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最終更新日:2006年11月26日

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●中原中也の広島・金沢を歩く 初版2004年5月29日 <V02L01>

 今週は「中原中也の世界を巡る」の第五回目として、軍医である父親の転属にともなって幼年時代を過ごした”広島・金沢の中原中也”を歩いてみます。

 「在りし日の歌」は中原中也の死後、第二詩集として発行されたものです。この事について大岡昇平は、「『在りし日の歌』は中原中也の第二詩集の題名である。その死のひと月前、昭和十二年九月二十三日に編集を終り、原稿を友人小林秀雄に托した。出版は翌年の四月、中原はその時はこの世にいなかったから、在りし日は中原自身の在りし日となり、遺稿集にふさわしすぎる題になってしまった。しかし題名は中原が自分で選んでいたものであった。詩集の第一区分がこの題名を持ち、さらにその目頭の詩篇「含羞」は、「在りし日の歌」と詩集収録時に傍題された。
 あゝ! 過ぎし日の 灰燃えあざやぐをりをりは/わが心 なにゆゑに なにゆゑ
にかくは羞ぢらふ……
 三年来中原の健康は衰えていた。三十歳にならないのに、自分の生涯は終ったと感じることがあり、自殺を思うこともあった。しかし 『在りし日の歌』を小林に托した昭和十二年九月には、妻子と共に郷里山口に引き揚げ、「いよいよ詩生活に沈潜しょうと思つてゐる」と新生活への希望が一応あった。従ってこの「在りし日」は中原の意味では「過ぎし日」の意味であることは明瞭なのだが、詩人の突然の死を惜しむわれわれの心を反映して、二重の響きをもつに到ったのである。…」
、と書いています。私も「在りし日の歌」の題名は亡くなった事に掛けていると思っていましたが、大岡昇平がここで書いているように、亡くなる前に原稿を小林秀雄に託しており、やはり「過ぎ去り日」のことを行っているようです。しかし大岡昇平は、「…しかし「在りし日」を「過ぎし日」の意味に使うのは、あまり例はないようである。『大日本国語辞典』『大言海』『広辞林』も「ありし日」の項目を立てていない。吉田照生の教示によれば、「ありにし人」「ありし世」と使うのは、平安時代からあったが、「ありし」に 「日」を続ける例は、『梅暦』より溯れないそうである。しかもそれは「生前」の意味である。…」、とも書いています。まあ、物書きは、特に詩人は往々にして自らの文に新しい意味をもたせます。

左上の写真は近代文学館の名著復刻版の「在りし日の歌」です。昭和13年4月発行でこの表紙ですから凄いですね。青山二郎の装幀です。

【中原中也】
中原中也は、明治40年(1907)4月29日、山口市湯田温泉の医者の息子として生まれました。軍医であった父親に伴って金沢、広島と移り、父親は、母親の実家であった山口市湯田の中原医院を継ぎます。小学校時代は成績はよかったようですが、名門の山口中学校時代は文学に傾倒し、成績が下がり落第します。そのため京都の立命館中学校に転校しますが、富永太郎の出会等によりにより一層文学に傾注していきます。また、長谷川泰子と同棲したりしています。大正14年上京、小林秀雄、河上徹太郎、大岡昇平らとひさしく付き合いますが、昭和12年、結核のため鎌倉で死去します。死後、友人小林秀雄によって詩集『在りし日の歌』が出版され、高い評価を得ます。

中原中也の広島・金沢年表

和 暦

西暦

年  表

年齢

中原中也の足跡

明治40年
1907
義務教育6年制
0
4月29日 父 柏村謙助、母 ふくの長男として山口県吉敷郡山口町大字下宇野令村第三四〇番地で生れる
明治41年
1908
 
1
11月 父謙助の転属に伴い旅順に転居
明治42年
1909
伊藤博文ハルビン駅で暗殺
2
3月 父謙助が広島衛生病院付となったため広島市上柳町五六に転居
明治43年
1910
日韓併合
3
5月 鉄砲町一三五に転居
明治44年
1911
辛亥革命
4
4月 広島女学校付属幼稚園に入園
明治45年
1912
中華民国成立
タイタニック号沈没
5
9月 父謙助が金沢の歩兵第三五連隊三等軍医正(少佐)に任命され、金沢に転居
大正2年
1913
 
