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●太宰治と三島由紀夫を歩く
    初版2009年11月21日  <V03L02> 出会った日時を修正

 「太宰治を巡って」の未掲載部分を順次掲載しています。今週は「太宰治と三島由紀夫を歩く」です。太宰治と三島由紀夫はただ一回のみ会っています。昭和21年12月中のことです。この出会いについては、本人も含めてその場に同席した方々が書き残していますので、それらの本を参考にしながら歩いてみました。


「私の遍歴時代」
<「私の遍歴時代」 三島由紀夫>
 三島由紀夫の「私の遍歴時代」は昭和38年1月10日から5月23日まで、東京新聞に連載されたものです。太宰治と三島由紀夫が出会ったのが昭和21年12月ですから、16年も経っています。それにしても、三島由紀夫はよほど太宰治が嫌いだったようです。
「 多少時間が前後するかもしれないが、太宰治氏とのつかの間の出会も、記録しておかねはならぬ出来事にちがいない。……
 …古本屋で、「虚構の彷徨」を求め、その三部作や「ダス・ゲマイネ」など
を読んでいたが、太宰氏のものを読みはじめるには、私にとって最悪の選択であったかもしれない。それらの自己戯画化は、生来私のもっともきらいなものであったし、作品の裏にちらつく文壇意識や、笈を負って上京した少年の田舎くさい野心のごときものは、私にとって最もやりきれないものであった。…」

 三島由紀夫はエリート意識が強いのでしょうか。私小説が嫌いだったようです。読者から見れば、私小説ほど面白いものはありません。実際に起こっていることなのですから、(小説は事実そのものなのですから!) 三島由紀夫には面白い私小説は書けませんね。エリート意識が強いため、太宰のような生活はおくれません。(羨ましかった?)
「…太宰氏を訪ねた季節の記憶も、今は定かではないけれど、「斜陽」の連載がおわった頃といえば、秋ではなかったかと思われる。……
…場所はうなぎ屋のようなところの二階らしく、暗い階段を昇って唐紙をあけると、十二畳ほどの座敷に、暗い電燈の下に大ぜいの人が居並んでいた。……
…しかし恥かしいことに、それを私は、かなり不得要領な、ニヤニヤしながらの口調で、言ったように思う。即ち、私は自分のすぐ目の前にいる実物の太宰氏へこう言った。
「僕は太宰さんの文学はきらいなんです」
 その瞬間、氏はふっと私の顔を見つめ、軽く身を引き、虚をつかれたような表情をした。しかしたちまち体を崩すと、半ば亀井氏のほうへ向いて、誰へ言うともなく、
「そんなことを言ったって、こうして来てるんだから、やっぱり好きなんだよな。なあ、やっぱり好きなんだ」…」

 太宰治と三島由紀夫が出会った日については、昭和22年1月等いろいろ書かれていましたが、昭和21年12月14日が正しい日付です。下記の中村稔氏の書いた「私の昭和史 戦後編上」にも書かれていますが、三島由紀夫の日記に太宰治と亀井勝一郎に出会った日が書かれていました。2005年発行の新潮社版「三島由紀夫全集補巻」の中に会計日記が掲載されており、ここに昭和21年12月14日(土)の日記を掲載します。

「○12月14日(土) 帰途カマクラ文庫へ寄り
             木村氏に原稿みてもらふために渡す
             午後四時中野で待合せ。
             高原君のところにて酒の会、
             太宰、亀井両氏みえらる。
             夜十二時帰宅  …」
 

 間違いなく12月14日です。

写真はちくま文庫版の「私の遍歴時代」です。三島由紀夫のエッセイ集としては面白いです。率直に自身の意見を述べています。

「小説家の休暇」
<「小説家の休暇」 三島由紀夫>
 三島由紀夫が太宰治についてもう一つ書いています。「小説家の休暇」です。昭和30年11月に出版されていますから、「私の遍歴時代」よりはかなり早い時期に書かれたものです。太宰に合ってから9年経っていますが、まだ記憶の方ははっきりしていたとおもいます。
「…私が太宰治の文学に対して抱いている嫌悪は、一種猛烈なものだ。第一私はこの人の顔がきらいだ。第二にこの人の田舎者のハイカラ趣味がきらいだ。第三にこの人が、自分に適しない役を演じたのがきらいだ。女と心中したりする小説家は、もう少し厳粛な風貌をしていなければならない。…」
 「私の遍歴時代」より、厳しく太宰治を非難しています。”自分自身が持っていないもの”、”自分自身が出来ないこと”、に対しては毛嫌いするようです。三島由紀夫自身は生真面目ですから、太宰のようにはなり得ません。なり得ないというよりは、出来ないと言った方がよいのかもしれません。面白いですね。

