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●太宰治の御嶽を歩く
    初版2009年4月18日  <V01L01>

 すっかり春らしくなりましたので、今回は「太宰治を巡って」で”御嶽ハイキングコース”を紹介したいとおもいます。太平洋戦争が始まった翌年の昭和17年2月、太宰治も含めた阿佐ヶ谷会のメンバーで青梅線の御嶽駅に梅見と蕎麦を食べに向かいます。


「阿佐ヶ谷会…」
「阿佐ヶ谷会」文学アルバム>
 「阿佐ヶ谷会」については、村上護の「阿佐ヶ谷文士村」が有名ですが、近年になって青柳いづみこさんが書かれた「青柳瑞穂の生涯」や、川本三郎氏と青柳いづみこさんが監修した「阿佐ヶ谷会文学アルバム」が相次いで出版されています。インターネットでも「阿佐ヶ谷会」について書かれているのも多く見かけます。ここでは太宰治を中心にした「阿佐ヶ谷会」を掲載したいとおもいます。まず最初は「阿佐ヶ谷会文学アルバム」の”あとがき”からです。
「あとがきにかえて
「新・阿佐ヶ谷会」縁起…
 …過去七回の会の中で、とりわけ忘じがたいのは第三回(二〇〇三年六月二十八日)の”奥多摩篇”だろう。昭和十七年、阿佐ヶ谷文士たちが、奥多摩の御嶽にゆき、玉川屋という蕎麦屋で懇親会を開いたことが知られている。
玉川屋は今も健在。そこで、川本さん以下のわれわれ常連メンバーは、かつての奥多摩行と同様、十二時半、立川駅に集合。御嶽渓谷を散策し、玉川屋に向かった。…」

 ”あとがき”から始まって申し訳け分けないのですが、今回のテーマである昭和17年の”御嶽”について書かれていましたので取り上げました。私と考えることは同じようです。この「阿佐ヶ谷会文学アルバム」は「阿佐ヶ谷会」のメンバーが「阿佐ヶ谷会」について書いたものを選んで集めた特集本になっています。少々お高い(3800円税別)ですが、一読の価値がありますので是非とも読んでいただきたいとおもいます。

写真は幻戯書房板の「阿佐ヶ谷会文学アルバム」です。写真や阿佐ヶ谷の地図も掲載されています。「阿佐ヶ谷会」を知るには必読の一冊です。

太宰治年表
和 暦 西暦 年  表 年齢 太宰治の足跡
昭和11年 1936 2.26事件 28 2月中旬 芝済生会病院に入院
10月13日 江古田の東京武蔵野病院に入院
11月12日 杉並区荻窪の光明院裏の照山荘アパートに転居
11月15日 天沼一丁目238番地の碧雲荘に転居
昭和12年 1937 蘆溝橋で日中両軍衝突 29 6月 初代と離婚成立
6月21日 天沼一丁目213の鎌滝方に転居
昭和13年 1938 関門海底トンネルが貫通
岡田嘉子ソ連に亡命
「モダン・タイムス」封切
30 9月13日 杉並区天沼から御坂峠の天下茶屋に転居
9月18日 石原美智子とお見合い
11月6日 太宰、石原美智子と婚約
11月 甲府市西竪町の寿館に下宿
昭和14年
1939 ドイツ軍ポーランド進撃 31 1月8日 杉並の井伏鱒二宅で太宰、石原美智子と結婚式をあげる。甲府の御崎町に転居
9月1日 東京府三鷹村下連雀百十三番地に転居
昭和17年 1942 ミッドウェー海戦 34 2月 御嶽ハイキング
12月 今官一が三鷹町上連雀山中南97番地に転居
昭和19年 1944 マリアナ海戦敗北
東条内閣総辞職
レイテ沖海戦
神風特攻隊出撃
36 1月10日 上野駅でスマトラに向かう戸石泰一と面会
昭和20年 1945 ソ連参戦
ポツダム宣言受諾
37 4月 三鷹から妻美智子の実家、甲府市水門町に疎開
7月28日 津軽に疎開



