●檀一雄と太宰治の上落合を歩く
    初版2009年12月5日  <V01L02>

 「太宰治を巡って」の未掲載部分を順次掲載しています。と書いてみたのですが、檀一雄の方が重たくなったので、タイトルを「檀一雄を歩く」として、副題を”檀一雄と太宰の上落合を歩く”にしてみました。檀一雄と太宰治の出会いを中心にして、檀一雄の上落合を歩いています。


「小説 太宰治」
<「小説 太宰治」 檀一雄>
 太宰の葬式にも行かなかった檀一雄が、太宰について数多く書いています。まあ、頼まれるから(お金になるから)書いているとおもいますが、この「小説 太宰治」が本命だとおもいます。檀一雄自身については「青春放浪」が一番面白いとおもっています。今回は先ず、檀一雄と太宰治の出会いから初めてみたいとおもいます。「小説 太宰治」からです。
「 向うから、その男がやってきた。ハンチングを斜めに冠り、二重まわしの袖をマントのふうにそよがせて、「ヤ、先日は」
「僕んとこ?」と古谷は云った。すぐ側の、古谷の自宅を訪ねてくる途中かという意味だ。
「でもいいんだ。出かけるとこだろう?」
 と、その男はハンチングの庇に手をやったまま、しばらく頬を染めるようである。出かけるところに、訪ねて来た。それを自分の負目に転化するふうの素早い苦悶。
 瞬間私は、秀抜な写楽の似政絵を見るようだった。
「うん、済まないけど、ちょっと出かけるとこなんだ。檀さん、紹介しよう。こっち、ほら、太宰さん」楷さされて、男はハッキリとハンチングを脱ぎとった。油の切れた蓬髪が叩頭につれてパラリとかぶる。
「ダ、ザ、イです」
「こっち、檀さん」
「檀です」
「じゃ、又」と太宰は云った。古谷は気の毒そうにためらって、
「明日にも、出直して来ない? 今日ちょっと約束があるんで」
「いいんだ。いいんだ」と太宰は、それを甘く揉み消すように、くるりと後がえり、それから歩いていった。背丈は五尺七寸ぐらいか。
 心持猫背の長身が、いわば憂愁に耐えるふうに歩み過ぎた。
 昭和八年の、何月のことだったか、今思いおこせない。私が古谷網武と知合になってから、ようやく十日目ぐらいのことだったろう。…」

 古谷網武と檀一雄の二人が古谷邸から中井駅に向かって歩いていると、向うから太宰がやってきたシチュエーションです。もっと詳細に考えると、太宰はその頃杉並区天沼一丁目に住んでいましたから、西武鉄道下井草駅から乗車して中井駅で降りて、上落合銀座商店街を西に歩いてきたところを檀一雄達と出会ったシチュエーションとなります。なかなか素晴らしい出会いだなとおもったら、野原一夫が、違う出会いを書いていました。野原一夫の「人間 檀一雄」からです。、
「…太宰に会いたいと檀は古谷に言った。その機会はまもなくきた。檀がまだ自宅で寝ているとき、古谷の家の女中が、太宰が来ているからと呼びにきたのである。
 古谷家の二階の居間で檀は太宰に会った。「此家の性格」を太宰に読ませていたらしく、その感想を古谷は訊いた。「いいもんだ。随分、いいもんだ。井伏さんも賞めていたよ」と太宰は答えた。
「檀さんがまた、君の小説を馬鹿に賞めている」と古谷が言うと、太宰はドギマギした。照れ臭さと嬉しさが、咄嗟に交錯したのだろう。…」

