●太宰治の仙台を歩く -2-
    初版2010年5月23日 <V01L02> 暫定版

 「太宰治を巡って」の更新を続けます。今回は「太宰治の仙台を歩く -3-」です。太宰治は仙台を4回ほど訪ねています、詳細が分かっている”魯迅を調べるために訪ねた時”と、”昭和21年11月に金木から三鷹に戻る時に立寄っている”二回を掲載する予定です。今回は昭和21年11月に金木から三鷹に戻る時に立寄った仙台を歩きます。


「仙台駅」
<仙台駅>
 太宰治は昭和21年11月、一家で疎開先の金木から東京三鷹に戻ります。戻る途中に弟子の戸石泰一がいる仙台に立寄ります。この時のことを戸石泰一は、昭和23年8月号の「東北文学」に”仙台・三鷹・葬儀”として掲載しています。この号は「太宰治の追憶特集」だったようです。この”仙台・三鷹・葬儀”の仙台の項を参照して、昭和23年11月の仙台を歩いてみました。
「 その朝、 ── 廿一年の十一月十五日だつたと思う ── 会社(K新聞社)に行くと、
 「今朝仙台に下車した。駅で待ってゐます。すぐおいで下さい。太宰。」
 ザラ紙に走り書の置手紙があった。慌てて、駅前に、殆んどかけんばかりに飛びだした。……
… ワッという思いで私が手をあげると、太宰さんも、同時に私を見つけて、あのはにか
んだような慣しい笑いで、ちょっと手をあげた。すぐ目をそらす、私も下をむいて駈けた。
 「待ったですか?」
 「うん、それほどでもない。」
 何から話していゝのか解らない。話すことは山程あるんだけれども。
 「先生、醜くくなったですね。醜貌更に醜を加えた感がある。」
 「いゝよ。いゝよ。お前は相不變美男子だよ。」…」

 戸石泰一は、昭和21年6月、スマトラから復員しています。昭和19年1月に出征、船で台湾海峡を越えて現地に赴任していますから、運の強い人です。復員後、10月には河北新報社に入社しています。その頃は就職は大変だったとおもいますから、たいしたものです。上記のK新聞社は河北新報社のことです。また、仙台に立寄った日付に関しては、少し食い違いがあるようです。上記には15日と書かれていますが、13日説が有力です。

写真は現在の仙台駅です。昭和20年7月9日夜、B29の空襲を受け、仙台駅も焼け落ちています。太宰が立寄った仙台駅は、空襲後のバラック建ての頃の仙台駅ではなかったのかとおもいます。仙台駅が再建されたのは昭和24年(1949)でした(再建後の仙台駅)。
 太宰と戸石は、駅前のホテルに入り酒を飲み始めます。
「…とどのつまり、とにかく、休んでそれからだということになり、駅前の宮城ホテルに室を交渉して、荷物を運んだ。
 「これが、地方文化だよ。」
 「母」という作品に地方文化とは、濁酒をうまくつくってのむことだなんて習いてある、その濁酒だというわけであった。リュックから取りだしたサイダー瓶に半分程、こはく色のドロリとした液体が入っている。
 「一級酒にウイスキーじゃないですか?」
 やはりその作品で太宰さんが一級酒にウイスキーを混合したのをだまされてのまされるところがあるのだ。
 「いや、本当に地方文化さ、何回もこすと、こんなになるんだ。どうだ、うまいだろう。」」。

 上記の宮城ホテルは現在の駅前、ロフトの辺りにありました。ただ、この宮城ホテルが建てられたのは昭和25年で、時期が合いません。このホテルは宮城さん親子で経営されており、戦前は駅前から少し離れたところで、竹屋旅館、戦後直ぐは竹屋ホテルでした。昭和25年以降に宮城ホテルの名前になったようです。当時の駅前の写真を掲載します(残念ながら宮城ホテルは写っていません)。


「河北新報社」
<河北新報社>
 河北新報社は、終戦後直ぐに、太宰治に新聞の連載小説の掲載を依頼します。この連載小説が「パンドラの匣」です(掲載は昭和20年10月からです)。河北新報社は見る目があります。この新聞小説を金木の太宰に頼みに行ったのが、河北新報社の村上辰雄です(昭和20年9月26日に訪ねています)。太宰と戸石泰一は河北新報社を訪ねます。
「…酒があらかたなくなって、一寸、太宰さんが、K新聞社に挨拶に行こうという。「惜別」という作品を書くとき、世話になり、「パンドラの匣」という作品がその新聞に終戦後連載されたのである。東五番丁の角でつかつかと乾物屋に入ると、鴨を買った。
 K社に行って、出版局を訪れると、村上氏は盛岡のI新報の編集局長として出向中で、宮崎氏だけがいた。
 「これ、皆でたべて下さい。珍らしいんで買って釆ました。ウシ今頃鴨は一寸珍らしいんでね。」
 そういうときは、キチンと手土産を持って訪ねるというようないわば古風な人だったが、それをわざそんな風にして買って来たことによって相手を重苦しい窮屈な気分をさせまいと気遣いをする人でもあった。不器用な人だった。…」

