●檀一雄の足利を歩く
    初版2009年12月12日  <V01L02>

 「檀一雄を歩く」をトップページの大項目として掲載しました。急遽、掲載を始めましたので、取材が全くできておりません。取材ができた地域から順次掲載していきたいとおもいます。今週は「檀一雄の足利を歩く」です。以前に足利を訪ねたことがありましたので、取材は簡単にできました。檀一雄の小学生から中学生までを中心に歩いています。


「新潮」
<「新潮 」 昭和52年10月号>
 檀一雄の幼年時代については本人も書いていますが、今回は母親である高岩とみさんが「新潮」の昭和52年10月号に書いた「漂泊のかたみ」と、野原一夫の「人間 檀一雄」を参考にして歩いてみました。先ず最初は、「新潮」昭和52年10月号「漂泊のかたみ」からです。
「  一雄が亡くなり、はや二度日の秋を、迎えようとしております。明るく笑う
一雄の写真の前に、一人、庭の花を供え、いろいろと語りかけることの多い
日々になりました。
 私は、一雄たち四人の幼い子供を残して、檀の家を出ております。この四人の子供たち、ことに一雄に語りたいことが、沢山ありました。けれども、それはお互いに、顔を合わせて語り合うには、その傷は深く、私にはできませんでした。私の思いを、いつか一雄にわかってもらいたいと、十数年前からつたない文に記し始めましたが、一雄は昨年の初、帰らぬ人となりました。
 一雄の魂はいま平安を得て、豊かな野や山に、自在に遊んでいるのでしょうか。私もふと、幼い一雄と、故郷の野山に遊ぶ思いに誇われることがあります。…」

 母親の高岩とみさんは昭和53年に新潮社から「火宅の母の記」のタイトルで出版していますが、原本はこの「新潮」昭和52年10月号の「漂泊のかたみ」です。

写真は「新潮」昭和52年10月号です。古い「新潮」は図書館では必ずありますので読むことができます。古本屋でも良く探せば見つけることができます。

「JR足利駅」
<JR足利駅>
 檀一家は大正8年、父親の転勤に伴って栃木県足利市に転居します。檀一雄7歳の時でした。足利市は元々織物で有名な町で、明治時代は全国でも一二を争う絹織物の産地でした。明治21年には両毛鉄道が小山駅から足利駅まで開通させています(明治39年には国有化され、国鉄の駅となります)。地銀で有名な足利銀行は明治28年に創立されています。東武鉄道の足利駅ができたのは明治40年です。古くからの町なのがよくわかります。「新潮」昭和52年10月号「漂泊のかたみ」からです。
「… いろいろと珍しい北国の生活も一年余りで、私たちはまた、夏には九州へ帰ることになりました。夫が栃木県足利の工業学校に勤めることになり、私は九州から一雄を連れて、足利へ行くことになったのです。…」
 檀一雄の父親は転勤が好きというか、一カ所での勤めが長続きしなかったのでしょう。こまった父親です。足利市としての市政施行は大正10年です。

写真は、現在のJR足利駅です。現在の駅舎は昭和8年に建てられたものがそのまま残っています。全国的にも珍しいです。JR両毛線で高崎か小山から乗ります。

「通り3丁目」
<家富町3丁目>
 檀一家が足利で最初に住んだところが、”家富町三丁目の袋小路の絹問屋の借家”でした(野原一夫)。「新潮」昭和52年10月号「漂泊のかたみ」からです。
「 私たちの住む足利の家は、町中の新井さんという絹問屋
の借家で、大家さんの家のすぐ裏にある日当たりの悪い家
でした。八畳、六畳、玄関、台所の四間で、座敷と次の間
の南側には、一段下がりで広い回り縁があり、縁先には二
間ばかりの庭がありました。庭木は一本もなく、山の中や
広い庭や自在にかけ回っていた一雄には、かわいそうな家
の狭さでした。
 私たちが足利に住むようになったのは大正八年の秋ですが、その頃は第一次世界大戦のあとで、世の中は景気がよく、物価も上がっていました。私が夫からもらう生活費は、二年前に福岡で五十円もらうようになって以来、全然変わりなぐ、子洪三人とはいえ一家五人の生活は、楽ではありませんでした。……」

