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最終更新日:2006年3月26日

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●中原中也の京都を歩く  初版2004年4月17日 <V02L01>

 今週はお約束の「中原中也の世界を巡る」から、第一回目として、彼の人生を決定づけた京都時代を歩いてみます。彼は山口生まれですが、地元の中学を落第し、京都の立命館中学に転校してきます。

 今週から新たに中原中也を特集します。中原中也というと詩人として知らない人はいないくらいに有名ですが、彼が活動を続けていた大正から昭和初期には、殆ど無名で、彼が亡くなった昭和12年以降評価され、現在の高い評価につながっていきます。生前、彼は昭和9年(1934)に東京で詩集『山羊の歌』を出版しましたがほとんど売れず、彼の死後、友人小林秀雄によって詩集『在りし日の歌』が出版され、高い評価を得ます。今回は中原中也の友人であった大岡昇平の「中原中也」を参照しながら「中原中也の世界」を歩いてみたいとおもいます。「…おまえさんとは昭和三年に会ってから、喧嘩を繰り返しながらやってきた。昭和十二年に鎌倉でおまえさんは一人でつんのめって歩いてしまった。その時俺はスタンダールなんて政治文学に憑かれていて、おまえみたいに神様とか宗教とかいうのにこだわるのは、半分馬鹿じゃないかと思っていたわけだ。……昭和二十年の末にどうやら復員して、私に書きたいことが三つあった。一つは自分と戦争についての体験。次はおまえについての体験であり、富永太郎についての体験である。……長谷川泰子という例の女をめぐる三人の三角関係を伝記的に明らかにしたが、どうにもひどかった。……俺も中原中也では全集の編集の歩合とか、金が入る。戦後四十年たって、おまえについての伝記が、一番命が長いのは、大岡は中原のことを書いているのか、どんなことを書いているのかなというので読まれる。…(本稿は一九八八年十二月十七日に大岡氏が順天堂医院で口述されたものを、吉田照生氏の助言を得て、編集部の責任でまとめたものです。大岡氏は口述の八日後に他界されました。原稿も校正刷も御覧になっておられません)」。これは大岡昇平が文庫本の最後に「著者から読者へ、中原中也のこと」として口述したものです。上記にも書かれていますが、この口述後亡くなられています。

左上の写真は中原中也に決定的な影響を与えた高橋新吉の「ダダイスト新吉の詩」です。再販版なので、表紙も当時と少し違います。高橋新吉が中原中也について昭和二十六年五月、創元社版 『中原中也全集』 二の月報で書いています。「昭和二年頃、辻潤の紹介状を持つて中原君は、牛込の吉春館という下宿へ私をたずねて来た。それから十年ばかりの短い間ではあったが、血族的な親しさを持って、私は彼と交ったともいえるが、ある時には酔余親しさのあまり、暴言暴行を打つつけ合ったりもした。」

【中原中也】
中原中也は、明治40年(1907)4月29日、山口市湯田温泉の医者の息子として生まれました。軍医であった父親に伴って金沢、広島と移り、父親は、母親の実家であった山口市湯田の中原医院を継ぎます。小学校時代は成績はよかったようですが、名門の山口中学校時代は文学に傾倒し、成績が下がり落第します。そのため京都の立命館中学校に転校しますが、富永太郎の出会等によりにより一層文学に傾注していきます。また、長谷川泰子と同棲したりしています。大正14年上京、小林秀雄、河上徹太郎、大岡昇平らとひさしく付き合いますが、昭和12年、結核のため鎌倉で死去します。死後、友人小林秀雄によって詩集『在りし日の歌』が出版され、高い評価を得ます。

右の写真は河原町丸太町の交差点側から丸太町橋を写したもので、左側に丸太町橋際の古本屋が写っています(この古本屋は推定です)。中原中也が最も影響をうけた「ダダイスト新吉の詩」を買ったのがこの丸太町橋際の古本屋でした。これは中原中也の「詩的履歴書」の中に書かれており、「…その秋の暮、寒い夜に丸太町橋際の古本屋で『タグイスト新吉の詩』を読む。中の数篇に感激。…」、その秋とは大正12年秋とおもわれます。

中原中也の京都年表

和 暦

西暦

年  表

年齢

中原中也の足跡

大正12年
1923
関東大震災
16
4月 立命館中学に転校、上京区岡崎西福ノ川に下宿
10月 北区小山上総町に転居
夏休み後、聖護院西町九に転居
11月、丸太町中筋に転居
大正13年
1124
中国で第一次国共合作
17
4月 長谷川泰子と同棲、大将軍西町椿寺南裏に転居
10月 上京区今出川中筋通へ転居
大正14年
1925
治安維持法
日ソ国交回復
18
2月 寺町今出川一条目下ル中筋角に転居
3月 上京

