<「有島武郎全集」 筑摩書房(昭和63年版)(前回と同じ)>
有島武郎の住まいの住所を調べるには有島武郎全集の年譜が一番役立つようです。かなり細かく書かれています。ただ、年譜には参考図書は書かれていますが、各々の住所の出典が明記されておりません。全て正しいとしておこなうしかありませんが、調べられる事項に関してはできるだけ調べることにしました。一部、不明なところもありますので、ご容赦ください。
「有島武郎全集」から”年譜”です。
「明治十一年(一八七八)
三月四日未明。東京小石川水道町五十二番地(現・文京區水道町一丁目十二番七號)に生まれる。
父武は天保十三年(一八四二)二月十日生まれ、薩摩國平佐郷(平佐村七十二番戸)出身、島津氏の一支族北郷久信に仕える有島宇兵衛兼合・曾與夫妻の長男(幼名虎之助・武吉・武記、諱行方)。宇兵衛は、「平佐崩れ」と呼ばれる北郷家のお家騷動に倦き込まれて臥蛇島遠島の處分にあい、武六歳の冬の朝、一窯の人たちとともに編笠姿で連れて行った。その後八年あまり、武はその祖父に當たる兼三らによって薫育され、安政二年、十四歳で北郷久信に召し出される。武郎はその父を、小さい時から孤獨であったのとしばしば人に欺かれた経験から「人に封して寛容でない偏狭な所があった」、眞正直な、また細心な、そして激しい情熱を持つ「純粋な薩摩人」であったと同想している。曾與は文政四年(一八二一)五月二十日生まれ、平佐の士族佐藤七蔵の長女。
母幸は安政元年(一八五四)一月二日生まれ、陸中國盛岡の出身、南部藩江戸留守居役を勤めた加島英邦(のち山内姓)・靜の三女(幼名 吉)。靜は。久留米藩士今井九一郎の次女であった。
維新の際南部藩が朝敵になったため、幸は「十二三から流離の苦を嘗めて、結婚前には東京でお針の賃仕事をしてゐた」という。
そんな幸子の気性には「濶逹な方面と共に、人を呑んでかゝるやうな鋭い所」があった。…」。
この年譜は非常に参考になりました。様々な全集の年譜を見ていますが、これだけ詳しく書かれたのはないとおもいます。
★写真は昭和63年発行の筑摩書房版 有島武郎全集
別巻です。年譜、著作年譜が掲載されています。有島武郎全集の最新刊は平成14年(2002)で同じく筑摩書房から出されています。
<「評伝 有島武郎」 佐渡谷重信、研究社出版(前回と同じ)>
全集の他に参考になる図書はないかと探したのが佐渡谷重信さんの「評伝
有島武郎」です。ただ、この評伝は文学的な評伝の側面が強くて、私が期待していた住所等の固有名詞は全集以上には書かれていませんでした。参考図書として読まして頂きました。
「評伝 有島武郎」の”序章”からです。
「 序 章
晩春の軽井沢、大正十二年六月九日早暁、激しい雨足が三笠山は浄月庵の屋根を叩いている。雨戸の隙間がらローソクの燈がゆらゆらと見える。応接間の梁の上に伊達巻と腰紐、きつく縛ばられ、茫洋と柱のように垂れさがる二つの黒い人影。
ほぼひと月が過きて、蛆、べっとりと這い、腐乱した肉塊の激しい臭気、応接間に充満し、黒い人影はなお動かない。一つの人影が人気作家有島武郎、他の一つは人妻波多野秋子であった。
この腐乱した屍が発見されたのは七月六日である。センセーンヨナルな心中事件として世間は驚愕し、家族、知友は悲痛におそわれていった。そして、多くの論評がジャーナリズムを独占する。…」。
有島武郎で一番気になるのが”波多野秋子”との関係と、軽井沢 浄月庵での心中の前だとおもいますが、小説的に書かれていて大変面白いです。
★写真は昭和53年(1978)佐渡谷重信さんの研究社出版発行「評伝
有島武郎」です。面白く読ませて頂きました。
<「有島武郎と場所」 有島武郎研究会編(前回と同じ)>
参考図書としてもう一つ有島武郎研究会編の「有島武郎研究叢書 有島武郎と場所」です。此方は”有島武郎と場所”とのタイトルだったので期待したのですが、「評伝
