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●太宰治の船橋時代を歩く
    初版2003年10月4日
    二版2009年7月11日  <V01L02> 暫定版

 「太宰治を巡って」の改版を順次おこなっています。今週は「太宰治の船橋時代を歩く」です。盲腸炎から始まった太宰の入院生活はパピナール中毒のため、入退院を4回繰り返した末、やっと病院から開放されます。太宰らしいといえば”太宰らしい”ですね。


「船橋の地図」
<太宰の手紙>
 昭和10年6月パピナール中毒治療の為、入院していた経堂病院を退院、療養のため船橋に引越します。檀一雄の「小説 太宰治」からです。
「…それまではまだ学生であり、徒弟であり、間借りの書生風情に過ぎなかった太宰が、兎にも角にも、作家として自分の一戸を構えたのは、この船橋時代が初めてのことだった。嬉しく、また身に添わず、また落着かぬふうだった。僅かではあったが、稀に、原稿料の収入も這入って来るし、何よりも一戸を構え、近所の人々にも作家だ、とはっきり軍言して、その反応をはかっているような時期だった。
 しかし、身体は衰弱の極に達していた。何よりも、もう例のモヒ中毒が、始っていたわけだ。
 私が、はじめて船橋に太宰を訪ねていった時は、南の縁側に膝の長椅子を出して膜をおろし、ボンヤリと薄目を開きながら、太宰はビールを飲んでいた。…」

 太宰治の住まいとしては、少し趣の違う場所です。都内から、荻窪界隈を中心として住まいを転々としていたのですから、どういう訳でしょうか。パピナール中毒から抜け出すため、今までとは違った環境としたのかもしれません。

写真は、船橋に移った太宰が、中野の神戸雄一に送った地図(葉書に記載)です。昭和10年9月23日の日付です。今回はこの地図に従ってJR船橋駅から太宰の住まいであった千葉県舟橋町五日市本宿千九百二十八番地まで歩いてみます。

 洋々社の「太宰治・第六号(1990/6)」にも、この葉書に書かれた地図を参考にして、「太宰治と船橋 ●太宰治の足跡をたずねて」として奥村純一さんが書いています。今回はもう少し詳細に歩いてみました。
 事前に説明しておきますが、文士の書いた地図ほど、いい加減なものはありません。特に文章で書いた場所を特定するのは非常に困難です。もう少し客観的に書けないものかとおもいます。

「田中薬局跡」
<タナカ薬局>
 太宰の書いた地図で最初に登場するのは、国鉄船橋駅(現在のJR船橋駅)です。”「お茶の水」より三十分(三十五銭)”と横に書いています。地図の道に沿って歩くと次に書かれているのが「タナカ薬局」でした。檀一雄の「小説 太宰治」からです。
「…、心当りの友人には、無心を云いつくしてしまっていたようだ。
 私が、時折船橋の家を訪ねてゆき、また、友人から開きこむ噂さだけでも、保田与重郎、芳賀壇、亀井勝一郎、淀野隆三等、すべて、多少に拘らぬ送金嘆願の書簡を、受け取っているようだった。…」

 パピナールを買うために友人たちに借金を重ねていたようです。パピナールを買っていた薬局はこの田中薬局かとおもったのですが、違う薬局でした。

写真の「くすりの福太郎」の右隣に「田中薬局」がありました。現在の「ときわ書房」のところになります。昭和30年代の地図では「田中薬局」になっていましたので、間違いないとおもいます。ただ、区画整理で道や歩道が広くなった分、建物が無くなっています。船橋は空襲を受けていますが、被害は少なく、当時の建物が長く残っていたようです。

「船橋小学校」
<船橋小学校>
 太宰の地図通り、田中薬局のところを左に折れて、京成線沿いを歩いていきます。地図で次に書かれているの字がよく判別できませんでした。達筆すぎて読めません(倉庫とも読めます)。昭和30年の地図を見ると「魚市場」とありました(何方か読めた方はいらっしゃいますか!)。「魚市場」の少し先を右に曲がり、踏切を渡ります。その先は地図に登場している船橋小学校(当時は船橋第一小学校?)です。
 友人鰭崎潤の「太宰治と私」からです。
「…画学生時代昭和十年頃の夏、何回目かに友人に誘われて船橋へ訪ねて行った時のことです。 私の作品を二三ならべると、太宰はいらいらして虚空を見つめるような目付で藤椅子にねころ んでいたが、丁度来あわせていた檀一雄が、「なんだ、こりゃ取澄したよそ行きだ、自分のほんとのものを見せてもらいたいね」 というと、天井を見ながら「そうだ、そうだ、檀、いいこ とをいうぞ。」と語をはさんだ。…」
 この船橋辺りのことを書いた文章があまりありませんので、友人たちが太宰の船橋時代について書いた文章を掲載します。

