●太宰治の「たずねびと」を巡る
    初版2013年11月9日  <V01L01> 暫定版

 「太宰治を巡って」を久しぶりに掲載します。今回は「太宰治の『たずねびと』を歩く」です。昭和20年7月7日未明、甲府は米軍機の空襲を受けます。なんとか逃れますが同月の28日、太宰一家は青森 金木に疎開するため甲府を発ちます。一家四人での疎開旅でした。


「東北文学」
<「東北文学」 河北新報社発行>
 太宰治は昭和20年7月の甲府から青森 金木への疎開の道すがらを、昭和21年11月の「東北文学」に掲載しています。このエッセイ?を元に、上野から金木までの道筋を辿ってみました。

 「東北文学」昭和21年11月号から、太宰治「たずねびと」の書き出しです。
「 この「東北文学」という雑誌の貴重な紙面の端をわずか拝借して申し上げます。どうして特にこの「東北文学」という雑誌の紙面をお借りするかというと、それには次のような理由があるのです。
 この「東北文学」という雑誌は、ご承知の如く、仙台の河北新報社から発行せられて、それは勿論(もちろん)、関東関西四国九州の店頭にも姿をあらわしているに違いありませぬが、しかし、この雑誌のおもな読者はやはり東北地方、しかも仙台附近に最も多いのではないかと推量されます。
 私はそれを頼みの綱として、この「東北文学」という文学雑誌の片隅を借り、申し上げたい事があるのです。
 実は、お逢いしたいひとがあるのです。お名前も、御住所もわからないのですが、たしかに仙台市か、その附近のおかたでは無かろうかと思っています。女のひとです。…」

 相変わらずの太宰の書き出しです。”わずか拝借して”とか、”私はそれを頼みの綱として”とかを読むと直ぐに太宰治だと分ります。

写真は河北新報社「東北文学」創刊号です。昭和21年11月の「東北文学」は入手困難のため創刊号を掲載しました。文学雑誌らしい表紙です。

「回想の太宰治」
<「回想の太宰治」 津島美知子>
 昭和20年7月の甲府から青森 金木への疎開について、奥様の津島美知子さんも「回想の太宰治」の中で書かれていました。奥様の津島美知子さんの記憶力はそうとうのものですね。かなり詳細に書かれていました。

 人文書院、津島美知子さんの「回想の太宰治」からです。
「…      深 浦
 一夜で焦土と化した甲府を出てから三日目のお昼頃、私たち一家は奥羽線の列車で秋田県の日本海べりを北に向かっていた。
 新庄で乗り換えてからは敵機来襲でおびやかされることもなく、川部でもう一度乗り換えれば今日中に五所川原まで、あるいは連絡がうまくゆけば金木に着くことも出来そうだったのだが、太宰が能代で五能線に乗り換えて、今夜は深浦泊りにしようと言い出した。…」

 「回想の太宰治」を読むと、奥様の津島美知子さんはそうとう苦労されたようです。今だと速離婚と云うことですが、当時は子供二人を抱えて、檀那の太宰に付いていくより他はなかったようです。それにしても太宰治の行動は読まれています。

写真は、人文書院、津島美知子さんの「回想の太宰治」増補改訂版です。それにしてもおもしろい本です。

「時刻表」
<時刻表 昭和19年12月発行 五號>
 太宰一家の上野から青森 金木の実家にたどり着くまでに乗った列車を探してみました。時期は昭和20年7月28日から31日までの三泊四日の行程です。

 当時の時刻表は
・昭和19年12月1日発行 1月25日改正 5號、東亜交通公社発行(左の写真)
昭和20年7月1日現在 東亜交通公社発行 38.5×54.5cmの一枚裏表(主要幹線のみ)
 の二種類が参考になります。東北本線、奥羽本線は昭和20年7月1日現在で、その他の路線は昭和19年12月1日発行で見ることにしました。ただ、昭和20年7月末は米軍の空襲も激しく時間通りの運行はほとんど不可能だったようです。
 
写真は昭和19年12月1日発行 1月25日改正 5號、東亜交通公社版です。戦中、最後の時刻表と言って良いとおもいます。私は復刻版で入手しました。又、昭和20年7月1日現在 東亜交通公社発行も復刻版で入手しました。


