●青山二郎の広島を歩く (なめくじ横町・梟)
    初版2014年1月24日
    二版2015年6月27日<V01L03> 「観音山荘」の写真入替と「梟」の場所の写真を追加

 今回は少し昔に戻って「青山二郎の世界、広島を歩く」を掲載します。広島を訪ねる機会があったので色々廻ってきたその一つです。青山二郎は昭和30年代に度々広島を訪ねていたようです。


「青山二郎の眼」
<別冊太陽「青山二郎の眼」>
 平成6年(1994)10月に発行された「別冊太陽 青山二郎の眼」です。青山二郎が昭和54年(1979)に死去してから25年ですから、客観的に見れる時期になったのではないかとおもいます。
 タイトルには「『俺は日本の文化を生きているのだ』が、青山二郎の口癖であった。骨董の天才的目利き、美術評論家、本の装幀家であり、昭和初期、若き小林秀雄、河上徹太郎、永井龍男、」中原中也らの文学的交流の中心的存在であった。しかし、彼は生涯職業人であったことはなく、全てが”日本の文化を生きる”ための余技であった。彼の眼に叶った陶磁器、遺品、写真、装幀本、証言などを通して、美の<発見者>青山二郎の実像に迫る。」と書かれており、良く彼の実像をあらわしています。この時期だから書けたのかもしれません。

 別冊太陽「青山二郎の眼」から引用します。
「…■広島夏期分校
 青山は、冬の二ヵ月ほどを志賀高原で過していたように、また夏の二ヵ月ほどを広島で過していた。青山が広島へ行くようになったのは。昭和三十一年頃からであろうか。広島には、林房雄の『武器なき海賊』のモデルとなった岩田幸雄かおり、この頃から親交するようになった。
 その頃、岩田が割烹旅館をはじめるというので、萩まで食器を買いに行ったことがあった。たまたま三輪休雪のところで焼きものを見ていたのだが、選んだ食器を「箱書きはいらないから」という客がいるというので不思議に思ったのか、奥にいた休雪が出てきて話しているうちに、古いものを見せて貰うことになった。結局、休雪のものは買わず、古いものだけ買って帰ったという話である。広島滞在中、青山は岩田の三瀧旅館に泊り、夜はもっぱら「梟」という飲み屋に通った。その「梟」の女主人・志條みよ子さんは、隠れた文章家であり、青山の思い出を綴った本を二冊ばかり出版している。「梟」に青山が現われると、まさに青山学院広島夏期分校といった雰囲気になった。
 青山が、広島へ来るもう一つの楽しみは、岩田の所有する瀬戸内の小さな島で、ヨットに乗ったり、昔覚えた水府流で一人遊泳することだった。岩国に実家のある河上徹大郎を誘って、風光明媚な瀬戸内の海を、ヨットで走行し遊んだこともあった。…」


写真は平凡社の「別冊太陽 青山二郎の眼」です。平成6年(1994)10月発行です。青山二郎を知る上では大変役に立つ本です。

「青山二郎全文集」
<青山二郎全文集 下>
 青山二郎が広島について書いた文章はないかと探したのですが、余りまりませんでした。彼の人生の中では広島は其程重要では無かったのではないかとおもわれます。「青山二郎全文集」に少し書かれていましたのでピックアップしました。

 「青山二郎全文集」からです。
「… 広島で十月下旬に唐九郎の個展をやる筈だったのが、窯の関係その他の手違ひで千点ばかり不満足な物が出来たので、唐九郎としては広島どころではなくなったのである。私も広島に来てそれらの弁解をしなければならなかった。また、私の来る頃を待って懇話会なるものの例会が開かれる手筈になってゐて、洋画家福井君の帰朝祝ひと三滝観音の石橋命名式等、色々催される様子なので、二十三日の当日には名古屋から唐九郎一行も遊びに来ることになった1何だか用でもないことを並べてゐるやうだが、広島では三日間唐九郎がゐて、私が名古屋にゐた程の反応も示さなかった。たった一度若い新聞記者が来て、
 「陶器の美とは如何なるものであるか。将来の計画は如何に ── 」が始まった。広島独特の紋切形である。そして唐九郎の婉艇たる弁舌が始まった。陶器の美とは何か。銘々の考へてゐるものが陶器の美に違ひない。さういふ愚問には答へるなと私か言ふと、黙ってゐろと唐九郎は私を叱った。…」


