●有島武郎の北海道を歩く 其の一
    初版2018年5月12日  <V01L02> 写真が一部拡大しなかったのを修正 暫定版

 「有島武郎を歩く」を続けます。前回は明治21年から明治26年頃までの東京を掲載しました。有島武郎は明治29年に學習院中等科を卒業、札幌の農学校に再入学します。この札幌時代の明治29年から明治31年頃迄を「有島武郎の北海道を歩く 其の一」として掲載します。写真はここ10年位かけて撮りためたものですので、古い写真も含みます。一枚、写真が見当たらず暫定的に Google ストリートビュー を使用しています。見つけ次第取替えます。


「札幌文学散歩」
<「札幌文学散歩」 札幌市教育委員会編 北海道新聞社>
 有島武郎については有島武郎全集が一番詳しいのですが、札幌の有島武郎になると流石、地元の書籍がヨリ詳しく書かれています。札幌教育委員会編、北海道新聞社発刊の「札幌文学散歩」です。札幌はほとんど空襲を受けておらず、そのため焼けていません。街並みがそのまま残っており歩きやすいです。

 「札幌文学散歩」から”有島武郎”の項です。
「  時計台
 明治二十九年(一八九六)九月、札幌農学校予科第五年級に編人学した有島武郎の札幌での生活は、新渡戸稲造の官舎への寄寓からはじまった。官舎は北三条西一丁目一番地にあり、農学校は北一ー二条西一ー二丁目にあったので通学は至近距離であった。新渡戸稲造は札幌農学校の二期生で二十四年から母校の教授に迎えられていた。有島の両親の結婚媒酌人をつとめた太田時敏の甥が新渡戸で、その縁によって寄寓することになったのである。時計台の愛称をもつ演武場は北二条通のまん中にあった。…」

 この「札幌文学散歩」は非常に参考になりました。札幌の文学散歩の地図が書かれており、又、札幌の場所の分かりやすさと相まって使いやすかったです。

写真は平成4年発行の札幌市教育委員会編 北海道新聞社発行の「札幌文学散歩」です。Amazonで見たところ、再発行はされていないようです。

「有島武郎全集」
<「有島武郎全集」 筑摩書房(昭和63年版)(前回と同じ)>
 有島武郎の住まいの住所を調べるには有島武郎全集の年譜が一番役立つようです。かなり細かく書かれています。ただ、年譜には参考図書は書かれていますが、各々の住所の出典が明記されておりません。全て正しいとしておこなうしかありませんが、調べられる事項に関してはできるだけ調べることにしました。一部、不明なところもありますので、ご容赦ください。

 「有島武郎全集」から”年譜”です。
「明治十一年(一八七八)
三月四日未明。東京小石川水道町五十二番地(現・文京區水道町一丁目十二番七號)に生まれる。
 父武は天保十三年(一八四二)二月十日生まれ、薩摩國平佐郷(平佐村七十二番戸)出身、島津氏の一支族北郷久信に仕える有島宇兵衛兼合・曾與夫妻の長男(幼名虎之助・武吉・武記、諱行方)。宇兵衛は、「平佐崩れ」と呼ばれる北郷家のお家騷動に倦き込まれて臥蛇島遠島の處分にあい、武六歳の冬の朝、一窯の人たちとともに編笠姿で連れて行った。その後八年あまり、武はその祖父に當たる兼三らによって薫育され、安政二年、十四歳で北郷久信に召し出される。武郎はその父を、小さい時から孤獨であったのとしばしば人に欺かれた経験から「人に封して寛容でない偏狭な所があった」、眞正直な、また細心な、そして激しい情熱を持つ「純粋な薩摩人」であったと同想している。曾與は文政四年(一八二一)五月二十日生まれ、平佐の士族佐藤七蔵の長女。
 母幸は安政元年(一八五四)一月二日生まれ、陸中國盛岡の出身、南部藩江戸留守居役を勤めた加島英邦(のち山内姓)・靜の三女(幼名 吉)。靜は。久留米藩士今井九一郎の次女であった。
 維新の際南部藩が朝敵になったため、幸は「十二三から流離の苦を嘗めて、結婚前には東京でお針の賃仕事をしてゐた」という。
 そんな幸子の気性には「濶逹な方面と共に、人を呑んでかゝるやうな鋭い所」があった。…」

