kurenaidan30.gif kurenaidan-11.gif
 ▲トップページ著作権とリンクについてメール

最終更新日:2018年06月07日


●太宰治の「津軽」を歩く 初版2001年5月5日 <V01L04>

 ゴールデンウイークを利用して東北地方を歩いてきました。東京を離れて久しぶりにノンビリしたかったのですが、見学する所が多くて大変でした。もう少し時間が欲しいと思うのですが、少しコセコセしすぎかなとも思います。今回は弘前から金木を回って龍飛岬までを取り上げます(「津軽」は青森中学時代から始まりますが、青森は次回に回したいと思います)。

tsugaru1w.jpg 「或るとしの春、私は、生れてはじめて本州北端、津軽半島を凡そ三週間ほどかかって一周したのであるが、それは、私の三十幾年の生涯に於いて、かなり重要な事件の一つであった。」は太宰治の「津軽」の序編の書き出しです。いつもの太宰の書き出しとは違うと思われますね。本編の書き出しは「 「ね、なぜ旅に出るの?」 「苦しいからさ」 「あなたの(苦しい)は、おきまりで、ちっとも信用できません」 「正岡子規三十六、尾崎紅葉三十七、斎藤緑雨三十八、国木田独歩三十八、長塚節三十七、芥川龍之介三十六、嘉村犠多三十七」 「それは、何の事なの?」 「あいつらの死んだとしさ。ばたばた死んでいる。おれもそろそろ、そのとしだ。作家にとって、これくらいの年齢の時が、一ばん大事で」で、やはりここで、太宰らしさが出ています。「津軽」は太平洋戦争真っ只中の昭和19年5月12日から6月5日にかけて太宰治が33歳の時に津軽地方を旅行した旅紀行を新風土記叢書「津軽」として小山書店からその年の11月に刊行したものです。

<弘前>
 「弘前城。ここは津軽藩の歴史の中心である。・・・ 私は、この弘前の城下に三年いたのである。弘前高等学校の文科に三年いたのであるが、・・・ 喫茶店で、葡萄酒飲んでいるうちは、よかったのですが、そのうちに割烹店へ、のこのこはいっていって芸者と一緒に、ごはんを食べることなど覚えたのです。・・・ 粋な、やくぎなふるまいは、つねに最も高尚な趣味であると信じていました。」、太宰は昭和4年、青森中学から弘前高等学校(現 弘前大学)へ進学、この後少しして青森の芸者紅子(小山初代、最初の妻)と知り合います。そのころの本人の心境を良く語っていますね。

左の写真が弘前城、追手門です。「桜の頃の弘前公園は、日本一と田山花袋が折紙をつけてくれているそうだ。」と「津軽」にも書かれている通り、桜がとても綺麗なお城です。訪問した時期が少し遅くて、しだれ桜以外は葉桜になっていました。お城の側に弘前市郷土文学館があり、弘前ゆかりの太宰や石坂洋次郎を展示していますので、見学されたらいいと思います。(文学館から見た岩木山です)

tsugaru2w.jpg<金木 斜陽館>
 「金木は、私の生れた町である。津軽平野のほぼ中央に位し、人口五、六千の、これという特徴もないが、どこやら都会ふうにちょっと気取った町である。善く言えば、水のように淡泊であり、悪く言えば、底の浅い見栄坊の町という事になっているようである。」と「津軽」の中で金木のことを書いています。この斜陽館は 津軽の大地主で太宰治の父、津島源右衛門が建築した入母屋造りの建物で、明治40年6月に落成。米蔵にいたるまで日本三大美林のヒバを使い、階下11室278坪、2階8室116坪、付属建物や泉水を配した庭園など合わせて宅地約680坪の豪邸です。太宰は、この家を「苦悩の年鑑」の中で 「この父はひどく大きい家を建てたものだ。風情も何もないただ大きいのである」と書いています。この豪邸も戦後になって津島家が手放し、昭和25年から旅館「斜陽館」として町の観光名所となり、全国から多くのファンが訪れていました。しかし、平成8年3月に町が買い取り、旅館「斜陽館」は46年の歴史に幕を下ろしています。(斜陽館パンフレットより) 

右の写真が斜陽館です。連休中だったので凄い人手で雑踏の中での見学でした。びっくりしたのは上でも書かれていますが家の大きさと、内装です。和洋折衷で、洋間と二階に上がる階段などはすばらしいものです。余りに人が多くて良い写真が撮れませんでしたので少々残念で〜す!


tsugaru3w.jpg<小泊 小説「津軽」の像記念館>

 「お昼すこし前に、私は小泊港に着いた。ここは、本州の西海岸の最北端の港である。・・・ ここは人口二千五百くらいのささやかな漁村であるが、中古の頃から既に他国の船舶の出入があり、殊に蝦夷通いの船が、強い東風を避ける時には必ずこの港にはいって仮泊する事になっていたという。」と「津軽」に書かれている小泊に太宰は育ての親の越野タケを訪ねています。丁度小泊の国民学校で運動会が開かれており、その運動会の場で越野タケと再開しています。

左の写真が小説「津軽」の像記念館の入口です。写真を右に上がっていくと記念館です。小泊小学校の横にあり、太宰とタケが二人並んだ銅像が建っています。

tsugaru4w.jpg<龍飛岬>
 「「竜飛だ」とN君が、変った調子で言った。「ここが?」落ちついて見廻すと、鶏小舎と感じたのが、すなわち竜飛の部落なのである。兇暴の風雨に対して、小さい家々が、ひしとひとかたまりになって互いに庇護し合って立っているのである。ここは、本州の極地である。この部落を過ぎて路は無い。あとは海にころげ落ちるばかりだ。路が全く絶えているのである。・・・ 露路をとおって私たちは旅館に着いた。」と「津軽」の中で龍飛を簡単に紹介しています。これは「ここは国防上、ずいぶん重要な土地である。私はこの部落に就いて、これ以上語る事は避けなければならぬ」とあり、昭和19年の時代を象徴しています。現在はこの龍飛岬は観光の名所で、青函トンネルや丘の上の燈台に多くの感光客が訪ねていますが、この碑は龍飛岬から下った岬の先の太宰碑公園にあるため、訪れる観光客はあまり多くはありません。好きな人だけが訪ねている様です。又太宰が宿泊した旅館は奥谷旅館でまだ健在です。現在は「龍飛岬観光案内所」として2008年4月25日にオープンしたそうです(Kさんに教えていただきました。ありがとうとございました)。

右の写真が龍飛岬の太宰碑です。以前建てられていた場所から移されています。燈台へ行く路から分かれて、細い路を少し行くと奥谷旅館があり、岬の先まで行くと碑があります。

今回はここまでです。次回は青森を取り上げたいと思います。

津軽地方地図


【参考文献】
・津軽:太宰治、新潮文庫
・太宰治辞典:学燈社、東郷克美

【交通のご案内】
・弘前:JR奥羽本線「弘前駅」下車
・金木 斜陽館:津軽鉄道「金木駅」下車徒歩7分
・小泊 小説「津軽」の像記念館:津軽鉄道「津軽中里駅」から弘南バス(約70分)
・龍飛岬:JR津軽線「三厩駅(みんまや)」から青森市営バス(約25分)

【住所紹介】
・金木 斜陽館:青森県北津軽郡金木町大字金木字朝日山412-1 ??0173-53-2020
・小泊 小説「津軽」の像記念館:青森県北津軽郡小泊砂山1080-1 ??0173-64-3588
・奥谷旅館:青森県北津軽郡三廐村竜飛崎 ??0174-38-2420
 

 ▲トップページページ先頭 著作権とリンクについてメール