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最終更新日:2006年3月26日


●「中央公論社」の足跡を歩く  2001年10月6日 V03L01 (写真を変更)
 今週は趣を変えて、出版社である「中央公論社」の足跡を歩いてみたいと思います。中央公論社は平成11年2月(1999)読売グループ傘下に入り、中央公論新社として再スタートを始めています。経営危機が表面化したのは平成7年(1995)頃からで、これにバブル後の不況も追い打ちをかけて150億円の借金を抱えて、身動きが取れなくなっていました。読売新聞社の渡辺社長が前会長と懇意であり、大学卒業後中央公論社を受験した(満点だった)という因縁もあって、読売グループが支援する事になった様です。中央公論社自体は、明治20年(1887)京都で西本願寺の支援の元に『反省会雑誌』を創刊したのが初めで、明治45年からの滝田樗陰主幹時代には夏目漱石、吉野作造らを登場させ、大正デモクラシーの理論的雑誌として注目され、発刊部数を大幅に伸ばしています。昭和3年(1928)、嶋中雄作氏が社長に就任してからも進歩的言論の伝統を受け継いでいましたが、戦時中の昭和19年、言論弾圧事件として知られている横浜事件で解散を命じられ廃刊となっています。戦後はすぐに復刊し、代表的な総合雑誌として数多くの読者を獲得していました。

chuokoron06w.jpg<旧下間邸(現 竜谷大学)>
 中央公論社の始まりは東京ではなく、京都で、それも西本願寺の経営する普通教校の有志から生まれた「反省会雑誌」からです。「中央公論の八十年史」では「明治十九年四月六日、真宗本派本願寺(京都西本願寺)の経営する普通教校の普通教校の創立有志学生のあいだに「反省会」なる修養団体が結成され、翌年八月、その機関誌として『反省会雑誌』が創刊された。この雑誌が『中央公論』の前身となるもので、以後八十年つづいて、今日に及んでいる。」とあります。私もこれを読んで「中央公論社」の前身が西本願寺だったとはびっくりしました。明治時代は皆が近代化に積極的だったのではないかと思います。特に彼らを支援したのが西本願寺の新門大谷光瑞です。彼は東京の学習院にも入学したことがあり、革新的で精神的な支援だけではなく、物理的にも積極的に支援しています。この普通教校の後身が平安高校です。

左の写真は中央公論10月号です。中身は少々難しいところがありますね、内容が難しいのはいいのですが、内容より文章自体が難しいような気がします。もう少し分かりやすい文書でもいいのではないかと思います(表紙のゴン中山は”易しさ”and”優しさ”を出していますね!)。京都の旧下間邸は時間があるときに写真を撮ってきますので、少々お待ち下さい。

chuokoron05w.jpg@本郷区駒込西片町十への五号(西方町の写真を変更)
「反省会雑誌」が「反省会」に名前を変え、東京に移ったのが明治29年12月です。この当時の事を「中央公論社の八十年史」では「…これからはなんといっても東京だ。京都は千年来王城の地で、宗門の本拠にはちがいないが、政治・経済の中心は東京に移ってしまっている。これから日本の飛躍に歩調を合わせて大いに発展しょうと思うならば、どうしても東京へ進出せねばならぬ。この二つの理由で、雑誌の発行所を東京市本郷区駒込西片町十番地へ移すこととなった。明治二十九年十二月のことである。それは東大正門前を過ぎて、農学部もとの一高前の停留場のところから西片町のほうへまがり、ふく稲という鰻屋の狭い横町を入り、突き当たった通りの、さらにもう一つ裏側の通りに面した、冠木門のある家であって、のち『反省雑誌』が『中央公論』と変わっても、ながくここを本拠とした。」とあります。東大農学部前の追分を左に曲がって旧白山通りに入り、カーブのところが「ふく稲」という鰻屋だったのですが、鰻屋は既になく、そのまま真っ直ぐ細い道を歩きます。少し歩いて突き当たって左に曲がり、すぐに右に曲がって次に突き当たって右に曲がった左側です。つまり旧白山通りから二筋、裏道に入ったところです。雑誌の名前が「反省雑誌」から「中央公論」に変わったのは明治32年1月の事で、「THE CENTRAL REVIEW」の英語名から「中央公論」になっています。滝田樗陰(たきたちよいん)が主幹となったのは明治45年9月のことです。

左の写真右側の洋館が当時の「中央公論社」です。最も同じ西片町10番のなかで三度場所を変えています。当時の地番で東京市本郷区西片町十番への五号、現在は東京都文京区西片町2−9辺りです。西片町は東大に近かったため空襲でも焼けずに残った昭和初期の家が数多く残っており、昔の面影を良く残している街です。麻田駒之助宅も持ち主は変わっていますが、写真のとおり当時のまま保存されています。(麻田駒之助氏のお孫さんからメールを頂きました。ありがとうございました。)

chuokoron04w.jpgA本郷区本郷三丁目六番地三階>
 大正10年(1921)6月、中央公論社は本郷三丁目に近い東海銀行(今の第一勧業銀行)の三階に移っています。以前、「宇野千代の東京を歩く」で中央公論社の場所を「生きて行く私」を参照して「電車道を距てて燕楽軒の真ん前にあった、あの、中央公論社」とあるので、燕楽軒の真正面、つまり本郷三丁目の交差点を少し赤門の方に行った右側のビルと思っていたのですが、反対側の三原堂の先の第一勧業銀行のビルが正解だと思います。このビルの三階に入っていたのは僅か2年程ですが、札幌から出てきた宇野千代が尾崎士郎と同棲し始めたきっかけは、中央公論社主幹の滝田樗陰と合った事からです。