写真は、新潮社版「小説家の休暇」です。田中美代子が解説を書いています。「『小説家の休暇』には、すでに三島文学の全体を形成する基本的な諸要素の全てが出そろっていると言っていいが、彼の生涯を見渡して、これが昭和30年、創作力のもっとも充実した黄金期……」。なんでも書けた時だったのかもしれません。

「私の昭和史 戦後編」
<「私の昭和史 戦後編上」 中村稔>
 平成20年10月に発刊された中村稔氏の「私の昭和史」は太宰治と三島由紀夫の出会いについて書かれた最後の記録ではないでしょうか。
「…二〇〇五(平成十七)年十一月五日付『毎日新聞』 によると、三島由紀夫氏の日記には、昭和二十一年十二月二十四日の項に、「高原君のところにて酒の会、太宰、亀井両氏みえらる。夜十二時帰宅」と記されているそうである。
 高原君とは私の府立五中時代の級友高原紀一である。高原は同じく私の五中時代の級友出英利と一緒に、清水一男さんという方が練馬区の桜台に持っていた畠の中の一軒家に間借りしていた。……
…どういうわけか、三島由紀夫氏もその席に出ていた。太宰、亀井両氏としては、相澤が用意した酒につられて、招きに応じたのであろう。
 席上、三島氏が、太宰氏に向かって、私は貴方の文学を認めない、という趣旨の発言をし、座が白けたことは事実だが、それでも、三島氏がその会がおひらきになるまで、一座につらなっていたことは間違いない。……」

 上記には三島由紀夫の日記の日付を”昭和21年12月24日”と書いていますが、当時の毎日新聞を再度見直すと昭和21年12月14日と書かれています。中村稔氏が写し間違えたのだとおもいます(三島由紀夫全集でも確認済みです。)。ですから、中村稔氏は昭和21年12月14日、板橋区豊玉(中村稔氏は桜台と書いている)で太宰治、亀井勝一郎、三島由紀夫に出会った最後の生き証人となるわけです。他の方はみな他界していますので、最後の記録となります。
 
写真は中村稔氏の「私の昭和史 戦後編(上)」です。中村稔氏が太宰治と三島由紀夫について初めて書いたのは昭和51年11月発行の「ユリイカ 特集 三島由紀夫」です。今回の「私の昭和史 戦後編(上)」は、ブラシュアップ版として見ていいとおもいます。

「旗手たちの青春」
<「旗手たちの青春」 矢代静一>
 三島由紀夫本人を含めて、太宰治との出会いを書いた方々は5人になります。本掲載の三人目が矢代静一氏です。矢代静一氏もその場におり、又、彼は日記にこの出会いを書き留めていた唯一の人でした。後にその日記が議論の的になります。
「…三島の年譜によると、「昭和二十一年十二月、このころ矢代静「らとともに太宰治に会う」と記されているが、私の古日記には、「師走」と記されてある。場所は、旧制府立五中で私より一年先輩であり、いちじ新潮社に籍を置いたことのある高原紀一の下宿で、練馬にあった。……
…私は思い浮かべる。木枯しの吹く寒い夕暮、国電中野駅の練馬行のバス停で、心持ち顔色の蒼ざめていた寡黙な三島と、軽薄にはしゃいでいた私の姿を。彼は鼠色の衿巻をしていた。ごわごわしたものだが、暖かそうであった。私たちの隣には出英利と原田柳喜が、一升瓶を大事そうにかかえていた。………
…パスが来た。戦後すぐの荒涼とした田舎道をガタピシ揺られながら、高原の下宿に着いた。「場所はうなぎ屋のようなところの二階らしく、暗い階段を昇って唐紙をあけると、十二畳ほどの座敷に、暗い電灯の下に大ぜいの人が居並んでいた…」。

 矢代静一氏が太宰と三島の出会いについて初めて書いたのは、昭和46年1月の「新潮 三島由紀夫読本」です。「三島と太宰」として書いています。
「…「昭和二十二年一月二十六日
 三島とは、師走(註、昭和二十一年の暮)の一日、高原紀一の下宿で、太宰治と亀井勝一郎を囲んで、僕、中村稔(註、詩人)、出英利(註、哲学者出隆の子、鉄道自殺した)、相沢、原田etc'、例の五中グループ(註、現小石川高校)と、酒を呑んだとき以来の友達だが……(以下、略)。」
 太宰治と亀井勝一郎は、床の間を背にして上座に坐つ。それは覚えている。三島由紀夫がどこに位置していたかは記憶にない。…」。

 この時に日記を書いた日付の昭和22年1月26日が太宰と三島の合った日と間違われています。良く読んでみると、昭和21年暮と書いてあるのですが、書いた日付を出会った日と早合点した人がいたようです。

