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最終更新日:2006年3月26日

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●船橋時代と病院を歩く(上) 初版03/9/20 三版03/10/13 写真追加 V02L01
 今週は「太宰治を巡る」の改版第二弾として、昭和8年から11年に掛けての「鎌倉での自殺未遂」、「太宰の船橋時代」、「パピナール中毒による病院入院関連」(上)、を掲載したいとおもいます。

dazai-funabashi1w.jpg<第一回芥川賞>
 文藝春秋社は昭和10年新年号で、芥川賞、直木賞の制定を発表します。これは2月、8月の売れ行き不振月をカバーするために考え出された施策のようで、菊池寛はなかなか商才があったようです。第一回の芥川賞は石川達三の「蒼氓(そうぼう)」、直木賞は川口松太郎の「鶴八鶴次郎」で、芥川賞選定員は、菊池寛、久米正雄、山本有三、佐藤春夫、谷崎潤一郎、室生犀星、小島政二郎、佐々木茂索、瀧井孝作、横光利一、川端康成でした。太宰は第一回芥川賞をとれると確信していたようで、「ピカレスク」では、「修治と初代は、千葉県船橋の借家に引っ越した。…中村地平から新聞の切り抜きが送られて来た。修治は、驚いて藤椅子から転げ落ちた。「(芥川賞は)現在、審査員で問題になっているのは坪田譲治、島木健作、太宰治などらしいが、坪田・島木はズブの新人ではないから、結局、お鉢は太宰に廻ることになるのではないか」都新聞(7月22日付)の文壇情報欄に「某消息通の語るところによれば」と記されている。」、この後、太宰は結局芥川賞をとれないわけですが、この時、太宰がカッとなったのは川端康成の選評でした。「…この二作は一見別人の如く、そこに才華も見られ、なるほど『道化の華』の方が作者の生活や文学観を一杯に盛っているが、私見によれば、作者目下の生活に厭な雲ありて、才能の素直に発せざる憾みがあった。…」。これを受けて太宰は反論します。「『文聾春秋』が新しく発行した姉妹誌『文事通信』十月号に川端への反論を送くります。「…おたがいに下手な嘘はつかないことにしよう。私はあなたの文章を本屋の店頭で読み、たいへん不愉快であった。これでみると、まるであなたひとりで芥川賞をきめたように思われます。…」、川端康成は最後まで太宰治は理解し得なかったのではないでしょうか。太宰のほうが川端康成を理解していたような気がします。

左上の写真が今年8月の芥川賞発表の文藝春秋です。残念ながら当時の文藝春秋は手に入りませんでした。

  太宰治の東京年表

和 暦

西暦

年 表

年齢

太宰治の東京を歩く

昭和8年
1933
ナチス政権誕生
国際連盟脱退
25
2月 飛島定城家と共に、杉並区天沼三丁目741番地に転居
5月 杉並区天沼一丁目136番地に移転
昭和10年
1935
第1回芥川賞、直木賞
27
3月10日 都新聞社の就職試験を受ける
3月17日 鎌倉で縊死を企てる
4月初旬 盲腸炎の手術で阿佐ヶ谷の篠原病院に入院
5月上旬 世田谷の経堂病院に移る
7月1日 病後療養のため、杉並の天沼から千葉県船橋町に転居
9月 授業料未納により東京帝国大学を除籍
昭和11年
1936
2.26事件
28
2月中旬 芝済生会病院に入院
10月13日 江古田の東京武蔵野病院に入院
11月12日 杉並区荻窪の光明院裏の照山荘アパートに転居
11月15日 天沼一丁目238番地の碧雲荘に転居