 この年譜は非常に参考になりました。様々な全集の年譜を見ていますが、これだけ詳しく書かれたのはないとおもいます。

写真は昭和63年発行の筑摩書房版 有島武郎全集 別巻です。年譜、著作年譜が掲載されています。有島武郎全集の最新刊は平成14年(2002)で同じく筑摩書房から出されています。

「石川啄木事典」
<「評伝 有島武郎」 佐渡谷重信、研究社出版(前回と同じ)>
 全集の他に参考になる図書はないかと探したのが佐渡谷重信さんの「評伝 有島武郎」です。ただ、この評伝は文学的な評伝の側面が強くて、私が期待していた住所等の固有名詞は全集以上には書かれていませんでした。参考図書として読まして頂きました。

  「評伝 有島武郎」の”序章”からです。
「 序  章

 晩春の軽井沢、大正十二年六月九日早暁、激しい雨足が三笠山は浄月庵の屋根を叩いている。雨戸の隙間がらローソクの燈がゆらゆらと見える。応接間の梁の上に伊達巻と腰紐、きつく縛ばられ、茫洋と柱のように垂れさがる二つの黒い人影。
 ほぼひと月が過きて、蛆、べっとりと這い、腐乱した肉塊の激しい臭気、応接間に充満し、黒い人影はなお動かない。一つの人影が人気作家有島武郎、他の一つは人妻波多野秋子であった。
 この腐乱した屍が発見されたのは七月六日である。センセーンヨナルな心中事件として世間は驚愕し、家族、知友は悲痛におそわれていった。そして、多くの論評がジャーナリズムを独占する。…」

 有島武郎で一番気になるのが”波多野秋子”との関係と、軽井沢 浄月庵での心中の前だとおもいますが、小説的に書かれていて大変面白いです。

写真は昭和53年(1978)佐渡谷重信さんの研究社出版発行「評伝 有島武郎」です。面白く読ませて頂きました。

「有島武郎と場所」
<「有島武郎と場所」 有島武郎研究会編(前回と同じ)>
 参考図書としてもう一つ有島武郎研究会編の「有島武郎研究叢書 有島武郎と場所」です。此方は”有島武郎と場所”とのタイトルだったので期待したのですが、「評伝 有島武郎」以上に文学的な側面が強くて、ほとんど参考になりませんでした。文学論的には面白い本だとおもいます。

  「有島武郎と場所」からです。
「   有島武郎の場所                    内田   満
          −その足跡と作品による素描−
     一
 有島武郎は明治十一(一八七八)年三月四日、東京小石川に生まれた。その後京橋、神田(現・中央、千代田)区内への転居を経て、明治十五年に父武の横浜税関長就任に伴つて横浜に移つている。彼はこの四年間に物心のつく年齢に達しているはずだが、後年の回想などに全くその跡を留めていない。『原年譜』には、

 (明治)十三年妹愛子が生れた。
 十四年高等師範学校附属幼稚園に人つた。この頃がら羸弱な健康となり、北海道に転学して後まで、薬餌を絶たながつた。殊に心臓に起る障害は父母を苦慮せしめた。

とある。愛子が生まれたのは明治十三年一月であるから、有島はまだ二歳の誕生日を迎えていないので記憶になかったかも知れない。しかし、その翌年「高等師範学校附属幼稚園」に人ったのは初めての集団生活の体験なのだが、彼はその記憶についても何も語っていない。「羸弱」な体質のため「父母を苦慮せしめた」というのも、自らのつらい思い出として記憶に残ったものではなく後年の母の述懐だったのであろう。…」

