<太宰治研究 (第一号)>
太宰治と小山清の関係については、様々な本に書かれていますが、今回は「太宰治研究」、筑摩書房版の「太宰治全集」、田中良彦の「評伝小山清」、「小山清全集」等を参考にしています。先ずは昭和37年10月発刊の審美社「太宰治研究」からです。小山清が「かぼちゃの花」として太宰治、田中英光との関係を書いています。
「太宰が三十六歳の晩秋の頃、私が二度、吉原へ案内した。一度は田中英光が来てゐた。龍泉寺町の飯田さんの古本屋さんは、本所の錦糸堀にある府立三中で堀辰雄と同年であって、夕方から私達は四人、江戸町一丁目の傍のある店で酒を飲んだ。
タバコはそろそろ無くなったので、その時、私が少しばかりタバコをあげたが、太宰と英光は二人ともに武者振つくほどであった。廓のある店で、太宰は「みんな、呼ばねえんだよ。」と笑ってゐた。
甲府へ疎開してゐた頃、太宰と私は、よくぶらついてゐた。病院の二階で女が外を眺めてゐたが、太宰はそこを通りあほせて、さびしい女の心を、「いいねぇ。」と言った。
「富嶽百景」といふ作品に、御坂峠へ、色さまざまの遊女たちが、富士を眺めてゐる、暗く、わびしい風景を書いたことがあった。
田中英光が二十四歳で結婚した時、太宰が二十八歳で色紙を呉れた。
はきだめの花
かぼちゃの花
わすれられぬなり
わがつつましき新郎の心を 冶
太宰は千葉船橋に転地して、英光は朝鮮京城にゐた。」。
なにか、弟子というよりは対等の関係として書いています。太宰治が小山清を好きになれなかった理由がここにあるようにおもえます。
★写真は、昭和37年10月発刊の審美社「太宰治研究 第一号」です。装幀にお金をかけていませんので、どうしても経年変化で汚れてしまいます。私は第七号までと、臨時増刊を所持しています。