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最終更新日:2006年3月26日

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●中原中也の山口県湯田を歩く
  初版2004年6月5日
  二版2007年10月23日 <V01L01> 西村屋、詩碑を追加

 今週は「中原中也の世界を巡る」の最終回として、中也生誕の地、山口県山口市湯田の町を歩いてみます。

 私も昨年山口県山口市湯田の町を訪ねました。山陽新幹線の小郡駅で乗り換えて山口線を湯田温泉駅まで乗ります。新幹線が通っていて駅がない県庁所在地は少ないですね。山口線はSLの運行で有名な線です。大岡昇平も戦後、湯田の町を訪ねています。「昭和二十二年一月の或る朝、私は山口線湯田の駅に降りた。小郡で満員の山陽線を捨て、支線の列車が緩やかに椹野川の小さな谷に入って行くにつれ、私は名状しがたい歓喜を覚えた。それは不眠に疲れた私の眼に、窓外の朝の光の中を移る美しい谷間の景色の与える効果であったか、それとも亡友中原中也の故郷の家を見るのが、あと一時間に迫ったという期待から来る興奮であったか、私にはわからなかった。私がこれから訪ねようとする家は、この友が生きていた間は訪れようとはしなかった家である。東京から山口までの距離は別としても、中原と私との交友は、そもそも互いに過去を気にかけるという性質のものではなかった。我々は二十歳の頃東京で識り合った文学上の友達であった。我々はもっばら未来をいかに生き、いかに書くかを論じていた。そして最後に私が彼に反いたのは、彼が私に自分と同じように不幸になれと命じたからであった。…」。大岡昇平はなぜ戦後間もなく交通の便も悪い山口市湯田の中原中也の故郷を訪ねたのでしょうか。中原中也は明治40年4月29日、この山口県吉敷郡山口町大字下宇野令村第三四〇番地の中原病院で、父謙助、母ふくの長男として生まれています。

左上の写真は中原病院跡に建てられた”中原中也生誕之地”の記念碑です。現在は中原中也記念館になっています。

【中原中也】
中原中也は、明治40年(1907)4月29日、山口市湯田温泉の医者の息子として生まれました。軍医であった父親に伴って金沢、広島と移り、父親は、母親の実家であった山口市湯田の中原医院を継ぎます。小学校時代は成績はよかったようですが、名門の山口中学校時代は文学に傾倒し、成績が下がり落第します。そのため京都の立命館中学校に転校しますが、富永太郎の出会等によりにより一層文学に傾注していきます。また、長谷川泰子と同棲したりしています。大正14年上京、小林秀雄、河上徹太郎、大岡昇平らとひさしく付き合いますが、昭和12年、結核のため鎌倉で死去します。死後、友人小林秀雄によって詩集『在りし日の歌』が出版され、高い評価を得ます。


中原中也の山口年表

和 暦

西暦

年  表

年齢

中原中也の足跡

明治40年
1907
義務教育6年制
0
4月29日 父 柏村謙助、母 ふくの長男として山口県吉敷郡山口町大字下宇野令村第三四〇番地で生れる
明治41年
1908
 
1
11月 父謙助の転属に伴い旅順に転居
明治42年
1909
伊藤博文ハルビン駅で暗殺
2
3月 父謙助が広島衛生病院付となったため広島市上柳町五六に転居
明治43年
1910
日韓併合
3
5月 鉄砲町一三五に転居
明治44年
1911
辛亥革命
4
4月 広島女学校付属幼稚園に入園
明治45年
1912
中華民国成立
タイタニック号沈没
5
9月 父謙助が金沢の歩兵第三五連隊三等軍医正(少佐)に任命され、金沢に転居
大正2年
1913
 
6
4月 北陸女学校付属第一幼稚園に入園
大正3年
1914
第一次世界大戦
7
3月 父謙助が朝鮮に転属になったため山口に戻る
4月 下宇野令小学校に入学
大正4年
1915
対華21ヶ条、排日運動
8
8月 父謙助、歩兵第四二連隊付件衛生病院長となり山口に戻る
10月 父謙助が中原家と養子縁組を届ける(柏村姓から中原姓になる)
大正7年
1918
シベリア出兵
11
5月 山口師範付属小学校に転校
大正9年
1920
国際連盟成立
13
4月 県立山口中学校に入学
大正12年
1923
関東大震災
16
4月 立命館中学に転校



