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最終更新日:2006年3月26日

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●御坂峠、天下茶屋を歩く 初版03/11/1 V01L03
 今週から「太宰治を巡る」の改版第三弾として、昭和13年から14年かけて滞在した御坂峠の天下茶屋と甲府市内を歩いてみたいと思います。今週は「天下茶屋、甲府シリーズ」の初回して御坂峠の天下茶屋を中心に歩いてみます。

<富士山>
 富士山は、東京から見た遠い富士、静岡や山梨から見た雄大な富士など、さまざまな角度から撮影された写真を何時見てもすばらしいとおもうのですが、太宰はどうでしょう?。「富士の頂角、広重の富士は八十五度、文晁の富士も八十四度くらゐ、けれども、陸軍の実測図によつて東西及南北に断面図を作つてみると、東西縦断は頂角、百二十四度となり、南北は百十七度である。広重、文晁に限らず、たいていの絵の富士は、鋭角である。いただきが、細く、高く、華奢である。北斎にいたつては、その頂角、ほとんど三十度くらゐ、エッフェル鉄塔のやうな富士をさへ描いてゐる。けれども、実際の富士は、鈍角も鈍角、のろくさと拡がり、東西、百二十四度、南北は百十七度、決して、秀抜の、すらと高い山ではない。たとへば私が、印度かどこかの国から、突然、鷲にさらはれ、すとんと日本の沼津あたりの海岸に落されて、ふと、この山を見つけても、そんなに驚嘆しないだらう。ニツポンのフジヤマを、あらかじめ憧れてゐるからこそ、ワンダフルなのであつて、さうでなくて、そのやうな俗な宣伝を、一さい知らず、素朴な、純粋の、うつろな心に、果して、どれだけ訴へ得るか、そのことになると、多少、心細い山である。低い。裾のひろがつてゐる割に、低い。あれくらゐの裾を持つてゐる山ならば、少くとも、もう一・五倍、高くなければいけない。…」、は太宰の「富嶽百景」の書き出しです。まあ、すこし、脛くれていますね! 

太宰の有名な言葉を一つ、「…三七七八米の富士の山と、立派に相対峙し、みぢんもゆるがず、なんと言ふのか、金剛力草とでも言ひたいくらゐ、けなげにすつくと立つてゐたあの月見草は、よかつた。富士には、月見草がよく似合ふ。…」

左上の写真が5月の御坂峠、天下茶屋からの富士の写真です。こんなに構図にはまる撮影ポイントがあるとは、びっくりしてしまいました。一生のうちに一度は見ておかないと行けない富士山でした。何処かで見た事があるなと思ったら風呂屋の富士山!! 太宰は、『「どうも俗だねえ。お富士さん、といふ感じぢやないか。」「見てゐるはうで、かへつて、てれるね。」』、とも書いていますので、少しは分かっているのかな!

  太宰治の天下茶屋、甲府年表

和 暦

西暦

年 表

年齢

太宰治の天下茶屋、甲府を歩く

昭和12年
1937
蘆溝橋で日中両軍衝突
29
6月 初代と離婚成立
昭和13年
1938

30
9月13日 杉並区天沼から御坂峠の天下茶屋に転居
9月18日 石原美智子とお見合い
11月6日 太宰、石原美智子と婚約
11月 甲府市西竪町の寿館に下宿
昭和14年
1939
ドイツ軍ポーランド進撃
31
1月8日 杉並の井伏鱒二宅で太宰、石原美智子と結婚式をあげる。甲府の御崎町に転居
9月1日 東京府三鷹村下連雀百十三番地に転居
昭和20年
1945
ソ連参戦
ポツダム宣言受諾
32
4月 三鷹から妻美智子の実家、甲府市水門町に疎開
7月28日 津軽に疎開