写真正面が現在の船橋小学校です。場所も当時と変わっていません。写真の奥右側から手前の方に歩いてきます。

「借家」
<船橋の借家>
 船橋小学校から眞直、西に歩くと九重橋です。現在は架け直されて新しい橋になっていますが、戦前からあった橋です。この橋を越えると京成電鉄の踏切になります。先程渡りましたから再度渡ることになります。踏切を越えて次の角を右に曲がると太宰の旧宅になります。檀一雄の「小説 太宰治」からです。
「…船橋の家は三間のようだった。南に二間が続き、酉の玄関脇に一間の茶の間、そこからお勝手 が続いているといった間取だったように記憶している。家賃は十七円か?  玄関の左横に爽竹桃が一本植えられてあった。太宰は私を散歩に連れだす時に、指さして、 「夾竹桃だよ。檀君、爽竹桃」  私の郷家の辺りでは珍らしいことも何もない。太宰がどうしてそのように嬉しそうに、又練り かえし語るのかわからなかったが、太宰の追憶の中に、この木にまつわる思い出でもあったのかで 太宰は単衣の手放の着流しに、細い竹のステッキを振りながらよろよろとよろけ出た。考える と、夾竹桃には花がついていたように覚えているから、最初に船橋の太宰をたずねていったのは、 夏でなくても、初秋であったろう。…」
 お風呂はどうしたのでしょう。一番近い風呂屋は「海老乃湯」ですが、詳細は不明です。

写真は太宰治の旧宅跡に建てられた記念碑です。細い路地の先に建てられています。個人のお宅の中ですので注意したほうがよいでしょう。太宰が住んでいたころは、周りは空き地ばかりだったようです。


太宰治の船橋地図


太宰治年表
和 暦 西暦 年  表 年齢 太宰治の足跡
昭和10年 1935 第1回芥川賞、直木賞 27 3月10日 都新聞社の就職試験を受ける
3月17日 鎌倉で縊死を企てる
4月初旬 盲腸炎の手術で阿佐ヶ谷の篠原病院に入院
5月上旬 世田谷の経堂病院に移る
7月1日 病後療養のため、千葉県船橋町に転居
9月 授業料未納により東京帝国大学を除籍
昭和11年 1936 2.26事件 28 2月中旬 芝済生会病院に入院
8月群馬県谷川温泉 川久保屋に宿泊
10月13日 江古田の東京武蔵野病院に入院
11月12日 杉並区荻窪の光明院裏の照山荘アパートに転居
11月15日 天沼一丁目238番地の碧雲荘に転居
昭和12年 1937 蘆溝橋で日中両軍衝突 29 3月下旬 群馬県谷川温泉 川久保屋に宿泊
6月 初代と離婚成立
6月21日 天沼一丁目213の鎌滝方に転居
昭和13年 1938 関門海底トンネルが貫通
岡田嘉子ソ連に亡命
「モダン・タイムス」封切
30 9月13日 杉並区天沼から御坂峠の天下茶屋に転居
9月18日 石原美智子とお見合い
11月6日 太宰、石原美智子と婚約
11月 甲府市西竪町の寿館に下宿



「長直登病院跡」
<長直登病院>
 太宰治の船橋で、紹介しなければならないところを順次掲載します。先ず最初は船橋で太宰が通っていた病院です。太宰が病院に罹っていたことは、本に書かれている通りですが、病院名は分かりませんでした。宮城音弥さんの「ひとつのカルテ」からです。
「…『その後、現在の船橋に転居し、七月七日ころより腹痛のため毎日医師より麻薬注射(主とし てパピナール)を受け、習慣化するにいたり、本年二月まで、多きは、一日三筒にもおよん だ。」…」
 ここでは”医師”としか書かれていません。そこで、長篠康一郎さんの「太宰治 文学アルバム」を見ると、「長直登病院」と書かれていました。長篠康一郎さんが調査されたようです。現在は無くなっており、他の医院となっています。

右の写真左側の建物が「長直登病院」跡です。現在は他の病院になっています。建物を見ると、かなり古く、当時のままかもしれません。

「川奈部薬局」
<川奈部薬局>
 次に紹介するのが太宰が通っていた薬局です。この薬局も長篠康一郎さんの「太宰治 文学アルバム」から判明しました。小山祐士が「処女作のころ」で書いています。
「…話しているうちに次第に気力が衰え、呂律があやしくなってくると、太宰は何 度も便所にそっと姿を消した。便所には殻のアンプルが転がっていた。不注意にもアンプルを 転がしっ放しにしたりしながら、私をもてなそうとしていじらしいほど懸命に気をつかい、自 分でビールを買いに出かけたりした。…
…船橋時代の太宰はパピナールを手に入れるために、知人や先輩に手当り次第に、恥も外聞もなく借金申込みの書簡を送ったり、半狂人のように金策に町を飛び廻ったりした。私にも詩のような手紙をよこした。私はやっと工面をして五十円送った。…」

 船橋時代の最後は借金だらけだったようです。津島家の番頭さんが借金の後始末をしています。その時に、薬局の領収書もたくさんあったようです。

写真正面の薬局です。場所も当時のままです。船橋は戦後もあまり変わっていませんね!!

「夾竹桃」
<夾竹桃>
 太宰は借家に夾竹桃を植えます。お隣から貰ってきた夾竹桃でした。。
「…この土地に私が移り住んだのは、昭和十年の七月一日である。八月の中ごろ、私はお隣の庭の、三本の夾竹桃(きょうちくとう)にふらふら心をひかれた。慾しいと思った。私は家人に言いつけて、どれでもいいから一本ゆずって下さるよう、お隣へ頼みに行かせた。…
…私は三本のうち真ん中の夾竹桃を譲ってもらった。 「くには青森です。夾竹桃などめずらしいのです。百日紅。葵。日まわり。夾竹桃。それから蓮。鬼百合。夏菊。みんな好きです。ただ、木槿だけは、きらいです」…」

 この夾竹桃は太宰が船橋を離れた後もそのままだったようです。

写真の夾竹桃は太宰が借家で植えたものを移植したものです。現在は船橋スクエア21の南側に記念碑と共にあります。

順次、追加改版します。



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