太宰治の東北地図



「上野駅」
<上野駅>
 昭和20年7月28日、太宰一家は、奥様の津島美知子さんの実家のあった甲府を出発し、青森県金木に向います。夕方、甲府から上野に到着し夜行で青森に向おうとしますがあまりの混雑に列車に乗れず、上野で一夜を明かします。

 「東北文学」昭和21年11月号から、太宰治「たずねびと」です。
「… 昭和二十年、七月の末に、私たち家族四人は上野から汽車に乗りました。私たちは東京で罹災してそれから甲府へ避難して、その甲府でまた丸焼けになって、それでも戦争はまだまだ続くというし、どうせ死ぬのならば、故郷で死んだほうがめんどうが無くてよいと思い、私は妻と五歳の女の子と二歳の男の子を連れて甲府を出発し、その日のうちに上野から青森に向う急行列車に乗り込むつもりであったのですが、空襲警報なんかが出て、上野駅に充満していた数千の旅客たちが殺気立ち、幼い子供を連れている私たちは、はねとばされ蹴たおされるような、ひどいめに逢い、とてもその急行列車には乗り込めず、とうとうその日は、上野駅の改札口の傍で、ごろ寝という事になりました。その夜は、凄い月夜でした。夜ふけてから私はひとりで外へ出て見ました。このあたりも、まず、あらかた焼かれていました。私は上野公園の石段を登り、南洲の銅像のところから浅草のほうを眺めました。湖水の底の水草のむらがりを見る思いでした。これが東京の見おさめだ、十五年前に本郷の学校へはいって以来、ずっと私を育ててくれた東京というまちの見おさめなのだ、と思ったら、さすがに平静な気持では居られませんでした。…」
 米軍機による青森空襲は昭和20年7月28日夜半から29日にかけてですから、丁度上野で夜明かししているころに空襲をうけたことになります。青森空襲が有名なのは、同じ月の14日〜15日に青函連絡船が空襲を受け全滅した後で、青森市も空襲を受けることを予想して、市民が市内から避難を始めたため、県知事が28日までに市内に戻るよう命令し、市民が戻った後に空襲を受け、被害が広がったことだと云われています。

写真は現在の上野駅正面です。昔は駅正面がロータリーになっていたのですが、現在はロータリーが無くなっています。上野駅。上記に書かれている”上野駅の改札口の傍”はこの辺だとおもいます。

「白河駅」
<白河駅>
 太宰一家は、翌朝の昭和20年7月29日、朝一番の列車に乗ることにします。昭和20年7月1日現在 東亜交通公社発行では、5時10分上野発、白河行き125列車でした。

 「東北文学」昭和21年11月号から、太宰治「たずねびと」です。
「…翌朝とにかく上野駅から一番早く出る汽車、それはどこへ行く汽車だってかまわない、北のほうへ五里でも六里でも行く汽車があったら、それに乗ろうという事になって、上野駅発一番列車、夜明けの五時十分発の白河行きに乗り込みました。白河には、すぐ着きました。私たちはそこで降されて、こんどはまた白河から五里でも六里でも北へ行く汽車をつかまえて、それに乗り込む事にしました。午後一時半に、小牛田行きの汽車が白河駅にはいりましたので、親子四人、その列車の窓から這い込みました。前の汽車と違って、こんどの汽車は、ものすごく混雑していました。…
…或る小さい駅から、桃とトマトの一ぱいはいっている籠をさげて乗り込んで来たおかみさんがありました。
 たちまち、そのおかみさんは乗客たちに包囲され、何かひそひそ囁やかれています。「だめだよ。」とおかみさんは強気のひとらしく、甲高い声で拒否し、「売り物じゃないんだ。とおしてくれよ、歩かれないじゃないか!」人波をかきわけて、まっすぐに私のところへ来て私のとなりに坐り込みました。…
…「どこまで?」
 おかみさんは、せかせかした口調で、前の席に坐っている妻に話掛けます。
「青森のもっと向うです。」
 と妻はぶあいそに答えます。
「それは、たいへんだね。やっぱり罹災したのですか。」
「はあ。」
 妻は、いったいに、無口な女です。
「どこで?」
「甲府で。」
「子供を連れているんでは、やっかいだ。あがりませんか?」
 桃とトマトを十ばかり、すばやく妻の膝の上に乗せてやって、
「隠して下さい。他の野郎たちが、うるさいから。」…」。

