古風な財布をいれて、かう懐手して歩くと、いつぱしの、やくざに見えます。…」
 ここに書かれた“喫茶店で葡萄酒飲んでいる”の喫茶店がこのお店のことではないかとおもっています。このお店の場所は当時とは変っています。当時は同じ路地の土手通に面したところ(写真手前は土手通で路地の左側)にありました。現在は土手通から路地を少し入ったところにあります。

写真は現在の土手の珈琲屋万茶ン(まんちゃん)です。中は綺麗で結構大きなお店です。マスターは二代目だそうで気さくな方です。

「中畑書店跡」
<中畑書店>
 中畑書店については「太宰治全集12の書簡」の二番目の書簡に出てくる書店なので、好きな方は知られている書店です。この頃の書簡は藤田本太郎宛しか残っていないので、二番目に出てくるわけです。この場所については、私はまったく知らなかったのですが、弘前市郷土文学館の太宰治コーナーに記載があり、義太夫の師匠の場所と一緒に文学館の方に詳細の場所を教えて頂きました。ありがとうございました。

 太宰治全集12 書簡 昭和3年 からです。
「   八月十日 青森縣北津軽郡金木町より 弘前市富田新町
     五七 藤田本太郎宛(はがき二枚つづき、横書)
@親愛ナル本太郎君、  余ハ非常ナ退屈サニ死ヌ所ナノデアル、余ハ今 喜劇 的ナ主人公卜ヶツテ居ル、ヒトツニハ余ハ四十日間(コ レハ又ナント長イ)ウチニ居ネバナラヌハメニナツタノ ダ、ツギニハ余ハきくらひんきニナツタコトデアル、ヤ ハリ年ノ故デアロウ。今迄一週間 何ノ刺激モナク日一 日卜痴呆ノ状態ニ近ヅキツツアルノダ、ナント余ハ喜劇 ノスバラシイ主人公デハナイカ、
 試験デ急シイデアロウ、
 サレドオ身ョ(次へ)
A余モカツテハ試験ニ苦シミシモノ、ナポレオンモカツ テハ試験ニ苦シミシモノナリ、余トナポレオンノ苦シミ シ同ジ試験ニ同ジャウナ苦シミヲ味ツテルオ身ハナント 光榮ナコトデハナイカ、
 サテ今日ハ京姉ノ貰ヒ酒デアル、(コレハオ身ハツマ ラヌコトカモ知レヌガ オカアサンニ知ラセルト大イニ ヨロコブ。知ラセタマヘ)
 次ニオ願ヒ、叶ヘテ呉レ、
 余ハ休ミ中金木ニ居ルカラ 中畑(一)ニ余ノ全集物全部ヲ 金木ニ送ルヤウニ。マンガ大観ハマダ來ヌ、トゥシタ?
 又、余ノ本箱カラ弘高生徒ノ住所ヲカイタ本ヲ見ツケ タラ送ツテ、又ソレト一緒ニ机ノヒキ出シカラ余卜圭治 兄トノ寫眞ヲ……  〔註〕  (一) 弘前市中畑書店。」

 太宰治全集12 書簡から“次ニオ願ヒ、叶ヘテ呉レ、余ハ休ミ中金木ニ居ルカラ 中畑(一)ニ余ノ全集物全部ヲ 金木ニ送ルヤウニ”の中畑が註釈から中畑書店と分かるわけです。

写真の正面角付近に中畑書店がありました。何時まであったかは分かりません。戦後の住宅地図等で調べて見る必要があります。

「榎木小路跡」
<榎木小路>
 榎木小路は太宰の「津軽」で書かれています。この固有名詞の場所も、弘前市郷土文学館の太宰治コーナーに記載があり、文学館の方に詳細の場所を教えて頂きました。ありがとうございました。

