●有島武郎の横浜を歩く
    初版2018年1月30日  <V01L01> 暫定版

 「有島武郎を歩く」を続けます。前回は生誕(明治11年)から明治14年頃までを掲載しましたので、今回は明治15年から明治20年迄を掲載します。父親が関税局長心得兼横浜税関長に赴任したため一家は東京から横浜月岡町(現・西区老松町)の税関長官舎に移ります。


「有島武郎全集」
<「有島武郎全集」 筑摩書房(昭和63年版)(前回と同じ)>
 有島武郎の住まいの住所を調べるには有島武郎全集の年譜が一番役立つようです。かなり細かく書かれています。ただ、年譜には参考図書は書かれていますが、各々の住所の出典が明記されておりません。全て正しいとしておこなうしかありませんが、調べられる事項に関してはできるだけ調べることにしました。一部、不明なところもありますので、ご容赦ください。

 「有島武郎全集」から”年譜”です。
「明治十一年(一八七八)
三月四日未明。東京小石川水道町五十二番地(現・文京區水道町一丁目十二番七號)に生まれる。
 父武は天保十三年(一八四二)二月十日生まれ、薩摩國平佐郷(平佐村七十二番戸)出身、島津氏の一支族北郷久信に仕える有島宇兵衛兼合・曾與夫妻の長男(幼名虎之助・武吉・武記、諱行方)。宇兵衛は、「平佐崩れ」と呼ばれる北郷家のお家騷動に倦き込まれて臥蛇島遠島の處分にあい、武六歳の冬の朝、一窯の人たちとともに編笠姿で連れて行った。その後八年あまり、武はその祖父に當たる兼三らによって薫育され、安政二年、十四歳で北郷久信に召し出される。武郎はその父を、小さい時から孤獨であったのとしばしば人に欺かれた経験から「人に封して寛容でない偏狭な所があった」、眞正直な、また細心な、そして激しい情熱を持つ「純粋な薩摩人」であったと同想している。曾與は文政四年(一八二一)五月二十日生まれ、平佐の士族佐藤七蔵の長女。
 母幸は安政元年(一八五四)一月二日生まれ、陸中國盛岡の出身、南部藩江戸留守居役を勤めた加島英邦(のち山内姓)・靜の三女(幼名 吉)。靜は。久留米藩士今井九一郎の次女であった。
 維新の際南部藩が朝敵になったため、幸は「十二三から流離の苦を嘗めて、結婚前には東京でお針の賃仕事をしてゐた」という。
 そんな幸子の気性には「濶逹な方面と共に、人を呑んでかゝるやうな鋭い所」があった。…」

 この年譜は非常に参考になりました。様々な全集の年譜を見ていますが、これだけ詳しく書かれたのはないとおもいます。

写真は昭和63年発行の筑摩書房版 有島武郎全集 別巻です。年譜、著作年譜が掲載されています。有島武郎全集の最新刊は平成14年(2002)で同じく筑摩書房から出されています。

「石川啄木事典」
<「評伝 有島武郎」 佐渡谷重信、研究社出版(前回と同じ)>
 全集の他に参考になる図書はないかと探したのが佐渡谷重信さんの「評伝 有島武郎」です。ただ、この評伝は文学的な評伝の側面が強くて、私が期待していた住所等の固有名詞は全集以上には書かれていませんでした。参考図書として読まして頂きました。

  「評伝 有島武郎」の”序章”からです。
「 序  章

 晩春の軽井沢、大正十二年六月九日早暁、激しい雨足が三笠山は浄月庵の屋根を叩いている。雨戸の隙間がらローソクの燈がゆらゆらと見える。応接間の梁の上に伊達巻と腰紐、きつく縛ばられ、茫洋と柱のように垂れさがる二つの黒い人影。
 ほぼひと月が過きて、蛆、べっとりと這い、腐乱した肉塊の激しい臭気、応接間に充満し、黒い人影はなお動かない。一つの人影が人気作家有島武郎、他の一つは人妻波多野秋子であった。
 この腐乱した屍が発見されたのは七月六日である。センセーンヨナルな心中事件として世間は驚愕し、家族、知友は悲痛におそわれていった。そして、多くの論評がジャーナリズムを独占する。…」