 順当に行けば125列車の白河着は10時17分です。この後の東北本線の列車は129列車で上野発7時30分、白河発12時25分、小牛田行です(当時は急行は全て廃止)。上記には”午後一時半に、小牛田行きの汽車が白河駅にはいりました”と書いていますので、1時間遅れだったとおもわれます。最初からこの小牛田行きの列車に乗れば良かったのにとおもいますが。太宰治の性格でしょう! それにしても、桃とトマトを貰えるとは何時の時代も優しい人がいるものです。

写真は現在の白河駅プラットホームです。このプラットホームで太宰一家は3時間待っていたとおもいます。駅舎の写真も掲載しておきます(白河駅の写真は全てウイキペディア参照です)。

「小牛田駅」
<小牛田駅(こごだ)>
 この頃になると7月28日の青森空襲の話しが伝わってきます。東北本線で青森に向っても途中で止められるとおもうのは当然だとおもいます。

 「東北文学」昭和21年11月号から、太宰治「たずねびと」です。
「… 私たちの計画は、とにかくこの汽車で終点の小牛田(こごた)まで行き、東北本線では青森市のずっと手前で下車を命ぜられるという噂も聞いているし、また本線の混雑はよほどのものだろうと思われ、とても親子四人がその中へ割り込める自信は無かったし、方向をかえて、小牛田から日本海のほうに抜け、つまり小牛田から陸羽線に乗りかえて山形県の新庄に出て、それから奥羽線に乗りかえて北上し、秋田を過ぎ東能代駅で下車し、そこから五能線に乗りかえ、謂(い)わば、青森県の裏口からはいって行って五所川原駅で降りて、それからいよいよ津軽鉄道に乗りかえて生れ故郷の金木という町にたどり着くという段取りであったのですが、思えば前途雲煙のかなたにあり、うまくいっても三昼夜はたっぷりかかる旅程なのです。トマトと桃の恵投にあずかり、これで上の子のきょう一日の食料が出来たとはいうものの、下の子がいまに眼をさまして、乳を求めて泣き叫びはじめたら、どうしたらいいでしょうか。小牛田までは、まだ四時間以上もあるでしょう。また、小牛田に着いても、それは夜の十時ちかくの筈ですから、ミルクを作ったり、おかゆを煮てもらったりする便宜が得られないに違いない。…」
 東北本線の列車は上野発7時30分、白河発12時25分小牛田行129列車で、小牛田着は定時で19時28分です。白河駅で1時間遅れていましたので、小牛田では2時間以上おくれたのではないでしょうか。

写真は現在の小牛田駅プラットホームです。左側のホームが新庄方面となります。小牛田駅は初めて訪ねたのですが、駅舎自体は大きくはありませんがヤードが大きいのにびっくりしました。東北本線、石巻線、陸羽東線の三線が入っており、昔は特急、急行が止まる駅だったそうです。電化はされていませんが留置線のほか転車台を備えています。石巻線、陸羽東線の拠点駅という感じです。

「新庄駅」
<新庄駅>
 昭和20年7月30日、小牛田駅を陸羽東線の一番列車で新庄に向います。昭和20年7月1日現在 東亜交通公社発行の時刻表には陸羽東線は掲載されていないので、昭和19年12月1日発行 1月25日改正 5號、東亜交通公社版を見ます。小牛田駅発7時36分、新庄駅10時14分着が一番列車です。

 人文書院、津島美知子さんの「回想の太宰治」からです。
「…       深 浦

 一夜で焦土と化した甲府を出てから三日目のお昼頃、私たち一家は奥羽線の列車で秋田県の日本海べりを北に向かっていた。
 新庄で乗り換えてからは敵機来襲でおびやかされることもなく、川部でもう一度乗り換えれば今日中に五所川原まで、あるいは連絡がうまくゆけば金木に着くことも出来そうだったのだが、太宰が能代で五能線に乗り換えて、今夜は深浦泊りにしようと言い出した。…」。

