▲トップページ 著作権とリンクについて メール 最終更新日: 2018年06月07日
●青山二郎の伊東・東京を歩く -3-
    初版2009年1月17日 <V01L01>

 「青山二郎の世界」の 第三回を掲載します。「小林秀雄と青山二郎の遊び場」は、芝浦から新橋、浅草、文圃堂まで歩きましたので、「青山二郎の世界」に戻ります。今回は疎開した伊東から麻布区新広尾町に戻るまでを掲載してみました。


「伊東駅」
伊東駅>
 伊豆を訪ねるには伊東駅は必ず利用する駅ですが、出来たのは比較的新しく、昭和13年(1938)12月です。殆ど昭和14年です。当時の国鉄網代線(現 伊東線)が伊東まで延長して、伊東駅が完成しています。伊東駅から先が伊豆急になるわけですが、伊東から下田まで開通したのが昭和36年になります。宇野千代の「青山二郎の話」からです。
「…青山さんはあの頃、伊東の家に住んでいた。青山さんは伊東が好きで、伊東でも、いろいろのところへ越して行っていたが、その最初の頃の家であった。…」
 青山二郎が伊東に疎開したのは、昭和17年頃で、正確な日時は分かりませんでした。戦争が始まったのが昭和16年12月ですから、直ぐに疎開したことになります。昭和17年頃に疎開した人は殆どいなかったでしょうから、疎開場所も含めて、先見の明があったとおもいます。
「…疎開したまま七年間、ずっと私は伊東で暮らしていました。…」

と本人は「目の引越」で書いています。
 河上徹太郎や小林秀雄、熱海に疎開していた宇野千代等が大挙して伊東の青山家を訪ねていたようです。当時の奥様は服部愛子で、花園からの付き合いで、伊東では彼女は有名だったようです。

写真は現在のJR東日本伊東駅です。建物は古そうで、当時のままかもしれません。

「伊東市竹の台」
伊東町玖須美元竹之内>
 青山二郎の伊東での住居で、住所が書かれているものは宇野千代との書簡と文藝年鑑のみで”伊東町玖須美元竹之内”でした。上記に宇野千代が書いたように、青山二郎は伊東で何回か転居しているようで、伊東図書館で調べましたが、よく分かりませんでした。
 森孝一編集の「青山二郎の素顔」で、徳田秀一の「温泉泥棒」からです。
「…戦争直後のころ、先生は伊東にお住いであったが、雑誌の創刊号の装幀のことで、しばしば伊東の竹の台というところにおうかがいしたことを覚えている。
 先生の家は二階とも三階ともつかぬ小さな家で、ちょうど坂を登ったところに建っていた。一番、上の部屋からは伊東の海が真向いに見渡せた。
……ある夏のことである。例の如く伊東の家を訪れると、いつも満々とあふれている坂下の温泉の湯がからからになっている。わたしは不思議に思って、「先生、温泉どうしました」とたずねると、
「うん、盗まれた」と笑っている。
「盗まれたって言うの、どういうことですか」
と言うと、温泉泥棒のいきさつを話してくれた。
 ここの温泉は高台にあるので、石段の脇のところからモーターで汲み上げていたのだが、先日、馬力を引いた男が、そのモーターを持っていってしまったというのだ。
「おい銭湯に行こう」
 先生はタオルを持って立上った。石段を降り、海を左にみて反対の道を行く。途中痩せた上山草人さんが瓢々として前方からやって来た。
「やあ、どこへ」
「風呂を盗まれちゃったんで、そこの銭湯へ」
 銭湯はこじんまりした、特別に綺麗でもないが、さっぱりした感じの良い温泉であった。…」

 これからは、階段を登った丘の上に青山二郎の家があることが分かります。その上で、昭和18年の文藝年鑑にヒントがありました。その年の文藝年鑑に”伊東町玖須美元竹之内竹の台長尾邸上”と書かれていました。長尾邸(現在は無い)が分かりましたので、昭和18年以降の青山二郎宅が分かりました。”石段の脇のモーターも”階段下右側にあったとおもわれます。

写真は現在の伊東市竹の台です。写真左側が長尾邸跡ですので、階段を上った左側が青山二郎宅跡となります。隣の二軒を借りていたとありますが、階段の上左側に二軒家がありました(一軒は家族用で最後の頃は父親も住んでいた)。階段上からの伊東市内の風景を掲載しておきます。