有島武郎」以上に文学的な側面が強くて、ほとんど参考になりませんでした。文学論的には面白い本だとおもいます。
「有島武郎と場所」からです。
「 有島武郎の場所 内田 満
−その足跡と作品による素描−
一
有島武郎は明治十一(一八七八)年三月四日、東京小石川に生まれた。その後京橋、神田(現・中央、千代田)区内への転居を経て、明治十五年に父武の横浜税関長就任に伴つて横浜に移つている。彼はこの四年間に物心のつく年齢に達しているはずだが、後年の回想などに全くその跡を留めていない。『原年譜』には、
(明治)十三年妹愛子が生れた。
十四年高等師範学校附属幼稚園に人つた。この頃がら羸弱な健康となり、北海道に転学して後まで、薬餌を絶たながつた。殊に心臓に起る障害は父母を苦慮せしめた。
とある。愛子が生まれたのは明治十三年一月であるから、有島はまだ二歳の誕生日を迎えていないので記憶になかったかも知れない。しかし、その翌年「高等師範学校附属幼稚園」に人ったのは初めての集団生活の体験なのだが、彼はその記憶についても何も語っていない。「羸弱」な体質のため「父母を苦慮せしめた」というのも、自らのつらい思い出として記憶に残ったものではなく後年の母の述懐だったのであろう。…」。
年譜が付いているのですが、全集の年譜の簡易版でした。当時の情景などはよく分かります。
★写真は平成8年(1996)有島武郎研究会編で右文書院発行の「有島武郎研究叢書 有島武郎と場所」です。没後70年を記念して企画された本のようです。
<「新潮日本文学アルバム 有島武郎」(前回と同じ)>
有名な「新潮日本文学アルバム」です。写真が多くて非常に場所を探すのは参考になります。ただ、出版からかなり経っており、昔の写真は良いのですが、発刊当時の写真は若干古いとおもわれます。
「新潮日本文学アルバム 有島武郎」からです。
「 有島武郎の存在は、なによりもその劇的な最後によって、よく知られているだろう。有夫の女性との、しかもみずから求めた死という幕切れは、子供のころから<臆病者で、言ひたいことも言はずにすますやうな質>(『一房の葡萄』)であった武郎の生涯における、純粋な自己実現の行為として、ほとんど唯一つのものであったかもしれない。少くともそれは、至高の生の形式とみずからの認めた<本能的生活>、他の刺激によらず、強い自己愛の衝動にしたがう生活のもたらした帰結てあったにちがいない。追いつめられて滅ぶよりも、死によって自身の生を完全に生き切ることが、選ばれたのであった。…」。
写真の合間に書かれた文章は簡潔で、当時の状況を良く調べて書かれています。流石、大手の出版社です。大変参考になりました。
★写真は昭和59年(1984)発行、新潮社版の「新潮日本文学アルバム
有島武郎」です。非常に参考になりました
<學習院豫備科第三年級、乙組に編入學>
明治20年(1887)9月、有島武郎は東京の神田區錦町の学習院に編入、寄宿舎生活をはじめます。9才になって寄宿舎生活に耐えられる歳と考えたのだとおもいます。学習院入学前には学力を付けるため横浜英和学院を止めて花咲町にある自牧学校に通っています。当時は9月が新学期だったため学習院編入は9月になったようです。
「有島武郎全集」から”年譜”です。
「明治二十年(一八八七) 九歳
九月、學習院豫備科第三年級(現在の小學校四年に相當)、乙組に編入學。學習院は前年の火災のため、神田錦町の假校舎であった。
寄宿舎幼年舎に入り週末には横濱に歸宅する生活になった…」