<御坂トンネル>
  富士五湖の河口湖から甲府に向かうには、現在は国道137号線で御坂トンネルを抜けていくのですか、昭和42年に新しい御坂トンネルが開通するまでは、旧道の曲がりくねった細い山道をのぼり、旧御坂トンネルを抜けなければなりませんでした。新御坂トンネルができた当時は、有料でしたが現在は無料となっています。太宰はこの御坂峠の旧トンネルの手前にある天下茶屋に井伏鱒二に呼ばれてやってきます。「…御坂峠、海抜千三百米。この峠の頂上に、天下茶屋といふ、小さい茶店があつて、井伏鱒二氏が初夏のころから、ここの二階に、こもつて仕事をして居られる。私は、それを知つてここへ来た。井伏氏のお仕事の邪魔にならないやうなら、隣室でも借りて、私も、しばらくそこで仙遊しようと思つてゐた。…」、と太宰は「富嶽百景」のなかで、自らの思いを書いています。また、猪瀬直樹の「ピカレスク」では、当時の景気状況もふまえて書いています。、「…御坂峠は標高一千五百メートル、天下茶屋はいわばドライブインである。富士山と富士五湖は御坂峠の南側、御坂峠を越えると甲府盆地がある。ふもとの河口湖から甲府へ抜ける国道百三十七号線は御坂峠を大きく迂回していたが頂上に三百メートルほどのトンネルが昭和九年に開通した。赤字国債を発行して全国各地で公共事業を始めた高橋是清蔵相の景気対策はこの地にまで及んでいた。帝都周辺の失業者の一部は御坂峠のトンネル工事で食いつないだのである。トンネルの開通は一帯の交通革命をもたらした。富士吉田と甲府を結ぶバス路線は昼間は一時間に一本の割合でバスが通過した。バスはいつも近隣の農民や商人、そして遠方からの旅行客で満員だった。夜八時に御坂峠を通過する遅い便もあった。…」、此処でも、猪瀬直樹は公共事業のことを書いています。

【御坂トンネル、天下茶屋付近地図】

左の写真の左側に見えるのが新しい御坂トンネルです。右に見えている道が旧御坂トンネルへむかう旧道となります。この旧道の入口に天下茶屋が本日開店しているかとうかの、カンバンが立っていますので、いかれる方は参考にされたらいいとおもいます。

<都留高等女学校>
  太宰の妻となる石原美知子が、太宰と結婚する前に、勤めていたのが大月にある都留高等女学校です。現在は都留高等学校となり、男女共学の高校となっています。「…女学校時代の友人の娘で都留高等女学校で歴史・地理の教師をしている石原美知子に白羽の矢が立った。美知子は二十六歳、婚期を逸しかけていた。甲府高等女学校を出て東京女子高等師範(現、お茶の水女子大学)を卒業し、県境の女学校に勤めたのである。美知子は石原家の四女である。……高学歴一家だから、釣り合いのとれる相手を探すのが難儀であったところに舞い込んだ朗報であった。美知子は聡明な女性で読書家だった。だが太宰治という新進作家の名前は知らなかった。石原家では良縁と判断し見合いに応じることにした。…」、と猪瀬直樹の「ピカレスク」では書かれています。戦前は、高学歴の女性の、釣り合いの取れた相手を捜すのには大変だったようです。このあと、太宰は井伏鱒二に御坂峠の天下茶屋に呼ばれます。