 檀一雄の出会いは、なにか小説的です。実際は野原一夫の「人間 檀一雄」の方ではないかとおもいます。

写真は審美社版の「小説 太宰治」です。タイトルに小説が付いていますから、内容の真実性については余り追求せず、楽しめばよいのかなともおもっています。

「落合文士村」
<「東京10000歩ウオーキングNo15」 籠谷典子>
 古い本ばかり紹介していますが、今回は新しい本を紹介します。明治書院の「東京10000歩ウオーキング 文学と歴史を巡る No.15 新宿区落合文士村 目白文化村コース」です。底本は一番最後に紹介しています目白学園女子短期大学国語国文科研究室「落合文士村」(長いので「落合文士村」 と書かせてもらいます)ではないかとおもっています。ただ、住所や地図に少し気になるところがあります。「落合文士村」と違っています。何方が正しいかはわかりません。
「…壷井繁治夫妻の居住跡から山手通りを横断し、上落合銀座商工会通りに入って二〇〇mほど歩き、中華料理店栄華の横道を行くと、檀一雄たちが住んだ二軒長屋跡に着く。…」
 檀一雄が住んだ「なめくぢ横丁」の場所が少し違います。「落合文士村」では旧地番で、上落合二丁目829番地(新住居表示で上落合三丁目20−17)なのですが、「東京10000歩ウオーキング 文学と歴史を巡る No.15」では、新住居表示で上落合三丁目20−10付近と書いています。違うようです。「落合文士村」の記述の方が正しいとおもうのですが、どうでしょうか!

写真は、明治書院の「東京10000歩ウオーキング 文学と歴史を巡る No.15 新宿区落合文士村 目白文化村コース」です。「東京10000歩ウオーキング 文学と歴史を巡る No.15 新宿区落合文士村 目白文化村コース」は、amazonは在庫切れとなっており、古本しかありませんでした(紀伊國屋書店には在庫がありました)。他の地区分は在庫かあるようです。

「私の昭和史 戦後編」
<「青春放浪」 檀一雄>
 個人的ですが、私は檀一雄のエッセイの中では一番好きな本です。自身のことを書いているわけですが、どこまで真実を書いているかは分かりません。しかし、なかなか面白いです。檀一雄の「青春放浪」から”上落合付近”の記述です。
「… 疲れては、よく中井駅の側のワゴンという喫茶店でウィスキーを飲んだ。一杯十銭の粗悪なウィスキーである。
 喫茶店などというと上等のものに聞えようが、いやはや、物置を改造して、周囲と硝子戸をペンキで塗りたてた正真正銘の掘立小屋である。
 しかし、そのペンキの塗り工合というか──何となく感じがあった。とてもペンキ屋の仕事ではない。後で満洲で白乾児を飲み合っているうちに、この看板は、外ならぬ逸見猶吉が描いたものであることが判明した。
 私が知らずして、第二代目の看板を塗ったわけである。このことが判明した時の逸見猶吉の愉快そうな貌附きと云ったらなかった。
 大きな色の裡めたダブダブのシューバの袖をまくり上げて、ドンとテーブルを叩き、
 「何だ? 檀一雄が俺の看板の上塗りをしたわけか……」……」

 上記に書かれている西武鉄道の中井駅前あった「ワゴン」という喫茶店(バー)は萩原朔太郎の前夫人の稲子が経営していました。萩原朔太郎との離婚の原因は、年下の学生との不倫だったようです。この「ワゴン」はその若い愛人といっしょに開いた店で、林芙美子や武田麟太郎などが常連だったようです。

