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最終更新日:2006年3月26日

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●続 中原中也の東京を歩く 初版2004年5月8日 <V01L02>

 今週は「中原中也の世界を巡る」の第三回目として、”続・東京の中原中也”を歩いてみます。同棲相手の長谷川泰子を小林秀雄に奪われてから、上野孝子と結婚する頃まで、さまざまな人との出会いを中心に東京を歩きます。

 中原中也の友人といえば、大岡昇平ですが、檀一雄が書いている「太宰と安吾」にもたびたび中原中也が登場します。特に太宰との出会いでは,「…中原中也がはじめて私のところに顔を見せたのは、草野心平氏に同道されてやって来たものに相違ない。用件は、たしか宮沢賢治の全集が出るから買えというのであった。あいにくとこの時、少しおくれて太宰治がやってきた。しばらく「おかめ」でいっしょに飲み合っているうちに、いつの間にか、大乱闘になった。今でも覚えているが、この時、中原中也が、太宰をつかまえて「おめえ、一てえ何の花が好きだい?」 たしか、こうきいた。太宰に狼狽の色が見えた。必死の抵抗とでもいうか、ためらいとでもいうか、その揚げ句の果て、「モ、モ、ノ、ハ、ナ」 何ともやりきれない含羞の面持ちを見せながら、今にも泣きだすような声である。それからが乱闘だ。何がどうなったのかわからない。おそらく、私は太宰を擁護するつもりでいただろう。気がついてみた時にほ草野心平氏の髪をつかんで狂いまわっていた。店のガラスはこなごなになり、太宰はいつの間にか、逃げ帰っていたから、私も「おかめ」の店先を出たが、少しはなれた家の陰で、私は、拾った丸太をふりかぶりながら、二人のやってくるのを執拗に待ち構えていたのである。幸いに、二人は反対の道をとったのか、とうとう私の丸太の下にはやって来なかった。もし来ていたら、一体、どんなことになっていただろう。あんな不思議な時間がある。…」、とあり、中原中也は会う人会う人すべて喧嘩です。いまなら警察沙汰ですが当時は丸太をもっての喧嘩ですね。ここに出てくる「おかめ」は荻窪駅北口前、アサヒ通りの青梅街道角にある”おでん屋”でした(昭和30年代まではありました)。戦前の荻窪周辺は太宰の師匠の井伏鱒二を初めとする文士たちの溜まり場でした(現在は中華料理屋)。太宰が東京帝国大学に入学したのは昭和5年4月ですから、中原中也と出会ったのはそれ以降ということになります。

左上の写真は檀一雄の「太宰と安吾」です。なかなか面白く太宰と安吾について書いています。

【中原中也】
中原中也は、明治40年(1907)4月29日、山口市湯田温泉の医者の息子として生まれました。軍医であった父親に伴って金沢、広島と移り、父親は、母親の実家であった山口市湯田の中原医院を継ぎます。小学校時代は成績はよかったようですが、名門の山口中学校時代は文学に傾倒し、成績が下がり落第します。そのため京都の立命館中学校に転校しますが、富永太郎の出会等によりにより一層文学に傾注していきます。また、長谷川泰子と同棲したりしています。大正14年上京、小林秀雄、河上徹太郎、大岡昇平らとひさしく付き合いますが、昭和12年、結核のため鎌倉で死去します。死後、友人小林秀雄によって詩集『在りし日の歌』が出版され、高い評価を得ます。

中原中也の東京年表

和 暦

西暦

年  表

年齢

中原中也の足跡

昭和3年
1928
最初の衆議院選挙
張作霖爆死
21
5月 父 謙助死去
9月 豊多摩郡高井戸町下高井戸二丁目四〇三に転居
昭和4年
1129
世界大恐慌
19
1月 豊多摩郡渋谷町神山二三に転居
4月 「白痴群」創刊
5月 北豊島郡長崎町一〇三七に転居
7月 豊多摩郡高井戸町中高井戸三七の一軒屋を借りる
昭和5年
1930
ロンドン軍縮会議
20
8月 豊多摩郡代々幡町代々木山谷一一二に転居
9月 中央大学予科に入学
昭和6年
1931
満州事変
21
4月 東京外国語学校専修科仏語部入学(現 東京外国語大学)
7月 豊多摩郡千駄ヶ谷町千駄ヶ谷八七二に転居
昭和7年
1932
満州国建国
5.15事件
22
8月 荏原郡馬込町北千束六二一に転居

