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●太宰治の小山清を歩く
    初版2009年10月3日  <V01L01>

 「太宰治を巡って」の未掲載部分を順次掲載しています。今週は「太宰治の小山清を歩く」です。太宰は昭和15年11月、三鷹の自宅に訪ねてきた小山清と親しくなります。小山清は太宰が昭和20年4月に甲府に疎開してから昭和21年11月に金木から戻ってくるまで、三鷹の太宰宅に住んでいます。


「太宰治研究(1)」
<太宰治研究 (第一号)>
 太宰治と小山清の関係については、様々な本に書かれていますが、今回は「太宰治研究」、筑摩書房版の「太宰治全集」、田中良彦の「評伝小山清」、「小山清全集」等を参考にしています。先ずは昭和37年10月発刊の審美社「太宰治研究」からです。小山清が「かぼちゃの花」として太宰治、田中英光との関係を書いています。
「太宰が三十六歳の晩秋の頃、私が二度、吉原へ案内した。一度は田中英光が来てゐた。龍泉寺町の飯田さんの古本屋さんは、本所の錦糸堀にある府立三中で堀辰雄と同年であって、夕方から私達は四人、江戸町一丁目の傍のある店で酒を飲んだ。
 タバコはそろそろ無くなったので、その時、私が少しばかりタバコをあげたが、太宰と英光は二人ともに武者振つくほどであった。廓のある店で、太宰は「みんな、呼ばねえんだよ。」と笑ってゐた。
 甲府へ疎開してゐた頃、太宰と私は、よくぶらついてゐた。病院の二階で女が外を眺めてゐたが、太宰はそこを通りあほせて、さびしい女の心を、「いいねぇ。」と言った。
 「富嶽百景」といふ作品に、御坂峠へ、色さまざまの遊女たちが、富士を眺めてゐる、暗く、わびしい風景を書いたことがあった。
 田中英光が二十四歳で結婚した時、太宰が二十八歳で色紙を呉れた。
     はきだめの花
     かぼちゃの花
    わすれられぬなり
    わがつつましき新郎の心を  冶
 太宰は千葉船橋に転地して、英光は朝鮮京城にゐた。」

 なにか、弟子というよりは対等の関係として書いています。太宰治が小山清を好きになれなかった理由がここにあるようにおもえます。

写真は、昭和37年10月発刊の審美社「太宰治研究 第一号」です。装幀にお金をかけていませんので、どうしても経年変化で汚れてしまいます。私は第七号までと、臨時増刊を所持しています。

「評伝小山清」
<評伝小山清>
 評伝まで書かれていますから、小山清としてはたいしたものです。芥川賞候補までなっていますから、太宰に主事しなくてもよかったのではないかとおもいます。しかし、当時は誰かに主事しないと文壇には出れなかったのかもしれません。田中良彦の「評伝小山清」からです。
「…一九四〇年の二月中旬、小山が太宰宅を訪ねた時、太宰は新潟高校に講演に行く直前だった。この日訪れたのは「ある日、私は吉原の馴染の女の許へ行って、部屋で女の来るのを待ってゐる間に、唐突に明日太宰治をたづねようと心をきめた。そのとき女はすこし私を待たせすぎたので、私はみじめな気拝になった」(「最後の大師・太宰治」『新潮』一九五三・一〇)からである。この最初の太宰訪問は「初めてたづねた頃のこと」(『風雪』一九五〇・七)、「風貌1太宰治のこと」「最後の人」などで回想される。…」
 小山清と太宰治の関係については、「太宰治全集 第十二 書簡集」で見ることができます。太宰−小山の書簡で先ず最初に出てくるのは昭和15年11月の太宰治から小山清への書簡です。
「 十一月二十三日 東京府下三鷹町下連雀一一三より
  東京市下谷直龍泉寺町三三七 讀賣新聞出張所内 小山清宛(はがき)
 拝呈
 原稿を、さまざま興味深く拝讃いたしました。生活を荒さず、静かに御勉強をおっづけ下さい。いますぐ大傑作を書かうと思はず、気永に周囲を愛して御生活下さい。
 それだけが、いまの君に封しでの、私の精一ばいのお願ひであります。              不乙。…」

 推定ですが、これ以前に小山清が太宰を訪ねており、その時に見てもらいたい原稿を持って行ったのだとおもいます。その返事がこの書簡になっています。
 
写真は田中良彦の朝文社版「評伝小山清」です。なかなか面白い本なのですか、少しお高いです(8,250円)。この値段なのでなかなか推薦はできませんが、太宰治と小山清の関係から太宰治を見るには無くてはならない本とおもいます。