「JR青梅駅」
<JR青梅駅>
 今回は太宰治が参加したことが書かれている上林曉の「奥多摩行」を参考にしました。この本によると、先ず太宰治と阿佐ヶ谷会メンバーが訪ねたのは青梅線の沢井駅でした(御嶽駅の一つ手前の駅)ので、私もこの沢井駅に向かいました。私が訪ねたのは今年の4月12日(日曜日)です。東京駅から青梅行特快に乗ったのですが、青梅までなんと、1時間14分掛かってしまいました。遠いです。東京駅からはこの青梅線青梅行特快が一番速いそうです。上林曉の「奥多摩行」によると、太宰治も含めた一行七人は2月5日の12時30分に立川駅で待ち合わせたそうです。遅刻が何人かいて(太宰治は時刻通り)遅れて御嶽に向かいます。

写真はJR青梅駅のプラットホームです。立川駅で降りたかったのですが、特快はそのまま青梅まで行きますので降りませんでした。写真左側の電車は東京駅から乗ってきた青梅特快です(ここで折り返し東京行きになります)。ここで青梅線の奥多摩行きに乗り換えます。上林曉の「奥多摩行」では、一行は立川から御嶽の一つ手前の沢井駅に向かっていますので私も沢井駅に向かいました。太宰治一行は一駅分、多摩川沿いを散策するためでした。

青梅線は戦前は立川駅から御嶽駅までで、青梅電気鉄道という私鉄でした。御嶽駅から奥多摩駅まで開通したのは国有化後の昭和19年7月になります。

「小澤酒造」
<大きな造り酒屋>
 青梅駅から沢井駅に向かいます。6駅15分でした。当然単線でしたのですれ違いの待ち合わせがありました。沢井駅は駅員のいない無人駅でしたが、SUIKAの改札がありました。
「…終点から一つ手前の沢井駅で、一行七人が下車した。大きな造り酒屋の庭に、六尺桶が何本も乾かされ、その桶の色を見ながら坂を降りると、楓橋と書いた白い橋へ出た。…」
 太宰治も歩いたであろう沢井駅からの坂を下って行くと、坂の途中に小澤酒造のアルミ製の酒樽?がありました(六尺桶はありませんでした、当然か!)。その先の青梅街道(411号線)を越えると澤乃井園(小澤酒造)というお酒も飲ましてくれるレストランもあります。

写真は青梅街道(411号線)で、右側は小澤酒造です。左側に多摩川が流れています。

「舘山寺と鐘」
寒山寺>
 沢井駅の小澤酒造から坂を下がると多摩川に架かった楓橋に出ます。この橋の先、右側に舘山寺があります。
「…橋を渡ると、寒山寺だった。誰かが鐘を一つ突いた。乱打してはいけないと書いてある。鐘の音のひびいてゆく橋のむかうの青年学校の庭では、生徒たちが教練を受けてゐた。寒山寺は、山蔭で寒く、なんの味もない新しいお堂だつたが、場所は絶佳、建立者が支那から持って来た仏像が、本尊に祭ってあるといふ。…」
 舘山寺の鐘は戦時中に供出されていますので、現在の鐘は戦後のものとおもわれます。”乱打してはいけない”とは書かれていませんでしたが、打っていいともかかれていませんでした。

写真の上が寒山寺で、正面が鐘です。持ったより小さな鐘でした。右の坂を登った上にある寒山寺は昭和初期に建てられたようです。ですから、太宰治が見た寒山寺と同じです。

「河原の岩の上」
河原の岩の上>
 この御嶽へのハイキングで太宰治と阿佐ヶ谷会一行は四枚の写真を撮影しています。その内の三枚は「阿佐ヶ谷会文学アルバム」の中に掲載されていましたので、撮影場所を探してみました。
「…河原の岩の上に並んだところを、安成さんが写真に撮った。それから河原に坐って、林君の持って来た海苔巻を食べた。太宰君は、玉川屋の蕎麦や酒のことを知らないで、寒山寺で今日の遠足は終りかと思ってゐたといったので、皆が笑った。…」
 多摩川の大岩の上に太宰治を含めたメンバーが乗って撮影しています。岩の形状とバックの山並みから場所を探しました。何せ50年以上前なので場所の特定が難しかったです。

