▲トップページ 著作権とリンクについて メール 最終更新日: 2018年06月07日
●太宰治の三鷹を歩く 戦前編
    初版2000年12月2日
    二版2009年3月7日 <V01L01>

 今回から「太宰治を巡って」の改版をおこないます。最初に「太宰を巡る」を掲載したのは2000年12月でしたから、8年経ってしまいました。今回から順次改版します。まず最初は「太宰治の三鷹を歩く 戦前編」です。昨年は太宰が亡くなってから60年ということで、桃桜忌も大変だったようです。少し静かになったところで改版することにしました。


「三鷹 平和通り (1)」
「三鷹文学散歩」
三鷹 平和通り (1)>
 太宰治は昭和14年1月、石原美知子さんと正式に結婚します。結婚式は東京でしたが、新婚家庭は甲府で過ごします。そして9月になると東京の三鷹に転居します。今回は三鷹市立図書館編集の「三鷹文学散歩」と津島美知子さんの「回想の太宰治」を参考にして歩いてみました。最初は「回想の太宰治」からです。
「…昭和十四年九月一日から太宰は東京府北多摩郡三鷹村下連雀の住民となった。六畳四畳半三畳の三部屋に、玄関、縁側、風呂場がついた十二坪半ほどの小さな借家ではあるが、新築なのと、日当たりのよいことが取柄であった。太宰は菓子折の蓋を利用して、戸籍名と筆名とを毛筆で並ペて書いて標札にして玄関の左の柱にうちつけた。門柱ぎわの百日紅が枝さきにクレープペーパーで造ったような花をつけていた。南側は庭につづいて遥か向こうの大家さんの家を囲む木立まで畑で、赤い唐辛子や、夙にゆれる芋の葉
が印象的だった。西側も畠で夕陽は地平線すれすれに落ちるまで、三畳の茶の間とお勝手に容赦なく射し込んだ。引越しの翌日太宰は荻窪に荷物のひきとりに行った。昨秋御坂に出発するとき、下宿にあった物を井伏家に預かっていただい三年も経っていたし、
丸屋質店の倉庫に入っているものもあった。…」
 太宰は東京で暮らしたかったようです。やっぱり東京がいいんですね。奥様の美知子さんが”門柱ぎわの百日紅”と書いていますが、この百日紅は現在は井心亭(せいしんてい)に移されていますので、百日紅の写真を掲載しておきます。又、丸屋質店と書かれていますが、この質屋は荻窪にある質屋で、”まるや質店”が正しい名前です。

写真は三鷹、平和通りです。右側が井心亭(せいしんてい)、左側の少し入ったところに太宰治宅跡があります。個人のお宅ですので直接の写真は控えさせて頂きました。

 「三鷹文学散歩」はamazon等では購入出来ないとおもいます。「日本の古本屋」で古本の購入は出来ますが、改版されていますので三鷹図書館等で購入されるのが一番良いとおもいます。

「三鷹 平和通り (2)」
<三鷹 平和通り (2)>
 この平和通りには戦前は有名人が多く住んでいました(当然ですが戦前は平和通りという名前は無かった)。新興住宅街だったのでしょう。ここでも「回想の太宰治」からです。
「…わが家の向こう側の南寄りに、阿南大将邸がある。その手前は夫人の令弟竹下参謀の邸で、小泉中将と三人、陸軍の将星の私邸があった…
…阿南大将が、終戦の日に自決されたとき、下の令息はまだご幼少だった。楚々とした夫人は小泉中将夫人同様、隣近所、といっても、我々借家族の間で評判のよい方であった。
小泉中将は、米沢出身の陸軍の三羽烏とうたわれた方と聞いていたが、質実なお暮らしのようで、牛乳を井之頭公園をぬけて吉祥寺までとりに行かなくてはならなくなったとき、小泉さんと私の家ともう一軒組んで、交替で行くことになった。小泉さんではお嬢さんがその役を引き受けていて、その牛乳は体の弱い弟さんのためだと聞いていたが、壕でなくなったのはこの弟さんだったらしい。小泉中将も終戦後自決された。
 全く違う畑の方だけれども、阿南さんといい、小泉さんといい、そのご家族の方々は、お立派だったと思う。
 小泉中将邸の少し先の角に島津さんの瀟洒な邸があった。…
…時々、島津さん宛のが誤配された。島津邸も爆弾のため取払われ、元女官長は郷里鹿児島に隠棲されたと聞いた。…」

