kurenaidan30.gif kurenaidan-11.gif
 ▲トップページ著作権とリンクについてメール

最終更新日:2006年3月26日

dazai-title1.gif


●太宰治の青森を歩く 初版04/3/27 V01L01
 今週は「小説家の新宿を歩く」をお休みして、太宰治の未掲載分から、太宰が中学生時代を過ごした青森を「太宰治の青森を歩く」として掲載します。

<太宰と青森>
 東京から遠い街”青森”ですが、ここ数年で二回も訪れました。仕事以外でそれも休日を使っての訪問でしたので、駆け足でしたが、太宰に関する所は網羅したとおもいます。特に太宰と青森に関する本では「太宰治と青森のまち」がたいへん役に立ちました。「…太宰が青森に在学していた頃(大正十二年〜昭和二年)は、時代の転換期であつた。大正デモクラシーの流れをうけ、新時代に目ざめる若人が、つきぬ熱情を文芸や音楽、演劇、スポーツ等、実践活動への夢をたぎらせる一方、子供のための優れた童話、童謡を指向する?赤い鳥?が全盛……。ハイカラ風俗、趣向も巷にいろいろ登場し、柳町防火線と新町かどには、暮らしと文化の尖端をゆく三階建、松木屋呉服店がオープン。新鮮な話題をよんだが、しかし自由な焔が拡がつてみえたもの これを阻む社会の壁も厚く、…そして……不況の嵐が吹きつのっていった世相でもあった。…」、と当時の青森の世相を伝えています。古い土地柄に対して、大正デモクラシーの風だけでは吹き抜けなかった時代のようです。

左上の写真が「太宰治と青森のまち」です。太宰が通った「おもだか」等の地図も掲載されており、青森の太宰を知るには無くてはならない一冊です。

  太宰治の青森年表

和 暦

西暦

年 表

年齢

太宰治の青森を歩く

大正11年
1922
ワシントン条約調印
13
3月 金木小学校卒業
4月 学力補充のため、四カ村(金木と隣接三カ村)組合立明治高等小学校に入学
大正12年
1923
関東大震災
14
4月 青森県立青森中学校(現・青森高等学校)に入学
青森市寺町一四番地豊田太左衛門方に寄宿
大正14年
1924
治安維持法
日ソ国交回復
16
4月 弟礼治、青森中学校に入学、ともに豊田家に同宿
昭和2年
1925
金融恐慌
芥川龍之介自殺
18
4月 中学四年で弘前高等学校(現・弘前大学)文科甲類に入学

<青森中学校>
 太宰は大正12年、青森県立青森中学校に入学します。お坊ちゃんで育てられて、親元を離れての初めての生活ですから、相当緊張したのではないでしょうか!当時の事を中村貞次郎が「太宰治の青森時代」として書いています。「大正十二年四月に私は、青森中学校(旧制)に入学した。当時の青森中学校では、二百名募集し、一クラスは五十人宛で、甲乙丙丁の四組に分けた。私は丁組であった。私のクラスに津島修治という生徒がいた。この時から太宰治と私との交友が始まったわけである。彼は脊が高く、痩せて、なよなよした感じの人だったので目立った。その頃私は大抵朝六時頃起きた。洗面していると腰までカバンを下げて学校へ行く彼の姿をしばしば見たものである。当時バスはあったが生徒は皆歩く習慣であった。中学校まで三キロ位あった。歩いて四十分位かかったが、それにしても七時少し前に着くから始業までには一時間以上もある。なんのためにそんなに早く行くのか私には分らなかった。几帳面というよりも非常識な気がした。緊張していたのかも知れない。そのうちに学校へ行っても誰もいないので工合が悪くなったらしい。私と一緒に行こうということになって、私を待つようになった。…」。相当神経質な様子がよく分かります。もうひとつ、旧制青森中学が面白いのは席の並びです。「…津島君と教室を一緒にしたのは四年生の時だつたと思う。その頃の青森中学校では成績の良い者が後の席で、よくない者が前列の机につくことになっていた。津島君は優等生の銀メダルを胸に、腕には黄色の、校章を型どった級長の印をつけていたので最後列におり、私は学校でも頭の悪さで有名だったので最前列にいた。……授業が始まって間もなく、津島君が立って教室を出ようとしたら阿部君も立上った。驚いた先生(国語の丸山教師)が君達どうしたのだ、と問うと津島君が、”先生の授業が面白くないから公園へ行つて寝て来ます”と言ったものである。先生ばかりか、教室の一同呆気にとられている間に二人は出て行ってしまった。」、上記の神経質さと、この大胆さはどうなのでしょう。頭は良かったようですが、芥川龍之介や川端康成の頭の切れとは少し違うようです。