dazai-funabashi1w.jpg<卒業について>
  太宰はほとんど学校に行っておらず、卒業できるわけがありませんでした。井伏鱒二は当時の事を「荻窪風土記」に書いています。「・・・三年で卒業するのに六年かかっても卒業しなかった。…大学の仏文科主任教師の辰野さんが後になって言っていたが、卒業の口頭試問のとき仏文科の三人の先生が立合いで、辰野さんが太宰に「君は学校へ出なかったようだから、フランス文学についての質問は止めて置く。それで、ここにいる三人の先生の名前を言ってもらいたい。名前が言えるかね。言えたら卒業さしてあげる」と言った。しかし太宰は一つも言えなかったそうだ。それは辰野さんのイロニーかもしれないが、太宰は郷里津軽の実兄に対するお義理としても、三人の先生の名前を立板に水で答えてくれても良かった。無論、実際は先生の名前を知っていたとしても、意地でも答えることはしなかったろう。言ったって卒業させてくれるわけでない。人にその話をする場合は、答えるほどなら死んでやると言ったろう。」、私だったら、三人の名前をいってしまいますね。やっぱり俗人かな!!

左の写真が東京大学赤門です。この前で写真をとる人か多いのでびっくりしました。やっぱり東大ですかね。

dazai-funabashi1w.jpg<就職試験> 2版 03/10/4 写真入替
 卒業できなければ次に考えることは就職です。「ピカレスク」から、「…つぎの手はなにか。就職だ。東京日日新聞は無理だろう。飛島定城に勧められているが、いまさら卒業できないとはいえない。ならば都新聞だ。中村地平が一年早く入っている。…「今年は一般公募はなしだが社員推薦は受け付けるらしい。だから……」社員推薦を引き受ける、と中村地平が言うと、修治は神妙な顔になり減らず口をたたくのをやめた。入社試験は三月十日、日曜日の陸軍記念日に実施された。当日、修治は檀−雄のアパートに立ち寄り、紺の背広を借りた。…一次試験の作文でふるいにかけられ、合格すると二次の口頭試問に進む。ところが一次試験の会場、日比谷の小学校に着くと、受験者の数は想像以上で、若干名の採用に対し、ざっと数えると二百人を超えている。就職難で、みな社内推薦ぐらいはとりつけてくるのだ。そのうえ出題は、「遠くから眺めた岡田首相」「統制経済と自由経済の是非」「陸軍記念日と日曜で賑う今日の市中雑感」のうちからひとつ選び六十分以内にまとめよ、であった。一番目、二番目、だめだ、三番目……、唸っているうちに六十分の制限時間が過ぎ、中途半端な文章しか出来なかった。…」、結局、就職試験にも落ちます。こうなると、金木の実家にも顔がたたず、この次に考える事は、太宰にはきまっていました。東京日日新聞は大阪毎日新聞の傘下にありましたが昭和18年、毎日新聞に名前が統一されます。

右の写真中央のビルのところがが当時の都新聞社跡です。現在の内幸町日本プレスセンターです。都新聞は昭和17年に国民新聞と合併し、現在の東京新聞になっています。

dazai-funabashi1w.jpg鶴岡八幡宮>
 昭和10年3月15日、太宰治は横浜駅で小館善四郎と分かれたあと、行方不明になります。下宿先の飛島氏、井伏鱒二、檀一雄他で相談し、16日杉並警察署に捜索願を出します。「…急いで飛島氏の家に駆けつけた。井伏さん、飛島氏、それに伊馬鵜平、地平達みんな集っているようだった。「何処へいったろう? 死に場所は」と、先ず誰もの疑問はそこへ集った。「太宰は自分の行き馴れたところ以外には、決してゆかない男です。さあ、熱海か三島か江ノ島だな」。……「じゃ、檀君。心当りを廻ってみてくれない?」と、井伏さんと、飛島氏から板まれた。旅費も預かる。……そっ気なく廻り、荻窪の飛島氏の家に帰っていった。ほとんど前後して太宰が、フラリと帰って来た。何も語らない。首筋に熊の月の輪のように、縄目の跡が見えていた。「銭湯にでもゆかないか?」「うん」と太宰ほ青いている。二人で直ぐ真の銭湯に出掛けて行った。浴客は全くいなかった。二人で浴槽の縁に並んで腰を下し、黙って閑散な真昼の陽射を浴びるのである。…」、どういうわけか今回は自身で戻ってきました。小館善四郎と横浜で分かれたあと江ノ島に向かい、鎌倉の鶴岡八幡宮の近くで宿泊します。そして翌日自殺未遂をしてしまうわけです。