 太宰治の「津軽 五 西海岸」からです。
「…さすがの馬鹿の本場に於いても、これくらゐの馬鹿は少かつたかも知れない。書き写しながら作者自身、すこし憂鬱になつた。この、芸者たちと一緒にごはんを食べた割烹店の在る花街を、榎小路、とは言はなかつたかしら。何しろ二十年ちかく昔の事であるから、記憶も薄くなつてはつきりしないが、お宮の坂の下の、榎小路、といふところだつたと覚えてゐる。また、紺の股引を買ひに汗だくで歩き廻つたところは、土手町といふ城下に於いて最も繁華な商店街である。…」
 同じ所に書かれている“お宮の坂”については良くわかりませんでした。

写真正面の小道が榎木小路です。昔の地図を見ると、映画館やお茶屋さんがあったようです。

「小山初代のお墓」
<小山初代のお墓>
 弘前の最後になります。小山初代のお墓です、小山初代について書き出すと長くなるので今回はお墓の紹介だけにとどめます。小山初代は太宰治との離婚後、転々と住まいを変えていますが、時々井伏鱒二宅を訪ねていたようです。その後、大陸に渡り昭和19年、青島で死去しています。お骨は実家の菩提寺である 弘前 清安寺に埋葬されます。清安寺には今官一のお墓もあります。

小山 初代(おやま はつよ 1912年(明治45年)3月10日 - 1944年(昭和19年)7月23日)は、作家太宰治の内縁の妻。芸者としての名は紅子。太宰からはハツコと呼ばれていた。 「HUMAN LOST」(1937年)や「姥捨」(1938年)や「東京八景」(1941年)など多数の太宰作品に登場する一連の女性のモデルとなった。(ウイキペディア参照)

写真は清安寺の小山家のお墓です。

太宰治年表
和 暦 西暦 年  表 年齢 太宰治の足跡
昭和2年 1927 金融恐慌 芥川龍之介自殺 18 4月 中学四年で弘前高等学校(現・弘前大学)文科甲類に入学
         
昭和5年 1930 ロンドン軍縮会議 22 3月 弘前高等学校を卒業
4月 本郷区台町1番地小山とめ方に宿泊、
4月 東京帝国大学文学部仏蘭西文学科入学、戸塚諏訪町250番地の常盤館に下宿
6月 兄圭治死去
9月 初代、東京に出奔
11月 本所柳島の大工の棟梁の家の二階に転居
11月 ホリウットで田辺あつみと親しくなる
11月28日 夜半、鎌倉郡腰越町小動崎にて心中
12月 荏原郡大崎町下大崎の北芳四郎方に滞在
12月 上旬、起訴猶予となる
         
昭和14年
1939 ドイツ軍ポーランド進撃 31 1月8日 杉並の井伏鱒二宅で太宰、石原美智子と結婚式をあげる。甲府の御崎町に転居
9月1日 東京府三鷹村下連雀百十三番地に転居
昭和17年 1942 ミッドウェー海戦 34 12月 今官一が三鷹町上連雀山中南97番地に転居
昭和19年 1944 マリアナ海戦敗北
東条内閣総辞職
レイテ沖海戦
神風特攻隊出撃
36 1月10日 上野駅でスマトラに向かう戸石泰一と面会
5月12日 「津軽」の取材に青森に向かう
11月 「津軽」発刊
昭和20年 1945 ソ連参戦
ポツダム宣言受諾
37 4月 三鷹から妻美智子の実家、甲府市水門町に疎開
7月28日 津軽に疎開(青森空襲)
昭和21年 1946 日本国憲法公布 38 11月13日 東京に帰京する太宰一家が仙台に立ち寄る
12月 中鉢家の二階を借りる
昭和22年 1947 織田作之助死去
中華人民共和国成立
39 1月 小山清が三鷹を去る
2月 下曽我に太田静子を訪ねる、三津浜で「斜陽」を執筆
3月 山崎富枝、屋台で太宰治と出会う
4月 田辺精肉店の離れを借りる
5月 西山家を借りる
8月 千草の二階で執筆



太宰治の津軽地図



太宰治の弘前地図



太宰治の弘前地図(大正9年)



太宰治の弘前高等学校への通学路(太宰治まなびの家の地図より)