中原中也記念館>
 山口線湯田温泉駅から中原中也記念館(旧中原病院)までは700m弱で、そう遠くない距離です。「…駅前から人家疎らな畑中の道の二丁ばかり西へ行くと早くも温泉旅館の並ぶ一席に突当る。通行人に訊くとすぐわかった。その一廓の右へ迂回して少し行ったところに、私は容易に中原病院の看板を見出すことができた。中原家は中也の祖父の代からこの地に外科医を開業していた。昭和三年父君謙助氏の没後、長男中也に家業を継ぐ意志がなかったため、以来病院は他に貸していたが、私の行った時は次々弟呉郎君が成長して末弟拾郎君と共に経営に当っておられた。病院は低い生垣の向うの前庭に疎らに庭木を配した、むしろ殺風景な木造平家の洋館である。これに中原病院ではなく「農事試験場」の看板が懸っていても私はさして驚かなかったであろう。それほどこの建物の正面は、普通の医院の入口の持つ威厳も愛嬌も具えていなかった。惟うにもと軍医であった父君謙助氏は、その病院を市民的虚飾で飾る必要を認められなかったのであろう。こうした投げやりな無雑作な外観も私には何となく中原にふさわしいように思われた。…」湯田温泉駅自体は小さな駅ですが温泉街が近くにあるため駅前にはタクシーが数台停まっていました。出来れば一つ先の駅の山口駅までいって、タクシーに乗るのがいいとおもいます。山口線の電車の色が綺麗でした。

右の写真が中原中也記念館です。正面入口は表通りから少し入ったところです。右隣にご家族の方が住んでおられるようで、表札が中原になっていました。

下宇野令小学校跡(しもうのりょう)>
 父謙助が朝鮮に転属になったため山口に戻り、4月から実家近くの下宇野令小学校に入学します。「…小学校は地元の下宇野令小学校というのでしたから、家から学校までは近いんですよ。現在は建物などで見えませんが、中也が小学校に通うころは家から学校がみえるんです。家の裏門を出ると、畑のへりを伝っていく道がありました。学校に着くまで、中也がいくのがようみえておりました。毎朝、私はちょうど裏門のところに立って、中也が学校にいきつくところまで見送っておりました。そしてまた、学校が放課になると、家に帰つてくる姿を家に居ながら見ることができるんです。道草しないで、まっすぐ家に帰っておりました。……学校の試験では、中也は各科ともたいがい百点をとっておりました。まあ、年齢としてはよく理解できておったと思います。…」。家から下宇野令小学校まで300m位だとおもいます。

左の写真の左側の湯田幼稚園のところが下宇野令小学校跡です。

山口師範附属小学校跡>
 下宇野令小学校は近くでよかったようですが、担任の先生に附属への転校を進められます。頭もよくて、将来医者の家を継ぐためには附属がよかったのでしょう。「…中也は小学五年から、山口師範附属小学校に転校していますね、あれは大庭吉蔵という先生に、しきりに勧められたからなんです。大庭先生は湯田にいらっしゃいましたが、会うたびに、こんな湯田のようなボロ学校におっちゃつまらん。附属に転校させなさい、といわれました。家から附属までは、子供ですから急いでも、四十分はかかります。そのころはバスがないから、歩くよりほかにないんです。あの子は弱いから、そこまで通わせるのは無理じゃろうと思っておりました。中学校に入ったら仕方がないけど、小学校の間は湯田の学校に、おこうと考えておったんです。けど、大庭先生がやたらに、附属に行け、行け、といわれますから、ついに転校させたわけなんです。中也が附属に転校したのちは、あとの子供たちは最初から附属に通うといいますから、そうさせました。……毎日の通学は、たいてい中也がつれていきましたが、喧嘩でもすると別れ別れに帰りよりましたね。」。山口師範附属小学校は現在は場所を変えて国立山口大学附属小学校となっています。師範学校附属ですから、山口大学教育学部附属となるのでしょう。