立命館中学>
 中原中也は大正9年4月(1920)県立山口中学校に入学します(現 県立山口高等学校)。しかし、彼は小学校から短歌が得意であり、勉学よりも文学に傾注していったようで、婦人画報の短歌欄に、母は落選したが、中也は入選したこともあったようです。「…大正十二年中原中也は山口県立中学第三学年を落第した。十二番で入学した優秀児童が、七月の学期試験に八十番、二年進級の時百二十番と順次落ちて行って、遂にこの結果を見たのである。地理歴史等暗記物がいけなかったと伝えられている。小学校の優等生にとって、これは大きな屈辱である。そして湯田は山口市隣接の小さな町であり、中原病院は町で名望のある家であった。長男の落第は、中原家にとつても、重大事件であった。救済手段は講じられていた。大正十年四月より、山口高校生山県民男、十一年四月よりは同じく村重正夫を家に寄宿させて、学課を見させていた。しかしその甲斐がなかったのである。…」。山口県湯田の名家の息子が落第する事は許されなかったのでしょう。そのため、京都の立命館中学に転校させます。しかしこの転校が彼の文学への志をよりいっそう燃え上がらすことになります。

右の写真は現在の大谷大学です。当時はこの地に私立立命館中学校かありました。立命館は明治2年(1869)、西園寺公望が私塾「立命館」を創設し、明治33年(1900)、文部大臣時代に西園寺の秘書であった中川小十郎が立命館大学の前身の私立京都法政学校を設立したことが始まりです。

上京区岡崎西福ノ川>
 中原中也が立命館中学に転校して最初の下宿がこの上京区岡崎西福ノ川です。「…「生れて初めて両親を離れ、飛び立つ思ひなり」と後年断片「詩的履歴書」に記している。学校に対しては、本で読めば一月でわかることを、一年かかって教えるというような不満を持っており、勉学は東京行の手段にすぎない。一高へ進むのが中原家にとっても、中也にとっても理想である。東京即ち文学を意味したことも疑いない。以来半年中也の生活について、我々は知るところがない。立命館中学は落第生を収容するくらいで、あまり上等の中学ではないから、学業は進まなかったであろう。下宿は岡崎辺というほか、福さんは記憶しておられない。…」。福さんとは、母親の中原フクさんのことです。

左の写真が現在の左京区岡崎西福ノ川から東福ノ川方面を撮影したものです。詳細の場所が不明のため、町並みの雰囲気だけを伝えます。この場所は立命館中学からは遠く、当時の第三高等学校と京都帝国大学のすぐそばになります。余りに遠かったのか、この後立命館中学の道路を挟んで反対側の北区小山上総町に移ります。

聖護院西町九>
 中原中也の京都時代の三大事件といえば、1に「ダダイスト新吉の詩」、2に長谷川泰子、3が富永太郎との出会いとなります。ここでは2と3を取り上げてみます。「…中原中也にはじめて会ったのは、京都の表現座という劇団の稽古場でした。大正十二年末だったと思います。私はそこの劇団員になって、「有島武郎、死とその前後」という芝居の台本読みをしていた頃でした。そこに中原はあらわれたんです。中原は薄暗い稽古場の椅子にチョコンと坐って、私たちの練習風景をみていました。はじめは気にとめるというほどではなく、小さな中学生だなと思う程度でした。誰かと話するついでに、中原は私にも声をかけてきました。話題は、すぐ詩のことになって、これがダダの詩だよ、とノートを見せてくれたりしました。大学ノートに書いてあったそれらの詩を思い出すと、ダダダダダ……というような感じでした。音を表現しているような片カナが、多く書きこまれていたような気がします。「おもしろいじゃないの」私がそういうと、あの人は自分の詩を理解してもらえたと思ったのか、身を乗り出してきました。…」。自分の詩を長谷川泰子にほめてもらってうれしかったようです。「…六月未再び京都へ来て、十一月末まで滞在し、親交を生じた。夏富永太郎京都に来て、彼より仏国詩人等の存在を学ぶ。大正十四年の十一月に死んだ。懐かしく思ふ。(「詩的履歴書」)富永太郎は当時二十三歳、ボードレールの影響の下に、詩作を試み、画を描いていたが、彼の数少ない詩の最上のものはまだ書いていなかった。…」。富永太郎との親交がはじまりました。

