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最終更新日:2018年06月07日

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●中原中也の東京を歩く -1-
   初版2004年4月24日 
   二版2008年12月27日 
<V01L01> 永井龍男の高円寺に関する記述を追加

 今週は「中原中也の世界を巡る」の第二回目として、東京の中原中也を歩いてみます。関東大震災から二年後の大正14年4月に立命館中学の卒業を待たずに上京しています。当時の東京は大震災からようやく復旧しつつある時でした。

 今週は中原中也の同棲相手の長谷川泰子の「ゆきてかへらぬ」にそって東京を歩いてみます。中原中也なら やはりこれですね。(個人的な趣味です)

『月は空にメダルのやうに、街角に建物はオルガンのやうに、遊び疲れた男ども唄ひながらに帰ってゆく。── イカムネ・カラアがまがつゐる ──

その唇はひらききつてその心は何か悲しい。頭が暗い土塊になって、ただもうラアラア唄つてゆくのだ。

商用のことや祖先のことや忘れてゐるといふではないが、都会の夏の夜の更 ─

死んだ火薬と深くして眼に外燈の滲みいればただもうラアラア唱つてゆくのだ。』
(中原中也「都会の夏の夜」より)


 なかなかの詩です!「街角に建物はオルガンのやうに、遊び疲れた男ども唄ひながらに帰ってゆく」、は現在でもそのまま通じるサラリーマンのフレーズです。「その唇はひらききつてその心は何か悲しい。頭が暗い土塊になって、ただもうラアラア唄つてゆくのだ」、も、あたかも現代を唄っているかのようです。昭和初期では理解できる人は少ないでしょう。時代が半世紀 早すぎた天才なのかもしれませんね。

左上の写真は長谷川泰子が中原中也について書いた「ゆきてかえらぬ」の初版本です。残念ながら帯が付いていませんでした。

【中原中也】
中原中也は、明治40年(1907)4月29日、山口市湯田温泉の医者の息子として生まれました。軍医であった父親に伴って金沢、広島と移り、父親は、母親の実家であった山口市湯田の中原医院を継ぎます。小学校時代は成績はよかったようですが、名門の山口中学校時代は文学に傾倒し、成績が下がり落第します。そのため京都の立命館中学校に転校しますが、富永太郎の出会等によりにより一層文学に傾注していきます。また、長谷川泰子と同棲したりしています。大正14年上京、小林秀雄、河上徹太郎、大岡昇平らとひさしく付き合いますが、昭和12年、結核のため鎌倉で死去します。死後、友人小林秀雄によって詩集『在りし日の歌』が出版され、高い評価を得ます。

中原中也の東京年表

和 暦

西暦

年  表

年齢

中原中也の足跡

大正14年
1925
治安維持法
日ソ国交回復
18
3月10日 上京、早稲田鶴巻町の旅館「早成館」へ宿泊
3月 東京市外戸塚源兵衛町一九五に下宿
4月 府下中野町一九八五新井薬師通赤門に転居
5月 府下杉並町高円寺二四九に転居
11月12日 富永太郎、肺結核で死去(24歳)
11月末 長谷川泰子、小林の許へ去る
昭和元年
1126
蒋介石北伐を開始
NHK設立
19
4月 日本大学予科文科に入学
中野町桃園三四六五に転居
昭和2年
1927
金融恐慌
芥川龍之介自殺
地下鉄開通
20
10月 中野町上町に転居
中野町西町三三九八に転居
昭和3年
1928
最初の衆議院選挙
張作霖爆死
21
5月 父 謙助死去
8月 実家の家屋を知人に貸し、萩町河添五六に転居
9月 豊多摩郡高井戸町下高井戸二丁目四〇三に転居