写真はちくま学芸文庫の「青山二郎全文集 下」です。学芸文庫は、文学的には意味のあるが売れない作家の本を出してくれてありがたいのですが、少々お値段が高いのが難点です。

「なめくじ横町跡」
<なめくじ横町>
 2015年6月27日 駐車場の写真を追加
 青山二郎が広島滞在中に通っていた飲み屋(バー?)が”なめくじ横丁”にあった「梟」です。高級なバーではありません。戦後、焼け跡に出来たバラック街に飲食店が集まって出来た横丁が”なめくじ横丁”でした。場所は広島市中区立町三丁目、戦前からの繁華街でした。

 別冊太陽「青山二郎の眼」から引用します。
「…陸沈−なめくじ横丁・酒場梟にて    志條みよ子

青山が晩年に足繁く訪れた広島。そこで親交を結んだのが著者だった。
お酒を酌み交わしながらジイちゃんと語り明かした数々の夜。
その対話は、今も耳にはっきりと響いているi。
──こないだ、夕方、まだ早い時に、飛び込んで来たのがいたろ。お前さんのこと、馬鹿だばかだって、言ってた── 。
──……。
──馬鹿はばかでも、自分を掘り起こしてるさ。わざと。自分を消してるんだよ。僕が言ったら、消すとはどぅいう意味ですか ── 食って掛かって来た奴さ。
──ああ、度会さんのことね。坂本さん(詩人)や福井さん(画家)の友だちで、戦前から、靉光、山路商、野村守夫、などという人達と一緒に、美術運動や文学運動をやって来たという人よ。五千冊とか六千冊とか持っていた本を全部ピカ(原子爆弾)で焼いたって、それが自慢で。中原中也のファンなのですって。現在は、私立高校の先生です。
──坂本君の仲間かあ。それで判った。
──何か、分かったの。
──色いろとさ。今頃は気の利いた者は皆生累へ出て行きますけんのう。わしらのような酔っ払いを相手にして、ここらでぐずぐず暮らしとる者は余程の馬鹿者でがんすよ──。
口吻が、坂本君そっくりだよ。
──ジイちゃんの物真似にも感心するわ。段だんと調子づいちゃって。
──これだけ広島へ通うて来りゃあ、上手くもなるさ。…」

 青山二郎の通っていた飲み屋は”なめくじ横丁”の「梟」でした。”なめくじ横丁”は人がすれ違いできる程の幅の横丁でしたから決して高級なお店が集まっていたわけではありません。その中で雰囲気の良い、本人が引き立つようなお店を撰んだとおもいます。それが志條みよ子が経営していた「梟」だったとおもいます。青山二郎自身、戦後は決して裕福な生活を営んでいた訳ではなかったはずです。戦前は麻布界隈の大地主であった親の財産で十分に生活出来ましたが、戦後は財産の切り売りでしのいできたはずです。ですから”なめくじ横丁”の「梟」となったわけです。

写真の左側、ボーリングピンのあるところ(広島国際ホテルとの境)に路地が有り、この路地がなめくじ横丁でした。下記に50年代の住宅地図を掲載します。当初はこの路地は北側の路まで貫通しておらず、途中までしかありませんでしたが、その後の昭和50年代に貫通しています。「梟」の場所は広島国際ホテルの北側、現在駐車場になっているところの一番奥、ボーリング場の手前辺りだとおもわれます。北側の道路から見た写真(PANCETTAの左側に路地があった)も掲載しておきます。

「三滝観音山荘跡」
<三瀧旅館>
 2015年6月27日 三滝観音山荘跡の写真を入替
 青山二郎の宿泊場所は三瀧寺門前の観音山荘(三瀧旅館?)でした。

 別冊太陽「青山二郎の眼」から引用します。
「… その頃、岩田が割烹旅館をはじめるというので、萩まで食器を買いに行ったことがあった。たまたま三輪休雪のところで焼きものを見ていたのだが、選んだ食器を「箱書きはいらないから」という客がいるというので不思議に思ったのか、奥にいた休雪が出てきて話しているうちに、古いものを見せて貰うことになった。結局、休雪のものは買わず、古いものだけ買って帰ったという話である。
広島滞在中、青山は岩田の三瀧旅館に泊り、夜はもっぱら「梟」という飲み屋に通った。…」