右の写真の右側が現在の聖護院西町九です。聖護院といえば八ツ橋で有名ですね。写真の左側も八ツ橋屋さんでした。中原中也は一時、立命館中学のすぐそばの北区小山上総町に転居しますが、結局、西福ノ川に近い聖護院西町九に戻ってきます。繁華街の四条河原町や寺町通り、西京極に近かったためだとおもいます。

大将軍西町椿寺南裏>
 ついに中原中也は長谷川泰子と同棲を始めます。17歳の時ですから少し早いかなともおもいます。「…私が行った中原の下宿は、北野のあたり大将軍西町で、隣りに椿寺という古い寺がありました。そこの下宿屋は新しくて、廊下も広く、料理屋みたいに立派でした。まだ庭の築山もできていないような時だったけど、下宿人はいっばいでした。私たちは二階の六畳にいて、奇妙な共同生活がはじまったんです。夜は部屋のはじとはじとに寝床をとって寝ておりました。……中原はある晩、私をおそってきたのです。そこのところは、みなさんから興味深く聞かれますがあまり話したくありません。大岡さんは「殆んど強姦されちやったようなものだよ」と私がいったと雑誌(「群像」昭和三十一年一月号)に書かれておりますが、あれは仲間うちでの話だったんです。ほかの言葉でうまくいえなくて、強姦されたといっちやったけど、考えてみれば男と女がひとつ部屋で寝泊りしていたのですから、強姦されたというのはおかしいし、肉体を求められても仕方のなかったことかもしれません。私はその頃はまだ性に無頓着で、下宿においてやるよという親切心だけを信じて、そこへ行ったんですから、中原の求めるままに、身体をまかすのはつらく感じました。自分の生活があまりにみじめに思えて、気の滅入ることが多くありました。…」。織田作之助が第三高等学校時代に宮田一枝と同棲を始めたのが21歳の時ですから、中原中也はすこしませていましたね。

左上の写真が大将軍西町椿寺です。このお寺の南裏に下宿していました。写真の門の向こう側が南側になります。繁華街の四条河原町や寺町通り、西京極からは立命館中学よりも遠く、どうしてこんな所に住んだのかとおもいました。谷崎潤一郎が関東大震災の後、すぐ近くの等持院に移り住んだのが大正12年9月、東亜キネマ撮影所も等持院にありました。

寺町今出川一条目下ル中筋角
 中原中也の住んだ京都の下宿で唯一残っているのがこの寺町今出川一条目下ル中筋角の住まいです。「…中原中也が大正十四年二月から十四年三月まで住んだ、京都市上京区今出川一条目下ル中筋通角の家屋は現存する。河原町と寺町の間の筋を、今出川通から十間ばかり下った西南の角の、北向きの二階家で、関西風に板を縦に張つた東側は、二階に二尺角の掃き出し窓を一つ持っている。その窓を中原が「スペイン風」と称していたことを、中原が東京へ去った後、その部屋を引き継いだ正岡忠三郎氏ほ記憶しておられる。……富永は殆ど毎日中原の部屋へ来て詩の話をし、下鴨の下宿へは寝に帰るだけだった、と当時中原と同棲していた長谷川泰子はいっている。富永二十三歳、中原十七歳、泰子二十歳である。…」。京都は戦災にもあわず、古い家がかなり残っているのですが、それにしても珍しいですね。写真の家の左側の壁の窓が「スペイン風」の窓となるわけです。

右の写真が寺町今出川一条目下ル中筋角です。上記の文章では今出川一条目下ル中筋通角となっています。正式な番地は此方のようです。京都の地番は路の名前と上ル、下ルです。なれると分かりやすいのですが!

この後、中原中也は長谷川泰子と上京します。

<中原中也の京都地図 -1->



<中原中也の京都地図 -2->



<中原中也の京都地図 -3->




【参考文献】
・中原中也:大岡昇平、講談社文芸文庫
・評伝 中原中也:吉田?生、講談社文芸文庫
・私の上に降る雪は:村上フク、村上護、講談社文芸文庫
・在りし日の歌:中原中也、近代文学館
・ダダイスト新吉の歌:高橋新吉、日本図書センター
・年表作家読本 中原中也:青木健、河出書房新社
・中原中也:新潮日本文学アルバム、新潮社
・ゆきてかへらぬ:長谷川泰子、講談社
・中原中也 盲目の秋:青木健、河出書房新社

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