 阿南大将については、終戦時の陸相です。昭和20年8月15日の早朝に自決されています。詳細は「日本の一番長い日を歩く (下)」を参照してください。竹下参謀は満州事変と8月15日にも登場します。小泉中将については、昭和21年12月10日に自決された小泉恭次 陸軍中将です。山形出身ですので間違いないとおもいます。前回掲載した元厚生大臣陸軍軍医中将、小泉親彦氏は間違いでした。御免なさい。

写真は上記の写真の反対側から撮影したものです。逆光なので写真がいまいちです。すべて個人のお宅ですので直接の写真は控えさせていただきました。

「三鷹駅」
三鷹駅>
 三鷹駅は昭和4年(1929)9月に三鷹信号所として開設されています。駅になったのは昭和5年6月です。昭和4年6月、三鷹電車庫として電車の車庫が出来たために駅も一緒に作ったという感じでしょうか。既に複線化と電化はなされており、立川と新宿の間に順次、駅を作っています。戦前では三鷹駅は中央線で最後に出来た駅のようです。三鷹駅が有名になったのは昭和24年7月14日の三鷹事件からです。昭和24年7月6日 下山事件、7月15日 松川事件、9月17日 三鷹事件と、奇っ怪な事件が続けて起こされます。「下山事件」と「松川事件」については掲載しておりますので、そちらを見てください。

写真は戦後まもなくの頃の三鷹駅です(「三鷹の今昔」より)。現在の駅は四代目ですから、この写真の駅の後に二代目の三鷹駅(「三鷹の今昔」より)が建てられています。私が知っているのはこの建て直された駅からです。

「三鷹駅前郵便局」
三鷹駅前郵便局>
 戦前から三鷹駅前にある郵便局です。ここでは「三鷹文学散歩」からです。
「…「男女川」の項で書きもらしたが、太宰さんが男女川の姿を見かけたという郵便局は、今でも当時とそっくりの感じでのこっている。
 三鷹駅南口広場の西南隅から南へ入った小路のはずれの左側にある、こぢんまりした郵便局がそれで、たしか
三鷹駅前郵便局と表示してあった。正面入口の横に鉄格子がはまった小窓があったりして、今ではその辺でも珍しく古風な建物のようである。。…」
 上記に書かれている”男女川”とは、お相撲さんの名前です。戦前、横綱までなったお相撲さんでした。正しくは「男女ノ川」です。

写真は現在の三鷹駅前郵便局です。上記には”古風な建物”と書かれていますが、建て直されて綺麗なビルになっています。又、写真の左側の道は現在はバス道となっていますが、戦前は車も通れない細い小径だったようです。


太宰治の三鷹地図


太宰治年表
和 暦 西暦 年  表 年齢 太宰治の足跡
昭和14年
1939 ドイツ軍ポーランド進撃 31 1月8日 杉並の井伏鱒二宅で太宰、石原美智子と結婚式をあげる。甲府の御崎町に転居
9月1日 東京府三鷹村下連雀百十三番地に転居
昭和17年 1942   34 12月 今官一が三鷹町上連雀山中南97番地に転居
昭和19年 1944 マリアナ海戦敗北
東条内閣総辞職
レイテ沖海戦
神風特攻隊出撃
36  
昭和20年 1945 ソ連参戦
ポツダム宣言受諾
37 4月 三鷹から妻美智子の実家、甲府市水門町に疎開
7月28日 津軽に疎開



「喜久家跡」
喜久家>
 ここからは太宰が三鷹で通った飲み屋の話になります。「喜久家」は太宰が三鷹に引っ越してきたその日に入った飲み屋として有名です。ここでは「三鷹文学散歩」からです。
「…三鷹駅南口広場の一隅から南方へ延びている一つの小路に入ると、すぐ左側に「山の音」という名の二階建ての喫茶店がある。
 そこが以前は
「喜久家」というノレンのかかった一杯のみ屋だった。
 わたしが太宰さんにつれられて最初にそのノレンをくぐったのは、大東亜戦争勃発の年の八月三日で、それからしばしば彼のあとにくっついて入ることになった…」