 28日に甲府を出発していますから、30日で三日目になります。新庄付近は太平洋側から遠く、艦載機も届かないので安全だったとおもいます。

 定刻で考えれば、新庄着10時14分で、奧羽本線は青森行419列車で新庄発11時58分となります。ただこの列車は”大館・青森間当分運転休止”と時刻表に書かれています(本当に7月30日が休止だったかは分りません)。次の列車は大阪発、青森行で2時間程後になります。川部着は22時頃ですから五所川原への乗り継ぎはありません。ですからこの時点では太宰は分っていて、東能代で五能線に乗換えれば宿泊できる深浦に向ったのではないかと推定できます。

 上記に”三日目のお昼頃、私たち一家は奥羽線の列車で秋田県の日本海べりを北に向かっていた”と書いていますので、この時間帯の列車は秋田着が定刻で13時51分の青森行419列車しか有りません。この列車には定刻では新庄で乗れません。次項で考えてみたいとおもいます。

写真の現在の新庄駅です。新幹線駅が出来てすべて新しくなっています。昔の新庄駅の写真を掲載しておきます。(新庄駅の写真は全てウイキペディア参照)

「東能代駅」
<東能代駅>
 奧羽本線と五能線の乗換駅である東能代です。駅舎自体は小さいですがヤードは小牛田ほどでは有りませんがまあまあ大きいです。

 人文書院、津島美知子さんの「回想の太宰治」からです。
「…前夜もその前夜も駅の構内でごろ寝して、暑いさ中の乳幼児をかかえての旅で私は疲れきっていた。一刻も早く目的地に着きたいとも思わないが、まわり道したくはなかった。しかし太宰の深浦泊りの目的が何にあるのかが察しがつくので仕方なく同意して能代で降りた。日暮れまでには深浦に着けると思っていた。ところが連絡がわるくて五能線の発車まで長い時間待ったため、深浦駅に降りたときは夜になっていた。…」
 ここで津島美知子さんは”日暮れまでには深浦に着けると思っていた”と書いています。日暮れとは7月なので19時頃(正確に計算すると18時57分)と考えると東能代−深浦間は2時間掛かるので、17時前には東能代に着いていたと考えていいとおもいます。そうすると、東能代着が定刻なら17時42分の列車では辻褄があいません。ひょとすると、もう一本早い列車に乗ったのかもしれません。新庄での乗換えで一本早い列車(米沢発457列車、新庄9時38分発)が40分以上遅れていれば乗れました。この列車なら東能代が一時間遅れで16時30分頃着となります。”五能線の発車まで長い時間待った”との話しにも合います。川部着も一時間遅れで19時30分頃着で、五能線は20時55分発、五所川原21時49分着と見たら、五能線は”当分運転中止”と書いてありました。やっぱり川部経由では30日中に五所川原までは着けません。

 五能線は18時28分発に乗れますが、深浦が20時35分着です。東能代で2時間待ちでした。

写真は東能代のプラットホームです。丁度、リゾートしらかみ3号が停まっていました。

「深浦駅」
<深浦駅>
 太宰一家が30日夜遅くに到着した深浦駅です。深浦は昭和19年5月に「津軽」取材で一度訪問しています。その時に宿泊したのが秋田屋で、今回も秋田屋に泊ろうという魂胆でした。