 河北新報社は運良く昭和20年7月9日夜の空襲では被災を免れます。運が強いです。上記に”東五番町の角の乾物屋”が出てくるので探してみたのですが、よく分かりませんでした。

写真の所に当時の河北新報社がありました。当時と言っても現在も河北新報社なのですが、河北新報社は大きくなりこの一角全てが河北新報社となっています。当時はこの一角が河北新報社でした。

「東一番丁」
<東一番丁>
 河北新報社を訪ねた後、みんなで東一番丁に呑みに出かけます。現在の東一番丁は仙台一のショッピング街になっていますが、当時はどうだったのでしょうか。
「…宮崎氏と三人で外に出た。東一番丁に行って、どこか、おでん屋みたいな腰かけてのめるところに行こうというので、知り合いの汚い焼鳥やに行った。もう午過ぎだったろうか。
 「コップ。コップがいゝよ。」
 これも相不變。四畳半でチビリ〈などという気取った通人めいた呑み方のきらいな人だった。熔鳥を肴にして、コップを並べて、太宰さんの表現でいうと、「何の風情もなく」三人が苛みだした。
 「戯曲はもう書かれませんか?」
 「あゝ、津軽には、冬とね、春としかないんですよ。秋とか夏っていうものはないんだ。春と、冬と、それだけでね。」…」

 戦後まもなくですから、飲み屋も含めた飲食店中心の街だったとおもいます。

写真は現在の東一番丁です。有名ブランドのお店が連なり、仙台の銀座通りといった感じです。よく地方都市を訪ねると、駅前シャッター通りなどと言われることが多いですが、この東一番丁は全くそんな事はないです。

「メゾン石原」
<宝来荘>
 結局、太宰一家は仙台に泊まることになります。知り合いの旅館を紹介して貰います。
「…「それじゃお前、女房の所にいってね、K社で、どうしても今日は泊って下さいって引留めて離しませんで、奥さんも、どうぞおとまりになるようにってK社でそういってますからつてな、いゝか、そういってな、」女房と子供を宮崎さんの宿屋に連れてってくれよ。
車か何かにのせてな。丁重に云うんだせ。いいか。これで宿屋の方も勘定して来てくれ。
 「はっはっはっは、なあんだ。奥さん怖いですか。」
 「馬鹿な奴だ。早く行けよ。」……
… 宿屋に行って、奥さんに、太宰さんに云われた通り丁重に報告すると、奥さんは何もかも心得ておられるのだった。
 「どうせ、そうなると思って居りましたわ。」
 奥さん達を御霊屋下のH荘という宿屋に御案内して、私はすぐ家に行って、まだ太宰さんに、引あわしていない妻に夕方その宿屋にくるように云いつけてから、H荘に引かえした。…」

 駅前の宮城ホテルでもよかったのでしょうが、みんなで騒ぐことのできる旅館ということで選んだとおもいます。

写真は現在の御霊屋下「メゾン石原」、当時の「H荘(宝来荘)」です。写真右側端になります。瑞鳳寺入口前になります。「ページのなかのせんだい」に当時の写真が掲載されていますので、参考にして下さい。

「榴ヶ岡駅付近」
<戸石泰一自宅>
 戸石泰一は昭和17年9月、東京帝国大学国文科を半年繰上げで卒業。10月1日、仙台の第二師団歩兵第四連隊に入営しています。昭和19年1月、外地出発時の太宰との上野駅での別れとなります。太宰は戸石泰一との上野での出会いを「未帰還の友に」、として書いていますが、戸石泰一本人は、無事、昭和21年6月復員します。復員後は仙台で河北新報社に勤めています。その当時に住んでいたのが仙台市東十番丁一番地、父親が銀行員時代に購入した家屋でした。
「… 宿屋に行って、奥さんに、太宰さんに云われた通り丁重に報告すると、奥さんは何もかも心得ておられるのだった。
 「どうせ、そうなると思って居りましたわ。」
 奥さん達を御霊屋下のH荘という宿屋に御案内して、私はすぐ家に行って、まだ太宰さんに、引あわしていない妻に夕方その宿屋にくるように云いつけてから、H荘に引かえした。……
… 十時の急行は割にすいていた。案ずる程の席の争奪戦もなかったが、私の選んだ座席は生憎と、例の板張りに小さなガラスのついた窓であった。
 「あ、窓の硝子のとこないかな。子供が外を見たがるから。」──
 「ね、先生、昔は、おかしな紳士がいましたね。汽車にのると、ちゃんと、服をぬいでやって、座席の上にあぐらかいたりして」
 「うん、カバンの中から丹前を出して着たりしてね。」
 私達は笑い合った。太宰さんは見送りに来た私の妻に、堅苦しく丁重な挨拶をされた。…」