「読売新聞竜泉寺出張所跡」
<読売新聞竜泉寺出張所>
 太宰治との関係を中心に進めますので、昭和12年7月からの小山清を歩きます。小山清の年譜は「評伝小山清」と「小山清全集」の両方を見る必要があります。二つの本の年譜を合わせて完成するようです。田中良彦の「評伝小山清」からです。
「一九三七(昭和一二)年 二六歳
 七月、読売新聞竜泉寺出張所(下谷区竜泉寺町三三七)に住み込み、新聞配達に従事。配達区域は竜泉寺町・金杉下町の一部からなる吉原土手に沿う一角。…」

 前年の昭和11年には2.26事件がありましたから、世の中、騒然としていた時期だとおもいます。その中でも吉原はまだ活況を呈していたのではないでしょうか。

写真の左側、角から2軒目辺りに讀賣新聞竜泉寺出張所がありました。現在は無くなっています。昭和20年3月10日の東京大空襲で焼失しており、その後再建されなかったのだとおもいます。

「日本建鉄工業跡」
<日本建鉄工業>
 小山清はどういう訳か、召集を免れています。その為、昭和17年12月、軍事徴用を受けています。徴用先もすぐ近くの荒川区三河島にあった日本建鉄工業でした。田中良彦の「評伝小山清」からです。
「…一九四二 (昭一七)年の一二月、小山は軍事徴用を受け、荒川区三河島町の日本建鉄工業株式会社に勤めた。一九二五 (大一四) 年創立の同社は台所で使う金物を作っていたが、戦時中は軍需工場として主に航空機関係の品物の製造を行っていた。小山は工員としての徴用だったが、工作課の能率係として工員の出勤率を調べる仕事を任された。
 太宰の小山宛書簡から、徴用後の小山の住まいを見ると、同社の第二惟徳寮五号室 (荒川区三河島町九ノ二〇四七)、同じく至誠寮二一号室 (荒川区町屋三ノ一五三二)、竜泉寺町の読売新聞出張所、新藤功己方(荒川区三河島町二ノ一〇八四) へと移ったことがわかる。…」。

 小山清は太宰からの書簡を大切に保管しています。読売新聞竜泉寺出張所は昭和20年3月10日の東京大空襲で焼失していますが、小山清は太宰の書簡を持ち出していたようです。太宰が無くなった後、太宰の書簡集は小山清が監修しています。

写真の右側が日本建鉄工業跡です。現在は三菱電機ビルテクノサービスになっています。日本建鉄工業は元々三菱系の会社でしたから三菱グループに転売したのだとおもいます。当時はこの周辺全て日本建鉄工業だったのですが、現在は四分の一ほどになっています。小山清が下宿していた”第二惟徳寮五号室(荒川区三河島町九ノ二〇四七)、同じく至誠寮二一号室 (荒川区町屋三ノ一五三二)、竜泉寺町の読売新聞出張所、新藤功己方(荒川区三河島町二ノ一〇八四)”は全て場所が判明しています。下記の地図を参照してください。

次回は「小山清」を歩きたいなとおもっています。


太宰治の吉原地図(戦前)


太宰治の町屋地図



「板橋区成増町二二九番地」
<板橋区成増町二二九番地>
 終戦後の昭和21年11月に太宰が金木から三鷹の自宅に戻ってきます。小山清は昭和22年1月、鉱夫募集に応じ、北海道夕張炭鉱へ向かいます。そして、昭和23年6月13日、太宰が失踪します。そして16日になると各新聞が太宰自殺と報道します。田中良彦の「評伝小山清」からです。
「…夕張の小山には六月一六日に美知子からの「ダザイオサムシンダ ミチコ」という電報が届いた。…」
 小山清は昭和23年6月18日夕張を発ち、上野に6月20日朝到着しています。電報を貰ってから発つまでに2日、又1日半汽車に乗っています。少し時間が掛かり過ぎています。太宰の遺体は19日に発見されていますから、20日の朝刊には一斉に掲載されていたはずです。ですから、上野駅で新聞を買っていれば全てを理解したうえで三鷹に行けたはずです。
「…鉱夫名簿によれば夕張炭鉱での仕事を辞めたのは一九四八年の九月二四日であり、「十月の始めに、東京に帰ってきた」(「風貌」)のだった。東京に戻った小山は板橋区成増町二二九の渡辺善四郎方に止宿した。東京に戻った小山は、作家活動に専心する。…」
 小山清は太宰の葬儀が終わっだ後、7月9日には夕張に戻っています。6月20日から7月7日まで東京にいます。小山清が再び東京に戻ったのは10月初めで、板橋区成増町二二九の渡辺善四郎方に止宿しています。

写真の右側付近が板橋区成増町二二九番地です。渡辺善四郎方は確認できませんでした。東武東上線成増駅の北西約650m、東上線の南側になります。白子変電所の先付近です。