 年譜が付いているのですが、全集の年譜の簡易版でした。当時の情景などはよく分かります。

写真は平成8年(1996)有島武郎研究会編で右文書院発行の「有島武郎研究叢書 有島武郎と場所」です。没後70年を記念して企画された本のようです。

「有島武郎」
<「新潮日本文学アルバム 有島武郎」(前回と同じ)>
 有名な「新潮日本文学アルバム」です。写真が多くて非常に場所を探すのは参考になります。ただ、出版からかなり経っており、昔の写真は良いのですが、発刊当時の写真は若干古いとおもわれます。

  「新潮日本文学アルバム 有島武郎」からです。
「 有島武郎の存在は、なによりもその劇的な最後によって、よく知られているだろう。有夫の女性との、しかもみずから求めた死という幕切れは、子供のころから<臆病者で、言ひたいことも言はずにすますやうな質>(『一房の葡萄』)であった武郎の生涯における、純粋な自己実現の行為として、ほとんど唯一つのものであったかもしれない。少くともそれは、至高の生の形式とみずからの認めた<本能的生活>、他の刺激によらず、強い自己愛の衝動にしたがう生活のもたらした帰結てあったにちがいない。追いつめられて滅ぶよりも、死によって自身の生を完全に生き切ることが、選ばれたのであった。…」
 写真の合間に書かれた文章は簡潔で、当時の状況を良く調べて書かれています。流石、大手の出版社です。大変参考になりました。

写真は昭和59年(1984)発行、新潮社版の「新潮日本文学アルバム 有島武郎」です。非常に参考になりました



有島武郎の札幌地図 -1-



「時計台」
<札幌農学校予科五年に編入>
 有島武郎は學習院中等科卒業後、東京の大学には進まず、札幌農学校に進みます。下記の年譜に書かれていますが、体の調子が今一で、東京に居ると又悪化するのではないかとおもったからだそうです。田舎でノンビリ暮らせば体調も良くなるとおもったのでしょう。北海道の寒さはまったく考慮されていないのが不思議です。後年、奥様が体調を崩されています。

 「有島武郎全集」から”年譜”です。
「明治二十九年(一八九六)   十八歳
一月、一家は麹町區下六番町十番地の舊旗本屋敷に移る。隣接地を併せて約一二〇〇坪、武が新築造園に熱中した家である。
七月。學習院中等科卒業(卒業澄明書の日付は八月二十五日)。この二、三年「腸チフス、肺炎、脚気、心臓病等に罹って幾度か死に損ねたのて、東京にはゐられない程の體質になつてゐた」こと、「北海道には嫌いな蛇かゐないだらうといふ事と、百姓の仕事がして見たかった」のが動機で札幌農學校への進學を決めたという。
八月二十六日、激しい風雨を冒して船(酒田丸)で横濱を發ち、北海道に向かう。三十日夜、函館に入港、「二百十日之風」のため「通船等も全ク止」る。
九月、札幌農學校豫科第五年級に編入學。同農學校の組織は本科四年・豫科五年てあったか、有島らの學年の卒業と同時に豫科は廢止された。…」

 札幌農学校は最初、予科が5年、本科4年は非常に長いです。戦前は尋常小学校が6年、旧制中学校が5年(4年で高等学校入学可)、旧制高校が3年、帝国大学が3年(医学部は4年)です。今の高校と大学を合せても7年です。

