<仙台駅>
太宰治は昭和21年11月、一家で疎開先の金木から東京三鷹に戻ります。戻る途中に弟子の戸石泰一がいる仙台に立寄ります。この時のことを戸石泰一は、昭和23年8月号の「東北文学」に”仙台・三鷹・葬儀”として掲載しています。この号は「太宰治の追憶特集」だったようです。この”仙台・三鷹・葬儀”の仙台の項を参照して、昭和21年11月の仙台を歩いてみました。
「 その朝、 ── 廿一年の十一月十五日だつたと思う ── 会社(K新聞社)に行くと、
「今朝仙台に下車した。駅で待ってゐます。すぐおいで下さい。太宰。」
ザラ紙に走り書の置手紙があった。慌てて、駅前に、殆んどかけんばかりに飛びだした。……
… ワッという思いで私が手をあげると、太宰さんも、同時に私を見つけて、あのはにか
んだような慣しい笑いで、ちょっと手をあげた。すぐ目をそらす、私も下をむいて駈けた。
「待ったですか?」
「うん、それほどでもない。」
何から話していゝのか解らない。話すことは山程あるんだけれども。
「先生、醜くくなったですね。醜貌更に醜を加えた感がある。」
「いゝよ。いゝよ。お前は相不變美男子だよ。」…」。
戸石泰一は、昭和21年6月、スマトラから復員しています。昭和19年1月に出征、船で台湾海峡を越えて現地に赴任していますから、運の強い人です。復員後、10月には河北新報社に入社しています。その頃は就職は大変だったとおもいますから、たいしたものです。上記のK新聞社は河北新報社のことです。また、仙台に立寄った日付に関しては、少し食い違いがあるようです。上記には15日と書かれていますが、13日説が有力です。
★写真は現在の仙台駅です。昭和20年7月9日夜、B29の空襲を受け、仙台駅も焼け落ちています。太宰が立寄った仙台駅は、空襲後のバラック建ての頃の仙台駅ではなかったのかとおもいます。仙台駅が再建されたのは昭和24年(1949)でした(再建後の仙台駅)。
太宰と戸石は、駅前のホテルに入り酒を飲み始めます。
「…とどのつまり、とにかく、休んでそれからだということになり、駅前の宮城ホテルに室を交渉して、荷物を運んだ。
「これが、地方文化だよ。」
「母」という作品に地方文化とは、濁酒をうまくつくってのむことだなんて習いてある、その濁酒だというわけであった。リュックから取りだしたサイダー瓶に半分程、こはく色のドロリとした液体が入っている。
「一級酒にウイスキーじゃないですか?」
やはりその作品で太宰さんが一級酒にウイスキーを混合したのをだまされてのまされるところがあるのだ。
「いや、本当に地方文化さ、何回もこすと、こんなになるんだ。どうだ、うまいだろう。」」。
上記の宮城ホテルは現在の駅前、ロフトの辺りにありました。ただ、この宮城ホテルが建てられたのは昭和25年で、時期が合いません。このホテルは宮城さん親子で経営されており、戦前は駅前から少し離れたところで、竹屋旅館、戦後直ぐは竹屋ホテルでした。昭和25年以降に宮城ホテルの名前になったようです。当時の駅前の写真を掲載します(残念ながら宮城ホテルは写っていません)。