写真が昭和60年2月発行の新潮社版「旗手たちの青春」です。こちらも、新潮「三島と太宰」のブラシュアップ版として考えてよいとおもいます。

「回想 太宰治」
<「回想 太宰治」 野原一夫>
 昭和55年5月発行の野原一夫「回想 太宰治」にも、太宰と三島の出会いが書かれていました。野原一夫本人もその会に参加していた一人です。昭和55年ですから、上記の四冊は全て発行されていますので、参考にしていたとおもいます。
「…太宰さんが三島由紀夫氏と顔を合わせた一夜の想い出である。といっても私は、こまかい事はほとんど忘れてしまっている。書かずにすまそうかとも思ったのだが、高名になった三島氏が太宰治の文学と生活を痛烈に批判し、それが文壇の話題となり、今では、その太宰批判の中味が逆に三島文学を解く一つの鍵にもなっているようで、…」。
 太宰治と三島由紀夫が参加した会には、本当に出席者が多かったようです。これだけの人が出席していたのですから、誰か、詳細に覚えている人がいてもよかったのではないかとおもいます。三島由紀夫本人、中村稔、矢代静一の三人がまだ少しは正確に覚えていたようです。野原一夫は自身でも書いていますが、あまり正確に覚えてはいなかったようです。

写真は新潮社版の野原一夫「回想 太宰治」です。文庫本になっていますので、是非とも一読されることをお勧めします。


太宰治と三島由紀夫の豊玉地図


太宰治年表
和 暦 西暦 年  表 年齢 太宰治の足跡
昭和14年
1939 ドイツ軍ポーランド進撃 31 1月8日 杉並の井伏鱒二宅で太宰、石原美智子と結婚式をあげる。甲府の御崎町に転居
9月1日 東京府三鷹村下連雀百十三番地に転居
昭和17年 1942 ミッドウェー海戦 34 12月 今官一が三鷹町上連雀山中南97番地に転居
昭和19年 1944 マリアナ海戦敗北
東条内閣総辞職
レイテ沖海戦
神風特攻隊出撃
36 1月10日 上野駅でスマトラに向かう戸石泰一と面会
昭和20年 1945 ソ連参戦
ポツダム宣言受諾
37 4月 三鷹から妻美智子の実家、甲府市水門町に疎開
7月28日 津軽に疎開
昭和21年 1946 日本国憲法公布 38 11月 金木から三鷹に戻る、山崎富枝、ミタカ美容室に移る(三鷹の野川家に転居)
12月 中鉢家の二階を借りる
12月14日 太宰と三島由紀夫が出会う
昭和22年 1947 織田作之助死去
中華人民共和国成立
39 1月 小山清が三鷹を去る
2月 下曽我に太田静子を訪ねる、三津浜で「斜陽」を執筆
3月 山崎富枝、屋台で太宰治と出会う
4月 田辺精肉店の離れを借りる
5月 西山家を借りる
8月 千草の二階で執筆
昭和23年 1948 太宰治入水自殺 40 3月7日 熱海 起雲閣別館に滞在(3月31日まで滞在)
3月18日 熱海 起雲閣本館に滞在]
4月25日 本郷の豊島与志雄宅を訪問
4月26日 本郷の筑摩書房を訪ねる
4月29日〜5月12日 大宮に滞在、「人間失格」を書き上げる
6月12日 大宮の古田晃を訪ねる(不在)
6月13日 玉川上水に入水自殺
6月19日 遺体が玉川上水で見つかる



「JR中野駅南口」
<中野駅南口>
 昭和21年12月14日の夕方、太宰治、亀井勝一郎を中心にして中野駅で待ち合わせています。三島由紀夫、中村稔、矢代静一も当然いたわけです。ここでは野原一夫「回想 太宰治」を参考にします。
「…一月二十六日、太宰さんを迎えに三鷹のお宅にうかがうと、どんなことだったのだろう、奥さんの口ぶりから、家を出にくい事情があるようだった。しかし、約束だから、と太宰さんは強い口調で言った。
 三鷹から国電に乗り、中野駅の南口を出ると、改札口のあたりに、七、八人のはたち前後の青年が集まっていた。亀井さんももう来ていて、笑いながら手をあげた。その青年たちのなかに、紺餅の和服をきちんと着て襟巻をした、色の青白い目の大きな男がいた。ほかの学生たちよりすこし年長のように見えたし、なにか異質な感じがした。駅前から乗ったバスのなかで、英利君が、三島由紀夫だと教えてくれた。…」

