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●太宰治の三鷹を歩く 戦後編 (上)
    初版2009年5月16日  <V01L01>

 「太宰治を巡って」の改版を順次おこなっています。今週は「太宰治の三鷹を歩く 戦後編(上)」です。太宰治が原稿を書くために借りていた部屋と、飲み屋を歩いてみました。今回で全て書き切れませんので、続編か改版で対応します。


「三鷹車庫 陸橋」
「三鷹文学散歩」
三鷹車庫 陸橋>
 三鷹での太宰治の史蹟?で残っているのはここぐらいではないでしょうか。もっと正確に言うと、この陸橋と玉川上水、井の頭公園になるとおもいます。戦前からの陸橋で、多分、三鷹電車区の車庫が出来たときに作られたのではないかとおもいます。「三鷹文学散歩」からです。
「…太宰さんが亡くなる少し前、田村茂氏が三鷹市内で彼をうつした写真が数葉ある。彼の全集や文学アルバムといったものの中に収録されていて、よくわれわれの目につくものである。…
……そういう彼の苦悩の深さを、まざまざと感じさせる写真の一つに、やはり二重廻しを羽織った彼が
陸橋の上に立って、欄干に軽く肘をもたせ、指には一本の巻たばこを挟んで、遠くの空をじっとみつめているのがある。…」
 田村茂氏は北海道札幌市出身のの写真家で本名は田村寅重、太宰治に関しては数枚の写真がありますが、
版権の関係(1909-1987)で掲載は出来ませんでした。

写真は三鷹電車区車庫の陸橋です。陸橋は当時のままです。太宰の写真はこの陸橋の階段の途中と、陸橋の上で撮影されていました(階段の下に記念碑があります)。

 「三鷹文学散歩」はamazon等では購入出来ないとおもいます。「日本の古本屋」で古本の購入は出来ますが、改版されていますので三鷹図書館等で購入されるのが一番良いとおもいます。

「玉川上水」
玉川上水>
 太宰治と山崎富枝が入水自殺したところとして有名になりました。東京に住んでいる方は、小学校の時に江戸の町の水源を確保するために玉川兄弟が私財を投じて工事を行なったことを習ったとおもいます。だから名前は玉川上水なのです(多摩川ではない)。「三鷹文学散歩」からです。
「…玉川上水は、どんなに水が澄んでいると思えるときでも、鉛色をした水面から下はまったく少しも覗き見ることのできない流れだった。…
……今あるむらさき橋から三鷹駅の方に寄ったところで、ドーツという物凄いほどのひびきを立てている箇所があった。…
……戦争の終る前年、一九四四年の夏の終りのある夜、わたしは太宰さんといっしょにこのどうどう滝をつくづくと眺めたことがあった。酒の店があく五時ごろから、二、三軒の店を飲み歩いた末に、太宰さんが、「君にちょっと凄いところを見せてやろう。」と言ってわたしをそこへ連れていったのである。彼もわたしも土手の桜樹の根もとに足をかけて、覗きこむ姿勢になっていた。静まりかえった夜の底で、水音だけが高かった。水は夜目にも鮮やかなしぶきを見せて跳ね上がったり、大小の渦紋を描いたりしていた。
 「どうだ、すごいだろう。」と彼が言った。
 「絶景ですね。」とわたしは言った。…」

 玉川上水は1970年代以降は殆ど使われていませんでしたが、1986年、 東京都の「清流復活事業」により、小平監視所以東に下水処理水を利用して水を流し始めます。現在の水流は下水処理水となるわけです。

写真は今年の4月に撮影した玉川上水の桜並木です。流石に綺麗です。上記に書かれている”むらさき橋から三鷹駅の方に寄ったところ”を探したのですが、現在は無くなっているようです。むらさき橋から井の頭公園寄に小さな堰があるのですが、水流が弱く、音はしていないようです。