右の写真が現在は都留高等学校です。JR中央線大月駅から歩いて10分位です。

<御坂峠>
 御坂峠について津島美知子が「回想の太宰治」で書いています。「御坂トンネルが穿たれて甲府盆地と富士山麓を直結する国道八号線が開通したのが昭和五年頃で、河口湖畔に住むTさんがこの茶店を建てたのはその後のことであろう。甲府盆地では御坂山脈に遮られて富士は頂上に近い一部しか見えない。盆地からバスで登ってきてトンネルを抜けると、いきなり富士の全容と、その裾に拡がる河口湖とが視野にとびこんで、「天下の絶景」に感嘆することになる。トンネルの口の高いところに「天下第一」と彫りこまれている。それでこの茶店は「天下茶屋」とよはれていた。…」。この後で説明している天下茶屋の由来がこれでわかります。そして天下茶屋に滞在していた井伏鱒二は、訪ねてきた太宰に計画通り、お見合いをさせます。そのお見合い相手の石原美知子(後の津島美知子)は当時の太宰について、「御坂の茶屋に太宰を訪ねた秋の一日から、三カ月ほど前まで私は太宰治の名も作品も知らなかった。昭和十年第一回の芥川賞の 「蒼坂」は読み、次席の高見、衣巻民らの名は知っていたのに、太宰治の名は全く盲点に入っていた。当時、太宰は、愛読者と、支持者をすでに持っていたが、知名度ともなればいたって低いものであった。昭和十年第一回芥川賞次席になって以後二、三年の沈滞期がなかったら、もっと文名が上がっていたろう。そして相当ひどい評判や噂が彼を囲んでいたらしいが、私は知らなかったし、この縁談を伝え聞いて出版社に勤めている従姉の夫から、私の母に忠告があったことを聞いたが、それほど気にならなかった。数え年で二十七歳にもなっていながら深い考えもなく、著書を二冊読んだだけで会わぬさきからただ彼の天分に眩惑されていたのである。…」、と書いています。ヤッパ、物書きはもてますね、うらやましいな〜。

左上の写真が御坂峠の記念碑です。

<天下茶屋>
 津島美知子は「回想の太宰治」のなかで、天下茶屋に太宰を訪ねた秋の一日について書いています。「太宰治は、茶店備え付けの荒い棒縞のどてらに角帯を締めて坐り、五歳くらいの男の子が、その膝に上がったり下りたりしていた。前に、甲府の私の実家で会ったときよりも彼は若々しく、寛いでみえたが、先刻バスをおりたとき私を迎えた、茶店のしっかり者らしい三十過ぎのおかみさんと、大柄の妹さんと、ふたりの同性の眼が、二階の座敷に上がってからも私には気にかかり、モトヒコという、彼にまつわりついて甘えている子のこともじゃまに思われた。 ひっきりなしに煙草をすいながら太宰は、先日までここに滞在していらした井伏先生ご夫妻のこと、この茶店の主人は応召中であること、小さい女の子がいて、「タダイさん」と彼をよぶこと、それからいま書いている小説の女主人公の姓「高野」は、茶店の妹さんの名「たかの」さんからとってつけたことなどを明るい調子で話した。 御坂トンネルの大きな暗い口のすぐわきに、国道に面して、この天下茶屋は建っている。茶店といっても、かなり広い二階家で、階下には型通りテーブルや腰掛を配置し、土産物やキャラメル、サイダーなどを並べ、二階は宿泊できるようになっていた。…」、いまの天下茶屋とそんなに変わらないようです。この天下茶屋の二階に太宰治の記念室があり、当時そのままに部屋が保存されています。

【御坂トンネル、天下茶屋付近地図】

右の写真が現在の天下茶屋です。休日に訪ねたのですが、河口湖側から登ると、旧御坂トンネルのすぐ手前に、天下茶屋があります。道が狭くて、その上、路上駐車している車が多くて、駐車したり、通過したりするのが大変です。

<山梨県立文学館>
 甲府での太宰を調べるため、山梨県立文学館を訪ねました。ここでは山梨ゆかりの作家と作品を紹介しており、太宰のコーナーもありました。また閲覧室では資料がそろっており、甲府での太宰の足どりはすべて調べる事ができました(閲覧カードまで作ってしまった)。「昭和十三年の初秋、思ひをあらたにする覚悟で、私は、かばんひとつさげて旅に出た。甲州。ここの山々の特徴は、山々の起伏の線の、へんに虚(むな)しい、なだらかさに在る。小島烏水といふ人の日本山水論にも、「山の拗(す)ね者は多く、此土に仙遊するが如し。」と在つた。甲州の山々は、あるひは山の、げてものなのかも知れない。」、と「富嶽百景」のなかで、甲府のことを書いています。

左の写真が山梨県立文学館です。

次回は、甲府での太宰を歩いてみます。

太宰大月付近地図



●甲府市内を歩く 初版03/11/8 V01L01
 先週から「太宰治を巡る」の改版第三弾として、昭和13年から14年かけて滞在した御坂峠の天下茶屋と甲府市内を歩いています。今週は「天下茶屋、甲府シリーズ」の2回目として新婚当時の甲府市内を歩いてみます。

