今週は「中原中也の世界を巡る」の第二回目として、東京の中原中也を歩いてみます。関東大震災から二年後の大正14年4月に立命館中学の卒業を待たずに上京しています。当時の東京は大震災からようやく復旧しつつある時でした。
今週は中原中也の同棲相手の長谷川泰子の「ゆきてかへらぬ」にそって東京を歩いてみます。中原中也なら やはりこれですね。(個人的な趣味です)
『月は空にメダルのやうに、街角に建物はオルガンのやうに、遊び疲れた男ども唄ひながらに帰ってゆく。── イカムネ・カラアがまがつゐる ──
その唇はひらききつてその心は何か悲しい。頭が暗い土塊になって、ただもうラアラア唄つてゆくのだ。
商用のことや祖先のことや忘れてゐるといふではないが、都会の夏の夜の更 ─
死んだ火薬と深くして眼に外燈の滲みいればただもうラアラア唱つてゆくのだ。』 (中原中也「都会の夏の夜」より)
なかなかの詩です!「街角に建物はオルガンのやうに、遊び疲れた男ども唄ひながらに帰ってゆく」、は現在でもそのまま通じるサラリーマンのフレーズです。「その唇はひらききつてその心は何か悲しい。頭が暗い土塊になって、ただもうラアラア唄つてゆくのだ」、も、あたかも現代を唄っているかのようです。昭和初期では理解できる人は少ないでしょう。時代が半世紀 早すぎた天才なのかもしれませんね。
★左上の写真は長谷川泰子が中原中也について書いた「ゆきてかえらぬ」の初版本です。残念ながら帯が付いていませんでした。
【中原中也】 中原中也は、明治40年(1907)4月29日、山口市湯田温泉の医者の息子として生まれました。軍医であった父親に伴って金沢、広島と移り、父親は、母親の実家であった山口市湯田の中原医院を継ぎます。小学校時代は成績はよかったようですが、名門の山口中学校時代は文学に傾倒し、成績が下がり落第します。そのため京都の立命館中学校に転校しますが、富永太郎の出会等によりにより一層文学に傾注していきます。また、長谷川泰子と同棲したりしています。大正14年上京、小林秀雄、河上徹太郎、大岡昇平らとひさしく付き合いますが、昭和12年、結核のため鎌倉で死去します。死後、友人小林秀雄によって詩集『在りし日の歌』が出版され、高い評価を得ます。
|