 上記に書かれている逸見猶吉とは、早大卒、昭和10年頃に草野心平、中原中也等と詩誌「歴程」を創刊しています。昭和18年、満州で死去しています。
 
写真は檀一雄のちくま文庫版「青春放浪」です。昭和31年に筑摩書房より出版されたものです。昭和35年にも読売新聞に「青春放浪」として連載したものもあります。

「ワゴン跡」
<中井駅前の喫茶店「ワゴン」>
 ここでは、古谷網武と檀一雄の出会いを掲載します。順番としては、古谷網武と檀一雄が先ず出会い、古谷網武の知り合いであった太宰治を、古谷網武が檀一雄に紹介して出会うことができた訳です。古谷網武と檀一雄の出会いは中井駅前の喫茶店「ワゴン」から始まります。檀一雄の「青春放浪」からです。
「…そこへ眼鏡をかけた和服姿の男がせっかちに入ってきて、先ず私達をグルリと見廻したが、
 「失礼ですが、ここに檀さんと云う人が居りますか?」
「僕が檀です」
「そう。あんたが檀一雄」
 男は私の顔を穴のあくように見つめていたが、やがてウィスキーを手にしながら、猛烈な勢いで、私の小説をほめはじめた。何かこう、榴霰弾が私の身辺にぶちまかれているようで、不思議な昂奮に、顔や手足がカッカと火照ってゆくのが感じられた。
 これが古谷綱武氏とはじめて会った時の模様である。
 私はそのまま、彼の自宅に連れてゆかれた。可愛い小柄な奥さんが、真夜中というのに酒を次々と運んできて、私達は夜明け迄、喋り合った。
 私は、唐突に、あやしい──魅惑的な──文芸という世界の中に、引きさらわれてゆく自分自身を感じた。…」。

 この出会いも、一番最初に書いた太宰治との出会いと同じく劇的です。すこし小説化しすぎているようにおもいますが、読者としてはおもしろいです。この出会いについては、他の本もこの場面をそのまま使っているようです。

写真は西武新宿線中井駅を南に向かって歩き、寺斉橋を渡った辺りから、振り返って、中井駅方面を撮影したものです。喫茶店「ワゴン」の住所は旧地番で下落合3丁目1909番地、新住居表示で中落合一丁目20−15付近です。写真正面の茶色のビル左側付近です。

「さまざまな追想」
<「さまざまな追想」 野々上慶一>
 西武鉄道中井駅前の喫茶店「ワゴン」については、野々上慶一も「さまざまな追想」の中で書いています。野々上慶一は「小林秀雄と青山二郎の遊び場所」で東京帝大前の「文圃堂」店主として登場しています。野々上慶一は原稿の依頼で下落合の林芙美子邸を訪ねます。野々上慶一の「さまざまな追想」からです。
「… 帰る時、芙美子は中井駅まで送るといって一緒に出て、途中たしか「ワゴン」とかいう名の、西部劇の幌馬車を模したような造作の喫茶店か、スタンドバーに、誘われて入った。この店は詩人萩原朔太郎の若い夫人が経営していたようだった。そこに文学青年風の若い男が三人、とぐろを巻いていて、太宰治、檀一雄、古谷綱武と芙美子に紹介された。三人共長髪で、和服の着流し姿だったようにおぼえているが、古いことで、みなでどんな話をしたか、まるで記憶に浮はない。…」。
 凄いメンバー達が「ワゴン」に通っています。野々上慶一もビックリしたでしょう。

写真は野々上慶一の文藝春秋社版「さまざまな追想」です。中原中也、小林秀雄、河上徹太郎、武田麟太郎他の出会いをかなりまじめに書いています。

「林芙美子邸跡」
<林芙美子邸>
 ついでですが、檀一雄や太宰治と会っていた昭和8年頃の林芙美子の住まいを紹介します。現在の林芙美子記念館の場所とは違います。野々上慶一の「さまざまな追想」からです。
「…林邸は、その頃赤い屋根、青い屋根の文化住宅とよばれた、和洋折衷のハイカラな家が建ち並ぶ下落合にあって、門を入ると立派な花壇のある瀟洒な住宅だった。原稿の方は心配したほどのこともなく、快く引き受けてくれ、ビールなど出して、芙美子は小さなからだを小まめに動かして、もてなしてくれた。芙美子はちょっと斜視だったが、その眼のあたりに、なにか人をひく魅力があるな、と私はひとり思った。…」。
 林芙美子は落合付近で3回ほど転居しています。本が売れて収入が増えるにしたがって、大きな家に移っています。詳細は別に「林芙美子を歩く」で紹介する予定です。

写真は林芙美子が昭和7年8月に転居した下落合の洋館跡てす。昭和16年までここに住みます。旧地番で下落合2133番地です。新住居表示で中井二丁目22−付近です。現在は生協のお店になっています。以前に住んでいた上落合二丁目850番地の借家とは様変わりです。