<ランデブー>
 甲府の太宰を調べるにあたって、地元の情報誌「ランデブー」を参考にさせて戴きました。「ランデブー」は、株式会社コミヤマ工業殿が山梨県下にある市町村をテーマとした「まち再発見雑誌」として発行されています。ホームページの中では、「…各市町村は、それぞれがもつ美しい自然の中で、それぞれ固有の歴史を育み、独特の文化を生み出してきました。またそこには、実に魅力にあふれた人々が生活しています。雑誌「ランデブー」は、そうした市町村がもつ独自の魅力やそこに住む人々の素顔の表情を、さまざまな角度から掘り起こし、引き出し、広く県内外のみなさんに知らせていきたいと考えています。この雑誌は、まちに住んでいる方々にはまちの魅力を再認識していただき、そうでない方々には、あのまちに行ってみたいと思っていただけるような記事を満載し、これまでにない切り口での編集を目指します。もちろん、県外の方々には、「やまなし発見」のためのツールとなることでしょう。」、 と書いておられます。一企業がここまで行うのは大変だと思います。また県外の私としては、大変参考になりました。

左上の写真が”山梨・まち「見物」誌「ランデブー」”2号です。”ハネ・ムーン時代の、太宰治”を特集しており、写真、地図で詳細に説明しています。

  太宰治の甲府年表

和 暦

西暦

年 表

年齢

太宰治の天下茶屋、甲府を歩く

昭和13年 1938
30 9月13日 杉並区天沼から御坂峠の天下茶屋に転居
9月18日 石原美智子とお見合い
11月6日 太宰、石原美智子と婚約
11月 甲府市西竪町の寿館に下宿
昭和14年 1939 ドイツ軍ポーランド進撃 31 1月8日 杉並の井伏鱒二宅で太宰、石原美智子と結婚式をあげる。甲府の御崎町に転居
9月1日 東京府三鷹村下連雀百十三番地に転居
昭和20年 1945 ソ連参戦
ポツダム宣言受諾
32 4月 三鷹から妻美智子の実家、甲府市水門町に疎開
7月28日 津軽に疎開

<寿館跡>
 太宰は、石原美智子と婚約後、御坂峠の天下茶屋から住まいを甲府市西竪町の寿館に移します。この寿館については津島美知子が「回想の太宰治」のなかで詳細に書いています。「昭和十三年の十一月半ば、太宰は御坂峠をおりて、寿館に下宿した。この下宿は、甲府の上府中(甲府市の北部の山ノ手) の西寄りにあった。 当時甲府の市内には大小の製糸工場が占差していて寿館の近くにも、「小路一つ隔てて」かどうかは確かめていないが、製糸工場があって、サナギを煮る匂を漂わせていた。……太宰が寿館で書いた「I can Speak」の女工さん姉弟の姿と声とは、幻で見、幻で聞いたのであろう。寿館は下宿屋らしい構えで、広い板敷の玄関の正面に大きい掛時計、その下が帳場、左手の階段を上り左奥の南向きの六畳が、太宰の借りた部屋である。……日当りのよい窓辺に机を据え、ざぶとん、寝具一式を運び、一家総がかりで彼のために丹前や羽織を仕立てたり、襟巻を編んだりした。太宰はほとんど毎日、寿館から夕方、私の実家に来て手料理を肴にお銚子を三本ほどあけて、ごきげんで抱負を語り、郷里の人々のことを語り、座談のおもしろい人なので、私の母は(今までつきあったことのない、このような職業の人の話を聞いて)、世間が広くなったようだ、と言っていた。……太宰がよその茶の間で、私どもの面前で、そうして巻紙を下におかずに手紙を書くのを見て、若くても文士というものはさすが違っていると、感服した。…」。石原家が結婚前の太宰の面倒をまるまるみていたようです。

