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●青山二郎の東京を歩く -1-
    初版2008年12月6日 <V01L01>

 「小林秀雄の世界」に続いて、「青山二郎の世界」の掲載を始めます。大岡昇平、小林秀雄、青山二郎で青山学院三部作となります。この三人の関係についてはなかなか奥が深くて、直ぐには書けませんので、順次掲載していきます。今週の「青山二郎の東京を歩く」は、生誕から日本大学法学科入学までです。


「一の橋交差点付近」
麻布新広尾町一丁目>
 青山二郎については、余り書いた本がありませんでした。最近は白洲正子さんが書いておられますが、若いころのお話は書いておられません。唯一、宇野千代が「青山二郎の話」として、面白く書いていましたので、参考にしながら”青山二郎生誕の地”、麻布界隈を歩いてみました。
「…青山さんは明治三十四年の六月一日に、麻布新広尾町一丁目二十四番地に生まれた。…… 五つ違いの兄の民吉と、ただ二人の兄弟である。青山さんの生れた家は大地主で、いまの青山から麻布にかけた二倍の土地を持っていた。それで、青山と言う苗字なのだ、と人が言うのを聞いたことがある。正確な話かどうか分らないが、それくらいに広い範囲の土地を持っていた…」
 青山家は麻布周辺では相当の”財産家”だったようです。古川の改修で、この付近の土地を手に入れたのが発端でした。青山二郎のお祖父さんがえらかった!

左上の写真は麻布十番、一の橋交差点から南側を撮影したものです。市電の一の橋停留所前に実家がありましたので、写真に写っている横断歩道を左側に渡った辺りです。写真に写っているビルの辺りは全て青山家の土地だったのではないでしょうか。

「麻布十番四丁目付近」
青山家の家作(貸し家)>
 青山二郎が二度目の結婚の時に住んでいたしたのが、一の橋の古川傍でした。永井龍男の「酒徒交傳」の中に少し書かれていましたので、参考にしました。
「…ジロさんは、一の橋の表通りの親父の家から、すぐ裏手に当る川っぶちの長屋へ引越した。これも親父の家作で、二階一間に階下二間の古い長屋が、川岸の石垣すれすれに五六軒並んでいた。
 その一軒へ結婚勿々の所帯を移したジロさんが、隣りも空いているから、なんなら越して来いと云って呉れた。
……親父は
講談倶楽部(当時の娯楽雑誌)の長者番附に出るくらいの土地持ちで、(オットセイ丸という怪しげな薬をつかまされた人がいれば、それは青山のオヤジが売っていたものである。)…」
 ”ジロさん”とは青山二郎のことです。オットセイ丸は、なにか、聞いたことがあります。あっちの方の薬ですね。

写真は首都高速目黒線です。右側が古川です。この付近に青山家の家作が建っていたようです。この付近の町名は、現在は麻布十番四丁目になっていますが、古くは新広尾町一丁目と言われていました。広尾町からは遠いのですが、明治時代の古川の改修で、川沿いに新しい土地ができ、その土地が全て新広尾町となったようです。


青山二郎年表
和 暦 西暦 年  表 年齢 青山二郎の足跡
明治34年 1901 幸徳秋水ら社会民主党結成 0 6月1日 麻布区新広尾町一丁目24番地 青山八郎右衞門、きんの次男として誕生
明治42年 1909 伊藤博文ハルビン駅で暗殺さる 8 4月 飯倉小学校に入学
大正3年 1914 第一次世界大戦始まる 13 4月 麻布中学校に入学
大正8年 1919 松井須磨子自殺 18 4月 日本大学法学科に入学
大正15年 1926 蒋介石北伐を開始
NHK設立
25 11月 野村八重と結婚、一之橋の借家に住む
12月 富永太郎死去
昭和2年 1927 金融恐慌
芥川龍之介自殺
地下鉄開通

