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最終更新日:2006年4月22日


●松尾芭蕉と「旧日光街道」北千住界隈をを歩く 2000年10月21日 V10L11

  10月21日に作成したページがどういう訳か、消えてなくなってしまいました。これから下記の紹介は再作成分です。少し違うと思いますが御免なさい。

kitasenjyu7w.jpg 「月日は百代の過客にして、行きかふ年もまた旅人なり。・・・弥生も末の七日、あけぼのの空朧々として、月は有明にて光をさまれるものから、富士の嶺幽に見えて、上野・谷中の花の梢、またいつかはと心細し。千住といふ所にて船をあがれば、前途三千里のおもひ胸にふさがりて、幻の巷に離別の泪をそそぐ。"行春や鳥啼き魚の目は涙"これを矢立の初めとして、行道なほすすまず。人々は途中に立ならびて、後影の見ゆるまではと見送なるべし。」は、皆様よくご存じ、松尾芭蕉の「おくのほそ道」の”発端”と”旅立ち”の文章です。芭蕉は谷中を3月27日の早朝、出発しています。弟子たちも昨夜から集まり、一緒に船に乗って見送ってくれています。千住で船を降りて、一句読み、これを旅の句の初めとしています。

<「おくのほそ道」の出立日について> 
 「おくのほそ道」では上記の通り「弥生も末の七日」、つまり3月27日の朝早く出発したと書いてあります。一方、松尾芭蕉と同行した曽良随行の「曽良随行日記」には、「巳三月廿日 日出、深川出船。巳ノ下尅 千住ニ揚ル。廿七 夜 カスカベニ泊ル。江戸ヨリ九里余。」とあり、3月20日に深川を船で出立し、午前10時ごろ千住に上がり、その一週間後の27日夜、江戸から9里ほど離れた春日部に泊ったと書かれています。一方、「おくのほそ道」には「その日やうやう草加という宿にたどり着きにけり。」とあり、宿泊地も大分食い違っています。元禄2年3月23日に岐阜の門人安川落梧へ書かれた書簡が見つかり「又々たびごゝちそゞろになりて、松島一見のおもひやまず、此二十六日、江上(こうしょう)を立出候」と書かれており、つまり26日を予定していたが、当日は天候が悪かったため一日延ばして27日に出立したと考えるのが妥当のだと思います。

 左の写真が千住大橋を渡った北千住側の大橋公園にある「おくのほそ道矢立初の碑」です。碑には「おくのほそ道」の上の章段が刻まれています。当時の千住大橋は文禄3年(1594)に造られたものです。現在の古い方の橋は昭和2年(1927)に架けられたもので、橋の形式はブレーストリブタイドアーチ式で、この形式では我が国最古の橋です。昭和3年(1928)には東京市電が橋を渡って千住(当時南足立郡千住町)まで乗り入れていました。もう一つの橋は昭和47年に完成しています。橋を渡って直ぐの国道四号線と旧日光道中の分岐点にくず餅屋さんがあります。戦前迄はこの辺りはそば屋や煎餅屋等のお店が多かったのですが、今はくず餅屋の粉川本店さんだけになってしまいました。時代を感じます。


<千住宿場 横山家>
 千往宿は寛永2年(1625)に日光道中の初宿に指定され、以来宿場として重要な役割を果してきています。日光街道のルートは、日本橋から千住を経て宇都宮までが17宿、宇都宮から日光までが4宿となっており、宿場の主な仕事は、幕府の公用者や参勤交代の大名・家臣の輸送や荷物の運搬や宿泊休憩を確保することでした。この千住宿の「横山家」は元地漉紙を商う問屋で、屋号を「松屋」と言い、安政2年(1855)に建てられています。棧瓦葺、木造二階建て、間口が9間、奥行15間の堂々とした造りで、戸口は一段下げて造られています。玄関を入った土間、商家の書院造りといわれる帳場などが見どころです。現在の建物は昭和11年に改修をしています。玄関の柱に残る刀傷は、上野寛永寺で官軍に負けた彰義隊が敗退する時に斬りつけた跡だそうです。

 右の写真は「横山家」です。横山家と街道を挟んだ向い側には、千住絵馬屋吉田家があります。江戸時代から吉田屋さんが゛作る絵馬は、馬小屋を形取った独特の物で黒枠が付けられています。絵馬は商売繁盛、願掛成就、安産子育てなどで絵柄が決まっており、経木に七色の渦絵具をニカワと混ぜて描きます。昔は農家からの注文がほとんどで、白馬は晴天を、黒馬は田畑への雨を祈願する時に使われたといわれています。


kitasenjyu2w.jpg<名倉医院>
 骨接ぎと言えば名倉、名倉と言えば骨接ぎの代名詞になるくらい、名倉医院は関東一円に有名だったようです。千住5丁目、旧日光道中と、それから分岐する下妻道に面して、古風な長屋門をかまえた旧名倉医院と、近代ビルの新名倉医院が並んで建っています。名倉家は、江戸時代から接骨医として近郷近在に名が知られ、カゴや車で運ばれて来る骨折患者でひしめいていたそうです。この医院の周辺には、患者が宿泊して加療できるために、金町屋・万屋・成田屋・大原屋・柳屋等の宿屋があり、柳屋を除いて、代々主人は、名倉の医師を兼ねていました。現在は名倉医院に入院施設があるので、これらの宿は廃業してしまっていますが、古風な建物とその外灯に「金町屋平尾医院」の名があって、わずかにそのなごりをとどめています。(足立区の文化財より)

 左の写真が「千住名倉医院」です。 明和年間開業の接骨院として知られています。写真の長屋門をくぐつた中庭に面して医院の建物が建っており江戸時代の建物も保存されています。本当に昔の病院という雰囲気で、一度見てもらいたくなる建物です。


kitasenjyu3w.jpg<塩大福(吉田屋)>
 北千住駅を東口に降りると駅前に「お菓子の吉田屋」さんがあります。テレビ等で有名なので皆様よくご存じだと思います。15時からしか販売しないと聞いていたのですが、少し前に行っても売ってくれました。塩大福を頼むと奥のお爺さん(もう腰が曲がってしまっていました)がお餅をこねて目の前で塩大福を作ってくれます。お餅が命の塩大福です。このお爺さんがいなくなったらどうなるのだろうと思います。

 右の写真の右側の赤いひさしの所が吉田屋さんです。小さいお店ですので見落としてしまいます。



 北千住周辺地図


【参考文献】
・おくのほそ道:松尾芭蕉 角川文庫
・足立区の文化財:足立区教育委員会
・歴史と旅 江戸東京歴史ウォーク(3/10 増刊):秋田書店
・旧日光道中千住宿家並変遷図:東京都足立区教育委員会

【お店の所在地】
・粉川本店:東京都都足立区千住橋戸町43 電話 03-3882-0300
・横山家住宅:東京都足立区千住4-28-1
・名倉医院:東京都足立区千住5-22-1 電話 03-3888-7711
・吉田屋:東京都足立区千住旭町41-16 電話 03-3881-1076
 

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