学習院のホームページによると、”神田錦町の学習院の校舎は1886(明治19)年に火災で焼失したため、一時期虎の門の元工部大学校に移転した後、1890(明治23)年に四谷に新たな校舎を建設しました。しかし四谷校舎の本館は1894(明治27)年の地震で使用できなくなり、1896(明治29)年に北豊島郡高田村(目白)へ三度目の移転が決まります。”と書かれています。虎の門の元工部大学校については、港区のホームページによると虎ノ門2−2附近にあったようです。学習院については資料が多くあるのですが、初期の頃の寄宿舎についてはよく分かりません。
★写真は千代田区~田錦町にある”学習院(華族學校)開校の地”の記念碑です。下記の地図でも分かりますが、この辺りに正門があったとおもわれます。
<学習院中等科(四谷尾張町)>
2年後の明治42年9月学習院予備科を卒業し、学習院中等科に進学します。上記にも書きましたが学習院のホームページによると、”神田錦町の学習院の校舎は1886(明治19)年に火災で焼失したため、一時期虎の門の元工部大学校に移転した後、1890(明治23)年に四谷に新たな校舎を建設しました。”
とあり、下記の年譜と合います。
「有島武郎全集」から”年譜”です。
「明治二十三年(一八九〇) 十二歳
九月、學習院豫備科を卒業、中等科に進む。四谷尾張町に新校舎落成、院長は三浦梧樓であった。武郎の得意科目は國漢・習字・歴史であったという。同級に、鹽谷温・松平保男・大久保利賢・長兵又郎・岩倉具張・吉井仲助・徳大寺則麿らがいた。
十月十五日、皇太子より「竹馬遊之圖」を賜る。…」
”皇太子より「竹馬遊之圖」を賜る”は凄いです。
★写真の正面に当時の学習院があり、この角に正門もありました。左側は赤阪離宮で、学習院跡は若葉東公園になっています。明治29年には目白に移転しています。近くに学習院の初等科はまだあります。
<永田町二丁目十二番地の官舎>
有島武郎は学習院の寄宿舎に入って週末に横浜の家に帰っていたようです。父親が国債局長に就任して横浜から永田町の官舎に移っていますが、寄宿舎生活は続けます。高学年になり、寄宿舎生活も楽しかったのではないかとおもいます。
「有島武郎全集」から”年譜”です。
「明治二十四年(一八九一) 十三歳
一月、博文館から創刊された少年文學叢書を愛讀(第一篇は巖谷小波『こがね丸』)。
七月二十五日、武、國債局長に就任(総務局特別資金課長兼務)。
八月七日、一家は東京麹町區(現・千代田區)永田町二丁目十二番地の官舎に移ったが、武郎はそのまま寄宿舎に留まる。…」
当時の永田町界隈は現在の国会議事堂が出来ておらず、附近の道も現在とはかなり違っていました。
明治25年に一家は赤坂區氷川町(現・港區赤坂)に移っていますが、詳細の場所は不明です。
★写真の左から2番目のビルのところが当時の東京麹町區永田町二丁目十二番地です。現在の衆議院第二議員会館のところになります。当時の地図には内閣総理大臣官舎との記載があるので、左側の端の方に官舎があったのではないかとおもいます。
<鎌倉材木座の別荘>
明治二十六年に父親が当時の大蔵大臣と意見が合わず自ら辞任したようです。東京には居たくなかったようで鎌倉に転居します。
「有島武郎全集」から”年譜”です。
「明治二十六年(一八九三) 十五歳
三月四日、武、大蔵大臣渡邊國武と「政治上の意見の衝突」のため「依願免本官」となり、鎌倉材木座に隠棲。その住まいは滑川河口に近い砂丘の傍らで「萱葺き、四間ばかりの百姓屋」に「瓦葺きの八疉、六疉、玄関を建て揩オしただけ」で、「めったに他人の顔も見られないような環境」だったという。
武郎は愛とともに麹町下二番町に住む母方の祖母山内靜の世話になり、一心克己のしつけを受ける。…」
鎌倉の住居も分からなかったのですが、偶然に吉井勇の住まいを探して土地台帳を調べている途中で有島家の別荘を発見しました。当時の地番で下向原
1115-1、1116、1117です。現在の由比ガ浜4-3附近となります。
★写真の正面の附近一帯が当時の地番で下向原
1115-1、1116、1117です。