左の写真は鎌倉の鶴岡八幡宮です。この裏山辺りで自殺しようとしたと言われていますが、詳細は不明です。

dazai-funabashi1w.jpg篠原病院> 3版 03/10/13 写真追加
 「…四月に入り修治は原因不明の腹痛に襲われた。一昼夜呻いて阿佐ヶ谷の病院に緊急入院した。盲腸が膿んで腹膜炎を併発して腹部切開の手術となり.伺うく一命をとりとめた。術後も患部が痛んだ。痛みを抑えるためにはパピナール(鎮痛剤)の注射がいちばん効き目がある。もう一回、もう一回、と看護婦にせがんだ。…」。この時期、太宰は荻窪の住んでおり、中央線で一駅新宿寄りの阿佐ヶ谷駅近くの篠原病院に入院します。この時に痛み止めのパピナールを常用し中毒になるきっかけとなります。

右の写真が旧篠原病院です。現在はマンションなっています。昨年までは、篠原病院となっていました。

dazai-funabashi1w.jpg経堂病院>
 「一カ月後に世田谷の経堂病院に転じたのは、文治の指示である。自殺でもされたら困るから、文治の影響力が及ぶ知人の経営する病院にしたのだ。病室を二室借り、ひとつは修治のベッド、別の部屋には家財道具を持ち込み初代が入った。ここで二カ月暮らした。六月三十日に退院が決まった。間際に飛島定城が来た。見舞いではなく縁切りの申し渡しである。愛想のない顔で、あたりかまわず大声で言った。「文治さんに頼まれたから修治君と同じ家に住んだがもうたくさんだ。夜中に酔っ払いが来る、自殺はするわ、病気まで……。いや病気は仕方がないが」。小田急線経堂駅から数分の所にあります。

左の写真が経堂病院です。建物は当時のままでなかなか趣があります。病院としては古すぎて効率が悪いかもしれません。


●船橋時代と病院を歩く(下) 2003年10月4日 V01L02

 今週は「太宰治を巡る」の”船橋時代と病院を歩く”(下)を掲載します。盲腸炎から始まった入院生活はパピナール中毒のため、入退院を4回繰り返した末、やっと病院から開放されます。太宰らしいといえば”太宰らしい”ですね。


dazai-funabashi1w.jpg<津島修治のカルテ>
 津島修治についての一枚カルテがあります。東京武蔵野病院の宮城先生が所持していたものです。「雑然とした私の書庫を整理していると、一つのカルテが出てきた。病院のカルテである。五枚はどの紙で、これに三枚くらいの看護日誌がついている。表紙には「津島修治殿」と書かれているが、津島修治のわきにカツコして太宰治と付記されている。いったい、どうして、こんなものが私のところにあったのか。このカルテの右上には、入院、昭和十一年十月十三日、退院、昭和十一年十一月十二日という文字がある。……昨年四月五日、虫様突起炎兼腹膜炎にて手術後腹部の疼痛のため医師よりはとんど毎日麻薬注射を受け、多いときは一日四筒にいたれることありきと。同外科医院入院中、四月十一日ごろ血痰出でしため、五月一日、経堂病院に転じ、六月三十日退院せるも、その間、腹痛、不眠等のため、隔日に一回ぐらいずつは医師より麻薬の注射を受けたりと。…「本年二月中、約十日内、麻薬の禁断症状のため芝済生会に入院、全治せるも、約一カ月後、ふたたび、最初の船橋の某医によってパピナル・アストロピンの注射をはじめ、まもなく、自ら注射し、現在は一日、一〇−三〇筒におよぶ。」、……十月の終りには不眠症はあったが平静となって、十一月十二日の所に「午後一時二十分、兄上様のお迎えありて御退院あそばせる」という看護人による記入がある。…」、ここに残っているカルテはし東京武蔵野病院入院時のカルテですが、過去の病歴もすべて書かれており、パピナール中毒になった経緯がよくわかり、太宰治の貴重な資料となっています。