 有島武郎で一番気になるのが”波多野秋子”との関係と、軽井沢 浄月庵での心中の前だとおもいますが、小説的に書かれていて大変面白いです。

写真は昭和53年(1978)佐渡谷重信さんの研究社出版発行「評伝 有島武郎」です。面白く読ませて頂きました。

「有島武郎と場所」
<「有島武郎と場所」 有島武郎研究会編(前回と同じ)>
 参考図書としてもう一つ有島武郎研究会編の「有島武郎研究叢書 有島武郎と場所」です。此方は”有島武郎と場所”とのタイトルだったので期待したのですが、「評伝 有島武郎」以上に文学的な側面が強くて、ほとんど参考になりませんでした。文学論的には面白い本だとおもいます。

  「有島武郎と場所」からです。
「   有島武郎の場所                    内田   満
          −その足跡と作品による素描−
     一
 有島武郎は明治十一(一八七八)年三月四日、東京小石川に生まれた。その後京橋、神田(現・中央、千代田)区内への転居を経て、明治十五年に父武の横浜税関長就任に伴つて横浜に移つている。彼はこの四年間に物心のつく年齢に達しているはずだが、後年の回想などに全くその跡を留めていない。『原年譜』には、

 (明治)十三年妹愛子が生れた。
 十四年高等師範学校附属幼稚園に人つた。この頃がら羸弱な健康となり、北海道に転学して後まで、薬餌を絶たながつた。殊に心臓に起る障害は父母を苦慮せしめた。

とある。愛子が生まれたのは明治十三年一月であるから、有島はまだ二歳の誕生日を迎えていないので記憶になかったかも知れない。しかし、その翌年「高等師範学校附属幼稚園」に人ったのは初めての集団生活の体験なのだが、彼はその記憶についても何も語っていない。「羸弱」な体質のため「父母を苦慮せしめた」というのも、自らのつらい思い出として記憶に残ったものではなく後年の母の述懐だったのであろう。…」

 年譜が付いているのですが、全集の年譜の簡易版でした。当時の情景などはよく分かります。

写真は平成8年(1996)有島武郎研究会編で右文書院発行の「有島武郎研究叢書 有島武郎と場所」です。没後70年を記念して企画された本のようです。

「有島武郎」
<「新潮日本文学アルバム 有島武郎」(前回と同じ)>
 有名な「新潮日本文学アルバム」です。写真が多くて非常に場所を探すのは参考になります。ただ、出版からかなり経っており、昔の写真は良いのですが、発刊当時の写真は若干古いとおもわれます。

  「新潮日本文学アルバム 有島武郎」からです。
「 有島武郎の存在は、なによりもその劇的な最後によって、よく知られているだろう。有夫の女性との、しかもみずから求めた死という幕切れは、子供のころから<臆病者で、言ひたいことも言はずにすますやうな質>(『一房の葡萄』)であった武郎の生涯における、純粋な自己実現の行為として、ほとんど唯一つのものであったかもしれない。少くともそれは、至高の生の形式とみずからの認めた<本能的生活>、他の刺激によらず、強い自己愛の衝動にしたがう生活のもたらした帰結てあったにちがいない。追いつめられて滅ぶよりも、死によって自身の生を完全に生き切ることが、選ばれたのであった。…」
 写真の合間に書かれた文章は簡潔で、当時の状況を良く調べて書かれています。流石、大手の出版社です。大変参考になりました。

写真は昭和59年(1984)発行、新潮社版の「新潮日本文学アルバム 有島武郎」です。非常に参考になりました



有島武郎の横浜地図 -1-



「横浜月岡町9番地」
<横浜月岡町9番地の税関長官舎>
 有島武郎の父親が關税局長心得兼横濱税關長(出世)に伴って横浜に転居しています。当時の税関局長兼横浜税関長ですから相当偉いです。ここからは官舎に移ったと明確に書いてありますのでよく分かります。ここには明治24年に国債局長になって東京に移るまで住んでいたようです。