東京市外戸塚源兵衛町>
 中原中也は立命館中学の4年終了を待たずに長谷川泰子と二人で上京します。長谷川泰子は上京当時のことを「ゆきてかえらぬ」に書いています。「…私たちが上京したのは、大正十四年三月でした。中原はそのとき、いちおう立命館中学を終えていたわけです。処分する道具なんかなかったから、そのまま東京にやって来ました。下宿をみつけるまで、数日間は鶴巻町の旅館に泊ったように覚えています。中原は早稲田に入ろうとしていましたから、下宿もそのあたりを捜しました。みつけたのは戸塚源兵衛というところ、ちょっと山に登りかける場所にあった家でした。借りた部屋は一間きりしかなかったけど、八畳くらいの広さでした。
……日本橋に出かけるのは都会に行くようで楽しかったんです。戸塚源兵衛の家から早稲田鶴巻町をずっと歩いて、途中から市電に乗って行きました。大曲のところを通り、白木屋の交差点を過ぎたあたりで降りて、三越へ行く道を聞いたのを覚えております。…」
。中也は下宿が見つかるまで早稲田鶴巻町の旅館「早成館」に宿泊していましたが、戸塚戸塚源兵衛町一九五の林方へ下宿します。上記に書かれている通り、三越までは遠かったとおもいます。都電では高田馬場から大曲、飯田橋、日本橋経由、茅場町まで十五番系列で行けました。(大正14年時代は?)。鶴巻町の旅館「早成館」については場所が不明です。

右の写真は早稲田通り馬場口交差点の早稲田寄り手前を神田川方面に少し入った所です。上記に書かれていますが「ちょっと山に登りかける場所」にあります、写真の左側が戸塚源兵衛町一九五になります(現在の西早稲田三丁目27番付近です)。

府下中野町一九八五新井薬師通赤門>
 中原中也は京都でもよく下宿を変わったように、東京でもしばしば下宿を変わります。「…ところで、中原の受験ですが、早稲田のはうは受けに行かなかったから、入学できませんでした。間もなく私たちは中野へ引っ越しました。そこは一戸建ての独立家屋で、あの頃の貸家というのは、どこもみな同じようでしたけど、玄関が二畳ほどあって表が六畳、奥に四畳半、それに板間の台所がありました。南側の六畳の部屋には縁側がついていて、広い庭のある家でした。
……その人は傘を持たず、濡れながら軒下に駆けこんで来て、私を見るなり、「奥さん、雑巾を貸してください」といいました。私はハッとして、その人を見ました。それまで、私は雨のふる光景を見て、感傷にふけっていたから、急には現実感をよびもどせません。その人は雨のなかから現われ出たような感じでした。雨に濡れたその人は新鮮に思えました。私は小林秀雄がはじめて訪ねて来た日のことを、こんなふうに覚えております。…」
。戸塚源兵衛町を僅か一ヶ月ほどで中野に転居します。中也は早稲田大学に行きたかったようですが、事前に受けた日大の入試を遅刻で棒にふり、早稲田大学へは入学試験に自信がなかったため、替玉受験をしようとしますが立命館中学の終了証書がなかったため受験できませんでした。長谷川泰子があとで三角関係になる小林秀雄と始めてあったのもこの中野の借家でした。

左の写真が当時の中野町一九八五新井薬師赤門前付近です。現在の中野区中野五丁目48、53付近です。当時、写真の道は無く、この一帯が中野町一九八五でした。またこの地区は後に区画整理されており、詳細の場所は不明です。

府下杉並町高円寺二四九>
  2008年12月27日、永井龍男の中原中也に関する記述を追加
 中原中也は上京して直ぐに小林秀雄と親しくなります。小林秀雄は杉並町馬橋に母親と住んでおり、当時23歳、一高を卒業して東京帝国大学仏文科へ入学したばかりのエリートでした。「…小林と知り合うと、中原はそのまま高円寺に引っ越すことを決めましたから、中野の家はほんのしばらくしかいませんでした。荷物がほとんどないから引つ越すのも気軽なんでしょう。
……あれは七月のことでした、中原は郷里に帰って、いないときです。小林が一人でたずねて来ました。おそらく、小林にしてみれば、はじめは女がいるから、ちょっと行ってみょう、そんな気持だったと思うんです。きっかけというのはこういうものかもしれませんが、二人きりで話していると、何か妙な気分になりました。あのときは別にどうということもなかったけど、私はそれからときどき、中原に内緒で小林と会うようになったんです。「あなたは中原とは思想が合い、ぼくとは気が合うのだ」
……「私は小林さんとこへ行くわ」もうそのときは、運送屋さんがリヤカーを持って、表で待っていたんです。あのとき、中原は奥の六畳で、なにか書きものをしておりました。そして、私のほうも向かないで、「フーン」といっただけなんです。私は荷物をまとめて、出て行きました。…」
。この当時、中也は長谷川泰子をほとんどかまっていなかったようです。長谷川泰子は東京で一人で寂しかったのでしょう。やさしい小林秀雄になびいてしまいます。分かれる時のフレーズを読むと、中也はある程度気がついていたようです。太宰が東京帝国大学文学部仏蘭西文学科に入学したのが昭和5年ですから小林秀雄が5年先輩になります。

