< 三鷹駅> 太田静子は戦後すぐに母親が亡くなったこともあり、再度太宰に手紙を出します。太宰からは「雑用山積のため手紙を出せなかったことを詫び、いま「ヴィヨンの妻」という百枚見当の小説にとりかかっている、仕事部屋を借りて仕事をしているが、よかったらそこに来ないか、来るときには前日に電報をよこすように、正月五日間は客が多いから六日すぎがよい」との返事をもらい、期待を持って昭和22年1月6日三鷹に太宰を訪ねます。そして
一カ月後の2月21日、「斜陽」を書くために太宰は太田静子の日記を下曽我の大雄山荘で借ります。この時の出会いで太田静子は身ごもります。この後、5月24日太田静子は子供のことで太宰と相談するため
再び三鷹を訪ねます。この二回の出会いで太宰が歩いた処を回ってみると、戦後の三鷹の状況と太宰の交流範囲がよく分かります。
★左の写真が現在の三鷹駅です。昭和20年頃とは全く違う景色を見せています。
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