 割烹旅館ですから料理は結構なものが出たのではないでしょうか、器も萩まで買いに行っていますからこれ以上のものはないですね。

左上の写真が現在の広島市西区三滝本町2丁目の三瀧寺門前の観音山荘跡です。


青山二郎の広島地図 -1-(昭和50年代の立町附近住宅地図)


青山二郎の広島地図 -2-(現在)


青山二郎年表
和 暦 西暦 年  表 年齢 青山二郎の足跡
明治34年 1901 幸徳秋水ら社会民主党結成 0 6月1日 麻布区新広尾町一丁目二四番地 青山八郎右衞門、きんの次男として誕生
明治42年 1909 伊藤博文ハルビン駅で暗殺さる 8 4月 飯倉小学校に入学
大正3年 1914 第一次世界大戦始まる 13 4月 麻布中学校に入学
大正8年 1919 松井須磨子自殺 18 4月 日本大学法学科に入学
大正15年 1926 蒋介石北伐を開始
NHK設立
25 11月 野村八重と結婚、一之橋の借家に住む
12月 富永太郎死去去
昭和2年 1927 金融恐慌
芥川龍之介自殺
地下鉄開通

26 11月 妻 八重 肺結核のため死去
昭和5年 1930 世界大恐慌 29 11月 武原はん(本名 武原幸子)と結婚
昭和6年 1931 伊藤博文ハルビン駅で暗殺さる 30 12月 ウインゾア開店
昭和7年 1932 満州国建国
5.15事件
31 7月 エスパノール開店
9月 赤坂台町に転居
昭和8年 1933 ナチス政権誕生
国際連盟脱退
32 2月 ウインゾア潰れる
8月 母死去
9月 新宿の花園アパートに転居
昭和9年 1934 丹那トンネル開通 33 11月 武原はんと正式離婚
昭和17年 1942 ガダルカナル島撤退 41 秋 伊東町玖須美(くすみ)竹町竹の台に転居
昭和19年 1944 マリアナ海戦敗北
東条内閣総辞職
レイテ沖海戦
神風特攻隊出撃
43 10月 服部愛子を入籍
昭和23年 1948 太宰治自殺 47 9月 服部愛子と正式離婚
昭和24年 1949 湯川秀樹ノーベル物理学賞受賞 48 12月 品川区五反田五丁目六〇番地の高貴荘に転居
昭和26年 1951 サンフランシスコ講和条約 50 4月 父死去
5月 新広尾町一丁目一二三番地に転居
昭和28年 1953 朝鮮戦争休戦協定   11月 兄死去
昭和33年 1958 若乃花が横綱昇進
売春防止法が施行
長嶋茂雄が新人王
57 4月 坂本睦子自殺
昭和35年 1960 三池闘争
新安保条約が成立
自民党が、高度成長・所得倍増
浅沼稲次郎社会党委員長刺される
59 5月 和子入籍
新広尾町一丁目一三〇番地に転居
昭和36年 1961 加山雄三の若大将
ベルリンの壁
60 11月 名古屋で開催の加藤唐九郎個展に出向く
冬 広島に滞在
昭和38年 1963 黒澤明監督の「天国と地獄」
こんにちは赤ちゃん
62 7月 霞町マンションに転居
昭和39年 1964 東海道新幹線開業
東京オリンピック開催
63 9月 渋谷区神宮前2-33-2 ビラ・ビアンカに転居
昭和45年 1970 日本万国博覧会
よど号ハイジャック事件
三島由紀夫自殺
69 伊東市川奈の別荘が完成
昭和50年 1975 山陽新幹線が博多まで開通
サイゴン陥落
74 伊東市川奈の別荘を売る
昭和54年 1979 5月 村上春樹群像新人文学賞を受賞 77 3月27日 自宅で死去