左の写真が当時の青森中学校正門跡です。青森中学校は終戦直前の7月28日の青森空襲で図書館を残して焼けてしまっています。戦後、2.5Km程離れた桜川に移転しています。当時の青森中学校の面影はこの正門の左右にある石積みだけです。現在は合浦公園となっています。

<豊田太左衛門方>
  金木からは通えないため親類の豊田太左衛門方に寄宿します。太宰は後に青森について随筆をいくつか書いています。東奥日報社から出ていた「月刊東奥」昭和十六年一月号に寄稿した「青森」については工藤英寿が、「…「青森には、四年ゐました。青森中学に通つてゐたのです……」で始まる文章で青森中学時代下宿していた親戚の寺町・豊田呉服店の「おどさ」のことを書いている。「おどさ」はいい人で、太宰が少しでもいい成績をとると、世界中の誰よりも喜んでくれ太宰は甘えていたが、自分がいい仕事をする前に亡くなって、残念でならない。太宰が中学二年のとき寺町の花屋に洋画が五、六枚飾られていてそのうちの一枚を二円で買った。「この絵はいまにきつと高くなります」と生意気なことを言って、太宰は豊田の「おどさ」にこの絵をあげた。いまでは百円でも安すぎるだろう。棟方志功氏の初期の傑作だった。二十年ちかく昔の話だが、「豊田様のお家の、あの絵がもっと、うんと高くなってくれたらいいと思つて居ります」という結びである。「おどさ」は、二十代ちかく続いた寺町の老舗・豊田家の豊田太左衛門である。孫の鈴木正子さんが「太宰治と青森のまち」 に「実家豊田家のこと」を寄稿し、この本にも文章を寄せている。鈴木正子さんは筆者と青森高校新聞部で一緒だった。鈴木さんは同じ新聞部員・寺山修司と同期で…」、と説明しています。太宰から、寺山修司まで広がりますね。そういえば寺山修司も青森出身でした。この付近には太宰がよく通っていた本屋「今泉書店」もまだ残っています。「…今泉の書店は、いまも海手へ通りを一つ隔てた米町三丁目(現本町)にあり、太宰は折にふれ足を運んでいたと言う。そして隣家が、名医・高木東園医院で、その末の弟が方言詩人、高木恭道である。(東園の長男・誠一が、推理作家で知られた高木彬光。彬光を師に海渡英祐が登場)高木恭造は旧青中を卒業後、葉月の小学校代用教員を経て、太宰が青中へ入学した同じ年、旧制・弘前高校理科甲類へ進んでいる。…」。空襲に遭って市内は殆ど焼けてしまっていますので、今泉書店も戦後の建物だとおもいます。

右の写真が豊田太左衛門方跡です。歩道の所に太宰治の記念碑が建てられています。以前は信用金庫会館が建っていたそうなのですが現在は更地になっていました(2003年5月)。太宰の記念館等が建設されるといいですね!

<浅虫温泉>
 青森駅から東北本線で五つ目の駅が浅虫温泉です(現在の駅数です)。「昭和一〜二年のころ、太宰と私は浅虫から汽車通学していた。旧制青森中学の時である。彼の姉が青森の小館家へとついでいたのでその別荘から通っており、私の両親も当時、浅虫にいた。僕らのほかにもう一人伊藤という、ひょろ長い、気のいい同級生がいて、三人はいつも駅で一緒になった。太宰は気の弱い同級生と付き合うのが好きのようだ。名作「津軽」 に出て来る蟹田のN君だって決して気の強い男ではない。人に強く言われればすぐ引っ込む方だ。こういう男と太宰は特に懇意にした。太宰は女性に対する観察も年の割りにませていた。青森市へ通う裁縫習いの美しい娘を見ると「おい、あれは十人並みだ」 とわれわれの注意を喚起した。」、と同級生の山内定雄が書いています。太宰自身も「思い出」の中で浅虫温泉を書いています。「…秋になって、私はその都会から汽車で三十分くらいかかって行ける海岸の温泉地へ、弟を連れて出掛けた。そこには、私の母と病後の末の姉とが家を借りて湯治をしていたのだ。私は、ずっとそこへ寝泊まりして、受験勉強をつづけた。私は、秀才というぬきさしならぬ名誉のために、どうしても、中学四年から高等学校へはいって見せなければならなかったのである。私の学校ぎらいは、その頃になって、いっそうひどかったのであるが、何かに追われている私は、それでも一途に勉強していた。私は、そこから汽車で学校へかよった。…」。やはり太宰はお金持ちですね。温泉から中学校に通えるのですから!

