●有島武郎の東京を歩く 其の一
    初版2018年月21日  <V01L02> 暫定版

 今週から「有島武郎を歩く」を始めます。有島武郎全集の日記と年譜がしっかりしているので、かなりの回数になりそうです。ただ、明治初期からなので場所の特定に苦労しそうです。今回は生誕(明治11年)から明治14年頃までを掲載します。すべて東京です。


「有島武郎全集」
<「有島武郎全集」 筑摩書房(昭和63年版)>
 有島武郎の住まいの住所を調べるには有島武郎全集の年譜が一番役立つようです。かなり細かく書かれています。ただ、年譜には参考図書は書かれていますが、各々の住所の出典が明記されておりません。全て正しいとしておこなうしかありませんが、調べられる事項に関してはできるだけ調べることにしました。一部、不明なところもありますので、ご容赦ください。

 「有島武郎全集」から”年譜”です。
「明治十一年(一八七八)
三月四日未明。東京小石川水道町五十二番地(現・文京區水道町一丁目十二番七號)に生まれる。
 父武は天保十三年(一八四二)二月十日生まれ、薩摩國平佐郷(平佐村七十二番戸)出身、島津氏の一支族北郷久信に仕える有島宇兵衛兼合・曾與夫妻の長男(幼名虎之助・武吉・武記、諱行方)。宇兵衛は、「平佐崩れ」と呼ばれる北郷家のお家騷動に倦き込まれて臥蛇島遠島の處分にあい、武六歳の冬の朝、一窯の人たちとともに編笠姿で連れて行った。その後八年あまり、武はその祖父に當たる兼三らによって薫育され、安政二年、十四歳で北郷久信に召し出される。武郎はその父を、小さい時から孤獨であったのとしばしば人に欺かれた経験から「人に封して寛容でない偏狭な所があった」、眞正直な、また細心な、そして激しい情熱を持つ「純粋な薩摩人」であったと同想している。曾與は文政四年(一八二一)五月二十日生まれ、平佐の士族佐藤七蔵の長女。
 母幸は安政元年(一八五四)一月二日生まれ、陸中國盛岡の出身、南部藩江戸留守居役を勤めた加島英邦(のち山内姓)・靜の三女(幼名 吉)。靜は。久留米藩士今井九一郎の次女であった。
 維新の際南部藩が朝敵になったため、幸は「十二三から流離の苦を嘗めて、結婚前には東京でお針の賃仕事をしてゐた」という。
 そんな幸子の気性には「濶逹な方面と共に、人を呑んでかゝるやうな鋭い所」があった。…」

 この年譜は非常に参考になりました。様々な全集の年譜を見ていますが、これだけ詳しく書かれたのはないとおもいます。

写真は昭和63年発行の筑摩書房版 有島武郎全集 別巻です。年譜、著作年譜が掲載されています。有島武郎全集の最新刊は平成14年(2002)で同じく筑摩書房から出されています。

「石川啄木事典」
<「評伝 有島武郎」 佐渡谷重信、研究社出版>
 全集の他に参考になる図書はないかと探したのが佐渡谷重信さんの「評伝 有島武郎」です。ただ、この評伝は文学的な評伝の側面が強くて、私が期待していた住所等の固有名詞は全集以上には書かれていませんでした。参考図書として読まして頂きました。

  「評伝 有島武郎」の”序章”からです。
「 序  章

 晩春の軽井沢、大正十二年六月九日早暁、激しい雨足が三笠山は浄月庵の屋根を叩いている。雨戸の隙間がらローソクの燈がゆらゆらと見える。応接間の梁の上に伊達巻と腰紐、きつく縛ばられ、茫洋と柱のように垂れさがる二つの黒い人影。
 ほぼひと月が過きて、蛆、べっとりと這い、腐乱した肉塊の激しい臭気、応接間に充満し、黒い人影はなお動かない。一つの人影が人気作家有島武郎、他の一つは人妻波多野秋子であった。
 この腐乱した屍が発見されたのは七月六日である。センセーンヨナルな心中事件として世間は驚愕し、家族、知友は悲痛におそわれていった。そして、多くの論評がジャーナリズムを独占する。…」

