| ●三鷹を歩く 2000年12月2日 V03L01 (最終更新内容:山崎富栄のお墓の写真を追加) |
今回は「太宰治を辿って」の第一回として三鷹界隈を辿って見たいと思います。皆様良くご存知だと思いますが、三鷹は太宰が最後に山崎富栄と玉川上水で心中した所です。
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「恥の多い生涯を送って来ました。自分は生活というものが、見当つかないのです。自分は東北の田舎に生まれましたので、汽車を初めて見たのはよほど大きくなってからでした。」は太宰治の「人間失格」の”第一の手記”の書き出しです。この手記は太宰が昭和23年6月から三鷹の下連雀で、文字通り人生の総決算として書いたものです。この時の太宰は二人目の妻の美知子婦人と共に三鷹に住んでおり、このあと朝日新聞に掲載予定の「グッド・バイ」の校正原稿と数枚の遺書を残して山崎富栄と玉川上水に入水自殺を図るわけです。太宰治39歳、山崎富栄28歳の時です。生い立ちとか、三鷹に来るまでの話は別の機会にさせて頂くとして、今回は三鷹と太宰治にかぎってお話したいと思います。
★左の写真は三鷹の平和通りです。写真右側が井心亭(せいしんてい)で、その丁度反対側の小道を入った入り口から三軒目が太宰治旧宅です。この場所は昭和14年9月から戦争中に疎開した時期を除いて亡くなるまで住んでいました。今はもう当時の面影はありませんが、町の雰囲気はやはり文人の町という感じがしますね。
<永塚葬儀社(旧野川家) 山崎富栄の居住地> 山崎富栄は終戦後、疎開先から戻って三鷹の駅前の塚本美容院(現在の駅前のCORALの所にありました)に勤めているときに、昭和22年3月三鷹駅前の屋台で太宰と巡り合い、親しくなります。その時に山崎富栄が住んでいたのが永塚葬儀社の二階(野川家は一階を永塚葬儀社に、二階を借家にしていた)の通り側でした。その後、太宰は山崎富栄の住まいを仕事部屋として使い、毎日入り浸ってい たようです。この永塚葬儀社の前に、これも太宰が仕事部屋にしていた料理屋「千草」がありました。ここは出版社の人たちの待ち合わせ場所になっていたようです。心中する夜も山崎富江の所にいて、校正原稿と遺書を残して二人で数十メートル先の玉川上水へ向かっています。
<山崎富栄について> 山崎富栄の父は東京婦人美容学校を大正2年にお茶の水に開設、美容業界のパイオニヤ的存在でした。富栄本人は昭和19年12月に25歳で三井物産社員と結婚、夫は10日後マニラへ転勤、現地で招集を受け行方不明になっていました。昭和22年7月、夫の戦死広報が届きます。丁度、太宰と親しくなった頃です。
★右の写真は今の永塚葬儀社です。当時は木造二階建てでしたが、今は立派なビルになっています。丁度この二階の窓の所当たりに山崎富栄の住まいがあったわけです。住まいの場所は山崎富栄が働いていた中央通りの塚本美容院(現在のCORALの場所)の前の道を左に折れて突き当たった左側になり、駅からは数分の場所です。又向かい側に料理屋「千草」がありました。
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<入水地(玉川上水)> 永塚葬儀社の前の道を左に少し歩くとすぐに玉川上水です。入水場所はそこから数百メートル下流です。なぜすぐに入水しなかったのか第一の疑問です。もともと太宰は過去に4回の自殺歴(すべて未遂で、その中で心中は2回)があり、本当に本人は心中する気があったのか第二の疑問です。とは言っても、二人は昭和23年(1948)6月13日(日曜日)の夜半、心中するわけですが。心中後、二人の亡骸はすぐには見つからず、6日後の19日(土曜日)の明け方、下流の新橋の近くの明星学園前で学園の若い教師が発見しました。二人は紐でしっかり結ばれていたそうです。この紐は”太宰を離さない”という”身も心も捧げた”山崎富栄の”最後の意地”だったのかもしれませんね。
★左の写真が玉川上水への入水場所です。太宰治のポケットスペースから下流に数十メートルいった所です。場所を示す目印として歩道上に玉鹿石と記念碑が置かれています(写真の真ん中の石)。これは太宰の生まれ故郷の青森県北津軽郡金木町産の石だそうです。
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<禅林寺> もともと禅林寺は森林太郎(森鴎外)の墓があるので有名でした。お寺の山門をくぐるとすぐ右側に森林太郎の碑があります。太宰は森鴎外を尊敬しており「花吹雪」のなかでは「この寺には、森鴎外の墓がある。・・・墓地は清潔で、鴎外の文章の片影がある。私の汚い骨も、こんな小綺麗な墓地の片隅に埋められたら、死後の救いがあるかもしれない」と述べています。太宰治のお墓は森鴎外のお墓の斜め前にあります。
★右のお墓が太宰治のお墓です。お墓の真ん中が太宰治の墓で左側は津島家の墓となっています。青森の実家の墓に入ることを拒否されて三鷹に作られたようです。
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<山崎富栄の墓> 自殺したもう一方の山崎富栄の方は、21日 本郷指ガ谷町山崎達夫宅にて密葬を行い、都内文京区関口二丁目の目白坂の途中にあります永泉寺に埋葬されました。この目白坂は谷崎潤一郎、円地文子、瀬戸内晴美 が住んでいた目白台アパートへの道です。
★左の写真は永泉寺の正面入口です。裏手の方に墓地があり、その中に山崎家の墓があります。良く探さないと分かりません、丁度墓地の真ん中あたりで、墓石の右側に小さく富栄と書いてあります。 |
三鷹周辺地図

【参考文献】 ・太宰治辞典:学燈社、東郷克美 ・ピカレスク:猪瀬直樹、小学館 ・太宰治展:三鷹市教育委員会 ・人間失格他:文春文庫 ・太宰治と愛と死のノート:山崎富栄
【交通の便】 ・JR中央線「三鷹駅」下車 ・永泉寺:営団有楽町線「江戸川橋駅」下車 徒歩5分
【お店の所在地】 ・太宰治旧宅:三鷹市下連雀2-14-7 ・永塚葬儀社:三鷹市下連雀3-15-15 ・禅林寺:三鷹市下連雀4-18 ・永泉寺:東京都文京区関口町2-3-18
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