<別冊太陽「青山二郎の眼」>
平成6年(1994)10月に発行された「別冊太陽 青山二郎の眼」です。青山二郎が昭和54年(1979)に死去してから25年ですから、客観的に見れる時期になったのではないかとおもいます。
タイトルには「『俺は日本の文化を生きているのだ』が、青山二郎の口癖であった。骨董の天才的目利き、美術評論家、本の装幀家であり、昭和初期、若き小林秀雄、河上徹太郎、永井龍男、」中原中也らの文学的交流の中心的存在であった。しかし、彼は生涯職業人であったことはなく、全てが”日本の文化を生きる”ための余技であった。彼の眼に叶った陶磁器、遺品、写真、装幀本、証言などを通して、美の<発見者>青山二郎の実像に迫る。」と書かれており、良く彼の実像をあらわしています。この時期だから書けたのかもしれません。
別冊太陽「青山二郎の眼」から引用します。
「…■広島夏期分校
青山は、冬の二ヵ月ほどを志賀高原で過していたように、また夏の二ヵ月ほどを広島で過していた。青山が広島へ行くようになったのは。昭和三十一年頃からであろうか。広島には、林房雄の『武器なき海賊』のモデルとなった岩田幸雄かおり、この頃から親交するようになった。
その頃、岩田が割烹旅館をはじめるというので、萩まで食器を買いに行ったことがあった。たまたま三輪休雪のところで焼きものを見ていたのだが、選んだ食器を「箱書きはいらないから」という客がいるというので不思議に思ったのか、奥にいた休雪が出てきて話しているうちに、古いものを見せて貰うことになった。結局、休雪のものは買わず、古いものだけ買って帰ったという話である。広島滞在中、青山は岩田の三瀧旅館に泊り、夜はもっぱら「梟」という飲み屋に通った。その「梟」の女主人・志條みよ子さんは、隠れた文章家であり、青山の思い出を綴った本を二冊ばかり出版している。「梟」に青山が現われると、まさに青山学院広島夏期分校といった雰囲気になった。
青山が、広島へ来るもう一つの楽しみは、岩田の所有する瀬戸内の小さな島で、ヨットに乗ったり、昔覚えた水府流で一人遊泳することだった。岩国に実家のある河上徹大郎を誘って、風光明媚な瀬戸内の海を、ヨットで走行し遊んだこともあった。…」。
★写真は平凡社の「別冊太陽
青山二郎の眼」です。平成6年(1994)10月発行です。青山二郎を知る上では大変役に立つ本です。