右の写真正面辺りに山口師範附属小学校がありました。現在は山口市役所の駐車場になっています。。

旧制山口中学校跡>
 大正9年4月、中原中也は山口県立山口中学校に入学します。「…中也が中学の試験にうかったということを聞いたとき、私は思わず涙がでました。……中也の入学試験の成績は、八番か九番でしたね。……それでも、附属小学校の同級生で、中学を受けたなかじゃあ、中也の成績がいちばんよかったろうと思います。試験科目は、読み方、算術、それから歴史、地理、理科ぐらいだったと思います。中也は入学試験前には、夜遅うまで勉強しました。よそへいって、数学の本なんか借りてきて、一生懸命でしたよ。 私どもは、まあ、よかれあしかれ、かつがつ通るぐらいは通るじゃろう、と思っておりましたけど、油断してはいけんから、けっしてそんなことは口にだしませんでした。中学に入れるかどうかわからん、という気にさせて、中也に勉強させました。それがわりあいに良い成績で入りましたから、親も子もおお喜びしたんです。入学式には、私がついていきましたが、やっぱりうれしかったですね。自分の子がはじめて中学というところへ入ったんですからね。中也は、伍長にもなったんですよ。一組に伍長というのは三人おりました。それは成績の順できまるんです。四クラスありましたから、十二番までが伍長になったんですよ。…」。山口中学校入学の成績はよかったようです。しかしその後の成績は・・・です。家庭教師も付けたようですが結局落第、大正12年京都の立命館中学に転校します。

左の写真が旧制山口中学校正門跡です。山口県立美術館の道を挟んで向かい側です。此方側も亀山公園と呼んでいいのかわかりませんが、公園内には旧制山口中学校の記念碑もありました。旧制山口中学校は昭和23年の学制改革により山口県立山口高等学校となっています。現在は少し離れた所に移転しています。

西村屋旅館> 2007年10月23日追加
 昭和8年12月、中原中也は実家でお見合いをし行い、上野孝子(たかこ)と結婚します。結婚式は実家の直ぐ近くの西村屋で行っています。

右の写真の左側が西村屋です。建物はほとんど建て直されていますが結婚式が行われた”葵の間”が残っています。この西村屋さんは中原中也の結婚式が行われた旅館として有名で、旅館の中には中原中也コーナーがありました。食事も”中也ゆかり膳”があります(私はこの宿泊プランで泊まりました)。

中原中也記念碑> 2007年10月23日追加
 昭和40年5月、山口市湯田の中原中也の実家に近い井上公園に中原中也碑が建てられます。大岡昇平が詩碑について当時の山口市長から依頼されています。「…中原中也の詩碑が建つことになった。 八月の末、山口市湯田に住む弟の思郎さんから手紙が来て、こんど山口市で、中也の詩碑を湯田に建ててくれ るという。……結局山口市から私が託されたのは、詩碑に記す詩句とその揮毫者の選定、及び詩碑のデザインを痕むべき専門家の推薦であった。 敷地は湯田の井上公園であるという。これはもと井上馨の邸で、すでに侯の顕彰碑、それから文久三年ここへ亡命した三条実美ら七卿の記念碑があるという。井上公園は中原家とはほとんど背中合せであった。…」。中原中也の弟さんは最初、碑を建てたくはなかったようです。観光目当てに建てることははっきりしているのですから、面白くなかったはずです。

左上の写真が中原中也記念碑です。中原中也の実家から100m程の距離で直ぐ近くです。上記には井上公園と書かれていますが、現在は高田公園と名称が変わっていました。何故でしょう?

中原家墓所>
 中原中也のお墓は中原中也記念館からすこし離れた所にあります。歩いていくのは無理で、場所も分かりにくいので、タクシーで行くのがいいとおもいます。運転手さんは皆さんよく御存じでした。

右の写真が中原家墓所の記念碑です。お墓も大きくて立派でした。


<中原中也の山口市地図 >





【参考文献】
・中原中也:大岡昇平、講談社文芸文庫
・評伝 中原中也:吉田?生、講談社文芸文庫
・私の上に降る雪は:村上フク、村上護、講談社文芸文庫
・在りし日の歌:中原中也、近代文学館
・ダダイスト新吉の歌:高橋新吉、日本図書センター
・年表作家読本 中原中也:青木健、河出書房新社
・中原中也:新潮日本文学アルバム、新潮社
・ゆきてかへらぬ:長谷川泰子、講談社
・中原中也 盲目の秋:青木健、河出書房新社
・太宰と安吾:檀一雄、沖積社

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