<井伏鱒二全集>
太宰治の鎌滝時代については、井伏鱒二、山岸外史、長尾良の三人がそれぞれのおもいで書いています。井伏鱒二は「亡友 ―鎌滝のころ―」として、山岸外史は「人間
太宰治」の中で”鎌滝時代”として、長尾良は「太宰治」に書いています。この鎌滝時代はちょうど”小説家としての太宰治の変化点”ではなかったのかとおもいます。まず最初は井伏鱒二の「亡友 ―鎌滝のころ―」からです。
「…太宰の食客たちは、中畑さんと北さんが見まはりに行くと、女中の取次ぎをきいて逃げ出すのである。玄関と反対側の出入口から逃げ出して、やがて中畑・北の二人が帰ったころを見はからつて引返して来る。これは月に一回だけの行事だが、北さんは東京の人だから不時にやって来る。しかし北さんは私の裏切りを警成して、私のうちには寄らないで、いきなり鎌滝を訪ねて太宰の部屋にはひつて行く。……
…「いま、鎌滝に行ってみました。ところが貴方、どうでせう。修治さんは、窓に腰をかけて雑誌を読んでゐる。それはまあ、それでいいが、日中だといふのに寝床が敷いてある。その寝床に誰かしらぬが若い男が二人背中を向けあって寝てる始末だ。まあ、それはそれでもいいとして、厚紙の将棋盤をチャブ台にして、二人の賓客が酒をのんでる。何たることだね。これはどうしても、貴方にお頼みしたいのですがね。ときどき貴方が鎌滝に行って、居候がゐたら追ひかへして下さい。金を送れば、無駄づかひする。送らなければ、惰気こんで死ぬと云ったりする。やっぱし、これはどうしても居候を追ひ返して頂くことですな。」
私はその役目を辞退した。「そんなにまで、他人の生活に立ち入るつもりはない」と私は答へた。たとひ私が云っても、太宰の食客たちは私をせせら笑ふだけである。…」。
太宰の友人たちが、太宰の下宿「鎌滝」に朝から晩まで入り浸っています。中畑さんと北さんは津島家の番頭さんですから、津島家から依頼されて津島修治(太宰治)の監督にきているわけです。この後、井伏鱒二と番頭さんたちは、津島修治を見きれず、結婚させて奥様に監督させようと考えます。この第一候補が阿佐ヶ谷のピノチオという小料理の主人(二代目)の娘さんでしたが、結局、うまくいきませんでした。
★写真は筑摩書房板、井伏鱒二全集(12)です。「亡友 ―鎌滝のころ―」他の太宰治関連の記述が多く掲載されていました。定価は6千円ですが、古本ではかなり安く購入することが出来ます。一読の価値があります。