「若松屋跡」
うなぎ若松屋>
 ここからは、太宰が戦後通った飲み屋を三軒紹介します。先ず最初が屋台のうなぎ屋、若松屋です。太宰が一番良く通った飲み屋だったようです。野平一夫の「回想 太宰治」からです。
「…仕事部屋の近くの、駅前通りと交叉している広い道に画して、若松屋という屋台のうなぎ屋があった。そこの若主人の気っ風のよさが気に入ったのか、仕事のあとの酒はまず若松屋。奥の腰掛けに坐って、のれんのあいだから道行く人をぼんやり眺めながら、うなぎの肝でコップ酒ということになる。肝を好んだようであるが、安かったせいもあるかもしれない。だから、太宰さんに会いたいときは、三時すぎに若松屋に行けばよかった。…」
 戦後の太宰治を書いた本には必ず登場する飲み屋です。

写真は三鷹駅前交差点から西側を撮影したものです。角がマクドナルドになります。現在はさくら通りですが、当時は玉川上水から分岐した品川上水がここを流れていました。この交差点には橋が架かっていたわけです。若松屋があった場所はこの交差点から少し西の北側、写真のPのマークのところ辺りではないかとおもいます。記念碑もその辺りにあります。

「すみれ跡」
すみれ>
 太宰の行き付けの飲み屋、「すみれ」です。二軒目になります。三鷹駅前交差点から中央通りを少し南に下がった右側です。
「…ビールを一本のむとうなぎ屋さんを出て、橋を渡ってすこし行った右手の、俄か造りのマーケットの奥にあるすみれという小料理屋に入りました。スタンドの高い椅子に腰かけてビールをのみはじめたとき、戸口があいて、なかをうかがうようになさって、たしかあのとき野原さんは、黒いジャンパーを着てベレー帽をかぶっていらっしゃった。」そのすみれという小料理屋は、満洲から引き揚げてきたという美人の未亡人のやっている、太宰さん御贔屓の店だった。鰻屋にいなかったらすみれか千草をのぞいてみるということになっていた。…」

写真は現在の中央通りです。先は三鷹駅前交差点となります。写真の中央にトラックが止まっていますが、この左側のビルのところが、戦後の一時期、闇市マーケットになっていました。このマーケットの中に「すみれ」がありました。当時の面影はまったくありません。新宿東口の尾津マーケット、和田マーケットと同じです。

「美登里家跡」
美登里家>
 最後が寿司屋の美登里屋です。このお店はつい先頃まで同じ場所でお店を開いていたのですが、残念ながら現在は閉店されています。このお店について書いてある本を探したのですが、太宰治自身が書いている「鴎(かもめ)」しかありませんでした(もう少し探してみます)。
「…三鷹駅ちかくの、すし屋にはいった。酒をくれ。なんという、だらしない言葉だ。酒をくれ。なんという、陳腐(ちんぷ)な、マンネリズムだ。…
……少し酔って来た。すし屋の女中さんは、ことし二十七歳である。いちど結婚して破れて、ここで働いているという。
「だんな、」と私を呼んで、テエブルに近寄って来た。まじめな顔をしている。…」

 美登里家さんが太宰治について書いた雑誌があるようなのですが、まだ入手しておりません。

写真の正面右側、車の止まっているところに美登里家さんがありました。今はマンションになっているようです。


太宰治の三鷹駅前地図(昭和20年代編)


太宰治年表
和 暦 西暦 年  表 年齢 太宰治の足跡
昭和14年
1939 ドイツ軍ポーランド進撃 31 1月8日 杉並の井伏鱒二宅で太宰、石原美智子と結婚式をあげる。甲府の御崎町に転居
9月1日 東京府三鷹村下連雀百十三番地に転居
昭和17年 1942 ミッドウェー海戦 34 12月 今官一が三鷹町上連雀山中南97番地に転居
昭和19年 1944 マリアナ海戦敗北
東条内閣総辞職
レイテ沖海戦
神風特攻隊出撃
36 1月10日 上野駅でスマトラに向かう戸石泰一と面会
昭和20年 1945 ソ連参戦
ポツダム宣言受諾
37 4月 三鷹から妻美智子の実家、甲府市水門町に疎開
7月28日 津軽に疎開
昭和21年 1946 日本国憲法公布 38 11月 金木から三鷹に戻る、山崎富枝、ミタカ美容室に移る(三鷹の野川家に転居)
12月 中鉢家の二階を借りる
昭和22年 1947 織田作之助死去
中華人民共和国成立
39 1月 小山清が三鷹を去る
2月 下曽我に太田静子を訪ねる、三津浜で「斜陽」を執筆
3月 山崎富枝、屋台で太宰治と出会う
4月 田辺精肉店の離れを借りる
5月 西山家を借りる
8月 千草の二階で執筆