伊東市地図


青山二郎年表
和 暦 西暦 年  表 年齢 青山二郎の足跡
明治34年 1901 幸徳秋水ら社会民主党結成 0 6月1日 麻布区新広尾町一丁目二四番地 青山八郎右衞門、きんの次男として誕生
明治42年 1909 伊藤博文ハルビン駅で暗殺さる 8 4月 飯倉小学校に入学
大正3年 1914 第一次世界大戦始まる 13 4月 麻布中学校に入学
大正8年 1919 松井須磨子自殺 18 4月 日本大学法学科に入学
大正15年 1926 蒋介石北伐を開始
NHK設立
25 11月 野村八重と結婚、一之橋の借家に住む
12月 富永太郎死去去
昭和2年 1927 金融恐慌
芥川龍之介自殺
地下鉄開通

26 11月 妻 八重 肺結核のため死去
昭和5年 1930 世界大恐慌 29 11月 武原はん(本名 武原幸子)と結婚
昭和6年 1931 伊藤博文ハルビン駅で暗殺さる 30 12月 ウインゾア開店
昭和7年 1932 満州国建国
5.15事件
31 7月 エスパノール開店
9月 赤坂台町に転居
昭和8年 1933 ナチス政権誕生
国際連盟脱退
32 2月 ウインゾア潰れる
8月 母死去
9月 新宿の花園アパートに転居
昭和9年 1934 丹那トンネル開通 33 11月 武原はんと正式離婚
昭和17年 1942 ガダルカナル島撤退 41 秋 伊東町玖須美(くすみ)竹町竹の台に転居
昭和19年 1944 マリアナ海戦敗北
東条内閣総辞職
レイテ沖海戦
神風特攻隊出撃
43 10月 服部愛子を入籍
昭和23年 1948 太宰治自殺 47 9月 服部愛子と正式離婚
昭和24年 1949 湯川秀樹ノーベル物理学賞受賞 48 12月 品川区五反田五丁目六〇番地の高貴荘に転居
昭和26年 1951 サンフランシスコ講和条約 50 4月 父死去
5月 新広尾町一丁目一二三番地に転居
昭和28年 1953 朝鮮戦争休戦協定   11月 兄死去
昭和33年 1958 若乃花が横綱昇進
売春防止法が施行
長嶋茂雄が新人王
57 4月 坂本睦子自殺
昭和35年 1960 三池闘争
新安保条約が成立
自民党が、高度成長・所得倍増
浅沼稲次郎社会党委員長刺される
59 5月 和子入籍
新広尾町一丁目一三〇番地に転居
昭和38年 1963 黒澤明監督の「天国と地獄」
こんにちは赤ちゃん
62 7月 霞町マンションに転居



「五反田 高貴荘跡付近」
五反田 高貴荘>
 青山二郎は昭和24年東京に戻ります。大岡昇平も戻っていましたので、やっと戻ってきたというところです。
 宇野千代の「青山二郎の話」から引用します。
「…河村さんの好意で、と一言うのは、一と頃、河村さんが睦ちゃんの世話のようなことをしていたときがあったので、そのことを言うのであろう。
……今度は河村さんが東京へ出て来たとき、五反田に行くと、睦ちゃんがいないでしょう。仕方がないから、ご飯を炊かずに暮してたんですって。不精な奴だなア、河村は、つてじいちゃんが言うと、河村さんが怒ったんですって。でも、そんな風では困るので、じいちゃんも東京へ出て来ると言うことになって、先生のそのおハガキにもあるように、とにかく、睦ちゃんを頼って、と言うのか、一先ず、五反田のアパートに空いてる部屋があるからって言うんで、転がり込んだんですよ。」…」

 上記に書かれている河村さんは、本名ではありません。河村=河上徹太郎です。睦ちゃん=坂本睦子で、いろいろ関係があったため、本名を使わなかったのだとおもいます。坂本睦子は伊東の青山二郎宅を訪ねていたのですね。坂本睦子については「坂本睦子を歩く」を参照してください。

本人の「目の引越」にも書かれていました。
「…酒場のマダムは成金ですが、品川区の或る山の上のアパートに住んでゐました。逆に説明すれば、男嫌ひといふ事になります。一つ置いた隣りの部屋に小磯松子といふ昔から知ってゐる女がゐて、即席下手物料理の甘い事! その為に怖くて、他の人中へ出て行く事が出来ない。その二つ置いた先きに、もう一つマダムの部屋があって、女中が寝てゐました。其処へ荷造りした儀の荷物をぎっしり積み重ねました。…」
 上記の”酒場のマダム”とは若松みさ子のことで、後に、二の橋土地の件で、青山二郎ともめます。”小磯松子”は坂本睦子のことですね。何方も銀座のバー”ブーケ”の仲間です。