左の写真の右側が寿館跡です。正面が清運寺で、写真の道は多分、参道です。上記に書かれている製糸工場は写真手前の左側にあったとおもわれます。太宰が寿館で書いた「I can spsek」では、「甲府へ降りた。たすかった。変なせきが出なくなった。甲府のまちはずれの下宿屋、日当たりのいい一部屋かりて、机にむかって座ってみて、よかったと思った。また、すこしづつ仕事をすすめた。おひるごろから、ひとりでぼそぼそ仕事をしていると、わかい女の合唱が聞こえてくる。…下宿と小路ひとつ隔てて製糸工場があるのだ。…」、と書いています。

<新居跡>
 太宰は寿館に昭和13月の大晦日まですごし、年が明けて1月8日には、東京 杉並の井伏鱒二宅で、結婚式を挙げます。そして、寿館から歩いて10分ほどの甲府市御崎町に新居を構えます。この新居についても津島美知子が「回想の太宰治」のなかで詳細に書いています。「…やがて母が御崎町に小さな借家をみつけてくれて、昭和十四年の正月早々、風の強い日に太宰は寿館からこの家に移った。……この家の間取りは八畳、三畳の二間、お勝手、物置。八畳間は西側が床の間と押入、隅に小さい炉が切ってあった。東側は二間ぜんぶガラス窓、その外に葡萄棚、ゆすら梅の木、玄関の前から枝折戸を押して入ると、ぬれ縁が窓の下と南側にL字型についている。この座敷の南東の空には御坂山脈の上に小さく富士山が見えた。……引越す前、酒屋、煙草屋、豆腐屋、この三つの、彼に不可欠の店が近くに揃っていてお誹え向きだと、私の実家の人たちにひやかされたが、ほんとにその点便利よかった。…太宰の説によると「豆腐は酒の毒を消す。味噌汁は煙草の毒を消す」というのだが、じつは歯がわるいのと、何丁平げても高が知れているところから豆腐を好むのである。毎日午後三時頃まで机に向かい、それから近くの喜久之湯に行く。その間に支度しておいて、夕方から飲み始め、夜九時頃までに、六、七合飲んで、…ご当人は飲みたいだけ飲んで、ぶっ倒れて寝てしまうのである…」。太宰は、なんといい身分なのでしょうか、うらやましいですね。

右の写真が甲府市御崎町の「太宰治 僑居跡」の碑です。本当の旧居は、この石碑から右に少し入った所です。

<酒屋>
 上記の”新居跡”で書かれている、「…引越す前、酒屋、煙草屋、豆腐屋、この三つの、彼に不可欠の店が近くに揃っていてお誹え向き…」、の酒屋、煙草屋、豆腐屋を紹介します。まず酒屋です。新居からすこし寿館の方に戻った、T字交差点にある「窪田酒店」が最初に書かれている酒屋です。つぎは煙草屋なのですが、このお店はよくわかりません。そのつぎが豆腐屋です。ざんねんながらお店は無くなってしまっていました。現在は駐車場になってしまったそうです。

左の写真が新婚当時に津島美知子がよく通った「窪田酒店」です。

<風呂屋>
 つぎに紹介するのが風呂屋です。「…毎日午後三時頃まで机に向かい、それから近くの喜久之湯に行く。その間に支度しておいて、夕方から飲み始め、夜九時頃までに、六、七合飲んで、…ご当人は飲みたいだけ飲んで、ぶっ倒れて寝てしまうのである…」。と書かれている「喜久之湯」は現存していました。
この風呂屋には井伏鱒二も行っています。「…井伏先生は御崎町時代二度ほど甲府にお見えになった。…二度目は三月下旬、先生はその日、仕事を持って御崎町にお見えになり、太宰の机で執筆された。太宰はただ嬉しく、顔をゆるませて炉端にひき退って、お仕事の終了を待っていた。先生は机の前にお坐りになると、「どうもへんだよ。書こうとすると小便したくなるんだ」とおっしゃって、立ったり坐ったりされた。新聞連載の一回分を書き上げて、太宰と一緒に銭湯に行かれた。…」。結構有名人が入っている風呂屋でした。

