●太宰治の三鷹を歩く 入水編
    初版2009年10月10日  <V01L03> 暫定版

 「太宰治を巡って」の未掲載部分を順次掲載しています。今週は「太宰治の三鷹を歩く 入水編」です。太宰治は昭和23年6月13日夜半から行方不明になります。14日午前11時頃に野川家のおばさんが二階に太宰と富栄さんが居ないのに気づき、大騒ぎになります。


「野川家跡と千草跡」
<太宰治 行方不明>
 昭和23年6月13日から14日の太宰と富栄さんについては、審美社の「太宰治研究 第三号(昭和38年4月発行)」に「千草」の増田静江さんが書かれた「太宰さんと「千草」」がかなり詳細に書かれています。その場におられた本人が書かれているのですから、正確なはずです。
「…十四日の朝、と云っても、十一時頃になっていたかと思います。山崎さんの所の野川さんに、お部屋の様子が変だと聞かされて、私は思わずはっといたしました。不吉なものが私の胸をかすめて、そんなばかなことが、と打消しながら、野川さんと山崎さんのお部屋にあがってみました。
 部屋の中は綺麗に片づいて居りました。本棚の上にはお二人の写真が飾られ、小さな茶碗に水が供えられて、机の上には奥様やお友達、そして私どもに宛てた遺書が置いてありました。…」

 「千草」は野川家の右斜め前になります。太宰は道を挟んだ「千草」と山崎富枝さんが下宿していた野川家の二階とを往復することになります。山崎富枝さんが三鷹に移ってきたのは昭和21年11月ですから、太宰が金木から戻ったときと同じ時期になります。最も、二人が「若松屋」で出会うのは翌年の3月まで待たなければなりません。話は戻りますが、「千草」の増田さんと野川さんはどうしたら良い変わらず、時間ばかりが過ぎていきました。夕方になり、「千草」のご主人が戻り、朝日新聞の末次さんと画家の吉岡さんが、太宰と打合せのために「千草」に来られたため、皆で相談の上、下連雀のお家へ伺ったようです。野原一夫の「回想 太宰治」では
「…もう時刻は夜になっていたが、急報は四方に飛んだ。電話のない当時のことで、若松屋の自転車が役立った。桜井さんも聖子さんも若松屋から急報を受けた。野平君と房子さんの新居は当時西荻窪にあったが、その家の玄関を目を血走らせた若松屋がたたいたのは、もう夜半に近かったという。…」
 と書かれています。この時に三鷹警察署に二人の捜索願が出されます。

写真の左側、少し先に「千草」がありました。野川家は現在の永塚葬儀社のところです。写真の右側、駐車場の左隣になります。「千草」跡は再開発ビルになってしまっていますが、再開発前の写真がありますので掲載します(写真左側中央のピンクの建物の所)。再開発ビルのところに「千草」の記念碑があります。

「回想 太宰治」
<「回想 太宰治」 野原一夫>
 戦後の太宰治について、文学論以外で一番良く書かれているのは野原一夫の「回想 太宰治」です。昭和55年5月発刊で、過去に戦後の太宰治について書かれた本などを良く調べた上で、詳細に書かれています。一番参考になる図書とおもいます。最も、「太宰行方不明」なども、増田静江さんが書かれた「太宰さんと「千草」」をそっくり参考にしているようです。「回想 太宰治」から、野原一夫が太宰の失踪を知ったときからを歩いてみます。
「…その頃の角川書店は旧近衛連隊の兵舎跡の木造二階建ての一室にあった。六月十五日の朝、出社すると、総務課の女子社員から、ついさっき林セイ子さんというひとから電話があったと告げられた。ダザイさんというひとがいなくなったという。
「ダザイ? いなくなった?」
「お電話が遠くてよく聞きとれなかったんですけど、たしかダザイさんとおっしゃってました。
太宰治先生のことでしょうか。」
「いなくなった?」
「ええ、そうおっしゃってました。」
 次の瞬間、私は立ちあがり、書店主への言伝てをその女子社員にたのむと、もう走り出していた。
 旧近衛連隊の広い営庭を私は走り抜けた。田安門をくぐり、靖国神社の脇を通り、さすがに息が切れた。一息ついてまた私は走った。喘ぎながら、走りつづけた。商店街を抜け、飯田橋の駅に着いたとき、足がもつれて、よろめき、改札口に両手をついた。…」