<札幌農学校>
明治8年(1875)5月、最初の屯田兵が札幌郊外の琴似兵村に入地した。また、札幌本府建設から5年経ちようやく町の形ができた北海道石狩国札幌郡札幌(現在の札幌市中央区北2条西2丁目)付近に仮学校が東京から移転し、同年7月29日に札幌学校と改称した[2]。この期に開拓使札幌本庁学務局所管となり、続いて9月7日に開校式を行った。
明治9年(1876)8月14日、札幌学校は札幌農学校と改称して開校式を挙行した(正式改称は同年9月)。
<ウィリアム・スミス・クラーク>
札幌農学校の初代校長は調所広丈が務めたが、当時の校長職は開拓使関連の多くの要職を兼務しているうちの一つにすぎず、実質的な責任者は教頭職であった。教頭にはマサチューセッツ農科大学学長のウィリアム・スミス・クラークが招かれた。クラークはわずか8ヶ月の滞在ではあった。
<東北帝国大学農科大学>
明治36年(1903)、札幌農学校は現在の札幌市北区北11条西6丁目(現在の北海道大学教育学部付近)に移転した。日露戦争が終結した明治39年(1906)6月には、札幌農学校を農科大学に昇格、新設予定の理工科大学と大学予科と合わせて「北海道帝国大学」とする案が文部省に陳情されたが、これは同時期に帝国大学設置を要望していた東北選出の代議士に反発された。この結果、札幌に新設予定だった理科大学を宮城県仙台市に設置することに変更し、札幌と仙台の分科大学を併せて帝国大学とする折衷案を政府に要求することになった。明治40年(1907)6月22日の勅令によって、東北帝国大学を設置し、札幌農学校を東北帝国大学農科大学とすることが公布された。札幌農学校は同年9月1日付で東北帝国大学農科大学に改称し、9月11日に農科大学開校式を挙行した。

 有島武郎の「星座」から
「… 農學校の演武場の一角にこの時計臺か造られてから、誰れと誰れとか危険と塵とを厭はないてこゝまて昇る好
奇心を起したことたらう。修繕師の外には1人もなかつたかも知れない。而して何年前に最後の修繕師かこゝに昇ったのたりう。
 札幌に來てから園の心を牽きっけるものとてはさう澤山はなかった。唯この鐘の音には心から牽きっけられた。寺に生れて寺に育った故なのか、梵鈿の音を圉は好んて聞いた。上野と浅草と芝との鐘の中で、壇上寺の鑓を一番心に沁みる音たと思ったり、自分の寺の鍾を撞きなから、鳴り始めてから鳴り絡るまでの微細な音の變化にも耳を傾け慣れてゐた。鐘に慣れたその耳にも演武場の鐘の音は美しいものたった。…」

 若干小説に時計台のことを書いています。

写真は現在の札幌の時計台です。札幌農学校はこの時計台の一帯、一区画全てにありました。下記の地図を参照してください。

<時計台(ウイキペディア参照)>
明治11年(1878)10月16日 - 演武場(武芸練習場・屋内体育館)として建設される。場所は札幌農学校敷地内で、明治39年(1906)に移設されるまでは、現在の位置よりおよそ130m北東に位置していた。
明治14年(1881)8月11日 - 鐘楼に時計が設置され運転を開始する。
明治31年(1898) - 有島武郎の「星座」に大時計の鐘の音が描かれる。
明治36年(1903) - 札幌農学校が現在の北海道大学所在地に移転する。
明治39年(1906) - 札幌区により買取され、現在の場所に移設される。



札幌中心部地図 -1-(明治22年)



「教授新渡戸稻造の官舎跡」
<教授新渡戸稻造の官舎>
 有島武郎は親戚筋であるの札幌農学校教授 新渡戸稻造の官舎に下宿します。新渡戸稻造はこの後札幌を去り、東京でどんどん出世していきます。東京帝国大学出身で留学経験があり、英語が堪能であったためかもしれません。

 「札幌文学散歩」から
「  時計台
 明治二十九年(一八九六)九月、札幌農学校予科第五年級に編人学した有島武郎の札幌での生活は、新渡戸稲造の官舎への寄寓からはじまった。官舎は北三条西一丁目一番地にあり、農学校は北一ー二条西一ー二丁目にあったので通学は至近距離であった。新渡戸稲造は札幌農学校の二期生で二十四年から母校の教授に迎えられていた。有島の両親の結婚媒酌人をつとめた太田時敏の甥が新渡戸で、その縁によって寄寓することになったのである。…
 新渡戸稲造の官舎には四年四ヵ月ほど住んだ。新渡戸が病気になり転地療養のため札幌を去った明治三十年十月以後も中江汪、木村徳蔵、三吉朋十らとともに住んでいた。…」