下高井戸二丁目四〇三>
 中原中也は小林秀雄と長谷川泰子が鎌倉に転居したため、中野で転居していましたが、京王線の上北沢駅に近い下高井戸二丁目に転居します。「…昭和三年(二一歳)、中也は下高井戸で関口隆克と自炊生活をしていた。関口はそのころも「中也はみつばのおしたしばかりを作って故郷を恋しがっていた」と回想している。…」。この文は嵐山光三郎の「文人悪食」からです。中也はこの「みつばのおしたし」と「葱をきざんで水にさらしたもの」にソースをかけて食べていたようです。葱にソースをかけて美味しいのでしょうか。私は葱にソースでは食べられません。

右の写真のクリーニング屋さんの左の小道を入った右側辺りが旧住所表示で下高井戸二丁目四〇三です。京王線上北沢駅から甲州街道を超えて約500m位です。荻窪駅までは約5Km、徒歩では一時間位かかったのではないてしょうか。

渋谷町神山二三>
 下高井戸に転居してから8ヶ月後、小田急線代々木八幡駅に近い渋谷町神山に転居します。この近くには友人で成城高校教師の阿部六郎や大岡昇平がいたためとおもわれます。「…人影のなくなった百軒店街の裏側の坂を、彼はまっさきに馳けおりて、農大正門から道玄坂に通じる道路を横ぎり、向う角の家の軒灯のガラスを叩き割った。いたずらっ子がよくやるように。雨あがりの夜だった。彼が私たちの処に来る時には雨が降っていたので、彼だけがこうもりがさを持っていた。かさという手ごろの道具を持つていたことが、はしゃいでいた彼をこの破壊にさそったのである。足駄ばきの私たちは、あとからついて行った。その時である、物かげから二重まわしを着た男が現われ、彼がつかまってしまった。…」。中也は渋谷警察署に捕まり、15日間拘置されます。よっぽどショックだったのか、後、警察が嫌いになります。農大は現在の東京大学教養学部で、上記の”農大正門から道玄坂に通じる道路”とは、現在の文化村通りで、百軒店街は、道玄坂を少し登った右側に現在もあります。因みに東急百貨店本店の所は戦前は小学校でした。

左の写真が渋谷町神山二三です。写真左側の小道を少し入った所とおもわれます。渋谷区神山といえば現在は超高級住宅街で、大きなお屋敷が並んでいました。、

北豊島郡長崎町一〇三七>
 中也が次に引っ越したのが北豊島郡長崎町でした。この頃には、小林秀雄と長谷川泰子は別れており(別れたというよりは、小林秀雄が逃げ足したのです)、大岡昇平や富永が京都帝国大学に入学したため、中也は長谷川泰子を伴って京都へ出かけています。「…大正十四年春に上京した二人にとっては、実に四年振りの京都であった。中也は、太郎や正岡忠三郎らと通った懐しい新京極で酒を飲んだ。しかし、二人にははしゃいだところはなかったと、大岡は伝えている。泰子に中也を避ける気持があったのであろう。泰子は大岡の、中也は、富永か安原かの下宿にそれぞれ分宿した。この旅行を、中也は、第二の蜜月旅行にしたかったのではなかったろうか。阿部宛に、中也は、誇張でなく「生きるか死ぬかだ」と書き送ったりした。…」。中也は長谷川泰子と寄りを戻したかったのでしょうが、一度壊れた鞘は元には戻りません。中也はこの池袋東長崎の下宿を二ヶ月でたたみ、高井戸町中高井戸三七(現 杉並区松庵三丁目)代々幡町代々木山谷一一二(現 渋谷区代々木二丁目)千駄ヶ谷町千駄ヶ谷八七二(渋谷区代々木二丁目)と、次々に転居していきます。