左上の写真が浅虫温泉で太宰が滞在した「鶴の湯」です。現在は「つるの湯」となっていました。浅虫温泉駅から徒歩5分位の近さです。

<おもだか>
 太宰が弘前高等学校時代に土曜日ごとに弘前からわざわざ青森までやってきて楽しんだ料理屋で、初代ともここで会っています。「…井伏が「おもだか屋」といっているのは、太宰のころの「おもたか」で、昭和三十九年に家の土台上げをした際、「おもだか」に経営主の藤野耕一氏が改名している。古い時代の「おもたか」は、対戦中は二階の客室を五連隊の憲兵の宿に使われたりしたが、空襲で焼失したあと、昭和二十一年に藤野多一郎・たま(平成四年九十三歳で没)夫妻の手で焼失前とほとんど同じ間取りで再建されている。玄関からすぐの階段で二階へのぼれば、左手(西側)に一番の十丁間と三番八丁間、右手(東側道路沿い) には二番六丁間と五番の八丁間となつており、当時太宰が紅子をよぶときは三番の部屋で中村貞次郎など友達と来るときは一番と決めていたと、仲居のミッちやん(没)が語つていたというが、仲居の立場上からか店主には多くは語らなかつたという。料亭おもだかは、たまおばあさんが年をとり、また時代の流れもあつて平成元年の春、店を閉じた。いまは灯の消えた門灯が面影を残すだけだが、店主の藤野昭子さんの手もとには太宰の色紙が一枚残つていた。『季節には、少しおくれて、りんご籠、持ちきたる友の、笑顔よろしき、治。』」。色紙はなかなかの文章ですね。紅子(初代)がいた置屋の「野沢家」は、この道の先の交差点を左に曲がってすぐの所です。交差点の角の「今井たばこ屋」はそのままでした。

右の写真の大阪屋の右隣の空き地が「おもだか」跡です。この地区は青森駅前から遠く、さびしい街並みになってしまっています。今井たばこ店は写真の右側に写っているお店です。

<青森県近代文学館>
 常設展示室では、青森県を代表する太宰治を初めとする13人の作家の作品と生涯を紹介しているほか、青森県ゆかりの作家32人をジャンルごとに紹介しています。また、展示室内の6台のパソコンによって、さらに詳しい情報を検索することができます(ホームページより)。

左の写真が青森近代文学館です。左の写真をクリックすると展示室入口の写真になります。


太宰青森市内地図



【参考文献】
・斜陽日記:太田静子、石狩書房
・斜陽日記:太田静子、小学館文庫
・あわれわが歌:太田静子、ジープ社
・手記:太田治子、新潮社
・母の万年筆:太田治子、朝日新聞社
・回想 太宰治:野原一夫、新潮社
・雄山荘物語:林和代、東京新聞出版局
・回想の太宰治:津島美知子、人文書院
・斜陽:太宰治、新潮社
・太宰治辞典:学燈社、東郷克美
・ピカレスク:猪瀬直樹、小学館
・太宰治展:三鷹市教育委員会
・人間失格他:文春文庫
・太宰治と愛と死のノート:山崎富栄
・矢来町半世紀:野平健一、新潮社
・太宰治 七里ヶ浜心中:長篠康一郎、広論社
・太宰治に出会った日:山内祥史、ゆまに書房
・若き日の太宰治:相馬正一、津軽書房
・太宰治研究?K:桂英澄、筑摩書房
・太宰治と私:石上玄一郎、集英社
・太宰治の思い出:大高勝次郎、たいまつ社
・太宰治と青森のまち:北の会、北の街社
・ランデブー:株式会社コミヤマ工業
・太宰治と青森のまち:北の会編、北の街社

 ▲トップページページ先頭 著作権とリンクについてメール