 有島武郎で一番気になるのが”波多野秋子”との関係と、軽井沢 浄月庵での心中の前だとおもいますが、小説的に書かれていて大変面白いです。

写真は昭和53年(1978)佐渡谷重信さんの研究社出版発行「評伝 有島武郎」です。面白く読ませて頂きました。

「有島武郎と場所」
<「有島武郎と場所」 有島武郎研究会編>
 参考図書としてもう一つ有島武郎研究会編の「有島武郎研究叢書 有島武郎と場所」です。此方は”有島武郎と場所”とのタイトルだったので期待したのですが、「評伝 有島武郎」以上に文学的な側面が強くて、ほとんど参考になりませんでした。文学論的には面白い本だとおもいます。

  「有島武郎と場所」からです。
「   有島武郎の場所                    内田   満
          −その足跡と作品による素描−
     一
 有島武郎は明治十一(一八七八)年三月四日、東京小石川に生まれた。その後京橋、神田(現・中央、千代田)区内への転居を経て、明治十五年に父武の横浜税関長就任に伴つて横浜に移つている。彼はこの四年間に物心のつく年齢に達しているはずだが、後年の回想などに全くその跡を留めていない。『原年譜』には、

 (明治)十三年妹愛子が生れた。
 十四年高等師範学校附属幼稚園に人つた。この頃がら羸弱な健康となり、北海道に転学して後まで、薬餌を絶たながつた。殊に心臓に起る障害は父母を苦慮せしめた。

とある。愛子が生まれたのは明治十三年一月であるから、有島はまだ二歳の誕生日を迎えていないので記憶になかったかも知れない。しかし、その翌年「高等師範学校附属幼稚園」に人ったのは初めての集団生活の体験なのだが、彼はその記憶についても何も語っていない。「羸弱」な体質のため「父母を苦慮せしめた」というのも、自らのつらい思い出として記憶に残ったものではなく後年の母の述懐だったのであろう。…」

 年譜が付いているのですが、全集の年譜の簡易版でした。当時の情景などはよく分かります。

写真は平成8年(1996)有島武郎研究会編で右文書院発行の「有島武郎研究叢書 有島武郎と場所」です。没後70年を記念して企画された本のようです。

「有島武郎」
<「新潮日本文学アルバム 有島武郎」>
 有名な「新潮日本文学アルバム」です。写真が多くて非常に場所を探すのは参考になります。ただ、出版からかなり経っており、昔の写真は良いのですが、発刊当時の写真は若干古いとおもわれます。

  「新潮日本文学アルバム 有島武郎」からです。
「 有島武郎の存在は、なによりもその劇的な最後によって、よく知られているだろう。有夫の女性との、しかもみずから求めた死という幕切れは、子供のころから<臆病者で、言ひたいことも言はずにすますやうな質>(『一房の葡萄』)であった武郎の生涯における、純粋な自己実現の行為として、ほとんど唯一つのものであったかもしれない。少くともそれは、至高の生の形式とみずからの認めた<本能的生活>、他の刺激によらず、強い自己愛の衝動にしたがう生活のもたらした帰結てあったにちがいない。追いつめられて滅ぶよりも、死によって自身の生を完全に生き切ることが、選ばれたのであった。…」
 写真の合間に書かれた文章は簡潔で、当時の状況を良く調べて書かれています。流石、大手の出版社です。大変参考になりました。