 やっぱり、ビックリしますね。とにかく、三鷹へ、でしょ。当時の角川書店は旧近衛連隊跡ですから、現在の北の丸公園になります。野原一夫は会社を飛び出した後、田安門から靖国神社の前を通り、早稲田通り(神楽坂通り)から飯田橋駅に向かいます。

写真は、野原一夫の新潮社版「回想 太宰治」です。昭和55年5月発行です。野原一夫は昭和53年7月に筑摩書房が会社更生法を申請した時点で、責任をとり退社、以後執筆活動に専念します。平成11年、77歳で死去しています。

「旧三鷹駅」
<三鷹駅>
 昭和23年6月15日の朝、野原一夫は、会社を飛び出し、飯田橋駅から中央線で三鷹へ向かいます。
「…三鷹駅の階段を駈けおり、改札口を出ると、そこに、桜井浜江さんと林聖子さんが立っていた。聖子さんは私を見ると泣きそうな顔をした。桜井さんは唇をかんでうつむいた。
「太宰さんがいなくなったって、どういうこと?」
 聖子さんは息を呑みこむようにしてから、
「駄目らしいの。」
「駄目?」
「いきなりショックを与えてはいけないと思って、いなくなったって言ったんだけど……死んじゃったらしいの。」
 血の気の引いていくのが、自分でわかった。…」

 この当時に太宰と関連のあった方々は皆何かを感じていたのだとおもいます。体調もかなり悪くなっていますから、ひょっとして、とおもってしまいます。林聖子さんは「風紋」の聖子さんのことです。
 
写真は戦後まもなくの頃の三鷹駅です(「三鷹の今昔」より)。”階段を駆けおり”と書いていますが、当時は階段はありませんでした。現在の駅は四代目ですから、この写真の駅の後に二代目の三鷹駅(「三鷹の今昔」より)が建てられています。

「玉川上水」
<入水場所>
 野川家の近くで、自殺できそうな場所はこの玉川上水しかありません。現在はそれ程の水量ではありませんが(申し訳程度の水量)、当時は水道用に使われていたこともあり、かなりの水量だったとおもわれます。
「…「三人で歩いていたら、野平さんが見付けたの。土堤の一ヵ所が、あ、ここです。」
見ると、土堤の一ヶ所のその部分だけ、流れに向ってある幅で雑草が薙ぎ倒され、その両側にえぐったような跡があって、ひきちぎられた雑草と剥き出しになった赤土がまじり合っていた。なにか重いものが、そこをずり落ちていった形跡だった。…」。

 いつ頃からか玉川上水の土手には柵ができています。歩道もあり、散歩の道になっていますが、当時は玉川上水の両側には土手しかなかったとおもいます。土手から玉川上水に落ちると、かなりの水量ですから、土手に這い上がるのはむつかしいとおもいます。

写真の所が太宰の玉川上水への入水場所です。玉鹿石の碑があるのですが、気がついたのですが昔に比べて石が小さくなっています。上部の1/4程が無くなっています。数年前の玉鹿石の碑の写真を掲載しておきます。

「桜井宅」
<桜井浜江さん>
 桜井浜江さんと太宰は非常に親しくしており、太宰も桜井宅で良くお酒を飲ましていただいていたようです。太田静子さんが三鷹に来られたときもここで泊まっています。野原一夫の「回想 太宰治」からです。
「…申しわけないと思いながらも、私たちは桜井さんに甘えていた。ほかならぬ太宰さんのためなのだからという、思いあがった気拝も、心の隅にあったかもしれない。聖子さんもアトリエにきて、私たちはすき焼などを御馳走になりながらお酒をのみ、太宰さんの思い出を語り合った。そう、それはもう、”思い出”になっていた。…」。
 桜井浜江さんは山形市宮町に生まれ、山形第一高等女学校を卒業後、結婚を勧める親の反対を押し切って上京、絵を学びます。作家志望の秋沢三郎と結婚しますが、すぐ離婚。三鷹でひとり住まいをします。元夫との関係で太宰治や檀一雄と交流があり、太宰の短編「饗応夫人」のモデルといわれています。2007年死去されています。太宰を知る数少ない人だったのですが残念です。上記の聖子さんとは林聖子さんのことです。林聖子さんの特集も掲載する予定です。

写真の左側が桜井浜江宅です。この道をまっすぐ歩くと三鷹郵便局の交差点になります。


太宰治の三鷹駅前地図(昭和20年代編)


太宰治の三鷹地図(入水編)


