<太宰の手紙>
昭和10年6月パピナール中毒治療の為、入院していた経堂病院を退院、療養のため船橋に引越します。檀一雄の「小説 太宰治」からです。
「…それまではまだ学生であり、徒弟であり、間借りの書生風情に過ぎなかった太宰が、兎にも角にも、作家として自分の一戸を構えたのは、この船橋時代が初めてのことだった。嬉しく、また身に添わず、また落着かぬふうだった。僅かではあったが、稀に、原稿料の収入も這入って来るし、何よりも一戸を構え、近所の人々にも作家だ、とはっきり軍言して、その反応をはかっているような時期だった。
しかし、身体は衰弱の極に達していた。何よりも、もう例のモヒ中毒が、始っていたわけだ。
私が、はじめて船橋に太宰を訪ねていった時は、南の縁側に膝の長椅子を出して膜をおろし、ボンヤリと薄目を開きながら、太宰はビールを飲んでいた。…」。
太宰治の住まいとしては、少し趣の違う場所です。都内から、荻窪界隈を中心として住まいを転々としていたのですから、どういう訳でしょうか。パピナール中毒から抜け出すため、今までとは違った環境としたのかもしれません。
★写真は、船橋に移った太宰が、中野の神戸雄一に送った地図(葉書に記載)です。昭和10年9月23日の日付です。今回はこの地図に従ってJR船橋駅から太宰の住まいであった千葉県舟橋町五日市本宿千九百二十八番地まで歩いてみます。
洋々社の「太宰治・第六号(1990/6)」にも、この葉書に書かれた地図を参考にして、「太宰治と船橋 ●太宰治の足跡をたずねて」として奥村純一さんが書いています。今回はもう少し詳細に歩いてみました。
事前に説明しておきますが、文士の書いた地図ほど、いい加減なものはありません。特に文章で書いた場所を特定するのは非常に困難です。もう少し客観的に書けないものかとおもいます。