写真は昭和59年(1984)発行、新潮社版の「新潮日本文学アルバム 有島武郎」です。非常に参考になりました



有島武郎の東京地図



「小石川区小石川水道町52番地」
<生誕の地 小石川区小石川水道町52番地>
 有島武郎の生誕の地についてはどの本も住所記載のみで、自宅なのか、官舎なのか、借家なのかについては書かれていません。両親に関しては武士の出であったためか詳細に書かれています。父親は薩摩藩の出身で、そのため官職に就いており、当時”武は、明治五年一月大蔵省租税寮に勤務、十年一月には關税局勤務”と書かれています。今の税関勤務と言うことのようです。

 「有島武郎全集」から”年譜”です。
「明治十一年(一八七八)
三月四日未明。東京小石川水道町五十二番地(現・文京区水道町一丁目十二番七号)に生まれる。
この年
一月二十日、母幸、小石川の萩の舍中島歌子の歌會に行く。以後、歌作を續ける。…」

 上記に現在の住所が書かれていますが、当時の地番で明治29年の地番入り地図で探してみました。現在の地図と重ねて見ると場所がよく分かります。下記の地図を参照して下さい。
 ”小石川の萩の舍”については樋口一葉で有名です(一葉は明治14年から通っていたので、出会っていたかもしれません)。萩ノ舎は直ぐ傍にある安藤坂の途中にあり、現在は記念碑があります。当時の地番は東京市小石川区水道町14です。

  「評伝 有島武郎」の”序章”からです。
「 第一章 出生から少年期へ
    父母の背景
 有島武郎が父・武、母・幸の長男として明治十一年三月四日早暁、東京市小石川区(現・文京区)水道町五十二番に生れたのは西郷隆盛が城山で自刃して約半年後である。…」


 「新潮日本文学アルバム 有島武郎」からです。
「 …有島武郎の四十五年の生涯は、明冶十一年三月四日にはしまる。有島家の五男二女の長男として、東京市小石川区水道町五十二番地に生まれた。父武三十七筬、毋幸子二十五歳、長男であるのに両親の年齢がたかいのは、晩婚のためである。次男壬生馬はのちの画家て小説も書いた有島生馬であり、四男英夫はすなわち作家里見惇にほかならない。武郎の生まれた水道町は現在の文京区水道一丁目の一部、後楽園の西北、伝通院に抜ける安藤坂の登口辺りにあたる。その後に移った築地をも含めて、家とその周辺とか記憶にとどまるには、武郎はまだあまりに幼なすぎた。…」
 「新潮日本文学アルバム 有島武郎」では文京区水道附近の情景が少し書かれています。当時の雰囲気がもう少し分かれば良いのですが!

写真は安藤坂交差点を南東角から北西を撮影したものです。写真の少し先の左側、ビットアイル・エクイニクス 文京センター附近とおもわれます。下記の地図は現在の地図と明治29年の地番の入った地図を重ねたものです。



有島武郎生誕の地



「京橋区南小田原町四丁目七」
<京橋区小田原町四丁目七番>
 有島一家は明治12年7月に小石川區水道から京橋区小田原町に引越しています。年譜には”京橋区小田原町四丁目七番”と書かれていましたが、”小田原町”という町名になったのは昭和7年(1932)で、それまでは”南小田原町”でした。”南小田原町”という町名は元々日本橋本町、室町に小田原町という町名があり、そこに住んでいた人々が移転した先の町名を南小田原町としたことから始まっています。

 「有島武郎全集」から”年譜”です。
「五月二十日、大職卿、武に「御用有之欧州へ被差遣候事」を通達。
六月六日、東京を發つ。

 七日、サンフランシスコ行きの米國船ベルジュック號に乗船か。のち、米英獨駐在の日本大使と會い、大蔵大輔松方正義とロンドンで會談した。時に武の月給は七等給八十圓であった。

明治十二年(一八七九)    一歳
二月十六日、武、従者吉井 とともにフランス船ルカ號で横濱に歸着。
七月、武、關税諸規則取調御用掛となる。
この月、一家、京橋區小田原町四丁目七番地に轉居。…」