 上記に書かれている”家富町三丁目の袋小路の絹問屋の借家”については、家富町三丁目という町名は足利にはありせんでした。家富町は何丁目として分かれていません。三丁目まであった町名は”通り三丁目”のみでした。ここまでは私が推測したのですが、「渡良瀬橋のある町 足利」というホームページの中に”檀一雄の住まいは、通り三丁目もと安田銀行あたり”という記述を見つけました。このホームページの管理者の方に連絡をとろうとしたのですが、残念ながら連絡がとれませんでしたので、詳細は不明です。
 
写真は現在の通り三丁目の中心部です。写真右側にフレッセイというスーパーが写っていますが、その左隣付近に旧安田銀行足利支店がありました。昭和3年の足利市職業別地図で新井さんというお店を探したところ、このスーパーの裏手に新井染料店を見つけましたが、詳細はわかりませんでした。

「長林寺」
<長林寺>
 檀一家が足利での一度目の転居先がこの長林寺でした。「新潮」昭和52年10月号「漂泊のかたみ」からです。
「… 二月の末、長林寺の梅林に皆で梅見に行った際、足利の町はずれにある山の麓で、小高い丘の上の、見晴らしのよい梅林の奥にある本堂のそばに、一軒の貸家があるのを見つけました。町中の陽当たりの悪い家は子供たちの健康に悪いと、いつも気にしていた私は、すぐにお寺さんに相談し、数日後に越しました。
 八畳二間くらいの、粗末なつくりの家ですが、五右衛門風呂もあり、裏は山で、まわりは杉林と墓地でした。お寺のほかには人家もなく、空気も清々しく、子供たちを育てるには絶好の家と思いました。山の中の家は、一雄も大変喜びました。…」。

 現在は立派なお寺になっていました。五右衛門風呂とは懐かしいです。鉄製の風呂桶を直接薪で温める方式です。中に入るときに鉄の風呂釜が熱いので、中に木の板があるのですが、この板が軽いので浮かんでしまい、なかなか上手く入れません。こつがあるようです。檀一雄はここで両親の離婚という大きな出来事に遭遇します。人生のターニングポイントとなります。「新潮」昭和52年10月号「漂泊のかたみ」からです。

「… 大正十年の三月「ビヨウキスグオイデコウ」という電報が、届きました。それは、東京商科大学(現一橋大学)を受
験するために久留米から上京し、東京の本郷の下宿屋に宿をとった、上の弟からのものでした。
 私は、夫や子供たちの食事の世話など、お寺の奥さん方にお願いして、生後七カ月の久美をおぶって、本郷に向かいました。足利から汽車で三時間余りかかつて、本郷の東大の正門に近い横町に、同じような木造の二階建ての下宿屋の並ぶ中に、弟の宿はありました。……
… 翌日、担架に迎えられて、病院へ行きました。弟は背丈も高く、太っていましためで、痛む足をかばいながら二階から下ろすのは大変で、Tさんや、その隣の部屋にいるTさんの甥や、他の学生さん、下宿のおばさんなど、皆さんが手伝ってくださいました。…」

 ここで書かれているTさんがトミさんのお相手となります。トミさんとこのTさんについては檀一雄も書いており、トミさんも「新潮」昭和52年10月号「漂泊のかたみ」と「火宅の母の記」で書かれいますので、読まれればとおもいます。真実はよく分かりません。

写真は足利の長林寺です。足利の駅からは少し離れて、父親が勤めていた足利工業高等学校への途中となります。長林寺の建物は建て直されているようでした。

「けやき小学校」
<足利尋常高等小学校>
 檀一雄が通った小学校が足利尋常高等小学校でした。ここからは、野原一夫の「人間 檀一雄」を参照します。野原一夫ですので、若干フィクション的な所もありますが、たいへん参考になります。
「… 父の檀参郎が弘前工業学校から栃木県の足利工業学校に転任になったのは大正八年の夏であり、その九月、一年四ヵ月ぶりに一雄は両親のもとに引きとられ、足利尋常高等小学校(現柳原小学校)の二年生に編入された。参郎、トミ、一雄、三保、寿美の一家五人は、はじめは町なかの袋小路の、猫の額ほどの庭しかない日当りの悪い小さな借家に住んだ。野中で広い庭のなかを探索し近辺の野山を思うままに走りまわっていた一雄には、息のつまるような環境だった。…」。
 檀一雄は大正8年9月に足利尋常高等小学校に転入しています。それまでは母親の実家である福岡県三井郡の国分男子尋常高等小学校に通っていました。その後も母親の父親の死去で一度国分男子尋常高等小学校に戻り、再度足利尋常高等小学校に編入したりしています。