<牛込矢來町の白鳥庫吉の私塾>
明治27年6月20日14時4分、明治時代で最大の地震が東京を襲います。機械式地震計による地震観測が開始されていましたので、地震の内容が詳細に分かっています。死者31人、負傷者157人なので関東大震災に比べて規模が小さかったようです。それに大規模な火災発生がなかったのが幸いしているのかもしれません。
<明治東京地震(めいじとうきょうじしん)>
1894年(明治27年)6月20日14時4分、東京湾北部を震源として発生した地震である。南関東直下地震の一つ。地震の規模はマグニチュード
7.0、震源の深さは約40kmから80kmと推定される。機械式地震計による地震観測が開始された以降であり、1892年に設立された震災予防調査会により詳細な被害調査が行われている。東京の下町と神奈川県横浜市、川崎市を中心に被害をもたらした。理科大学(東京帝国大学理学部)地震学教室によれば、余震が少なく、6月21日および22日には弱震が1回ずつ、微震が数回程度あっただけだった。また、10月7日に発生した東京湾の地震
M 6.7、深さ100kmは最大余震の可能性が指摘されている。被害の中心は東京から横浜にかけての東京湾岸で、建物の全半壊
130棟(東京府 90棟、神奈川県 40棟)、死者 31人(東京市 24人、横浜市 4人、橘樹郡
3人)、負傷者157人。建物の被害は洋風建築の煉瓦建造物の被害が多く、煙突の損壊が目立った事から、煙突地震の異名もある。(ウイキペディア参照)
樋口一葉の「水の上日記」にこの地震について書かれています。
「…我家は山かげのひくき処なればにや、さしたる震動もなく、そこなひたる處などもなかりしが、官省通勤の人々などつとめを中止して戻り来たるもあり。
新聞の号外を発したるなどによれは、さては強震成しとしる、被害の場處は、芝より糀丁、丸之内、京橋、日本橋邊おも也、貴衆両院、宮内、大蔵内務の諸省大破、死傷あり、三田小山町邊には地の裂けたるもあり、泥水を吐出して其さま恐ろしとぞ聞く。
直に久保木より秀太郎見舞に来る、ついで芝の兄君来訪、我れも小石川の師君を訪ふ、師君は、此日、四谷の松平家にありて強震に逢たるよし、床の間の壁落ち、土蔵のこしまきくずるるなどにて、松平家は大事成しとか。
鍋島家にて新築の洋館害に達て、珍貴の物品どもあまたそこなひ給ひけるよし。師君のもとにはさしたる事もなかりき。
此夜更に強震あるべきよし人々のいへばとて、兄君一泊せらる。その夜十時過る頃、微震あり。
見舞状の來りしは、横須賀にて野々宮君、静岡にて江崎ぬしなどなり。山梨へも見舞の状出す、例の返事はなし。…」
上記によると、西洋建築(煉瓦作り)の新しい建物が地震に弱かったようです。地震対策が施されていない煉瓦作りが一番危なかったのだとおもいます。
「有島武郎全集」から”年譜”です。
「明治二十七年(一八九四) 十六歳
六月二十日、明治年間最大の地震に見舞われ、四谷尾張町の學習院校舎倒壊、寄宿舎が教場に當てられることになったため、牛込矢來町の白鳥庫吉の私塾に岩倉具張・具幸兄弟や八代図次らとともに起居する。…」
上記の内容から学習院の寄宿舎も尾張町にあったようです。又、”牛込矢來町の白鳥庫吉”については当時
学習院の教授で、明治30年発行の本の奥付では”牛込區横寺町58番地”となっています。白鳥庫吉全集が発刊されているのですが年譜がありません。「東方学回想
I 先学を語る〈1〉」に白鳥庫吉博士略年があるのですが、住所等は書かれていませんでした。横寺町と矢来町は隣同士ですがこれ以上調べられませんでした。
★写真の正面の路地を少し入った左側が”牛込區横寺町58番地”です。奥付からここに学習院教授
白鳥庫吉が住んでいたことは間違いなさそうです。私塾がここのあったかは分かりませんでした。
次回も東京です。