6
4月 北陸女学校付属第一幼稚園に入園
大正3年
1914
第一次世界大戦
7
3月 父謙助が朝鮮に転属になったため山口に戻る

<広島市上柳町>
 今回の広島・金沢は「中原中也 盲目の秋」を参照しながら歩いてみました。中原中也の父は軍医であり、その転属に従って転居しています。軍医といえば森鴎外ですが、中也の父謙助は文学にはあまり興味を示さなかったようです。「…四十二年二月、謙助は広島衛戊病院付を命ぜられた。単身広島へ赴任した謙助を追って、中也たちが広島に転居したのは、同じ年の三月初旬であった。二、三日の旅館暮らしの後、一家は上柳町五六へ落ち着く。……翌四十三年五月、謙助一家は、上柳町から鉄砲町一三五に居を移すが、それから三ヶ月後の八月二十二日、日韓併合に関する条約が調印されたのである。この年満三歳となった中也は、初めての弟を持つことになる。十月二十九日の亜郎の誕生である。そして、翌四十四年四月、中也は広島女学校附属幼稚園に入園する。近くに倍行社の幼稚園があったが、軍の将校の子供ばかりを集めており、親の階級が子供に影響するのを嫌つて、母フクがミッション系の広島女学校附属幼稚園を選んだのであった。…」。元々の実家が医者で、父親も軍医ですから裕福な生活をしていたようです。当時ミッション系の幼稚園、ましてや幼稚園に行く事自体も珍しかった時代ですから、中也の生活ぶりが分かりますね。中也の最初の彼女、長谷川泰子も広島の出身です。当時の上柳町は現在の中区橋本町(京橋から橋本町方面を撮影)、鉄砲町(鉄砲町から三越方面を撮影)は現在もそのままあります。

右の写真の側全体が広島女学院です。広島駅や八丁堀(広島の繁華街)にも近く、一等地にあるお嬢様学校です。「広島女学院は、サンフランシスコで入信したメソジスト派のクリスチャン砂本貞吉が、明治十九年(一八八六)広島市西大工町に開設した私塾広島女学会にはじまる。翌二十年、広島女学会は、杉江田鶴女子塾と木原適処経営の広島英学校女子部とを合併して、私立広島英和女学校と改称、仮校舎を広島市細工町に設置した。同じ年、翌年より同校の校長として就任することになるアメリカ・ケンタッキl州出身のミス・N・B・ゲーンズが広島に到着している。このとき、ゲーンズ女史は、二十七歳という若さだった。後に中也が通うことになる附属幼稚園が開設されるのは、これより五年後の明治二十五年(一人九二)二月のことで、上流川町 (現=上幟町) に校舎が建てられた。私立広島英和女学校が、校名を私立広島女学校と改称するのは、明治二十九年(一八九六) のことである。」

<金沢市野田寺町>
 明治45年9月、父親の金沢転属に伴って転居します。歩兵第三五連隊に転属しています。「…大正元年(一九一二)九月末、中原一家が移り住んだ野田寺町は、犀川西岸の高台にある寺の多い閑静な田園地帯であった。いまでこそ、寺町には人家が密集し、低いビルなども建っているが、当時は、金沢市の中心から離れた郊外地で、寺と田畑に囲まれた緑のなかの別荘地であった。……野田寺町は、犀川大橋に近い方から、五丁目、四丁目、三丁目、二丁目、一丁日とゆるい上り勾配の道沿いにっづき、その先に野村練兵場、歩兵第三十五聯隊、騎兵第九聯隊があった。いまは寺町と呼ばれる街並を、練兵場跡まで歩いてみた。かっての田畑は、全て人家か、商店、背の低いビルで埋まつているが、なだらかな上り勾配の坂道は、昔のままらしかった。同じ道を、野田寺町五丁目三番地の自宅から、謙助は毎日歩兵第三十五聯隊まで馬で通ったのである。…」。馬で通うとはすごいですね。