太宰治年表
和 暦 西暦 年  表 年齢 太宰治の足跡
昭和14年
1939 ドイツ軍ポーランド進撃 31 1月8日 杉並の井伏鱒二宅で太宰、石原美智子と結婚式をあげる。甲府の御崎町に転居
9月1日 東京府三鷹村下連雀百十三番地に転居
昭和17年 1942 ミッドウェー海戦 34 12月 今官一が三鷹町上連雀山中南97番地に転居
昭和19年 1944 マリアナ海戦敗北
東条内閣総辞職
レイテ沖海戦
神風特攻隊出撃
36 1月10日 上野駅でスマトラに向かう戸石泰一と面会
昭和20年 1945 ソ連参戦
ポツダム宣言受諾
37 4月 三鷹から妻美智子の実家、甲府市水門町に疎開
7月28日 津軽に疎開
昭和21年 1946 日本国憲法公布 38 11月 金木から三鷹に戻る、山崎富枝、ミタカ美容室に移る(三鷹の野川家に転居)
12月 中鉢家の二階を借りる
昭和22年 1947 織田作之助死去
中華人民共和国成立
39 1月 小山清が三鷹を去る
2月 下曽我に太田静子を訪ねる、三津浜で「斜陽」を執筆
3月 山崎富枝、屋台で太宰治と出会う
4月 田辺精肉店の離れを借りる
5月 西山家を借りる
8月 千草の二階で執筆
昭和23年 1948 太宰治入水自殺 40 3月7日 熱海 起雲閣別館に滞在(3月31日まで滞在)
3月18日 熱海 起雲閣本館に滞在]
4月25日 本郷の豊島与志雄宅を訪問
4月26日 本郷の筑摩書房を訪ねる
4月29日〜5月12日 大宮に滞在、「人間失格」を書き上げる
6月12日 大宮の古田晃を訪ねる(不在)
6月13日 玉川上水に入水自殺
6月19日 遺体が玉川上水で見つかる



「新橋」
<新橋>
 6月13日から14日の夜半に玉川上水に入水したものとおもわれていますが、遺体はなかなか発見されません。それでも、玉川上水の水量を減らしてもらい、捜索を続けます。野原一夫の「回想 太宰治」からです。
「…太宰さんと富栄さんの遺体は、その十九日の早朝、六時五十分に、通行人によって発見された。万助橋の下流約六百メートルのあたりに、新橋という小さな橋がかかっている。橋を渡りかかった通行人が、下流十メートルはどの水面に、揺れている二人の遺体を発見した。その人は万助橋交番に急報し、交番の巡査は千草にそれを知らせた。千草のおじさんとおばさんは巡査と一緒に現場に走った。おじさんは、用意してあったシートを小脇にかかえて走った。…」
 万助橋は吉祥寺通りに架かる橋で、井の頭公園の西の端になります。其処から南に700m程で新橋です。新橋の先の右側には、明星高校があります。「千草」からは玉川上水沿いに、太宰家からは下連雀一丁目の交差点経由が早くなります。遺体が発見された時の情景は野原一夫の「回想 太宰治」や山岸外史の「人間 太宰治」等に詳細に書かれていますので、一読してください。

写真の橋が新橋です。橋を見ると昭和33年と書いてありましたので、当時の橋とは架け変わっています。この橋の下流10m程のところに太宰と富栄さんの遺体が発見された柵があったようなのですが、現在はありません。遺体発見現場とおもわれる所の写真を掲載しておきます。

「お墓」
<禅林寺のお墓>
 もともと禅林寺は森林太郎(森鴎外)の墓があるので有名でした。お寺の山門をくぐるとすぐ右側に森林太郎の碑があります。太宰は森鴎外を尊敬しており「花吹雪」のなかで
「…この寺には、森鴎外の墓がある。…
…墓地は清潔で、鴎外の文章の片影がある。私の汚い骨も、こんな小綺麗な墓地の片隅に埋められたら、死後の救いがあるかもしれない…」。

 と書いていますので、実家のお墓でなくて良かったのかもしれません。まさか、森鴎外のお墓の前に自身のお墓が出来るとは思いもしなかったのではないでしょうか! 
 又、林聖子さんのお母様の秋田富子さんのお墓もすぐ近くにあります。

写真のお墓が太宰治のお墓です。お墓の真ん中が太宰治のお墓で左側は津島家のお墓となっています。青森の実家の墓に入ることを断られて三鷹に作られたようです。

次回は「太宰治の三鷹を歩く」で、未掲載分を纏めて歩きたいとおもっています。