右の写真左側の三原堂の先の第一勧業銀行ビルの所だと思います。当時の地番で本郷区本郷三丁目6番とあるので、現在の番地では文京区本郷三丁目34−3で本郷三丁目の交差点を壱岐坂の方に少し行った左側の第一勧業銀行のビルです。

chuokoron01w.jpgB東京駅前丸の内ビルディング七七六区>(写真を更新)
 本郷三丁目の東海銀行三階は僅か2年で移転します。「中央公論社の八十年史」では「二年のちには、東京駅前に新築された丸ノ内ビルディングの七階、七七六区に移った。そのころ丸ビルは三越、帝劇などとともに、日本資本主義の繁栄を象徴する建造物で、その壮麗な白褐色の壁面は、新鮮な感覚に輝いて見え、その一隅を編集所とする『中央公論』は、時代の先頭を切ってすすむジャーナリズムの代表選手とみえた。」とあります。中央公論社が丸ビルに移ったのは、完成して直ぐの大正12年4月で、関東大震災がその年の9月ですから、僅か6ヶ月で大地震に遭っているわけです。大正13年11月滝田樗陰は病に倒れ、翌年10月27日亡くなり、中央公論社は大きな痛手となります。それでも大正15年、中央公論社は株式会社化し、麻田駒之助が社長に就任、昭和3年には主幹だった嶋中雄作に引き継ぎます。

<旧丸の内ビルディング>
 旧丸の内ビルディングは,米国の建築家ポール・スターレットとウィリアム・スターレットの指導により,桜井小太郎を中心とする三菱合資会社地所部の設計とニューヨークの建築会社フラー社の施工で,大正12年に完成しました。しかし7ヵ月後に関東大震災で被害を受け,復旧補強工事完了は大正15年(昭和元年)(1926)です(丸の内ビルディングの建築史上の価値について:社団法人 日本建築学会から)。

左の写真が新しい丸の内ビルディングです。丸ビルは地下4階地上37階で、丸の内の中央部に位置し、街の玄関として当地区立地企業、就業者や国内外からの企業、人々のさまざまな交流の舞台として機能するよう、ハード・ソフトともに構成されています。また、低層部の商業施設は、仲通りと一体的に機能し、多くの人々に街を楽しんでいただく拠点施設となります。旧丸ビルのパイオニアスピリットを引継ぎ、街の先導役としての役割を果たしていきます(三菱地所ホームページ参照、完成は平成14年8月)。

chuokoron03w.jpgC中央区京橋二丁目一番の新社屋>(写真を更新)
 戦時中の横浜事件での解散を乗り越えて、昭和21年新年号から中央公論は復刊します。しかし昭和24年1月嶋中社長が急死し、次期社長に嶋中社長の次男、鵬二(25歳)が就任します。昭和28年、現在の社屋の土地225坪を購入、昭和31年11月23日新社屋に移転します。当時のことを「中央公論社の八十年史」では「社屋建築のことが、はじめて栗本和夫の口から切り出されたのは、雄作社長のなくなる直前の、昭和二十三年暮のある夜、社長父子、山本英吉、宮本信太郎、吉田勝、高野正博の蘇ぶれで、秋葉原駅近くのあるすし屋で酒を飲んでいるときであった。栗本が何気なく社屋のことをいい出したところ、社長はニヤニヤしながら、「それは結構なことだが、そう簡単にできるかね」といったきりだったし、同席の誰も実現の可能性を信じなかった。」とあります。このころが中央公論社の最も良かった頃ではないでしょうか。お金もあったのですね。

右の写真が読売中公ビルです。読売新聞の支援を受けた後、中央公論ビルを読売中公ビルとして建て直しています。東京都中央区京橋2-8-7という都心の一等地で、東京駅からも徒歩10分くらいです。
 
<その後の中央公論社>
平成6年(1994) 嶋中鵬二会長、嶋中行雄社長の新体制。
平成8年(1996) 嶋中行雄社長退任、社長は空席。
平成9年(1997) 嶋中鵬二会長が死去。妻雅子が会長(翌年、社長と兼任)。
平成11年2月(1999) 中央公論社が読売グループ傘下に入り、中央公論新社がスタート。

中央公論社の足跡


【参考文献】
・中央公論社社の八十年:中央公論社
・生きて行く私:中央公論社、宇野千代

【住所紹介】
・読売中公ビル:東京都中央区京橋2-8-7

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