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五反田 高貴荘>
青山二郎は昭和24年東京に戻ります。大岡昇平も戻っていましたので、やっと戻ってきたというところです。
宇野千代の「青山二郎の話」から引用します。
「…河村さんの好意で、と一言うのは、一と頃、河村さんが睦ちゃんの世話のようなことをしていたときがあったので、そのことを言うのであろう。
……今度は河村さんが東京へ出て来たとき、五反田に行くと、睦ちゃんがいないでしょう。仕方がないから、ご飯を炊かずに暮してたんですって。不精な奴だなア、河村は、つてじいちゃんが言うと、河村さんが怒ったんですって。でも、そんな風では困るので、じいちゃんも東京へ出て来ると言うことになって、先生のそのおハガキにもあるように、とにかく、睦ちゃんを頼って、と言うのか、一先ず、五反田のアパートに空いてる部屋があるからって言うんで、転がり込んだんですよ。」…」。
上記に書かれている河村さんは、本名ではありません。河村=河上徹太郎です。睦ちゃん=坂本睦子で、いろいろ関係があったため、本名を使わなかったのだとおもいます。坂本睦子は伊東の青山二郎宅を訪ねていたのですね。坂本睦子については「坂本睦子を歩く」を参照してください。
本人の「目の引越」にも書かれていました。
「…酒場のマダムは成金ですが、品川区の或る山の上のアパートに住んでゐました。逆に説明すれば、男嫌ひといふ事になります。一つ置いた隣りの部屋に小磯松子といふ昔から知ってゐる女がゐて、即席下手物料理の甘い事! その為に怖くて、他の人中へ出て行く事が出来ない。その二つ置いた先きに、もう一つマダムの部屋があって、女中が寝てゐました。其処へ荷造りした儀の荷物をぎっしり積み重ねました。…」
上記の”酒場のマダム”とは若松みさ子のことで、後に、二の橋土地の件で、青山二郎ともめます。”小磯松子”は坂本睦子のことですね。何方も銀座のバー”ブーケ”の仲間です。
★写真の左側崖の上に青山二郎が住んだアパートがありました。
再び、宇野千代の「青山二郎の話」からです。
「…高貴荘と言ったその五反田のアパートは、反り立った崖の上にあって、凡そ高貴ではないが、焼け出された人々が、あっちこっちから寄り集って住むのには格好のところであった。…」。
アパートの名前が”高貴荘”と分かりましたので、住所を調べたところ”品川区五反田5−60”で戦前からあるアパートでした。ただ、この番地は広く、場所を特定することが困難でした。しかし空襲でこの番地の半分が焼けていたり、”崖の上”とありましたので、後の”近江絹糸紡績 池田山寮”ではないかと推定しています。