写真の左側崖の上に青山二郎が住んだアパートがありました。
 再び、宇野千代の「青山二郎の話」からです。
「…高貴荘と言ったその五反田のアパートは、反り立った崖の上にあって、凡そ高貴ではないが、焼け出された人々が、あっちこっちから寄り集って住むのには格好のところであった。…」。
 アパートの名前が”高貴荘”と分かりましたので、住所を調べたところ”品川区五反田5−60”で戦前からあるアパートでした。ただ、この番地は広く、場所を特定することが困難でした。しかし空襲でこの番地の半分が焼けていたり、”崖の上”とありましたので、後の”近江絹糸紡績 池田山寮”ではないかと推定しています。

「新広尾町一丁目一二三番地」
新広尾町一丁目一二三番地>
 昭和24年頃から、青山二郎の住所が不定になります。多分、一カ所に長く留まらなかったのでしょう。
「…或るときみさちゃんに向って、その頃はまだ八郎衛門の名義であった二ノ橋の土地の上に、家を建てても好い、と言うようなことを言ったと言う。しかし、その替りに、隣接した土地に離れを建て、そこに青山さんと八郎衛門が住んで、二人の世話をみさちゃんが見る、と言うような話であったと言う。
……みさちゃんは、まず、自分のために、門のある本宅を建てた。やがて、土建業を営んでいる姉夫婦の家を、その出口に建て、妹たちまで呼んだりした。青山さんもそのとき離れに小さな二階家を建てたのであった。…」

 父親が亡くなる前の話です。みさちゃんとは上記にも書きましたが、若松みさ子のことで、青山家と深く関わっていきます。

左上の写真は桜田通りと古川の間、小山橋付近を撮影したものです。文藝年鑑を見ますと、昭和30年(1955)版になると、伊東の住所から新広尾町一丁目123番地に変わっています。元々の住所は124番地ですので、小山橋付近の地番です。父親が昭和26年4月に亡くなった為、五反田の高貴荘から、一度123番地に転居したのではないかとおもいます(本人が提出した住所とおもわれます)。青山二郎文集の年譜では”昭和26年に二の橋に転居”と書かれています。

「広尾町一丁目一三○番地」
新広尾町一丁目一三〇番地>
 問題の二の橋の地番です。首都高速目黒線(2号線)が開通したのは昭和42年(1967)9月ですので、工事が始まったのは昭和40年前後だとおもいます。この辺りの事情は宇野千代の「青山二郎の話」が一番詳しいとおもいます。
「…一旦は家を建てても好い、と言って貸した土地であったが、前述したような錯雑した事情があって、その土地は父八郎衛門の死後、青山さんと兄の民吉との間で、長い間の係争の末、青山さんの所有になった土地であった。そこに、みさちゃんその他が家を建てたりしてから、十四五年もの歳月が過ぎた或るとき、思いもかけないことであるが、その土地の上に高速道路が通ると言うことになって、みさちゃんの家も、姉夫婦の家も青山さんたちも、どこかへ越さなければならないことになった。大人しくみさちゃんが引越す筈がない。
 青山さんとみさちゃんとの間でいざこざが起きたのは勿論であるが、そのみさちゃんの相手が青山さん、と言うよりは、道路公団に移ったので、それほどながい間ではなく、二年くらいで解決がついたのである。…」

 昭和34年の住宅地図では、二の橋北東側に若松と青山の名前を見ることが出来ます。まだ首都高速目黒線が出来ていませんから、引っ越す前だとおもいます。当然、若松=若松みさ子であり、青山=青山二郎です。又、一の橋電停前の土地を昭和34年の住宅地図で見ると、不動産屋や美容院がありますので、土地を売ったか、貸しているとおもわれます。

写真の正面、白いビルの所が広尾町一丁目一三〇番地です。首都高速目黒線が出来ても青山二郎は二の橋に土地を持っていたようです。近くの方に聴きましたら、青山二郎の土地だったと言われていました。


青山二郎の東京地図 -2-


青山二郎の麻布周辺全図


 ▲トップページ ページ先頭 著作権とリンクについて メール