<新渡戸 稲造(にとべ いなぞう)文久2年(1862) - 昭和8年(1933)>
文久2年(1862) 盛岡藩(のち岩手県盛岡市)の、当時奥御勘定奉行であった新渡戸十次郎の三男として生まれる。
明治4年(1871) 兄の道郎とともに上京。叔父の太田時敏の養子となる。
明治6年(1873) 東京外国語学校英語科(のちの東京英語学校、大学予備門)に入学。
明治10年(1877) 札幌農学校に第二期生として入学。卒業後、東京大学選科入学。同時に成立学舎にも通う。
明治15年(1882) 農商務省御用掛となる。11月、札幌農学校予科教授。
明治17年(1884) 渡米して米ジョンズ・ホプキンス大学に入学。
明治22年(1889) ジョンズ・ホプキンス大学より名誉文学士号授与。長兄七郎没、新渡戸姓に復帰。
明治24年(1891) 米国人メリー・エルキントン(1857-1938、日本名:萬里)と結婚。帰国し、札幌農学校教授となる。
明治34年(1901) 台湾総督府民政部殖産局長心得就任。
明治36年(1903) 京都帝国大学法科大学教授を兼ねる。
明治39年(1906) 第一高等学校長に就任。東京帝国大学農科大学教授兼任。
大正7年(1918) 東京女子大学初代学長に就任。
大正9年(1920) 国際連盟事務次長に就任。
昭和8年(1933) カナダ・バンフにて開催の 第5回太平洋会議に出席。ビクトリア市にて客死。
(ウイキペディア参照)

 「有島武郎全集」から”年譜”です。
「明治二十九年(一八九六)   十八歳

九月、札幌農學校豫科第五年級に編入學。同農學校の組織は本科四年・豫科五年てあったか、有島らの學年の卒業と同時に豫科は廢止された。教授新渡戸稻造の官舎(札幌區北三條西一丁目一番地)に寄寓し、稻造が日曜日ごとに開く、バイブルクラスに加わった。
 また、同教授の「英文學の講義には非常な興味を感じ」る。新渡戸夫人エルキントンに厚遇され、同級生の森本厚吉(舊姓噌山。
 厚吉は前年七月、豫科四年級に入學の際森本活造の養子になっているが、友人間ではしばらく舊姓を名乗っていたようだ)・星野純逸・星野勇三・牛澤洵・井街頭・木村徳蔵らとも親しく交わるようになる。一期先輩三十二名中に、伊藤誚蔵・竹崎八十雄・川上瀧彌・西川光二郎らがいた。…」

 有島武郎は”新渡戸夫人エルキントンに厚遇され”と書かれています。推定ですが横浜時代から習っていた英会話が役立ったためではないかとおもいます。

写真は北三条西一丁目一番地、札幌全日空ホテルの頃の写真です。撮影は2005年頃です。現在はANAクラウンプラザホテルとなっており、ANAとは資本関係のない名前だけANAの冠をしたホテルです。この場所に新渡戸稻造の官舎がありました。左側の川傍に記念碑があるのですが撮り忘れました。今度訪ねた時に撮影しておきます。

「中央寺」
<中央寺>
 有島武郎は下記の年譜に書いてある通り、外祖母、山内静の言い付けに從い、中央寺(曹洞宗、住職小松萬宗・札幌鋸南六烽西二丁目)に參禪を始めます。ただ、長くは続かなかったようで、基督教に傾斜していきます。

 「有島武郎全集」から”年譜”です。
「明治三十年(一八九七)   十九歳
四月二十七日、日記『観想録』を書き始める。巻頭の「所懐」―、
 「人は皆心矯めぬぞよかりける柳は緑花は紅」。
五月三日、外祖母、山内静の言い付けに從い、中央寺(曹洞宗、住職小松萬宗・札幌鋸南六烽西二丁目)に參禪を始める。「參同契」。
 「賓鏡三味」なとを講本として讀む。同寺には、級友蛎崎知次郎が寄宿。…

明治三十一年(一八九八)   二十歳
 二十六日、中央寺て星野純逸の追悼會、『歸途、感慨無限』。
二月二日、森本厚吉に依頼されていた遠友夜學校の校歌を作詞。
 七日、參禪のため中央寺に至るが休講。以後、日記から參禪の記事誚える。…」
 