左上の写真は1998年6月に太宰治没後50年を記念して発行された「山内祥史編集の「太宰に出会った日」です。なかなか貴重な資料が掲載されていますので、太宰研究には不可欠な資料とおもいます。

dazai-funabashi1w.jpg船橋旧居>
 昭和10年6月パピナール中毒治療の為、入院していた経堂病院を退院、療養のため船橋に引越します。『・・・この土地に私が移り住んだのは、昭和十年の七月一日である。八月の中ごろ、私はお隣の庭の、三本の夾竹桃(きょうちくとう)にふらふら心をひかれた。慾しいと思った。私は家人に言いつけて、どれでもいいから一本ゆずって下さるよう、お隣へ頼みに行かせた。・・・私は三本のうち真ん中の夾竹桃を譲ってもらった。 「くには青森です。夾竹桃などめずらしいのです。百日紅。葵。日まわり。夾竹桃。それから蓮。鬼百合。夏菊。みんな好きです。ただ、木槿だけは、きらいです」』、は太宰治が昭和11年の「新潮」の1月号に発表した「めくら草紙」の旧宅について書かれた部分です。戦後書いた「15年間」ではふただび船橋を書いています。「私は千葉船橋町の家が最も愛着が深かった。私はそこで「ダス・ゲマイネ」といふのや、また「虚構の春」などという作品を書いた。どうしてもその家から引き上げなければならなくなった日に、私は、たのむ!、もう一晩この家に寝かせてください、玄関の夾竹桃も僕が植えたのだ、庭の青桐も僕が植えたのだ、と或る人にたのんで手放しで泣いてしまったのを忘れていない。」と・・・。船橋は「人間失格」の最後を締めくくる舞台でもあり、夾竹桃も含めて太宰治にはよほど心に残る所だったようです。9月授業料未納により東京帝国大学を除籍。

左上の写真左側が太宰治の船橋の旧宅で、千葉県東葛飾郡船橋町五日市本宿1928番地、現住所では船橋市宮本1丁目です。今は個人のお宅になっていますが石碑と記念碑が建っています(見つけるのに苦労しました)。太宰治の旧宅に有った夾竹桃は船橋駅近くの市民文化ホールの南側に太宰治の記念碑と共にあります。

dazai-funabashi1w.jpg芝済生会病院>
 太宰が芝済生会に入院した経緯について小山祐士が書いています。「中毒がすすみ、昭和十一年の二月の始めに、佐藤春夫先生のお骨折りで、太宰は芝の赤羽橋の傍の済生会病院に入院した。入院の知らせを受けて私が病院に駆けつけた時には、もう佐藤春夫先生御夫妻が見えていた。……先生が帰られてからも、太宰は先生の愛情をかみしめるように、しばらくの間、眼を閉じたまま、やはり両手を胸で組み合わして顔を天井に向けていたが、いきなり上半身を起して「おい飲もうよ。飲もう! 今に檀君が現われるはずだから」と人が変ったような元気な声で言った。私は檀の現われないうちにと思って、太宰はしっこく引きとめたが私は逃げ出すようにして、病院の前の停留所でしばらく待って市電に乗った。ところが、市電の後部のほうから、派手な含み笑いをしながら、人をかきわけるようにして太宰が近づいて来るではないか。佐藤先生に対しても私は私なりになんだか責任があるような気がしたので、病院に帰るようにきびしく忠告したが、「今夜は一人でも飲む。どうしても飲む。浅草に行って飲むんだ」と、幾ら忠告してもきかないので、一人にしておくわけにも行かず、私も一緒に浅草に行った。行きずりに入った浅草の飲み屋で、太宰は、また近く発表される第二回の芥川賞について雄弁にしやべり出した。…」、太宰という男はなんという”おとこ”なんでしょう。佐藤春夫先生が帰ったら直ぐに病院から飲みに行く心境がわかりませんね。

