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最終更新日:2006年3月26日

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●「斜陽日記」を巡る (下) 初版2002年6月15日 <V01L03>
 今週は「斜陽日記」を巡るの第二回目として、戦後の太宰と太田静子の三鷹での二回の出会いを、二人が歩いたそのままの道で巡ってみたいと思います。

oota-mitaka10w.jpg三鷹駅>
 太田静子は戦後すぐに母親が亡くなったこともあり、再度太宰に手紙を出します。太宰からは雑用山積のため手紙を出せなかったことを詫び、いま「ヴィヨンの妻」という百枚見当の小説にとりかかっている、仕事部屋を借りて仕事をしているが、よかったらそこに来ないか、来るときには前日に電報をよこすように、正月五日間は客が多いから六日すぎがよい」との返事をもらい、期待を持って昭和22年1月6日三鷹に太宰を訪ねます。そして 一カ月後の2月21日、「斜陽」を書くために太宰は太田静子の日記を下曽我の大雄山荘で借ります。この時の出会いで太田静子は身ごもります。この後、5月24日太田静子は子供のことで太宰と相談するため 再び三鷹を訪ねます。この二回の出会いで太宰が歩いた処を回ってみると、戦後の三鷹の状況と太宰の交流範囲がよく分かります。

左の写真が現在の三鷹駅です。昭和20年頃とは全く違う景色を見せています。


《太宰、太田静子の三鷹での歩み》


●昭和22年1月6日の出会い

下曾我駅⇒三鷹駅⇒中鉢宅⇒コスモス⇒亀井勝一郎宅⇒コスモス⇒桜井浜江宅(宿泊)⇒帰宅

oota-mitaka11w.jpg中鉢家跡>
 太田静子は戦後初めて太宰と再開します。野原一夫の「回想 太宰治」では「二十二年一月六日、朝早く下曾我を出た静子さんは、「三鷹郵便局の反対側の小川に沿つた一階建の洋風のドアの玄関の家」と太宰の手紙にあったその仕事部屋を訪れた。三年ぶりの再会である。」とあります。この洋風のドアの玄関の家は三鷹市教育委員会発行の「太宰治展」によると「昭和二十一年十一月二十五日から三か月くらいの間、ごごて「ヴィヨンの妻」前半、その他を書き上げたと言われる。踏査の結果、ここは当時、建築家の中鉢運作氏の家であった。」とあります。 太宰が執筆のため借りていた中鉢家は三鷹駅前のさくら通り(昔は用水路だった)にあり、実際は二階建てだったそうです。

 左上の写真の手前から二軒目のビルの所が中鉢宅跡です (写真のオートバイがおいてある当たりです)。駅前から100m位の距離で、斜め後ろの交差点の角に三鷹郵便局があるのですぐに分かります。

【三鷹付近地図】←クリックすると地図がでます。

oota-mitaka12w.jpgコスモス跡>
 太宰と太田静子は中鉢家で出会った後、井の頭公園をぬけて吉祥寺通りと井の頭通りの交差点近くの「コスモス」にいきます。野原一夫の「回想 太宰治」では「太宰は静子さんを吉祥寺のコスモスに案内した。」とあります。山本貴夫の「多摩文学紀行」には「…亀井勝一郎が命名し、太宰治などに愛用されていた 「コスモス」というバーで、経営していた女将の尾沢好子は、太宰やその弟子たち、また太宰周辺の人々には「吉祥寺のおばさん」の名で親しまれていて、太宰治の年譜や回想記には、よく登場する。……「コスモス」はここから西南の、「吉祥寺通り」が井の頭公園の方に曲がる角の、「さかい屋」という店の一角、つまり井の頭公園の池のほとりからみると、西北に当たる場所にあったが、今はそのさかい屋という店に吸収されてしまっていて、太宰や阿佐ヶ谷界隈の文士たちがよく呑みにやって来た、往時の溜まり場だったことを偲ぶよすがは、まったくない。」ともあります。「さかい屋」は現在は「さかいやビル」になって早稲田塾という予備校が一階から入っています。このビルの前に有名な「いせや」という焼鳥屋がありますがこの辺りもイタ飯屋が多くなって飲み屋街という雰囲気はなくなっています。

右上の写真の早稲田塾と看板の立っているビルが「さ かいやビル」です(拡大しないと分かりません)。

oota-mitaka13w.jpg亀井勝一郎宅>
 太宰は「コスモス」から亀井勝一郎の自宅に向かいます。野原一夫の「回想 太宰治」では「コスモスですこし飲んでから、太宰は、なんの用事があってか、近くに住む亀井勝一郎氏の家に静子さんを連れて行った。亀井氏と同道してコスモスに引き返し、スタンドに腰かけて一緒に飲んだ。……火の気のない小部屋の、壁を背にして立ったまま太宰は、畳に坐ってうつむいていた静子さんに、日記を見せてくれないか、重い口調で言った。静子さんは、急にあたりが白っぼくなり、からだがすとんと落ち込んでゆくような気がした。日記のために、そのために、まさか、そんなことが。こんど書く小説のために、どうしてもきみの日記が必要なのだ、と太宰は、顔の筋ひとつ動かさず、突きつけるように言った。小説が出来上ったら、一万円あげる。下曾我に来て下さったら、日記はお見せします、静子さんは低い声で答えた。」と書いています。野原一夫はここの場は同席していませんので、全て太田静子さんからの取材だと思われます 。この日記の話を受けて太宰は2月に下曽我にいく訳です。