 有島武郎は中央寺に通わなくなっています。下記の中央寺の成立ちに書かれていますが、座禅修行を重んじる曹洞宗ですがこの中央寺は緩くて行なわれていなかったようです。推定ですが、有島武郎はこの緩さが堪えられなかったのではないでしょうか。

<中央寺(ちゅうおうじ)>
 北海道札幌市中央区南6条西2丁目にある曹洞宗の仏教寺院。山号は實相山。大本山永平寺直末。明治7年(1874)創建。開基は總持寺東京出張所の役僧を務めていた西有穆山(のち総持寺貫首)。西有は明治7年(1874)8月に開教の命を受けて渡道し、各地を巡回した後、開拓使に赴き大判官の松本十郎を説き伏せて、現在の中央区南2条西9丁目に小教院建設用の敷地1620坪の提供を受けた。同年12月に西有に随行していた小松萬宗(のち二世住職)の指揮により、同地に札幌小教院が建設された。翌年中教院に昇格し、明治12年(1879)には本堂が完成した。明治14年(1881)曹洞宗宗務支局と改称し、翌年に寺号公称を認可され、「中央寺」となった。明治25年(1892)に南6条西2丁目の現在地に移転した。創建以来、当寺は曹洞宗の北海道における布教拠点としての役割を担い、歴代住職は道内各地に次々と末寺を建立していった。その数は現在までに29を数え、孫末寺を含めると道内でも屈指の規模を誇る。このような創建と発展の経緯が示すように、当寺は歴史的には僧侶が修行する寺というよりも、檀信徒の信仰のために存在する寺であるという側面が強かった。そのため座禅修行を重んじる曹洞宗の寺院でありながら、僧侶による本格的な座禅修行は長く行われていなかった。昭和51年(1976)に住職となった宮崎奕保(のち永平寺七十八世貫首)はこの状況を憂い、就任早々寺の規則「山内規」を定め、僧侶たちに対して厳格な座禅修行を義務付けるようになった。宮崎と後任の住職・坪田俊好の尽力により、平成8年(1996)に正式に僧堂の認可を受けた。(ウイキペディア参照)

写真は札幌 中央寺の裏門ではないかとおもいます。正直に言うと、撮影した時に此方が正門とおもっていました。後で調べたら大きな正門が反対側にありました。今度訪ねた時に撮影しておきます。。

「關場病院跡」
<關場病院>
 北海道は寒いですからお尻の調子が悪くなるのも分かります。当時のトイレは外にあったのではないでしょうか、暖房の効いた室内にあれば問題ないのですが、寒い外にあるとお尻には良くありません。悪くなる一方だとおもいます。

 「有島武郎全集」から”年譜”です。
「明治三十一年(一八九八)   二十歳
一月三日、痔疾手術のため、關場病院に人院(二十三日退院)。
 十五日、同期の俊秀星野純逸か肺結核のため死去したことを知り衝撃を受ける(享年二十三)。
 二十六日、中央寺て星野純逸の追悼會、『歸途、感慨無限』。
 二月二日、森本厚吉に依頼されていた遠友夜學校の校歌を作詞。
 七日、參禪のため中央寺に至るが休講。以後、日記から參禪の記
 事誚える。…」

 關場病院の創立は明治26年(1893年)10月、関場不二彦氏が南三条西六丁目十一番地の自宅で開設、11月23日大通西四丁目六番地に移転、関場医院とします、関場医院は翌年「北海病院」となり、明治31年(1898)に「北辰病院」と改称しています。大通西四丁目六番地は札幌では一等地です。

写真の左側の先に関場医院ありました。有島武郎が入院した頃は「関場医院」で、直ぐに「北辰病院」の名前に変ったようです(明治34年の地図では「北辰病院」となっていました)。札幌農学校の直ぐ近くです。この写真が見つからず、仕方が無いのでGoogle ストリートビュー を使用しています。見つけ次第取替えます。(詳細は下記の地図参照)

 札幌シリーズが続きます。



札幌中心部地図 -2-(明治34年)