 京橋区小田原町四丁目は外国人居留地の傍で、外務省用地だったとおもわれますので、官舎に入ったようです。

写真の正面左側一帯が小田原町四丁目です。7番はこの先左のセブンイレブン附近とおもわれますが、明治初期の地図によって若干場所が違います。



中央区築地付近



「築地三丁目八番地」
<築地三丁目八番地>
 次の年の明治14年には直ぐ近くの築地三丁目八番地に移っています。歩いて500m程の距離です。推定ですが、有島武郎の父親 武がだんだん偉くなって、住む官舎が大きくなっていったのではないでしょうか(あくまで私の推定です)。

 「有島武郎全集」から”年譜”です。
「明治十三年(一八八〇)    二歳
 一月十二日、妹愛(長女)生まれる。
 この年、武、議案局少書記官、關税局兼務となり、京橋區築地三丁目八番地に轉居。…」
 
 当時はこの付近に官公庁が多かったようです。まだ霞ヶ関には集結していないようです。

写真の正面やや左の角のところが築地三丁目八番地です。この場所も明治初期の地図によって若干違いますが、だいたいこの付近で良いとおもいます。



明治16年内務省地理局東京実測全図 築地付近



「神田區表神保町十番地跡」
<神田區表神保町十番地>
 毎年、転居しています。明治14年には神田區表神保町十番地に移っています。この場所の南側には東京大学が明治10年に出来ており、場所的には非常に良いところとおもいます。

 「有島武郎全集」から”年譜”です。
「明治十四年(一八八一)    三歳
この年、本郷區湯島三丁目(現・文京区)の東京女子師範學校附属幼稚園に通う。體質虚弱、「殊に心臓に起る障害は父母を苦慮せしめた」という。
十一月、武、關税局極大書記官に進み、擬定税目取調べを命じられる。また「此頃時々外務省二出務シ取調ベニ從ヒ別二港則噸税領事章程等ノ取調二従事」した。
  一家、神田區表神保町十番地(現・千代田區)に轉居。…」

 ここに書かれている”東京女子師範學校附属幼稚園”については明治16年の地図を見ると、現在の東京医科歯科大病院の北側、ホテル東京ガーデンパレスの向い側附近とおもわれます。地図では”女子高等師範学校附属幼稚園”と書かれていました。

写真の正面の附近一帯が神田區表神保町十番地で、元開成学校(東京大学の前身)の寄宿舎跡地です。余に広くて場所の特定が困難ですが、当時の地図では人家がほとんど見受けられません。ただ左下にあるのみです。ここがそうだったかはよく分かりません。(詳細は下記の地図参照)

 次回は横浜です。



千代田区神保町附近地図(石川啄木の地図を流用)



明治16年参謀本部地図 神保町附近



明治16年参謀本部地図 湯島附近



有島武郎年表
和 暦 西暦 年  表 年齢 有島武郎の足跡
明治11年 1878 大久保利通が暗殺される 0 3月4日 東京小石川水道町五十二番地(現・文京區水道町一丁目十二番七號)に生まれる。父は武、母は幸。
1月20日 母幸、小石川の萩の舍中島歌子の歌會に行く。以後、歌作を續ける。
明治12年
1879
朝日新聞が創刊
日本人運転士が初めて、新橋−横浜間の汽車を運転する
1 7月 武、間税諸規則取調御用掛となる。
この月、一家、京橋區小田原町四丁目七番地に轉居。
明治13年 1880 横浜正金銀行設立
三菱銀行の前身、三菱為替店開業
2 1月12日、妹愛(長女)生まれる。
 この年、武、議案局少書記官、間税局兼務となり、京橋區築地三丁目八番地に轉居。
明治14年 1881 明治生命保険会社設立
OK牧場の決闘
3 本郷區湯島三丁目(現・文京区)の東京女子師範學校附扇幼稚園に通う。
11月 武、間税局極大書記官に進み、擬定税目取調べを命じられる。
一家、神田區表神保町十番地(現・千代田區)に轉居。