左上の写真が現在の亀井勝一郎宅です。表札が亀井となっていますので現在もご家族の方が住まわれているようで、家の敷地は当時の倍くらいになっているようです。

【三鷹付近地図】←クリックすると地図がでます。

oota-mitaka15w.jpg桜井浜江さん宅>
 太宰は太田静子をそのまま帰す訳にもいかないため、三鷹駅に近い三鷹郵便局から少し歩いたところの桜井浜江宅に向かいます。野原一夫の「回想 太宰治」では「コスモスを出ると、空には一めん星がかがやいていた。井の頭公園を抜け、万助橋を渡り、玉川上水の堤に出た。人気はなく、上水の迅い流れが、白い泡を散らしながら夜の静寂をふるわしていた。太宰は立ちどまり、二重廻しのなかに静子さんを包み込み、圧しかぶさるようにして抱きすくめ、荒々しいほどのはげしさで接吻した。その夜、ふたりは、桜井浜江さんの家に行き、その日本間に三人で寝た。」とあります 太宰は実家に帰れなくて困ったときは必ず桜井浜江宅に泊まっていた様です。

右上の写真、左側が桜井浜江宅です。この道をまっすぐ歩くと三鷹郵便局の交差点にでます。

<桜井浜江さんについて>
 今もご健在で、当時のことを語れる唯一の人となっています。野原一夫の「回想 太宰治」では「桜井浜江さんが太宰さんと知り合ったのは昭和十二年頃のことらしい。山形の旧家に生まれた浜江さんは画業で身を立てようと上京、新進作家の秋沢三郎氏と結婚して中央沿線の阿佐ヶ谷に居を構えた。その新居は中央沿線に住む作家たちの絶好の溜り場となり、太宰治、啓一雄、外村繁、高橋幸雄、緑川貢、時には井伏鱒二氏も現れて、車座になっての酒宴が連日のようにひらかれていた。その後、浜江さんは秋沢氏と離婚し、十六年ごろ三鷹に移住した。三鷹の町で太宰さんと久しぶりに顔を合わしたのは、それからしばらくたってかららしい。 …… それにしても、なんと迷惑をかけたことだろう。私や野平君など、幾晩桜井邸に泊めてもらったか、数えきれないほどだ。深夜叩き起して、酒食の饗応を受け、それもすき焼やら鳥鍋やら食料不足の当時としてはたいへんな御馳走にあずかり、お酒にしたって、桜井さんは一滴ものめない人なのにいつも接客用に用意してあって、二時、三時、ときには夜明けまでの酒盛り、桜井さんはひっそりと坐ったまま最後までそれにつき合い、お酒が切れそうになると素早く身をひるがえして台所に走って行く。」と書いています。桜井浜江さんという方はなんと器の大きい、やさしい人だったのでしょうか!

●昭和22年5月24日の出会い

下曾我駅⇒三鷹駅(午後四時)⇒屋台の若松屋(うなぎ屋)⇒すみれ⇒千草⇒桜井浜江宅(宿泊)⇒帰宅

oota-mitaka20w.jpg若松屋跡>
 太田静子は2月の下曽我での太宰との出会いで身ごもったため、5月に再び三鷹を訪れます。この時は野原一夫も最後まで同席します。「回想 太宰治」では「生れてくる赤ちゃんのことで、あの方に御相談したかったのです。それで東京に会いに行ったのです。わたくしは、なにもかも、すべて、あの方のおっしゃるとおりにしようと心を決めていました。お父さんと呼んでいけないのなら、言われるとおりにしようと思いました。どこか遠いところで、ひっそり隠れて暮せと言われたら、それに従がおうと思いました。どんなことでも、おっしゃるとおりにしようと。それで、お会いしたいとお手紙を出したのです。午後三時すぎに、三鷹駅の南口からまっすぐに行った橋のたもとの屋台のうなぎ屋へという御返事でした。弟の通が心配してついてきてくれました。三鷹に着いたのは四時頃だったでしょうか。うなぎ屋さんにはあの方の姿は見えませんでした。そこの若い御主人が心得顔にうなずいて、自転車で呼びに行ってくれました。あの方は、なにか疲れているように見えました。面馨れ、さえ感じました。セルの上着に灰色のズボンをはいて、下駄ばきでした。」と書いています。午後三時の約束が午後四時頃になって到着したため太宰にすくに会えなかったのでしょう、待ち合わせの「うなぎ屋」の屋台は「若松屋」といい、太宰が贔屓の屋台だったので探してくれたわけです。

左上の写真はさくら通りと駅前大通りの交差点です。昭和22年当時はさくら通りはなく、用水が流れていました。現在のさくら通りが斜めに走っているのはそのためです。ですから写真の交差点には左から右に用水が流れ、右上から左下に橋が架かっていたわけです。屋台の「若松屋」は写真のマクドナルドの丁度左前辺りにあったわけです。