写真は沢井駅と御嶽駅の中間辺りの多摩川の河川敷です。当時の写真と見比べてください。山並みは同じようですが、岩の形がイマイチ、でした。

「御嶽橋」
御嶽橋>
 沢井駅から多摩川沿いに歩いて、1Km一寸で御嶽駅下の御嶽橋になります。今は川沿いに遊歩道ができて、歩きやすくなっています。二枚目の写真は御嶽橋の橋の上で撮影されています。
「…御嶽橋に辿りついて、橋の上でまた写真を撮った。橋のむかうに渡ってみたかったけれど、たうとう渡れなかった。橋のむかうに、心が残った。…」
 こちらも写真の場所は山の形で確認しました。御嶽橋の位置は変わっていないようなので、橋の上で撮影されたのは間違いないとおもいます。

正面の橋が多摩川に架かる御嶽橋です。この橋の袂で撮影しています。この辺りの多摩川は岩場が多く、流れも速いため、訪ねた時もカヌーのスラローム大会が開催されていました。御嶽橋の全景も掲載してておきます(右手でカヌースラローム大会を開催していました)。

「玉川屋」
玉川屋>
 最後は御嶽で有名な蕎麦屋の玉川屋です。川の名は多摩川なのに、蕎麦屋の名前は玉川屋なのですね。
「…玉川屋は、茅葺きで、宿場の面影が感じられ、土間の障子に、青柳氏が目を停めたりしてゐた。青柳氏といへば逸早く、床に置いた釜に目をつけてゐた。玉川屋の老主人は、釜の蒐集家で、奥多摩の谷合ひにある釜は、大抵漁り尽してゐるとのことである。……」
 列ばないと食べられないかとおもったのですが、何せ田舎なので、待たずに食べることができました。12時過ぎに入ったのですが、空いていました。いろいろ食べてみようかともおもったのですが、結局、”天麩羅そば”になってしまいました。蕎麦は美味しかったのですが、天麩羅の方はまあまあという感じです。この玉川屋さんでも写真が一枚撮影されています。太宰治が窓際に座っている写真です。建物が建て直されているので同じ場所が無くなっているのですが、似た場所の窓際の写真を一枚撮影しておきました。

右の写真は御嶽駅側から撮影した玉川屋さんです。趣があっていいとおもったのですが、聞いてみたら建て直されているそうです。青梅街道(411号線)見た玉川屋さんも掲載しておきます。

「御嶽駅」
御嶽駅>
 太宰治と「阿佐ヶ谷会」一行は夜9時頃まで玉川屋で飲んでいたようです。梅見物などと言っていますが、結局は飲みたかっただけのようです。
「…九時二十六分御嶽駅発車。車内で、太宰君が弁当に持って来たおむすびを食べてゐた。アパートで独り暮しをしてゐる安成さんが一包みもらって、あすの朝の食事が出来たと言って、喜んでゐた…」
 太宰治は美知子さんと結婚した後ですので、弁当も持ってこれたとおもいます。一番良いころではないでしょうか。

写真は御嶽駅のプラットホームです。階段のところの手すりが古くて当時のままではないかおもいます。太宰治も触った手すりと考えれば楽しいです。御嶽駅舎は建て直されていましたが、昔の面影があります。御嶽駅は武蔵御嶽神社への登り口として有名で、昔は御嶽大権現と呼ばれ山岳信仰の場として大勢の人が訪ねていたようです。

次回は三鷹の戦後を歩きます。


太宰治の御嶽地図



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