左の写真の右側の所が中原中也旧宅です。現在は公園になっており、中原中也の記念碑が建っています。

<松月寺>
 この頃になると中原中也も記憶が有るようです。昭和11年「隼」に「金沢の恩ひ出」として書いています。「私が金沢にゐたのは大正元年の末から大正三年の春迄である。住んでゐたのは野田寺町の照月寺(字は違つてゐるかもしれない) の真ン前、犀川に臨む庭に、大きい松の樹のある家であつた。その松の樹には、今は亡き弟と戎時叱られて吊り下げられたことがある。幹は太く、枝は大変よく拡がつてゐたが、丈は高くない松だつた。昭和七年の夏金沢を訪れた時、その松が見たかつたが、今は見知らぬ人が借りてゐる家の庭に這人つてゆくわけにも行かなかつたが、家は前面から見た限り、昔のまゝであつた。……金沢に着いた夜は寒かった。駅から旅館までの車の上で自分の息が見知らぬ町の暗闇の中に、白く立昇つたことを夢のやうに覚えてゐる。…」。それでも5〜6歳の頃ですからよく覚えていたものです。ただ、お寺の名前は、照月寺ではなくて松月寺です。

右の写真が松月寺です。上記の中原中也旧宅の真ん前のお寺です。「五歳の中也が、広島から移り住んだ野田寺町五丁目三番地は、現在は金沢市寺町五丁目二−四人、松月寺という桜の大樹のある寺の道路を挟んだ真正面にある。中也が不確かな記憶として照月寺と記したのは、この松月寺のことだ。フクの記憶によると、中也たちが住んだこの家は、金沢の中心街にある文具店主が別荘として建てたものであった。」

<北陸女学校付属第一幼稚園>
 中原中也が通った幼稚園が北陸女学校附属第一幼稚園です。「…幼稚園は兼六公園の傍の北陸幼稚園であつた。行きも帰りも犀川橋を渡らなければならなかつた。渡って一寸行つて右に廻る。すると其処に自転車屋があつて大きな犬が飼つてあつた。そいつが怖かつた。雪溶の日は犀川橋を渡るのも怖かつた。その水の音は、今でもハツキリ覚えてゐる。詩人ではなかったかとおもいます。…」、と中也自身が書いています。犀川橋は繁華街である片町の近くにある犀川に掛かる橋です。

左の写真が北陸女学校附属第一幼稚園跡です。現在は金沢市役所南分室になっていました。他の場所に移転したようです。「…現存する最古のキリスト教幼稚園は、北陸学院短期大学付属第一幼稚園であった。広島女学校附属幼稚園は、明治二十五年の創設だが、北陸学院短期大学付属第一幼稚園の前身英和幼稚園の創立は明治十九年十月で、六年ほど早い。創立者アメリカ人ミス・F・E・ポートルは、明治十五年二十三歳の若さで来日、翌十六年金沢に在住していた兄を頼って移ってきたのであつた。彼女は、北陸におけるプロテスタントの最初の宣教師となった人だ。明治十七年真愛学校(翌年北陸英和学校と改称)に入学した十一歳の泉鏡太郎(後の鏡花)を可愛がったのはこのポートル女史であった。 北陸英和幼稚園が、北陸女学校附属第一幼稚園と改称したのは明治四十五年のことで、第四代ミス・ジョンストン園長時代であった。この時期、中也はこの幼稚園に通っている。…」。金沢については「五木寛之の金沢を歩く」を見て戴ければとおもいます。

次回は中也の生誕の地、山口県湯田の町を歩いてみます。

<中原中也の広島地図 >



<中原中也の金沢地図>




【参考文献】
・中原中也:大岡昇平、講談社文芸文庫
・評伝 中原中也:吉田?生、講談社文芸文庫
・私の上に降る雪は:村上フク、村上護、講談社文芸文庫
・在りし日の歌:中原中也、近代文学館
・ダダイスト新吉の歌:高橋新吉、日本図書センター
・年表作家読本 中原中也:青木健、河出書房新社
・中原中也:新潮日本文学アルバム、新潮社
・ゆきてかへらぬ:長谷川泰子、講談社
・中原中也 盲目の秋:青木健、河出書房新社
・太宰と安吾:檀一雄、沖積社

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