「中鉢家跡」
中鉢家>
 ここからは太宰が三鷹で執筆のために借りていた部屋を紹介します。戦後、太宰は通算、5の部屋を借りていたようです。最初は昭和21年末から借りていた中鉢家です。ここでは野平健一の「矢来町半世紀」からです。
「…東京に帰ってきた太宰さんはたちまち編集者の大攻勢にさらされた。太宰さんが最も信頼していたお弟子である堤重久氏宛の当時の書簡には、次のようにある。
「十四日にこちらへ移住しました。それから客と酒と客と酒、あすから雲がくれして仕事をはじめるつもりです。
 雲がくれとは、近くに別に一部屋を借りて、べんたうを持って通勤するのです。」
 その仕事部屋は、
三鷹郵便局の近くだったようだが、私も教えてもらえなかった。太宰さんはそこに朝の九時すぎに出勤し、午後の三時頃まで仕事をした。まじめな勤め人の凡帳面さである。書けても書けなくても、朝、机に向うのだと言っていた。…」
 中鉢家の二階を借りていたようです。この部屋を借りていたのは昼間は働きに出ている女性で、昼の間だけ借りることがてきたようです。

写真の丁度正面のビルの]ところです。マンションの前に記念碑が建っていますから直ぐにわかります。写真の反対側は三鷹郵便局です。

「田辺精肉店離れ跡」
田辺精肉店離れ>
 次に借りた場所が、田辺精肉店の離れです。昭和22年の春ころより借りています。
「…『斜陽』八章の中、一、二章は伊豆で書かれましたが、残りは全部、三鷹の仕事部屋でした。太宰さんは、その仕事部屋だけは、絶対に明かしませんでした。勿論、その頃の仕事部屋は、全く、本来の目的のために借りたもので、亡くなる前のとは違います。…」
 「斜陽」の一、二章は伊豆の三津浜、安田屋旅館で書いています。昭和22年3月です。この安田屋旅館の後、田辺精肉店の離れを借りて、「斜陽」三章以降を書いています。ですから、22年4月頃から借りたのではないかとおもいます。

右の写真左側のビルのところが、田辺精肉店の敷地でした。田辺肉店自体は路地を少し入った左側にありました。田辺精肉店の離れは写真のビルの左側辺りです。この田辺精肉店の敷地は間もなくして日本勧業銀行三鷹支店のビルになっています。

「西山家跡」
西山家>
 太宰が執筆のために借りていた部屋の三軒目です。三鷹駅の南西で、少し遠いところにあります。三鷹車庫の陸橋、南側と行った方がよいかもしれません。ここでは野平健一の「矢来町半世紀」からです。
「…ある日、私は、太宰さんと、たまたま、その秘密の仕事部屋の前を通ったのですが、それを、太宰さんは、無意識に、「ここが」と言いかけて、あわてて、やめて、随分後になって、「あのときは、あぶなく教えてしまうところだった」とそのときのことを明かしたことがあります。亡くなったとき着ていた灰色の背広で、必ずノーネクタイ、黒い風呂敷包みをかかえて、毎朝、そこへ通っていたのです。決して、人に知られぬため、途中まで同道した編輯者などいても、わざと三鷹の駅まで送り込んで、それから仕事部屋、というやり方をとり、日に五枚の原稿を書き、書き終ると、うなぎ屋でした。…」
 三軒目の西山家については、書かれた文書がなく、流用しています。借りていたのは昭和22年5月〜6月頃のようです。

写真の少し先の右側です。住宅街なので、直接の写真は控えさせていただきました。持主も変わって、昔の面影はありません。

次回も継続して戦後の三鷹を歩きます。


太宰治の三鷹地図



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