写真は現在のけやき小学校です。足利市では児童数の減少に伴い小学校の統廃合が進んでいます。明治35年足利高等小学校として創立、明治40年に足利尋常高等小学校、昭和9年に栃木県足利市柳原尋常小学校、昭和22年に足利市立柳原小学校となり、平成12年から13年にかけて、他の小学校を吸収してけやき小学校と改称しています。場所はそのままです。

「足利高等学校」
<県立足利中学校>
 大正13年、檀一雄は足利中学校に入学します。当時は旧制の中学校ですからかなり優秀でなければ入学できません。野原一夫の「人間 檀一雄」からです。
「… トミが足利の家を出ていったあと、五歳半の三保と四歳近い寿美は沖端の祖父母のもとにあずけられた。その翌年夏にトミが野中の実家を出ると久美も沖端の祖父母にひきとられた。母が出奔したのは一雄の小学校四年のときであるが、そのあと、足利中学校時代の四年間を経て福岡高等学校に入学するまでの約七年、両崖山に続く尾根の内懐に抱かれ、シンと鳴りしずまって市中とは別天地の趣があった環境のなかで、一雄は父と二人だけの生活を送ることになる。…」。
 栃木県の旧制中学校は第一中学校から第四中学校までがナンバー中学校で、足利中学校は最も遅くできた中学校です。栃木県は面白くて、明治4年(1873)の栃木、宇都宮両県の統合の時に県庁所在地を宇都宮とする代わり、県名に 「栃木」 の名を残すというようになった県です。地方色が強い県だとおもいます。

写真は現在の栃木県立足利高等学校です。この校庭には檀一雄の記念碑があります。大きな記念碑がとおもったら小さかったのでびっくりしました。校庭を入ったすぐ右側にありました。


檀一雄の足利地図


檀一雄年表
和 暦 西暦 年  表 年齢 檀一雄の足跡
         
大正8年 1919 松井須磨子自殺 7 9月 足利尋常高等小学校に転入(けやき小学校)
大正9年 1920 国際連盟成立 9 5月 国分男子尋常小学校に転校(九州に戻る)
大正10年 1921 日英米仏4国条約調印 9 1月 足利尋常高等小学校に戻る
9月 母、出奔
大正12年 1923 関東大震災 11 9月 関東大震災
大正13年 1924 中国で第一次国共合作 12 4月 県立足利中学校入学(足利高等学校)
昭和3年 1928 最初の衆議院選挙
張作霖爆死
16 4月 福岡高等学校文科乙類に入学
         
昭和7年 1932 満州国建国
5.15事件
20 4月 東京帝国大学経済学部経済学科に入学
      下宿 滝松(本郷)
   淀橋区上落合の借家に転居
昭和8年 1933 ナチス政権誕生
国際連盟脱退
21 4月 「なめくぢ横丁」に転居
10月 古谷網武と「ワゴン」で出会う
       太宰治と出会う
       尾崎一雄が「なめくぢ横丁」に転居
昭和9年 1934 丹那トンネル開通 22 4月 「はせ川」で井伏鱒二から坂口安吾を紹介される
9月 尾崎一雄が「なめくぢ横丁」から転居
昭和10年 1935 第1回芥川賞、直木賞 23 9月 東京帝国大学経済学部卒業(野原一夫)
昭和11年 1936 2.26事件 24 3月
      本郷の下宿 栄楽館
昭和12年 1937 蘆溝橋で日中両軍衝突 25 7月 「花筐」を出版



「足利工業高等学校」
<足利工業学校>
 檀一雄の父親が勤めた工業高等学校です。野原一夫の「人間 檀一雄」からです。
「… 父の檀参郎が弘前工業学校から栃木県の足利工業学校に転任になったのは大正八年の夏であり、その九月、一年四ヵ月ぶりに一雄は両親のもとに引きとられ、足利尋常高等小学校(現柳原小学校)の二年生に編入された。…」。
 檀一雄の父親は九州の柳川出身で実家は裕福だったようですがが、青森県弘前の工業学校とか、この栃木県足利工業学校とか、かなり転勤しています。あまり一カ所に落ち着かなかったようです。

写真が現在の栃木県立足利工業高等学校です。檀一家が住んだ長林寺の少し先になります。