右上の写真が 赤羽橋近くの現在の芝済生会病院です。こちらも近代的な病院に変身していますが、まだ古い建物ものこっています。

dazai-funabashi1w.jpg東京武蔵野病院>
 入院しても飲みに行っていたのでは直る病気も直りません。昭和11年10月13日再度入院します。「…その頃、この船橋の縁の下をヒョイとのぞいてみたら、国元から送ってやったリンゴ箱に、たっぷり三倍半のパピナールの空アンプルが入っておって驚いたことも鮮かに憶えています。だんだんと中毒がひどくなって、井伏先生と北さんと私の三人で相談して入院させることになったのです。いやがる太宰を自動車に押しこめ、病院へ向う途中、ちょうど言問橋の真中あたりで薬品が切れ、暴れ出したので兵児帯でしばっておとなしくさせましたご」の頃になると、いくら注射しても数十分ともたなかったんじゃないかと思います。…」、芝済生会病院入院は佐藤春夫にやっかいになり、東京武蔵野病院入院には井伏鱒二に世話になります。まったく世話のやける病人です。

左の写真が現在の東京武蔵野病院です。板橋区小茂根4丁目の環状七号線から少し入ったところです。ここも昔ののままではないかとおもいます。

dazai-funabashi1w.jpg照山荘アパート跡>
 昭和11年11月12日、太宰が東京武蔵野病院を退院しした後住んだのが照山荘です。井伏夫人と初代があらかじめ探しておいたのが荻窪の光明院裏の照山荘アパートでした。この場所はこの年の2月26日に起きた2.26事件で襲撃された渡辺教育総監私邸のすぐ傍になります。「…荻窪のアパートに三日いて…」、としか井伏鱒二は書いていませんので、ほとんど記憶の外かもしれません。。また太宰も「東京八景」の中で、「船橋の家は、私の入院中に廃止せられて、Hは杉並区・天沼三丁目のアパートの一室に住んでいた。私は、そこにおち着いた。二つの雑誌社から、原稿の注文が来ていた。」、と書いており、光明院裏のアパートの件は何も書かれていません。

右の写真の右側が光明院裏付近となり、照山荘アパートの所在していたとおもわれる所です。路の正面が、白山神社となり、当時は環状八号線もなくて、白山神社から光明院までは見通せたのではないかとおもいます。

dazai-ogikubo2w.jpg碧雲荘>
 昭和11年11月15日、僅か3日で、照山荘アパートから移ります。檀一雄は太宰治が碧雲荘に移った当時のことを書いています。「帰京してみると、太宰は、荻窪の碧雲荘に移っていた。碧雲荘と書くと、堂々たるアパートに聞こえるが、実は全く和室の二階八畳の、間借りだった。ただ、階上に炊事場が一部屋あって、間借りでも随時、炊事できるという状況である。」、このアパートは天沼衛生病院裏手の大工さんの家でした。太宰が生きていた当時の建物が残っているのは、この碧雲荘と井伏鱒二宅ではないかとおもいます。

左の写真が当時そのままの碧雲荘です。昭和初期の建物がそのまま残っているのは珍しいと思います。


船橋付近地図


荻窪付近地図


太宰東京中心地区地図


太宰東京西部地区地図



【参考文献】
・斜陽日記:太田静子、石狩書房
・斜陽日記:太田静子、小学館文庫
・あわれわが歌:太田静子、ジープ社
・手記:太田治子、新潮社
・母の万年筆:太田治子、朝日新聞社
・回想 太宰治:野原一夫、新潮社
・雄山荘物語:林和代、東京新聞出版局
・回想の太宰治:津島美知子、人文書院
・斜陽:太宰治、新潮社
・太宰治辞典:学燈社、東郷克美
・ピカレスク:猪瀬直樹、小学館
・太宰治展:三鷹市教育委員会
・人間失格他:文春文庫
・太宰治と愛と死のノート:山崎富栄
・矢来町半世紀:野平健一、新潮社
・太宰治 七里ヶ浜心中:長篠康一郎、広論社
・太宰治に出会った日:山内祥史、ゆまに書房
・若き日の太宰治:相馬正一、津軽書房
・太宰治研究?K:桂英澄、筑摩書房
・太宰治と私:石上玄一郎、集英社
・太宰治の思い出:大高勝次郎、たいまつ社
・太宰治と青森のまち:北の会、北の街社

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