檀一雄の上落合地図


檀一雄年表
和 暦 西暦 年  表 年齢 檀一雄の足跡
昭和7年 1932 満州国建国
5.15事件
20 4月 東京帝国大学経済学部経済学科に入学
      下宿 滝松(本郷)
   淀橋区上落合の借家に転居
昭和8年 1933 ナチス政権誕生
国際連盟脱退
21 4月 「なめくぢ横丁」に転居
10月 古谷網武と「ワゴン」で出会う
       太宰治と出会う
       尾崎一雄が「なめくぢ横丁」に転居
昭和9年 1934 丹那トンネル開通 22 4月 「はせ川」で井伏鱒二から坂口安吾を紹介される
9月 尾崎一雄が「なめくぢ横丁」から転居
昭和10年 1935 第1回芥川賞、直木賞 23 9月 東京帝国大学経済学部卒業(野原一夫)
昭和11年 1936 2.26事件 24 2月 第二回芥川賞候補となる
8月 中国に渡る
昭和12年 1937 蘆溝橋で日中両軍衝突 25 1月 帰国後本郷の栄楽館に下宿
   その後、本郷の下宿 栄楽館、芳賀檀宅、碧雲荘、
   同和荘、桜井浜江宅などを転々とする
7月 「花筐」を出版するも、27日に動員令を受ける



太宰治年表
和 暦 西暦 年  表 年齢 太宰治の足跡
昭和7年 1932 満州国建国
5.15事件
24 8月 初代と静岡県静浦村の坂部啓次郎方に滞在
9月 白金三光町に飛鳥一家と転居
12月 青森検事局に出頭
昭和8年 1933 ナチス政権誕生
国際連盟脱退
25 2月 飛島家と共に、杉並区天沼三丁目741番地に転居
5月 杉並区天沼一丁目136番地に移転
10月 檀一雄と出会う
昭和9年 1934 丹那トンネル開通 26 8月 静岡県三島市の坂部武郎方に滞在
昭和10年 1935 第1回芥川賞、直木賞 27 3月10日 都新聞社の就職試験を受ける
3月17日 鎌倉で縊死を企てる
4月初旬 盲腸炎の手術で阿佐ヶ谷の篠原病院に入院
5月上旬 世田谷の経堂病院に移る
7月1日 病後療養のため、千葉県船橋町に転居
9月 授業料未納により東京帝国大学を除籍
昭和11年 1936 2.26事件 28 2月中旬 芝済生会病院に入院
8月群馬県谷川温泉 川久保屋に宿泊
10月13日 江古田の東京武蔵野病院に入院
11月12日 杉並区荻窪の光明院裏の照山荘アパートに転居
11月15日 天沼一丁目238番地の碧雲荘に転居
昭和12年 1937 蘆溝橋で日中両軍衝突 29 3月下旬 群馬県谷川温泉 川久保屋に宿泊
6月 初代と離婚成立
6月21日 天沼一丁目213の鎌滝方に転居



「落合文士村」
<「落合文士村」 目白学園女子短期大学>
 戦前の落合付近の文士達に関してはバイブル的な本です。付録に地図があり、地図には旧地番が書かれています。この地番で全ての場所がわかります。「落合文士村」からです。
「…その川ぞいを登りわたって三ノ輪通りを横切ると、古谷の瀟洒な家があった。「ワゴン」から一五分ほどの距離である。
 落合火葬場のすぐ近くにあるが、住所は中野区昭和通り一丁目四番地だった。だが中野といっても、檀らの首つり長屋から四、五分のところだ。
…」

 旧地番から現在の場所を特定するには、ゼンリンの「ブルーマップ」が一番良いのですが、、区画に整理されていますので、昔と少し違う場合があります。落合地区に関しては「地図で見る新宿区の移り変わり 戸塚・落合編」が一番良いとおもいます。落合地区の旧地番が書いてある地図が年代別にあります。現在の地図と見比べればよいわけです。

写真は、目白学園女子短期大学 国語国文科研究室、双文社出版版の「落合文士村」 です。昭和59年2月発刊ですから、かなり時間が経っていますが、底本としてはもっとも役に立つ本です。