「桜井牛乳店跡」
<吉祥寺の桜井牛乳店>
 小山清は昭和23年10月には東京に戻っています。まだ戦後間もなくであり、住居を探すのは大変だったとおもいます。田中良彦の「評伝小山清」には
「…帰京した小山は、最初、板橋区成増町で間借り生活を始めた。翌一九五四(昭二九)年冬には杉並区天沼に転居し、さらに、武蔵野市吉祥寺通りの桜井牛乳店に引越した。この店では二階の一部屋を小山は借りたのだが、そこには牛乳配達をしながら、大学に通う青年がすでに住んでいた。青年と同居するということで安く借りられたという。青年は昼は大学に通い、夜は配達のために早く寝るので、こんな形が可能だった。ここでの小山は世帯道具をほとんど持っていなかった。布団さえなく座布団を敷き、その上に毛布を被って寝ていたという。もちろん食事は外食だった。
 その後、武蔵野市吉祥寺二七五三の新田方に落ち着き、一九五六(昭三一)年七月練馬区間町の都営住宅に転居するまで暮らしたのだった。…」。

と書かいています。もう一度確認すると、”翌一九五四(昭二九)年冬には杉並区天沼に転居”、と上記には書かれていますが、年譜を見ると、”一九四九(昭和二四)年 三八歳 …… この年、または翌年武蔵野市吉祥寺の桜井牛乳店に止宿。さらに吉祥寺二七五三の新田方へ転居する。”、と書かれてています。「評伝小山清」の本文と年譜が食い違っています。推定ですが、年譜が正しいとおもわれます。

写真は吉祥寺駅北側の吉祥寺通りを北側に向かって撮影したものです。この左側と先の酒屋の手前側二カ所に桜井牛乳店がありました。当時、何方かはわかりませんでした。又、武蔵野市吉祥寺二七五三の新田方は亀井勝一郎宅の南東になります。直ぐ隣になります。

小山清はこの後練馬区関町五ノ二○七 都営第四住宅三七に転居し、昭和40年3月6日死去します。

次回は「太宰治、入水自殺」を掲載したいなとおもっています。


太宰治の吉祥寺地図


太宰治年表
和 暦 西暦 年  表 年齢 太宰治の足跡
昭和12年 1937 蘆溝橋で日中両軍衝突 28 7月 小山清(26)、読売新聞竜泉寺出張所で配達に従事
昭和14年
1939 ドイツ軍ポーランド進撃 30 1月8日 杉並の井伏鱒二宅で太宰、石原美智子と結婚式をあげる。甲府の御崎町に転居
9月1日 東京府三鷹村下連雀百十三番地に転居
昭和15年 1940 北部仏印進駐
日独伊三国同盟
31 11月 小山清(29)、下連雀の太宰治を初めて訪ねる
昭和17年 1942 ミッドウェー海戦 33 12月 今官一が三鷹町上連雀山中南97番地に転居
同月 小山清、軍事徴用を受け、日本建鉄工業に勤務
昭和19年 1944 マリアナ海戦敗北
東条内閣総辞職
レイテ沖海戦
神風特攻隊出撃
35 1月10日 上野駅でスマトラに向かう戸石泰一と面会
昭和20年 1945 ソ連参戦
ポツダム宣言受諾
36 3月 小山清、東京大空襲で三鷹の太宰一家と同居
4月 三鷹から妻美智子の実家、甲府市水門町に疎開
7月28日 津軽に疎開
昭和21年 1946 日本国憲法公布 37 11月 金木から三鷹に戻る、山崎富枝、ミタカ美容室に移る(三鷹の野川家に転居)
12月 中鉢家の二階を借りる
昭和22年 1947 織田作之助死去
中華人民共和国成立
38 1月 小山清が鉱夫募集に応じ、北海道夕張炭鉱へ行く
2月 下曽我に太田静子を訪ねる、三津浜で「斜陽」を執筆
3月 山崎富枝、屋台で太宰治と出会う
4月 田辺精肉店の離れを借りる
5月 西山家を借りる
8月 千草の二階で執筆
昭和23年 1948 太宰治入水自殺 38 3月7日 熱海 起雲閣別館に滞在(3月31日まで滞在)
[3月18日 熱海 起雲閣本館に滞在]
4月25日 本郷の豊島与志雄宅を訪問
4月26日 本郷の筑摩書房を訪ねる
4月29日〜5月12日 大宮に滞在、「人間失格」を書き上げる
6月12日 大宮の古田晃を訪ねる(不在)
6月13日 玉川上水に入水自殺
12月 小山清、上京し成増町二二九の渡辺方に止宿
昭和24年 1949 湯川秀樹ノーベル物理学賞受賞 - この年、または翌年吉祥寺の桜井牛乳店に止宿。さらに吉祥寺の新田方へ転居



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