 上記に書いてある1月26日は間違いで、前年の昭和21年12月14日が正しい日付とななります。太宰治、亀井勝一郎、三島由紀夫等は中野駅から練馬駅行きのバスに乗ります。当時のバス会社は東京急行電鉄(当時は戦時合併で東京急行電鉄となっており、昭和23年に分離し、元の京王帝都電鉄となります)で、この路線は京王電鉄バスが昭和11年に大正自動車(中野坂上 - 中野駅 - 沼袋駅 - 練馬駅)を合併して獲得したものです。京王電鉄バスは中野駅では南側にターミナルを持っているので、中野駅の南口で待ち合わせたのは正しいわけです。

写真は現在のJR中野駅南口です。北口には関東バスのターミナルがありますので、バス会社で南北に分けています。中野駅〜練馬駅線は現在でも営業しており、中野駅−練馬駅間となっています。練馬駅行き京王電鉄バスの写真を掲載しておきます。

「豊玉南二丁目バス停」
<豊玉のバス停>
 中野駅から練馬駅行きの京王電鉄バスにのり、豊玉付近で下車しています。ただ、中村稔氏は桜台とも書いており、又、太宰治研究家の長篠康一郎は豊玉と書いています。ここでは野原一夫「回想 太宰治」を参考にします。
「…バスに二十分ほども揺られ、もうあたりは畑と雑木林ばかりになって、練馬区の豊玉というところでバスをおり、雑木林を背にぽつんと建った造作のしっかりした二階屋の、その二階の広い部屋に私たちは通された。…」。
 バス路線は昭和21年頃と変わっていないようで、豊玉と名前の付いたバス停は「豊玉中一丁目」と「豊玉中二丁目」の二つでした。豊玉中一丁目のバス停は殆ど中野区なので、推定ですが、太宰治と三島由紀夫が下車したバス停は「豊玉中二丁目」ではないかとおもっています。

写真のバスは京王電鉄バスで、停留所は「豊玉中二丁目」です。当時と比べてバス路線が増えており、この付近でも「豊玉中二丁目」のバス停留所は幾つかありました。

「梅崎春生宅跡」
<梅崎春生宅>
 太宰治、亀井勝一郎と三島由紀夫が会合をもった場所を探しました。中村稔氏の「私の昭和史」が一番詳しく、”清水一男さんという方が練馬区の桜台に持っていた畠の中の一軒家”と書かれています。”清水一男”を練馬区(当時は板橋区)で探したのですが、探しきれませんでした。三島由紀夫が”うなぎ屋”と書いていましたので、探したのですが、此方も不明でした。ここで太宰治研究家の長篠康一郎氏に登場してもらいます。
「…「私の遍歴時代」よりさきに、かって『新潮』の文壇欄にも太宰と三島対決の一文が載ったことがある。それによると、太宰と三島の会った家は梅崎春生が住んでいる練馬の一角の畑の中の二階屋であったという。また、「昭和二十二年のことであったと思う。来会者の一人としてオーバーを着ていた者がないとの記録がみるので、もう春になったかならないかの頃だろう。…」
 この文章は元々は昭和46年に「西播文学」西播文学会に書いたもののようで(入手できませんでした)、再録として太宰治論集 第2期 作家論篇 第4巻に「太宰治と三島由紀夫―その対決をめぐつて―」として掲載されています。昭和46年というと矢代静一が「三島と太宰」を「ユリイカ」に掲載したすぐ後で、太宰治研究家としては書かざるを得ず、あわてて掲載したようで、誤字が多く見られます(太宰治論集には誤字(ママ)のまま掲載されている)。

写真の左側少し先が梅崎春生宅跡です。長篠康一郎氏の説によるとこの付近が会合の場所となるわけです。上記には”『新潮』の文壇欄にも太宰と三島対決の一文が載った”と書いてありましたので、「新潮」の昭和30年代を少し調べてみましたが不明でした。

「松濤の自宅跡」
<松濤の自宅 (三島由紀夫)>
 三島由紀夫は太宰治との会合を最後まで出席し、中村稔氏と一緒に桜台駅から西武→山手線で渋谷に帰ります。
「…会合が終った夜更け、桜台からの帰途、私は三島氏と同行した。渋谷駅に着いたのが十二時に近い時刻であったことは、『毎日新聞』の報じている三島氏の日記ではじめて知った事実である。昭和二十一年の歳末、渋谷駅の周辺は焼跡であった。深夜の駅の真暗な改札口で、三島氏の父君が三島氏を待っていた。何時帰るとも知れない息子を、それももう大学生になっている息子を、待ち続けている父親は、私には意外であった。まるで箱入り息子だ、という感想をもったことも以前書いたことがある。…」。
 大学生の息子の迎えに親爺が行くとは凄いですね。過保護そのものです。三島由紀夫が太宰になり得なかったことがよく分かります。

写真の正面左側二軒目が松濤の三島由紀夫の自宅跡です。この付近は高級住宅街です。因みに、右側少し後側が富永太郎の自宅跡となります。



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