今週は「中原中也の世界を巡る」の第五回目として、軍医である父親の転属にともなって幼年時代を過ごした”広島・金沢の中原中也”を歩いてみます。
「在りし日の歌」は中原中也の死後、第二詩集として発行されたものです。この事について大岡昇平は、「『在りし日の歌』は中原中也の第二詩集の題名である。その死のひと月前、昭和十二年九月二十三日に編集を終り、原稿を友人小林秀雄に托した。出版は翌年の四月、中原はその時はこの世にいなかったから、在りし日は中原自身の在りし日となり、遺稿集にふさわしすぎる題になってしまった。しかし題名は中原が自分で選んでいたものであった。詩集の第一区分がこの題名を持ち、さらにその目頭の詩篇「含羞」は、「在りし日の歌」と詩集収録時に傍題された。 あゝ! 過ぎし日の 灰燃えあざやぐをりをりは/わが心 なにゆゑに なにゆゑ にかくは羞ぢらふ…… 三年来中原の健康は衰えていた。三十歳にならないのに、自分の生涯は終ったと感じることがあり、自殺を思うこともあった。しかし 『在りし日の歌』を小林に托した昭和十二年九月には、妻子と共に郷里山口に引き揚げ、「いよいよ詩生活に沈潜しょうと思つてゐる」と新生活への希望が一応あった。従ってこの「在りし日」は中原の意味では「過ぎし日」の意味であることは明瞭なのだが、詩人の突然の死を惜しむわれわれの心を反映して、二重の響きをもつに到ったのである。…」、と書いています。私も「在りし日の歌」の題名は亡くなった事に掛けていると思っていましたが、大岡昇平がここで書いているように、亡くなる前に原稿を小林秀雄に託しており、やはり「過ぎ去り日」のことを行っているようです。しかし大岡昇平は、「…しかし「在りし日」を「過ぎし日」の意味に使うのは、あまり例はないようである。『大日本国語辞典』『大言海』『広辞林』も「ありし日」の項目を立てていない。吉田照生の教示によれば、「ありにし人」「ありし世」と使うのは、平安時代からあったが、「ありし」に 「日」を続ける例は、『梅暦』より溯れないそうである。しかもそれは「生前」の意味である。…」、とも書いています。まあ、物書きは、特に詩人は往々にして自らの文に新しい意味をもたせます。
★左上の写真は近代文学館の名著復刻版の「在りし日の歌」です。昭和13年4月発行でこの表紙ですから凄いですね。青山二郎の装幀です。
【中原中也】 中原中也は、明治40年(1907)4月29日、山口市湯田温泉の医者の息子として生まれました。軍医であった父親に伴って金沢、広島と移り、父親は、母親の実家であった山口市湯田の中原医院を継ぎます。小学校時代は成績はよかったようですが、名門の山口中学校時代は文学に傾倒し、成績が下がり落第します。そのため京都の立命館中学校に転校しますが、富永太郎の出会等によりにより一層文学に傾注していきます。また、長谷川泰子と同棲したりしています。大正14年上京、小林秀雄、河上徹太郎、大岡昇平らとひさしく付き合いますが、昭和12年、結核のため鎌倉で死去します。死後、友人小林秀雄によって詩集『在りし日の歌』が出版され、高い評価を得ます。
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