「古谷網武邸跡」
<古谷網武邸>
 古谷網武は大岡昇平や中原中也らとの「白痴群」、太宰治処女作の「魚服記」、「思い出」を掲載した「海豹」など多くの同人誌を世に出しています。資金的にも余裕があったのだとおもいます。ここでは野原一夫「回想 太宰治」を参考にします。
「…入ってみると、首つり長屋とは貧富の差が一目瞭然だ。ピアノのある大きな広間を含めて、階下には五間、二階には三間という邸宅。
 どうやら二階がこの家の当主古谷綱武の社交場らしく、そこに通された。
 真夜中だというのに、小柄な可愛い奥さんが、酒を次から次とはこんでくる。よほど日頃の来客が多いのだろう、客扱いになれていた。…」

 古谷網武邸の住所は「落合文士村」 で判明しました。昭和通り一丁目4番と書かれており、昭和16年の地図を見ると落合斎場の南側になります。

写真は早稲田通りから撮影した旧地番で昭和通り一丁目4番、新住居表示で上高田一丁目1番付近です。現在の早稲田通りは、戦前は昭和通りと呼んでいたのではないかとおもいます。旧地番で昭和通り一丁目4番はかなり広く、写真の一画全てとなります。地図を参照してください。

「なめくぢ横丁」
<「なめくぢ横丁」>
 檀一雄と尾崎一雄が住んだのが「なめくぢ横丁」です。檀一雄が昭和8年4月に上落合二丁目829番の二軒長屋の片方に引っ越してきます。檀一雄に引っ張られて尾崎一雄も夫婦でこの二軒長屋に引っ越してきます(昭和8年10月から昭和9年9月まで)。檀一雄の「青春放浪」からです。
「…一軒借りても十五円。二軒借りても十五円也の落合の棟割長屋のことについては、尾崎一雄さんが「なめくじ横丁」という小説のなかで書いていた。
 いくら物価の安い昭和七八年の頃の話にせよ、一軒で十五円、二軒借りても十五円というのは読者の腑に落ちまいが、実は曰く附きの家なのだ。
 心中の家なのである。…」。

  後に尾崎一雄が「なめくぢ横丁」という短編を書いて有名になります。

写真の少し先を右側に入った路地の先に檀一雄と尾崎一雄が一緒に住んだ二軒長屋がありました。この長屋については尾崎一雄が後に「あの日この日(下)」で二軒長屋の図面を書いていましたので掲載しておきます。又、昭和13年版火保図の上落合二丁目829番付近も掲載しておきます。尾崎一雄が書いた図面と昭和13年の火保図が上手く合いません。困ったものです。

「群像 昭和24年9月号」
<「なめくぢ横丁」 尾崎一雄>
 最後に尾崎一雄の「なめくぢ横丁」を掲載した昭和24年9月号「群像」を掲載します。
「…淀橋区上落合と云っても、中野区に近い方で、昭和通りの古谷君宅へは近かった。古谷君とは、その前からの知り合ひだつたから、よく行き来した。こっちから行く方が多かった。古谷君は二十四五だつたと思ふ。夫婦とも酒好きで、文学好きで、麻雀好きで、多くの仲間を集めでは、謂はば一種のサロン風のものをつくってゐた。人が行くと、大ていの場合酒を出し、相手をはめたりくさしたりしながら、それをさかなに飲んだ。古谷君と同年配の人たちもゐたが、十位上の、私ども年配の者もゐた。大鹿卓、太宰治、木山捷平等とやってゐた『海豹』といふ同人雑誌はもうつぶれてゐたやうに思ふ。それはなかなかいい雑誌で太宰君の『思ひ出』はそれに載ったのだと思ふ。…」。
 尾崎一雄の「なめくぢ横丁」はその後、何回か出版されますが、現在は古本しかありません。「日本の古本屋」やamazonでも、かなり高価になっています。再販されればとおもっています。

写真は昭和24年9月号「群像」です。戦後間もなくですので、紙質も悪く、ぼろほろです。「なめくぢ横丁」を読もうとおもったら、図書館か、「尾崎一雄集」等の全集がよいかとおもいます。比較的低価格で購入することができます。

順次、改版します。