<中央寺> 有島武郎は下記の年譜に書いてある通り、外祖母、山内静の言い付けに從い、中央寺(曹洞宗、住職小松萬宗・札幌鋸南六烽西二丁目)に參禪を始めます。ただ、長くは続かなかったようで、基督教に傾斜していきます。
「有島武郎全集」から”年譜”です。
「明治三十年(一八九七) 十九歳
四月二十七日、日記『観想録』を書き始める。巻頭の「所懐」―、
「人は皆心矯めぬぞよかりける柳は緑花は紅」。
五月三日、外祖母、山内静の言い付けに從い、中央寺(曹洞宗、住職小松萬宗・札幌鋸南六烽西二丁目)に參禪を始める。「參同契」。
「賓鏡三味」なとを講本として讀む。同寺には、級友蛎崎知次郎が寄宿。…
…
明治三十一年(一八九八) 二十歳
二十六日、中央寺て星野純逸の追悼會、『歸途、感慨無限』。
二月二日、森本厚吉に依頼されていた遠友夜學校の校歌を作詞。
七日、參禪のため中央寺に至るが休講。以後、日記から參禪の記事誚える。…」
有島武郎は中央寺に通わなくなっています。下記の中央寺の成立ちに書かれていますが、座禅修行を重んじる曹洞宗ですがこの中央寺は緩くて行なわれていなかったようです。推定ですが、有島武郎はこの緩さが堪えられなかったのではないでしょうか。
<中央寺(ちゅうおうじ)>
北海道札幌市中央区南6条西2丁目にある曹洞宗の仏教寺院。山号は實相山。大本山永平寺直末。明治7年(1874)創建。開基は總持寺東京出張所の役僧を務めていた西有穆山(のち総持寺貫首)。西有は明治7年(1874)8月に開教の命を受けて渡道し、各地を巡回した後、開拓使に赴き大判官の松本十郎を説き伏せて、現在の中央区南2条西9丁目に小教院建設用の敷地1620坪の提供を受けた。同年12月に西有に随行していた小松萬宗(のち二世住職)の指揮により、同地に札幌小教院が建設された。翌年中教院に昇格し、明治12年(1879)には本堂が完成した。明治14年(1881)曹洞宗宗務支局と改称し、翌年に寺号公称を認可され、「中央寺」となった。明治25年(1892)に南6条西2丁目の現在地に移転した。創建以来、当寺は曹洞宗の北海道における布教拠点としての役割を担い、歴代住職は道内各地に次々と末寺を建立していった。その数は現在までに29を数え、孫末寺を含めると道内でも屈指の規模を誇る。このような創建と発展の経緯が示すように、当寺は歴史的には僧侶が修行する寺というよりも、檀信徒の信仰のために存在する寺であるという側面が強かった。そのため座禅修行を重んじる曹洞宗の寺院でありながら、僧侶による本格的な座禅修行は長く行われていなかった。昭和51年(1976)に住職となった宮崎奕保(のち永平寺七十八世貫首)はこの状況を憂い、就任早々寺の規則「山内規」を定め、僧侶たちに対して厳格な座禅修行を義務付けるようになった。宮崎と後任の住職・坪田俊好の尽力により、平成8年(1996)に正式に僧堂の認可を受けた。(ウイキペディア参照)
★写真は札幌
中央寺の裏門ではないかとおもいます。正直に言うと、撮影した時に此方が正門とおもっていました。後で調べたら
大きな正門が反対側にありました。
今度訪ねた時に撮影しておきます。。