<水上駅>
太宰治は私が知る限りでは2回水上を訪ねています。正確には水上の少し先の谷川温泉です。訪ねた時期は昭和8年と昭和12年になります。初めて谷川温泉を訪ねた昭和8年は船橋時代でパヒナール中毒だった時になります。2回目は初代さんと小館善四郎の関係からカルモチン心中未遂となった訳です。太宰治の「姥捨」からです。
「…「水上に行こう、ね。」その前のとしのひと夏を、水上駅から徒歩で一時間ほど登って行き着ける谷川温泉という、山の中の温泉場で過した。真実くるし過ぎた一夏ではあったが、くるしすぎて、いまでは濃い色彩の着いた絵葉書のように甘美な思い出にさえなっていた。白い夕立の降りかかる山、川、かなしく死ねるように思われた。水上、と聞いて、かず枝のからだは急に生き生きして来た。…」。
”その前のとしのひと夏を、水上駅から徒歩で一時間ほど登って行き着ける谷川温泉という、山の中の温泉場で過した。”とありますので、初めて訪ねた時は昭和11年のことになります。昭和12年に谷川温泉を訪ねたときのことを「姥捨」には、
「…水上駅に到着したのは、朝の四時である。まだ、暗かった。心配していた雪もたいてい消えていて、駅のもの蔭に薄鼠いろして静かにのこっているだけで、このぶんならば山上の谷川温泉まで歩いて行けるかも知れないと思ったが、それでも大事をとって嘉七は駅前の自動車屋を叩き起した。
自動車がくねくね電光型に曲折しながら山をのぼるにつれて、野山が闇の空を明るくするほど真白に雪に覆われているのがわかって来た。…」
朝の四時ですから、たまりませんね。
★写真は、現在のJR上越線水上駅です。水上駅というと川端康成をおもいだします。川端康成は昭和9年に初めて水上を訪ねています。川端康成は太宰治に温泉を紹介していますので、世間で言われているほどのことはなかったとおもっています。
<川久保屋>
昭和11年に太宰が訪ねた谷川温泉の旅館については、太宰の手紙が残っており、特定が出来ます。先ず最初は太宰治の「姥捨」からです。
「…宿の戸を叩こうとすると、すこしおくれて歩いて来たかず枝はすっと駈け寄り、「あたしに叩かせて。あたしが、おばさんを起すのよ。」手柄を争う子供に似ていた。
宿の老夫婦は、おどろいた。謂わば、静かにあわてていた。
嘉七は、ひとりさっさと二階にあがって、まえのとしの夏に暮した部屋にはいり、電燈のスイッチをひねった。かず枝の声が聞えて来る。…」
と、当時の様子を書いています。次に、当時の太宰の手紙からです。この手紙は昭和11年8月12日に青森の小館善四郎宛、谷川温泉から出したものです。
「八月十二日 群馬麻水上村谷川温泉 川久保方より 青森市浪打六二〇 小館善四郎宛
謹啓
七日から、こちらへ来てゐます。丈夫にならうと存じ、苦しく、それでも、人類最高の苦しみ、くぐり抜けて、肺病もとにかく、おさへて、それから下山するつもりです。一日一圓なにがし、半ば自炊、まづしく不自由、蚤がもっとも、苦しく存じます。中毒も、一日一日苦痛うすらぎ、山の険しい塞気に打たれて、蜻蛉すら、かげうすく、はらはら幽霊みたいに飛んでゐます。芥川賞の打撃、わけわからず、問ひ合せ中でございます。かんにんならぬものございます。女のくさつたやうな文壇人、いやになりました。
「創生記」愛は惜しみなく奪ふ。世界文学に不抜孤高の古典ひとつ加へ得る信念ございます。
貞一兄、京姉、母上、によろしく。…」
この時には芥川賞のことは分かっていたようです。「創生記」についても書いていますので、この時に書いたものとおもわれます。又、宿泊した所は「川久保方」と書かれています。この「川久保方」については、長篠康一郎さんの「太宰治水上心中」の中に詳細に書かれていましたので参照させて頂きました。又、太宰治の「姥捨」には昭和11年に宿泊したところと昭和12年に宿泊したところは同じと書かれていますので、「川久保屋」が判明すれば全て分かることになります。
★写真の右側が「旅館たにがわ 新館」です。長篠康一郎さんの「太宰治水上心中」によると、写真左側の駐車場のところに太宰が宿泊した「川久保屋」があり、その後、「川久保屋」の経営者が変わり、旅館名も「谷川本館」となります。戦後、「旅館たにがわ 新館」が右側に建てられ、谷川本館は取り壊されて駐車場になったようです。