 戸石泰一泰一の奥様は宮城県立女子専門学校の頃からの知り合い(幼なじみ)で、出征する一週間前に結婚式をあげています。”自分は絶対死なずに帰ってくる”と言って出征したそうです。

写真は現在の仙石線榴ヶ岡駅付近です。戸石泰一は自宅について、「五日市街道」の中の”母とわが家の周辺”で書いています。
「… 先には書かなかったが、新しい家のあたりは片側町だった。理髪屋のケッチャソの家をのぞいては、百姓家もマサオちゃんの駄菓子屋もすべて道の北側に南を向いて、建っていた。北側は、荒地の原っぱ、さらにその向うは寺町の墓地、西の端は伝染病患者が強制的に収容される市立の避病院に接していた。
 避病院に接する広場は、もとは、この市唯一の野球グランドがあったところ、父に連れられて、来たことも何度かある。そこから、ずうっと空地になって、その東の端に私たちの家があった。…」

 上記から推定すると、”市立の避病院”は、上記写真の正面、現在の”仙台サンプラザ”ですから、その先の道路の北側になるのですが、新しく道路ができたり、道が拡張されており、詳細の場所が分かりませんでした。何方かご存知の方がいらっしゃいましたらご教授を御願いします。

”仙台・三鷹・葬儀”が掲載されている「東北文学」昭和23年8月号は入手困難ですので、「近代作家追悼文集成 32」を図書館等で読まれるとよいとおもいます。私が調べた限りでは、この二冊しか掲載されておりません。
次回は「津軽」を追加・改版する予定です。


太宰治年表
和 暦 西暦 年  表 年齢 太宰治の足跡
昭和14年
1939 ドイツ軍ポーランド進撃 31 1月8日 杉並の井伏鱒二宅で太宰、石原美智子と結婚式をあげる。甲府の御崎町に転居
9月1日 東京府三鷹村下連雀百十三番地に転居
昭和17年 1942 ミッドウェー海戦 34 12月 今官一が三鷹町上連雀山中南97番地に転居
昭和19年 1944 マリアナ海戦敗北
東条内閣総辞職
レイテ沖海戦
神風特攻隊出撃
36 1月10日 上野駅でスマトラに向かう戸石泰一と面会
昭和20年 1945 ソ連参戦
ポツダム宣言受諾
37 4月 三鷹から妻美智子の実家、甲府市水門町に疎開
7月28日 津軽に疎開
昭和21年 1946 日本国憲法公布 38 11月13日 東京に帰京する太宰一家が仙台に立ち寄る
12月 中鉢家の二階を借りる
昭和22年 1947 織田作之助死去
中華人民共和国成立
39 1月 小山清が三鷹を去る
2月 下曽我に太田静子を訪ねる、三津浜で「斜陽」を執筆
3月 山崎富枝、屋台で太宰治と出会う
4月 田辺精肉店の離れを借りる
5月 西山家を借りる
8月 千草の二階で執筆


戸石泰一年表
和 暦 西暦 年  表 年齢 戸石泰一の足跡
大正8年 1919 松井須磨子自殺 0 1月28日、宮城県仙台市石垣町三番地で生誕
昭和12年 1937 関東大震災 18 4月 第二高等学校文科に入学
昭和15年 1940 北部仏印進駐
日独伊三国同盟
21 4月 東京帝国大学文学部国文科に入学、森川町百二十番地石田方に下宿
12月 三鷹の太宰治を訪ねる
昭和16年
1941 真珠湾攻撃、太平洋戦争 22 春 本郷から杉並区天沼一丁目二三四番地U方に転居
12月 田中英光に会う
昭和17年 1942 ミッドウェー海戦 23 9月25日 東京帝国大学を半年繰上げで卒業
10月1日 仙台の第二師団歩兵第四連隊に入営
昭和19年 1944 マリアナ海戦敗北
東条内閣総辞職
レイテ沖海戦
神風特攻隊出撃
25 1月3日 高橋八千代と結婚
1月9日 仙台からスマトラに向かう
1月10日 上野駅で太宰と面会
昭和21年 1946 日本国憲法公布 28 6月 広島県呉に復員、仙台の実家に向かう
9月 河北新報社に入社
11月13日 東京に帰京する太宰一家が仙台に立ち寄る
昭和23年 1948 太宰治自殺 29 2月 宮城県立仙台第一高等学校の教師となる
6月13日 太宰入水、19日遺体発見
(上京し三鷹の太宰宅泊り込む)
11月 北多摩郡三鷹町下連雀三一二番地に転居



太宰治、戸石泰一の仙台地図