【三鷹付近地図】←クリックすると地図がでます。

oota-mitaka21w.jpgすみれ跡>
 二人は屋台の「若松屋」をでた後、橋を渡って「すみれ」に向かいます。「回想 太宰治」では「ビールを一本のむとうなぎ屋さんを出て、橋を渡ってすこし行った右手の、俄か造りのマーケットの奥にあるすみれという小料理屋に入りました。スタンドの高い椅子に腰かけてビールをのみはじめたとき、戸口があいて、なかをうかがうようになさって、たしかあのとき野原さんは、黒いジャンパーを着てベレー帽をかぶっていらっしゃった。」そのすみれという小料理屋は、満洲から引き揚げてきたという美人の未亡人のやっている、太宰さん御贔屓の店だった。鰻屋にいなかったらすみれか千草をのぞいてみるということになっていた。……その日、私がすみれをのぞいてみると、太宰さんの隣りに黒っぽい和服を着た女性が坐り、その横に浅黒い顔をした男性がいたが、その人たちが太宰さんのお客とははじめは気がつかなかった。「斜陽」の執筆に打ち込んでいる時だったので、その道み具合などを私は太宰さんに訊き、それから話が他に移って、太宰さんは私とばかり喋っていたのだ。そのうち、他社の編集者が二人ほど顔をのぞかせ、私たちはすみれを出た。出るとき、太宰さんが隣りのふたりに声をかけたので、私はおやと思った。」と書いています。この時に当時新潮社の社員だった野原一夫が初めて太田静子に出会います。

右上の写真がさくら通りを過ぎた辺りから駅前大通りを撮影したものです。写真の右側奥に「すみれ」があったと思われます。当時のマーケットも既になく 、まったく昔の面影はありません。

oota-mitaka22w.jpg千草跡>
 太宰が最もよく通ったのが「千草」です。「千草」については「小料理屋の千草のことを簡単に書くと、戦前の昭和十四、五年、千草の夫婦は三鷹の駅前でおでんやをやっていて、太宰さんは学生などを連れて飲みに行っていたようだ。戦後、疎開先の山梨県石和から三鷹に帰り店をひらいてまもない二十二年の春、買物籠をさげて歩いていた太宰さんと路上でばったり会い、それからは頻々と顔を見せるようになった。」と野原一夫が書いています。またこの時に太田静子は山崎富栄とも初めて出会います。この時のことを「…連れ立って千草に行った。…太宰さんに声をかけられて座敷にあがってからも、その女性は食卓からすこし離れて坐り、眼を伏せからだを固くしていた。……太宰さんは私を手招きし、「奥名さんのところにいいウィスキーがあるんだ。貰ってきてくれない。」奥名さんーすなわち、山崎富栄さんである。富栄さんはその頃はまだ奥名修一氏の妻であった。奥名氏の戦死の公報がとどいたのほこの年の七月で、旧姓の山崎にもどるのは秋になってからである。…富栄さんは自分が持って行くと言う。…… 富栄さんは台所との間を行き来して、料理やお酒を運んだり、食卓の上をてきばきと片付けたりした。まるで世話女房のようではないか、妙なひとだな、と私は思った。そのあいだ、れいの和服の女性は、すこし離れたところに坐ったまま、私たちが仲間に入るようにすすめても、さびしげな微笑を返すだけだった。その人、太田静子さんは、隣室でうどんを御馳走になったという。」と書いています。また山崎富栄の「太宰治との愛と死のノート」では5月24日の処に『「斜陽」のご婦人も一緒だけど……。先生、彼女、野原さん、桜井邸へいかれる。』と書かれています 。この時は太田静子が身ごもっていることを誰も知りません。結局この日も1月のときと同じく桜井邸で泊まる事になります。この時彼女は身ごもっており、太宰と子供の事について相談したかったのだと思います。太宰はわざと二人だけになることを避けつづけています 。太田静子と太宰の出会いはこれが最後となります。太田静子の心境を思うと … …… ですね。

左上の写真の左側が現在の「千草跡」です。今は「ベル荘」というアパートになっています。向かい側の永塚葬儀社の二階に山崎富栄が下宿しており、太宰と入水自殺するときに二人で最後を過ごしたところです。

【三鷹付近地図】←クリックすると地図がでます。

【参考文献】
・斜陽日記:太田静子、石狩書房
・斜陽日記:太田静子、小学館文庫
・あわれわが歌:太田静子、ジープ社
・手記:太田治子、新潮社
・母の万年筆:太田治子、朝日新聞社
・回想 太宰治:野原一夫、新潮社
・雄山荘物語:林和代、東京新聞出版局
・回想の太宰治:津島美知子、人文書院
・斜陽:太宰治、新潮社
・太宰治辞典:学燈社、東郷克美
・ピカレスク:猪瀬直樹、小学館
・太宰治展:三鷹市教育委員会
・人間失格他:文春文庫
・太宰治と愛と死のノート:山崎富栄
・矢来町半世紀:野平健一、新潮社
 
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