写真の右側が現在の高円寺二四九です。高円寺ルック商店街の桃園川を過ぎた右側になります。

 永井龍男の「わが切抜帖より」の中に、中原中也が高円寺で長谷川泰子と住んでいた下宿について書かれていました。
「…中原は高円寺駅に続く、表通りの商家の二階に下宿し、二つ年上の女と同棲していた。私はそこへ二泊したことがある。その年の五月二十九日の日記に、「意外に思ったことは、下宿での同棲生活が少しもエロティックでなかったこと。女は頭痛がすると云って、部屋には床が敷いてあった」と記しているのが、おそらくその晩に当ると思われる。
 例のごとく小林、中原の後について当てなく歩き、高円寺の下宿にたどりついたものであろうが、四人まくらを並べてねた翌早朝、雨戸の節穴から朝日が射し、だれとなく無言で吸い出したバットの煙りが、やみに浮き出されたのをよく覚えている。後で雨戸を開けると、商家の一側裏はひろびろした一面の田んぼであった。…」

下宿が高円寺ルック商店街にあったことがわかります。

中野町桃園三四六五>
 大正15年(昭和元年)4月中原中也は日本大学予科に入学します。小林秀雄と長谷川泰子が鎌倉に転居したため、中野町桃園三四六五に転居し、その後も中野で二度転居します。大岡昇平は、中野町桃園の下宿の様子を「朝の歌」の中で書いています。「…当時の桃園は中央線の東中野と中野駅の中程の南側、線路から七、八町隔つた恐らく田圃を埋めたててできた住宅地である。下宿の横に蓮池があって、私には、『蓮の葉は、図太いのでこそこそとしか音を立てない。(「黄昏」)』の句は、この下宿と切離しては考えられず、『町々はさやぎてありぬ 子等の声もつれてありぬ(「臨終」)』は、附近にあった小学校から、私が昭和三年によく泊った朝、一団となってあがって来る声を思い出さずには読めない。階下は炭屋で、二階まで柱も壁も何となく黒ずんでいるような工合であった。カリエールのヴュルレーヌ像が部屋の唯一の飾りであった。…」。中野町桃園は現在の中野区中野三丁目付近です。当時から二回番地が変わって区画整理もあり、詳細な場所が分かりませんでした。

左上の写真付近が、中野町桃園三四六五とおもわれる所です(現在の中野区中野三丁目8番付近)。中野町西町三三九八付近の写真も載せておきます(現在の中野区中央五丁目24番付近)。

次回は「中原中也の東京を歩く」の続編を掲載します。

<中原中也の東京地図 -1->




【参考文献】
・中原中也:大岡昇平、講談社文芸文庫
・評伝 中原中也:吉田?生、講談社文芸文庫
・私の上に降る雪は:村上フク、村上護、講談社文芸文庫
・在りし日の歌:中原中也、近代文学館
・ダダイスト新吉の歌:高橋新吉、日本図書センター
・年表作家読本 中原中也:青木健、河出書房新社
・中原中也:新潮日本文学アルバム、新潮社
・ゆきてかへらぬ:長谷川泰子、講談社
・中原中也 盲目の秋:青木健、河出書房新社

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