右の写真が現在の「喜久之湯」です。太宰の新居からは歩いて数分です。

<石原家跡地>
 太宰は甲府市御崎町から昭和14年9月、東京 三鷹に転居します。御崎町には8ヶ月間住んでいたことになります。その後、しばらく三鷹で過ごしますが、昭和20年に入り、東京がしばしば空襲を受ける様になり、4月、三鷹から妻美智子の実家、甲府市水門町に疎開してきます。この疎開についても津島美知子が「回想の太宰治」のなかで詳細に書いています。「…甲府に疎開することについては、太宰にためらう気拝もあったらしい。私の実家といっても既に母も死んで、軍務についている弟が当主であり、妹が留守宅を預かっている実状であったから。また戦禍を避ける目的からいえば私たち一家は、水門町の家からさらに農山村に疎開すべきであった。太宰も私も、生家とはいえ、それぞれの兄弟の家を頼りにして安易なその日その日を送り、甲府では焼夷弾に見舞われる日を待っていたようなものである。…」。太宰は三鷹に続いて、昭和20年7月7日、甲府でも空襲を体験する事になります。甲府での空襲の様子を「薄明」に書いています。「東京の三鷹(みたか)の住居を爆弾でこわされたので、妻の里の甲府へ、一家は移住した。甲府の妻の実家には、妻の妹がひとりで住んでいたのである。昭和二十年の四月上旬であった。連合機は甲府の空をたびたび通過するが、しかし、投弾はほとんど一度も無かった。まちの雰囲気も東京ほど戦場化してはいなかった。私たちも久し振りで防空服装を解いて寝る事が出来た。…… と私は夕食の時、笑いながら家の者に言ったその夜、空襲警報と同時に、れいの爆音が大きく聞えて、たちまち四辺が明るくなった。焼夷弾攻撃がはじまったのだ。ガチャンガチャンと妹が縁先の小さい池に食器類を投入する音が聞えた。まさに、最悪の時期に襲来したのである。私は失明の子供を背負った。妻は下の男の子を背負い、共に敷蒲団一枚ずつかかえて走った。途中二、三度、路傍のどぶに退避し、十丁ほど行ってやっと田圃に出た。麦を刈り取ったばかりの畑に蒲団をしいて、腰をおろし、一息ついていたら、ざっと頭の真上から火の雨が降って来た。「蒲団をかぶれ!」 私は妻に言って、自分も子供を背負ったまま蒲団をかぶって畑に伏した。直撃弾を受けたら痛いだろうなと思った。直撃弾は、あたらなかった。蒲団をはねのけて上半身を起してみると、自分の身のまわりは火の海である。…」、子供を抱えて、三鷹よりも緊張したのではないでしょうか。この後、子供の眼の回復を待って、太宰の実家、金木へ疎開します。

左の写真、正面がが石原家跡地です。現在は病院になっていました。


太宰甲府市内地図


【参考文献】
・斜陽日記:太田静子、石狩書房
・斜陽日記:太田静子、小学館文庫
・あわれわが歌:太田静子、ジープ社
・手記:太田治子、新潮社
・母の万年筆:太田治子、朝日新聞社
・回想 太宰治:野原一夫、新潮社
・雄山荘物語:林和代、東京新聞出版局
・回想の太宰治:津島美知子、人文書院
・斜陽:太宰治、新潮社
・太宰治辞典:学燈社、東郷克美
・ピカレスク:猪瀬直樹、小学館
・太宰治展:三鷹市教育委員会
・人間失格他:文春文庫
・太宰治と愛と死のノート:山崎富栄
・矢来町半世紀:野平健一、新潮社
・太宰治 七里ヶ浜心中:長篠康一郎、広論社
・太宰治に出会った日:山内祥史、ゆまに書房
・若き日の太宰治:相馬正一、津軽書房
・太宰治研究?K:桂英澄、筑摩書房
・太宰治と私:石上玄一郎、集英社
・太宰治の思い出:大高勝次郎、たいまつ社
・太宰治と青森のまち:北の会、北の街社
・ランデブー:株式会社コミヤマ工業

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