 「有島武郎全集」から”年譜”です。
「明治十五年(一八八二)    四歳
六月十五日、武、關税局長心得兼横濱税關長に赴任、一家は横濱月岡町(現・西區老松町)の税關長官舎に移る。明治十七年の火災後再建された官舎は「隠居部屋の次に八疉二間、客間十二疉、玄間、書生部屋、女申部屋」、さらに「渡り廊下で、玄間とサロン、小室二つの西洋館がつながっていた」。また。庭の一隅に大弓場と馬小屋があったという。
十一月二十六日、弟壬生馬(次男、生馬)生まれる。…」

 ここでは月岡町の地番が書かれていませんが、横浜市中区役所市民課発行の中区文学散歩の中に地番の記載があります。有島生馬の生誕の地として”月岡町9番地”と記載がありました。

 有島武郎の”或る女”からです。
「 …四
 列車が川崎駅を発すると、葉子はまた手欄によりかかりながら木部の事をいろいろと思いめぐらした。やや色づいた田圃の先に松並み木が見えて、その間から低く海の光る、平凡な五十三次風な景色が、電柱で句読を打ちながら、空洞のような葉子の目の前で閉じたり開いたりした。赤とんぼも飛びかわす時節で、その群れが、燧石から打ち出される火花のように、赤い印象を目の底に残して乱れあった。いつ見ても新開地じみて見える神奈川を過ぎて、汽車が横浜の停車場に近づいたころには、八時を過ぎた太陽の光が、紅葉坂の桜並み木を黄色く見せるほどに暑く照らしていた。…」

 有島武郎の自宅が横浜にあったのは4才から13才までですが、この頃のことを良く覚えています。”横浜の停車場”とは現在の桜木町駅のことで、”紅葉坂”とは紅葉坂交差点から西に横浜県立図書館等の脇を通って行く道です。

写真正面辺りが月岡町9番地となります。横浜市立図書館の脇を通って少し先を左に曲がった先になります。現在は一般住宅となっています。下記に現在の地図と大正5年の土地宝典を重ねた地図を掲載しておきます。ピッタリは合いませんが、だいたいの場所が分かります。



横浜 月岡町9番地(現 西区老松町附近)重ね地図



「山手居留地74」
<山手居留地74>
 有島武郎の父親は自身が海外渡航した経験から英会話は必須と考えて、兄弟に英会話を学ばせます。先見の明があります。場所も横浜で宣教師も多く学ばせやすかったのだとおもいます。

 「有島武郎全集」から”年譜”です。
「明治十六年(一八八三)    五歳
三月、英會話を學ぶため、妹愛とともにアメリカ人宣教師セオドール=W=ギュリック、アグネス夫妻の家庭(山手居留地四十八番)に通い始める。「國粹主義を奉じ通した父が、敵の刀を奪はふとする心持ちからにしたことで、川時に家雌では剣法・弓・乗馬、大學や論語の素讀をさせられる。父が来客と要談中に「父や客人を笑わせたり喜ばせたりする積もりで、縁側で障子を隔てゝ踊りを跳」り、とうとう癇癪を起こした父に叢竹の根元に叩きつけられたことがある。灸罰や禁錮も恐ろしかった。…」

 ここでは英会話を習うために”アメリカ人宣教師セオドール=W=ギュリック、アグネス夫妻の家庭(山手居留地四十八番)”とかかれていますが、本によって、宣教師の名前と場所が違います。”山手居留地四十八番”は横浜英和学院の創設の地(1880年)なので、混同した可能性があります。

 一番新しい「有島武郎と場所」の年譜です。
「明治十六年(一八八三)五歳
 三月、英会話を学ぶため、妹愛とともにアメリカ人宣教師ルウザ=ハルゼイ=ギュリック夫妻の家庭(山手居留地七十四)に通い始める。…」

 場所は違いますが”ギュリック夫妻”は全集と同じようです。

 「評伝 有島武郎」の年譜からです。
「明治十六年(一八八三年)         五歳
 三月から妹・愛とともに横浜山手居留地七十四番のアメリカ人宣教師ギュリック、ルイの二人の家庭で英会話を学ふ。…」