 人文書院、津島美知子さんの「回想の太宰治」からです。
「…深浦駅に降りたときは夜になっていた。灯火管制の上、月もなく、足もとも見えぬ闇夜である。旅館は駅のすぐ前にあるものと、ひとりきめしていたところまだかまだかというほど遠い。家並も見えぬ暗い夜道を、太宰は、同じ列車から降りた中年の人と道連れになって、元気よく先立って歩いてゆくが、そのあとに赤ん坊を背負い、四つの子の手をひいてとぼとぼ従いながら、私は次第に恨みがましい気持になってきた。
 やっと左側のめざす旅館に着いたが、出入りロは固く閉ざされていて、太宰は懸命に、その戸をたたき郷里の言葉で金木の生家の屋号と、昨年の五月泊めてもらったことを告げて、やっと二階の一間に通してもらうことができた。大分経ってから夕食の膳を二つ出してくれたが、この家のあるじらしい人は姿を見せず、十七、八歳の娘さんか給仕してくれた。前年の「津軽」の旅のとき、主人から特別のもてなしを受け、源の勢力がここまで及んでいることを感じたことを太宰は記しているが、その主人は現われない筈、長患いの床に就いているとのことであった。娘さんはまた自分の在籍している学校(青森師範といったと思う)が、七月二十八日夜、青森市の空襲で焼失したこと、これから一体どうなるのだろうと、興奮気味に語り、窓も電灯も遮光幕で蔽って、手もとが僅かに見えるほどの暗い部屋で、とうてい、お銚子をと言い出すことが出来なくて、あてにして来た太宰が気の毒であった。甲府で罹災して以後も毎夜焼跡で飲んできていたが、甲府出発以来アルコールが全く切れていた。これではなんのためにまわり道して、深浦に泊ったのかわからない。…」。

 深浦到着は20時35分です。7月ですからやっと暗くなったというところでしょう。深浦駅から秋田屋まで1.3Km程だとおもいます。歩いて20分位でしょうか。

写真は現在の深浦駅です。秋田屋は現在「ふかうら文学館」になって保存されています。

「津軽鉄道 五所川原駅」
<五所川原駅>
 翌日の7月31日、深浦から五所川原経由、金木の実家に向います。

 人文書院、津島美知子さんの「回想の太宰治」からです。
「… 翌日は晴天で、窓をあけてみると空地に網や漁具が干してあって、漁港に泊ったことを実感した。宿に頼んでワカメを土産用に買って駅に向かった。
 このとき初めてわかったのだが、深浦という港は半円状に湾曲していて、宿屋のある町並と駅舎の間には、半円周以上の隔たりがあったのである。道の片側には、きり立ったように山が迫っていて、海沿いの平地が乏しいために駅の位置が限定されたらしい。
 夕方までに金木へ着けばよいので、のんびりした気持で駅で発車の時間をたしかめてから、足はしぜんに海べに向かった。
 朝の海は凪いでいて大小様々の岩が点在し、磯遊びには絶好であった。
 四つの長女はまだ海を見たことがない。一家で子供中心の行楽の旅に出たこともなかったから、私たちははしゃいで、しばらく海べでのまどいを楽しんだ。…」


 ゆっくり出発したようなので、11時30分発に乗ったのではないかとおもいます(一本前は9時11分)。五所川原着が13時16分、津軽鉄道に乗換えて13時30分発、金木着が14時9分となります。10分程歩いて実家到着とおもいます。

写真は現在の津軽鉄道五所川原駅です。夕方だったので若干色が付いています。津軽鉄道五所川原のプラットホームの写真も掲載しておきます。

「金木駅」
<金木駅>
 太宰一家は7月31日の午後にやっと金木に到着します。3泊4日の旅で2泊は駅での雑魚寝でした。幼い子を連れての4日間は大変だったとおもいます。太宰は子供の面倒を何もみず、奥様が一人で行なっていたとおもいます。それにしても、太宰の”最後は実家頼み”は変りません。

