<太宰治 行方不明>
昭和23年6月13日から14日の太宰と富栄さんについては、審美社の「太宰治研究 第三号(昭和38年4月発行)」に「千草」の増田静江さんが書かれた「太宰さんと「千草」」がかなり詳細に書かれています。その場におられた本人が書かれているのですから、正確なはずです。
「…十四日の朝、と云っても、十一時頃になっていたかと思います。山崎さんの所の野川さんに、お部屋の様子が変だと聞かされて、私は思わずはっといたしました。不吉なものが私の胸をかすめて、そんなばかなことが、と打消しながら、野川さんと山崎さんのお部屋にあがってみました。
部屋の中は綺麗に片づいて居りました。本棚の上にはお二人の写真が飾られ、小さな茶碗に水が供えられて、机の上には奥様やお友達、そして私どもに宛てた遺書が置いてありました。…」
「千草」は野川家の右斜め前になります。太宰は道を挟んだ「千草」と山崎富枝さんが下宿していた野川家の二階とを往復することになります。山崎富枝さんが三鷹に移ってきたのは昭和21年11月ですから、太宰が金木から戻ったときと同じ時期になります。最も、二人が「若松屋」で出会うのは翌年の3月まで待たなければなりません。話は戻りますが、「千草」の増田さんと野川さんはどうしたら良い変わらず、時間ばかりが過ぎていきました。夕方になり、「千草」のご主人が戻り、朝日新聞の末次さんと画家の吉岡さんが、太宰と打合せのために「千草」に来られたため、皆で相談の上、下連雀のお家へ伺ったようです。野原一夫の「回想 太宰治」では
「…もう時刻は夜になっていたが、急報は四方に飛んだ。電話のない当時のことで、若松屋の自転車が役立った。桜井さんも聖子さんも若松屋から急報を受けた。野平君と房子さんの新居は当時西荻窪にあったが、その家の玄関を目を血走らせた若松屋がたたいたのは、もう夜半に近かったという。…」
と書かれています。この時に三鷹警察署に二人の捜索願が出されます。
★写真の左側、少し先に「千草」がありました。野川家は現在の永塚葬儀社のところです。写真の右側、駐車場の左隣になります。「千草」跡は再開発ビルになってしまっていますが、再開発前の写真がありますので掲載します(写真左側中央のピンクの建物の所)。再開発ビルのところに「千草」の記念碑があります。