 ここでも宣教師の名前が若干ちがいます。場所は上記から推定すると、山手居留地74のようです。それぞれの出典が分からないので詳細は要調査ですが今回はこのままにしておきます。

写真左の坂を下った先、右側が横浜山手居留地七十四番です。推定ですが、宣教師の住まいだったとおもいます。



横浜山の手附近(谷崎潤一郎の地図を流用)



「山手居留地120」
<横浜英和学校>
 六歳で山手居留地百二十番の横浜英和学校(明治十三年設立のブリテン英和学校、現 横浜英和学院)に入っています。やはり英語を学ばせたかったのだとおもいます。父親の仕事から得た子供への教育方針だったのだとおもいますが余っ程英語で苦労したのかもしれません。

 「有島武郎全集」から”年譜”です。
「明治十七年(一八八四)    六歳
二月二十七日、妹シマ(次女)生まれる。シマは七歳まで近所に住む武の部下野村才次のもとで育てられた。
五月二十日、父武、二等主税官に任ぜられる。
八月、愛とともに山手居留地百二十番の横濱英和學校(明治十三年設立のブリテン英和學校、現・成美學園)に入る。同校在學中、學校で友人の繪具を盗んだのが露見、「泣きやむやうに好きな若い女教師から葡萄棚の一房をもぎつて與へられたエクスタシー」が心に殘る。また、幼少年時の記憶に「叔父上ノ紫鉛筆(其頃ノ生ガ眼ニハ珍カナルモノナリキ)ノ尖端ヲ竊カニ打折リテ紫ノ繪具二代ヘシ事」なども「罪科」の重荷として殘る。…」
 
 ”山手居留地百二十番の横濱英和學校”については現在の青山学院横浜英和中学高等学校で、成美学園百年史、横浜英和学院百三十年史等の資料があるのですが、横濱開港資料館の資料(「開港のひろば」第128号)がよくまとまっていたので参考にさせて頂きました。

<横浜英和学院>
 横浜英和学院は、明治13年(1880)、米国メソジスト・プロテスタント教会婦人外国伝道会より日本に派遣されたハリエット・G・ブリテンによって山手48番地に創設されます。当初は男女共学の学校でした。その後校地を山手68番地、山手120番地に移し、明治19年(1886)、男女共学を廃し、女子部は横浜英和女学校と改称して横浜居留地84番地(現横浜市中区山下町84番地)へ移転します。明治22年(1889)に校地を購入し再び山手244番地に移転し、27年間を同地で過ごした後、大正5年(1916)に蒔田町に移転します。昭和14年(1939)には成美学園と校名を変更します。平成8年(1996)横浜英和学院と旧名に戻します。平成28年(2016) 横浜英和女学院中学高等学校が青山学院大学の系属校になり、2018年4月に男女共学にすると発表。それにともない校名を「青山学院横浜英和中学高等学校」に変更しています。(横浜英和学院ホームページも参照)
 横浜英和学院は明治時代には場所が度々変っています。有島武郎が通った明治17年は山手120番地にあったようです。

「有島武郎全集」から”一房の葡萄”です。
「有島武郎 一房の葡萄
        一
 僕は小さい時に絵を描くことが好きでした。僕の通っていた学校は横浜の山の手という所にありましたが、そこいらは西洋人ばかり住んでいる町で、僕の学校も教師は西洋人ばかりでした。そしてその学校の行きかえりにはいつでもホテルや西洋人の会社などがならんでいる海岸の通りを通るのでした。通りの海添いに立って見ると、真青な海の上に軍艦だの商船だのが一ぱいならんでいて、煙突から煙の出ているのや、檣から檣へ万国旗をかけわたしたのやがあって、眼がいたいように綺麗でした。僕はよく岸に立ってその景色を見渡して、家に帰ると、覚えているだけを出来るだけ美しく絵に描いて見ようとしました。けれどもあの透きとおるような海の藍色と、白い帆前船などの水際近くに塗ってある洋紅色とは、僕の持っている絵具ではどうしてもうまく出せませんでした。いくら描いても描いても本当の景色で見るような色には描けませんでした。…」