<太宰治文学碑(川久保屋跡)>
「旅館たにがわ 新館」の向い側の「川久保屋跡」の駐車場に太宰治文学碑があります。文学碑は左右に分かれて二面あり、右側には太宰が好きだった伊藤左千夫の歌が書かれています。
「池水は濁りに にごり藤波の 影もうつらず 雨降りしきる 録左千夫歌 太宰治」
と彫られており、 左側には
「太宰治「姥捨」の宿」として
…この時の滞在先は当時の書簡に「群馬県水上村谷川温泉川久保方」を記載してあるので、同村大字谷川五二二番地の川久保屋がこれに該当するが、この建物をのちに増改築したのが谷川本館(旅館たにがわ)であり、現在の駐車場がその跡地にあたる。「人間失格」事件の因となった「創生記」は谷川温泉で執筆した問題作、名作「姥捨」は川久保屋の老夫婦と水上温泉郷を舞台とした作品である。…
昭和六十三年六月佳日 長篠康一郎」
と書かれています。ここで長篠康一郎さんの名前が登場しています。この文学碑で、「川久保屋」の場所が特定できました。
★写真が太宰治文学碑です。駐車場の中にあります。
駐車場から「旅館たにがわ 新館」を見た写真を掲載しておきます。
<金盛館>
しかしながら、太宰治自身が谷川温泉で宿泊したのは、他の旅館であると書いているのが「創世記」です。太宰治の「創世記」より、
「…今から、また、また、二十人に余るご迷惑おかけして居る恩人たちへお詫びのお手紙、一方、あらたに借銭たのむ誠実吐露の長い文、もう、いやだ。勝手にしろ。誰でもよい、ここへお金を送って下さい、私は、肺病をなおしたいのだ。(群馬県谷川温泉金盛館。)ゆうべ、コップでお酒を呑んだ。誰も知らない。…」。
突然、他の旅館名が登場しています。何故か、考えてみたところ、回答が見つかりました。太宰治の「姥捨」からです。
「…ほとんど素人下宿のような宿で、部屋も三つしかなかったし、内湯も無くて、すぐ隣りの大きい旅館にお湯をもらいに行くか、雨降ってるときには傘をさし、夜なら提燈かはだか蝋燭もって、したの谷川まで降りていって川原の小さい野天風呂にひたらなければならなかった。…」。
「川久保屋」に宿泊したときに「金盛館」にお風呂をもらいに行っていたのです。ですから「金盛館」の名前を知っていたわけです。
★写真正面が「金盛館」です。「旅館たにがわ 新館」のすこし先、左側になります。昭和11年当時は、旅館は四軒しかなく、手前から「川久保屋」、少し先に「金盛館」、「谷川館(現在の「旅館たにがわ」とは関係なし)」、「紅葉館」でした。
<湯テルメ・谷川>
「湯テルメ・谷川」は川久保屋跡の駐車場の手前を左に降りた先にある公営の温泉です。”川沿いの露天風呂と3つの源泉が楽しめる温泉館”とありましたので、私も入浴してきました。午前中だったので、殆ど入浴客がおらず、露天風呂には一人で入っていました。ノンビリして楽しかったです。
泉質…単純温泉・アルカリ性単純温泉
適応症…眼病・胃腸病・婦人病・神経痛・創傷などの一般的適応症
禁忌症…一般的禁忌症
交通の便がよくないので気をつけてください。
★右の写真が「湯テルメ・谷川」です。右側に谷川岳が見えます。露天風呂は川沿いの少し降りたところにありました。
<太宰治文学碑>
水上駅から谷川温泉に向かう途中に太宰治文学碑があります。冬は雪に埋もれてしまって見えないかもしれません。この記念碑には太宰治の「姥捨」の一節が書かれていました。
「…水上駅に到着したのは、朝の四時である。まだ、暗かった。心配していた雪もたいてい消えていて、駅のもの蔭に薄鼠いろして静かにのこっているだけで、このぶんならば山上の谷川温泉まで歩いて行けるかも知れないと思ったが、それでも大事をとって嘉七は駅前の自動車屋を叩き起した。
自動車がくねくね電光型に曲折しながら山をのぼるにつれて、野山が闇の空を明るくするほど真白に雪に覆われているのがわかって来た。…」。
水上市が作った文学碑なのでしょう。谷川温泉の入り口にありました。
★写真が太宰治文学碑です。水上駅から谷川温泉に向かう道路の途中、右側にあります。気をつけていないと見落とします。