札幌全体地図(明治34年)



有島武郎年表
和 暦 西暦 年  表 年齢 有島武郎の足跡
明治11年 1878 大久保利通が暗殺される 0 3月4日 東京小石川水道町五十二番地(現・文京區水道町一丁目十二番七號)に生まれる。父は武、母は幸。
1月20日 母幸、小石川の萩の舍中島歌子の歌會に行く。以後、歌作を續ける。
明治12年
1879
朝日新聞が創刊
日本人運転士が初めて、新橋−横浜間の汽車を運転する
1 7月 武、間税諸規則取調御用掛となる。
この月、一家、京橋區小田原町四丁目七番地に轉居。
明治13年 1880 横浜正金銀行設立
三菱銀行の前身、三菱為替店開業
2 1月12日、妹愛(長女)生まれる。
 この年、武、議案局少書記官、間税局兼務となり、京橋區築地三丁目八番地に轉居。
明治14年 1881 明治生命保険会社設立
OK牧場の決闘
3 本郷區湯島三丁目(現・文京区)の東京女子師範學校附扇幼稚園に通う。
11月 武、間税局極大書記官に進み、擬定税目取調べを命じられる。
一家、神田區表神保町十番地(現・千代田區)に轉居。
明治15年 1882 上野動物園が開園
コッホが結核菌を発見
4 6月15日 関税局長心得兼横浜税関長に赴任、一家は横浜月岡町(現・西区老松町)の税関長官舎に移る
明治16年 1883 モーパッサン「女の一生」
岩倉具視没
5 3月 英会話を学ぶためアメリカ人宣教師宅に通う
明治17年 1884 森鴎外ドイツ留学
秩父事件
6 8月 山手居留地百二十番の横浜英和学校(明治十三年
 設立のブリテン英和学校)に入る
明治18年 1885 清仏天津条約 7 7月15日 弟隆三(三男、のち父方の祖母曾與の妹佐藤府天の養子)生まれる
明治19年 1886 谷崎潤一郎誕生 8  −
明治20年 1887 長崎造船所が三菱に払下 9 5月 学習院入学準備のため横浜英和学校を退き、花咲町の自牧学校(創立者、古谷傳)に通う
明治21年 1888 上野に日本初のコーヒー店「可否茶館」開店
磐梯山が大爆発
香川県が愛媛県から分離独立、都道府県がすべて確定
10 ・皇太子明宮嘉仁殿下(明治天皇第三皇子)の學友に選ばれ、毎週土曜日、吹上御殿に伺候することとなる。
7月14日 弟英夫(四男)生まれる。叔父の山内家を繼ぐことになる。筆名、里見ク。
明治22年 1889 大日本帝国憲法発布
東海道線が全線開通
11 2月11日 憲法發布式の日に文相森有禮襲われる(翌日死去)
明治23年 1890 ニコライ堂開堂
第1回衆議院選挙
帝国ホテル開業
12 2月12日 父親、閥税局長兼横濱税関長に就任
明治24年 1891 大津事件
露仏同盟
13 7月25日 父親、國債局長に就任
7月7日 一家は東京麹町區永田町二丁目十二番nに転居
明治25年 1892 第2次伊藤博文内閣成立 14 ・一家は赤坂區氷川町(現・港區赤坂)に転居
明治26年 1893 大本営条例公布 15 3月4日 父親、依願免本官となり、鎌倉材木座に隠棲
・武郎は愛とともに麹町下二番町に住む母方の祖母山内靜の世話になる。
         
明治29年 1896 アテネで第1回オリンピックが開催
明治三陸地震津波
樋口一葉死去
18 1月 一家は麹町區下六番町十番地に転居
7月 學習院中等科卒業
9月 札幌農學校豫科第五年級に編入學
(新渡戸稲造の官舎に寄寓)
明治30年 1897 金本位制実施 19 5月3日 外祖母の言い付けに從い中央寺に參禪
7月4日 歸京
明治31年 1898 アメリカがハワイを併合
西太后が光緒帝を幽閉
20 1月3日 痔疾手術のため、關場病院に人院