右の写真左側が当時の北豊島郡長崎町一〇三七です。「材木屋の二階で、近くに地蔵堂があった。」とあります(現在の豊島区千早一丁目付近)が、当時の面影は全くありません。

荏原郡馬込町北千束六二一>
 中也は馬込町北千束の高森文夫の祖母の家に下宿します。この頃には青山二郎とも親しくなっており、青山二郎の義弟が経営する東京駅近くの京橋の飲み屋へ出入りし始めます。この当時の事を坂口安吾が「27歳」で書いています。「…行きつけの酒場があった。ウインザアという店で、青山二郎が店内装飾をしたゆかりで、青山二郎は「文科」の表紙を書き、同人のようなものでもあったせいらしい。青山二郎は身代を飲みつぶす直前で、彼だけはシャンパンを飲みあかしたり、大いに景気よかったが、他の我々は大いに貧乏であった。私は牧野信一、河上徹太郎、中島健蔵と飲むことが多く、昔の同人雑誌の人達とも連立って飲むことが多かった。……私はこの酒場で中原中也と知り合った。……中原中也はこの娘にいささかオボシメシを持っていた。そのときまで、私は中也を全然知らなかったのだが、彼の方は娘が私に惚れたかどによって大いに私を呪っており、ある日、私が友達と飲んでいると、ヤイ、アンゴと叫んで、私にとびかかった。とびかかったとはいうものの、実は二三米離れており、彼は髪ふりみだしてピストンの連続、ストレート、アッパーカット、スイング、フック、息をきらして影に向って乱闘している。中也はたぶん本当に私と渡り合っているつもりでいたのだろう。私がゲラゲラ笑いだしたものだから、キョトンと手をたれて、不思議な目で私を見つめている。こっちへ来て、一緒に飲まないか、とさそうと、キサマはエレイ奴だ、キサマはドイツのヘゲモニーだと、変なことを呟きながら割りこんできて、友達になった。非常に親密な友達になり、最も中也と飲み歩くようになったが、その後中也は娘のことなど嫉く色すらも見せず、要するに彼は娘に惚れていたのではなく、私と友達になりたがっていたのであり、娘に惚れて私を憎んでいるような形になりたがっていただけの話であろうと思う。…」。京橋のウインザアは太宰も出入りしていたお店で、文士の溜まり場だったようです。坂口安吾は大柄な体格で、中也は小さいですから喧嘩にはならなかったでしょう。ここに出てくる女性こそが、文壇を騒がせた坂本睦子その人です。彼女については別に特集したいとおもっております。

左の写真の左側が荏原郡馬込町北千束六二一(現 大田区北千束二丁目)です。写真の正面に東急目黒線が走っており(地下で)、左に曲がると大岡山駅、右に曲がると環状七号線から雅子様の実家があることで有名になった千束駅があります。

次回は中也の結婚と花園アパートを中心に「続々 東京を歩く」を掲載します。

<中原中也の東京地図 -1->



<中原中也の東京地図 -2->




【参考文献】
・中原中也:大岡昇平、講談社文芸文庫
・評伝 中原中也:吉田?生、講談社文芸文庫
・私の上に降る雪は:村上フク、村上護、講談社文芸文庫
・在りし日の歌:中原中也、近代文学館
・ダダイスト新吉の歌:高橋新吉、日本図書センター
・年表作家読本 中原中也:青木健、河出書房新社
・中原中也:新潮日本文学アルバム、新潮社
・ゆきてかへらぬ:長谷川泰子、講談社
・中原中也 盲目の秋:青木健、河出書房新社
・太宰と安吾:檀一雄、沖積社

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