26 11月 妻 八重 肺結核のため死去
昭和5年 1930 世界大恐慌 29 11月 武原はん(本名 武原幸子)と結婚
昭和6年 1931 伊藤博文ハルビン駅で暗殺さる 30 12月 ウインゾア開店
昭和7年 1932 満州国建国
5.15事件
31 7月 エスパノール開店
9月 赤坂台町に転居
昭和8年 1933 ナチス政権誕生
国際連盟脱退
32 2月 ウインゾア潰れる
8月 母死去
9月 新宿の花園アパートに転居
昭和9年 1934 丹那トンネル開通 33 11月 武原はんと正式離婚



「飯倉小学校跡」
飯倉小学校>
 青山二郎が通った小学校が飯倉小学校です。港区が小学校の統廃合を行ったため、現在は廃校になっていました。学校の建物自体は残っています。良い場所にありますので、土地転がしの絶好の対象です。
「…青山さんと同年であるとすると、今年七十五歳の筈であるが、眼の前にいる遠藤さんは、六十をちょっと過ぎたくらいの、元気溌潮の人である。
「じいちゃんの家には、毎日のように遊びに行きました。二郎さんはじいちゃん、一郎の私はいっちゃん、そう呼び合っていたのです。じいちゃんの家へ遊びに行くと、いつ行っても、お母さんが、西洋菓子を盆の上に乗せて、持って来てくれたものです。」と、遠藤さんは話し出す。麻布の飯倉には、その頃でも、文明堂と言う菓子屋があって、カステラを売っていた。しかし、西洋菓子は銀座まで行かないと、売ってはいなかった。その西洋菓子が青山家では毎日ある、と言うことは、子供の頃の遠藤さんには、とても吃驚することであった。…」

 青山家のことを誰が書いても、”どんなにお金持ちであったか”のお話ばかりです。当時としては、相当のお金持ちだったのでしょう。

左上の写真は飯倉小学校の正門あとです。正面の門を入って坂を登っていくと校舎があります。飯倉交差点から南に数十メートルのところです。都心部では、子供がいなくなって、学校の統廃合が進んでいます。


麻布周辺全図(昭和8年)


「麻布学園」
麻布中学校>
 大正3年4月、青山二郎は飯倉小学校から麻布中学校に進学します。私立の中学校ですから、当時は珍しかったとおもいます。麻布中学校は明治33年に現在地に移ってきていますので、大正3年の入学ですから現在の場所に通っていたわけです。
「…小学校の時分には、級中で一二と言う成績であったのに、中学へ行くようになってから、まるで出来が悪くなった。学校へ行きたくない、行きたくない、と泣いて言うようになった。お母さんはそう言う青山さんに、「よし、よし、そんなに行きたくないんなら、行かなくても好いんだよ。」と言ったとのことであるが、もうそのときは中学の二年生にもなった、…」
 どうも、甘やかされて育てられています。お金は山のようにあるわけですから、しかたがありませんね!

左上の写真は現在の麻布学園です。中学校と高等学校があります。場所は下記の地図を参照してください。韓国大使館がある仙台坂を登り切った愛育病院の前にあります。

「日本大学法学部」
日本大学法学科>
 親としては大学までは進学させたかったのではないでしょうか。小林秀雄が、「われわれは秀才だが、青山二郎は天才だ!」、と言っていますので、頭は相当キレたのでしょうが、学校には合わなかったでしょう。当時の東京帝国大学までいけば、もう少しキレる連中もいたとおもいます。
「…青山さんとどんなに親しい友だちであっても、青山さんは一体、中学を卒業したのか、しないのか、はっきりと知っているものはいない。いや、中学は卒業している。後年、日本大学へ行っていたことがある、と人が話していたと言うことであるが、この学歴のはっきりとはしていないことも、青山さんを語る一つの材料である、と私には思われる。…」
 まあ、親のメンツもあったでしょう。青山二郎本人はきにもしていなかったとおもいますが、なんとしても学歴が欲しかったとおもいます。

写真が現在の日本大学法学部です。水道橋駅近くの三崎町二丁目です。当時と場所が変わっていないとおもいます。


青山二郎の麻布周辺全図


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