 横浜英和学院に通っていた頃を書いています。通学は月岡町(現 老松町)から坂を下り、横浜駅(現 桜木町駅)前から辨天橋を渡り、本町通りを進んで谷戸橋を渡って、谷戸坂を上がって行ったとおもわれます。


写真の正面が山手居留地120番です。昔から番地が変っていないので直ぐ分かるのですが、120番は広くて裏の道側まで続いています。当時、どちら側に横浜英和学院があったかは明確ではありませんが横濱開港資料館の資料(「開港のひろば」第128号)に120番時代の写真が掲載されており、土地がフラットに見えたので、上記の写真側にあったのではないかとおもわれます。

「花咲町五丁目73番地」
<自牧学舎>
 東京の学習院に入学するため横浜英和学院を止めて花咲町にある自牧学校(創立者、古谷傳)に通います。当時は9月が新学期だったため5月頃から8月頃まで通ったとおもわれます。

 「有島武郎全集」から”年譜”です。
「明治二十年(一八八七)   九歳
  三月、有島健助、武の厚遇により造士館に學ぶ。
  五月、學習院入學準備のため横濱英和學校を退き、花咲町六丁目の「ある老女先生の寺小屋弍の變則な學校」自牧學校(創立者、古谷傳)に通う。…」

 ”自牧學校”については調べてもよく分からなかったのですが、創立者の”古谷傳”については本を出版しており、本の奥付から住所が分かりました。明治19年出版の本の奥付には”古谷傳 花咲町五丁目73番地”とあります。番地は花咲町で連番になっており、73番地は5丁目と6丁目の境辺りで、推定ですがここが自牧学校の場所ではないかと考えています。

写真の左側が横浜市立本町小学校で、この場所が花咲町五丁目73番地となります。当時の花咲町5丁目と6丁目の境がはっきりしません。(詳細は下記の地図参照)

 次回は東京に戻ります。



花咲町附近地図(現在の地図と土地宝典(大正5年)を重ねた地図)



横浜市桜木町付近地図



有島武郎年表
和 暦 西暦 年  表 年齢 有島武郎の足跡
明治11年 1878 大久保利通が暗殺される 0 3月4日 東京小石川水道町五十二番地(現・文京區水道町一丁目十二番七號)に生まれる。父は武、母は幸。
1月20日 母幸、小石川の萩の舍中島歌子の歌會に行く。以後、歌作を續ける。
明治12年
1879
朝日新聞が創刊
日本人運転士が初めて、新橋−横浜間の汽車を運転する
1 7月 武、間税諸規則取調御用掛となる。
この月、一家、京橋區小田原町四丁目七番地に轉居。
明治13年 1880 横浜正金銀行設立
三菱銀行の前身、三菱為替店開業
2 1月12日、妹愛(長女)生まれる。
 この年、武、議案局少書記官、間税局兼務となり、京橋區築地三丁目八番地に轉居。
明治14年 1881 明治生命保険会社設立
OK牧場の決闘
3 本郷區湯島三丁目(現・文京区)の東京女子師範學校附扇幼稚園に通う。
11月 武、間税局極大書記官に進み、擬定税目取調べを命じられる。
一家、神田區表神保町十番地(現・千代田區)に轉居。
明治15年 1882 上野動物園が開園
コッホが結核菌を発見
4 6月15日 関税局長心得兼横浜税関長に赴任、一家は横浜月岡町(現・西区老松町)の税関長官舎に移る
明治16年 1883 モーパッサン「女の一生」
岩倉具視没
5 3月 英会話を学ぶためアメリカ人宣教師宅に通う
明治17年 1884 森鴎外ドイツ留学
秩父事件
6 8月 山手居留地百二十番の横浜英和学校(明治十三年
 設立のブリテン英和学校)に入る
明治18年 1885 清仏天津条約 7 7月15日 弟隆三(三男、のち父方の祖母曾與の妹佐藤府天の養子)生まれる
明治19年 1886 谷崎潤一郎誕生 8  −
明治20年 1887 長崎造船所が三菱に払下 9 5月 学習院入学準備のため横浜英和学校を退き、花咲町の自牧学校(創立者、古谷傳)に通う