 上記に書かれている”三鷹駅南口広場の一隅から南方に延びている一つの小路”とは、三菱東京UFJ銀行の裏手の小路になります。現在はまっすぐの小路になっていますが、戦前から戦後しばらくは、西にすこし曲がった道でした。駅方面から左側二軒目が「喜久家」でした(喜久家は戦後しばらくして「山の音」という喫茶店に変わっています)。下記に戦前の三鷹駅前の地図を掲載しておきますので参考にしてください(「三鷹駅前60年史」を参照)。

写真の右側(正面は三鷹駅)一番奥のところが「喜久家跡」です。ただ、疑問点が一つあります。上記に書いた「三鷹駅前60年史」の昭和15年頃の駅前地図では、「喜久屋食堂」というお店が中央通りの駅から左側三軒目にあり、「喜久家」のところにはお店はありませんでした。”喜久家”と”喜久屋食堂”で少し名前が違うのですが、どちらが本物かは不明です。

「千草跡(戦前)」
千草(戦前)>
 戦後の「千草」については有名で、場所も分かっているのですが、戦前の「千草」については、場所が駅前という位でよく分かりませんでした。「三鷹文学散歩」からです。
「…喜久家のおやじさんはちょっと気むずかしい人で、十一時を看板としてそれを厳守する方針だったが、太宰さんは看板を過ぎてもいっこうに腰を上げようとはしない。それが毎晩のことなので、困ったトキちゃんが、それから一年近くたったとき彼女の知り合いのおでん屋「千草」に彼を案内した。
 千草は、現在三鷹駅前から禅林寺方面へと向かうバスが駅前広場を出て行く小路に入ると二、三軒目にあった。…」

 上記に”現在三鷹駅前から禅林寺方面へと向かうバスが駅前広場を出て行く小路に入ると二、三軒目”と書かれています。戦前のバス道は現在のバス道とは違っていたようです。三鷹駅前郵便局のところでも書きましたが、三鷹駅前郵便局の左側の道は戦前は細くてバスは通れませんでした。駅南口西側にあるパチンコ屋の左側の道が、駅からバスが出て行く道で、戻りの道は今と同じく線路際の道でした。これで戦前の「千草」の場所を特定する事ができました。

右の写真左側のバチンコ屋のところ辺りに「千草」があったはずです。正面が三鷹駅南口ですから、左側のパチンコ屋の角から手前に2、3軒目となるばずです。

「今官一邸跡」
今官一邸>
 今回最後の掲載は「今官一邸」です。こちらも、「三鷹文学散歩」に詳細が書かれていました。戦前の文学者でこの辺りに住んだ人は誰もいませんでした。太宰と同郷で、昭和8年の「海豹」、「青い花」の同人で太宰と親しくなります。そのため三鷹町上連雀山中南97番地に引っ越してきたのだとおもいます。
「…太平洋戦争の勃発からちょうど一年目の開戦記念日、三木露風、吉田一穂、金子光晴、森美千代夫妻、野口雨情、山本有三、武者小路実篤、亀井勝一郎、太宰治など、数多くの詩人、作家、評論家の住む、「武蔵野文士村」に、もう一人文士が移って来た。今宮一である。奇しくもこの日は、今宮一の三十三歳の誕生日に当っていた。…」
 「武蔵野文士村」なんてあまり聞いたことがありません。桜桃忌(おうとうき)の名は今官一が名付けています 。昭和31年(1956)、『壁の花』で第三十五回上半期直木賞を受賞 しています。この家から太宰の家まで歩いて行きます。

正面は三鷹市上連雀8丁目25番地付近です。この先右側に今官一邸がかりました。今官一自身は昭和40年には青森に戻っていますが、ここにはその後、ご家族の方がお住まいだったようです。ご家族の方もその後に転居されています。当時の家の雰囲気があるお宅が近くにありましたので、写真を撮っておきました(たぶん昭和20年代以前の建物だとおもいます)。

次回は「戦後の三鷹」歩きます。


太宰治の三鷹駅前地図(戦前編)



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