 人文書院、津島美知子さんの「回想の太宰治」からです。
「… 七月末日私たち親子四人は裏口から太宰の生家山源に入った。山源の内部は二年半ほど前に来たときと、すっかり変わっていた。祖母は寝たきりになっており、数人の可憐な女中たちに代って、ふたりの、所帯を持った経験のあるらしい女中がいた。大仏壇は、文庫蔵に収蔵されていた。
 金木町も半月ほど前に爆撃と機銃掃射を受けて、目と鼻の八幡様にも南台寺にも爆弾が投下され死傷者も出た由で、町の人たちの恐怖絶頂という矢先に、私たちが転がりこんだのである。山源の大きな赤屋根が目標になり易いというので芦野湖に近い原野にアヤ(男衆)が避難小屋を建て始めていて、着いた翌日から太宰は弁当持ちでその手伝いに行き、やがて出来上がって女子供だけ小屋に移った。祖母は小屋に寝ていて枕もとに携帯用?の仏壇をおき、しきりに西方がどちらに当たるのかを気にしていた。山の中の湯治場に出かけるときのものと思われる朱塗りの炊事道具一式で二泊三日を過ごした小屋は、十畳ほどの一間で、嫁が気づまりだろうが非常時だからという意味のことを私に言ったが、私は疲れ果てていて、気づまりさえも感じていなかった。夜、入口に下げた筵があおられて、降り出した雨が蒲団にかかったのを夢うつつに覚えている。
 太宰はずっとふしぎなほど元気だった。
 すべては家長の命令に従って、私たちはまた赤屋根の下に戻り、裏の畑の防空壕に出入りして過ごした。壕には当然のように、親戚縁者や近隣の人たちも入っていた。祖母は昔の鶏舎を清掃して移し、嫁が三度の食事を運んでいた。私は大家族の家長夫妻の負担の重いことを思った。
 終戦の詔勅のラジオ放送は常居(居間)の電蓄で聞いたが、よく聞きとれず、太宰はただ「ばかばかしい」を連発していた。アヤが立ったまま泣いていた。
 太宰はどのように予想していたかわからないが、私は金木にきて住もそれから食も本家の厄介になるとは考えていなかったが、奥の離れの一廓をあてがわれ、食事は本家の家族、といっても兄夫妻と小学生の二女、時々帰省する弘前中学生の長男の四人と、一緒に食膳に向かうことになった。兄にとって、弟一家を適するのに、これ以外のことは考えられなかったろうと私はあとで気づいた。…」


 太宰一家はこの実家の奥の離れで昭和21年11月11日までの約1年3ヶ月を過ごします。この離れは「太宰治 疎開の家」として残っています。

写真は現在の金木駅です。新しくなって残念です。金木のイメージと合わないとおもうのですがどうでしょうか? 金木の方々は近代的な駅の方が良いのだとおもうのですが、たまにしか行かない私のような人間は古典的な建物を残しておいてほしかったです。以前の駅舎改札口の写真を掲載しておきます。10年程前に訪ねた時に撮影したものです。

 金木の町の紹介は別途掲載する予定です。



太宰治年表
和 暦 西暦 年  表 年齢 太宰治の足跡
昭和14年
1939 ドイツ軍ポーランド進撃 31 1月8日 杉並の井伏鱒二宅で太宰、石原美智子と結婚式をあげる。甲府の御崎町に転居
9月1日 東京府三鷹村下連雀百十三番地に転居
昭和17年 1942 ミッドウェー海戦 34 12月 今官一が三鷹町上連雀山中南97番地に転居
昭和19年 1944 マリアナ海戦敗北
東条内閣総辞職
レイテ沖海戦
神風特攻隊出撃
36 1月10日 上野駅でスマトラに向かう戸石泰一と面会
昭和20年 1945 ソ連参戦
ポツダム宣言受諾
37 4月 三鷹から妻美智子の実家、甲府市水門町に疎開
7月28日 津軽に疎開のため甲府を出発
7月31日 金木の実家に到着
昭和21年 1946 日本国憲法公布 38 11月 金木から三鷹に戻る、山崎富枝、ミタカ美容室に移る(三鷹の野川家に転居)
12月 中鉢家の二階を借りる
昭和22年 1947 織田作之助死去
中華人民共和国成立
39 1月 小山清が三鷹を去る
2月 下曽我に太田静子を訪ねる、三津浜で「斜陽」を執筆
3月 山崎富枝、屋台で太宰治と出会う
4月 田辺精肉店の離れを借りる
5月 西山家を借りる
8月 千草の二階で執筆
昭和23年 1948 太宰治入水自殺 40 3月7日 熱海 起雲閣別館に滞在(3月31日まで滞在)
3月18日 熱海 起雲閣本館に滞在
4月25日 本郷の豊島与志雄宅を訪問
4月26日 本郷の筑摩書房を訪ねる
4月29日〜5月12日 大宮に滞在、「人間失格」を書き上げる
6月12日 大宮の古田晃を訪ねる(不在)
6月13日 玉川上水に入水自殺