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最終更新日:2018年06月07日

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●坂口安吾の伊東を歩く
  初版2002年9月14日
  二版2008年7月6日 古屋旅館跡の写真を修正  
<V01L02>
  今週は「坂口安吾の伊東」を歩いてみたいとおもいます。前週の京都・取手は昭和11年から15年でしたが、今週は、昭和16年から昭和23年頃の戦中、戦後を飛ばして、昭和25年から26年頃の伊東を巡ってみたいとおもいます。この当時の伊東市は戦災にもあわず、疎開してきた別荘組の人たちが多く住んでいたようです。当時、伊東に疎開していた東条英機の娘、東条湯布子さんの「祖父東条英機 一切語るなかれ」のなかで、坂口安吾がでてきます。「同じ隣組には小説家の坂口安吾さんが若い婦人と住んでいたし、窓から見える川向こうには若槻礼次郎元首相の豪壮な屋敷が見えた。浪曲家の鈴木米若さんの豪邸も近くにあった。……「人生劇場」を書かれた尾崎士郎先生の自宅も我が家から歩いて数分のところにあった。我が家は松川に面していたが、先生のお宅は、松川の上流に沿ってもう少し歩き、赤淵と呼ばれる釣り橋のたもとをちょっと入ったところにあった。」、と書いています。疎開組のなかでは行き来があったようです。若槻礼次郎元首相の豪邸は現在の伊東わかつき別邸(旧ひまわり苑)です。東条一家が住まわれていた三浦家の別荘(去来荘)は、松川(現在は伊東大川)を挟んで「伊東わかつき別邸」の丁度、真向かいになります。また、鈴木米若さんの豪邸は現在はよねわか荘になっています。

ango-ito19w.jpg<伊東競輪場>
 伊東市に競輪場ができたのが昭和25年9月です。昭和24年に伊東市に移り住んでいた安吾はすぐに伊東競輪場に通うようになり、有名な伊東競輪事件をおこします。当時のことを安吾の婦人、坂口三千代さんの「クラクラ日記」では「伊東に競輪場が出来てから、坂口の散歩の半分は競輪場行きに変わり、そしてしまいには競輪事件を起こすぼどに熱心に通った……仕事のために編集者がガンバっていて、出られないとなると私を代理に競輪場にさしむけた。……私は彼がさんざん調べ抜いたメモとお金を預って出かけて行く。……坂口がコクメイに調べあげたデーターとカンにもとづく予想は、的確に当たる場合が多くなって、払いもどしの窓口に私が並ぶことも多くなった。予想屋が予想を私に聞いたりした。」、安吾が興味を持ったもの(今回は競輪)に集中する度合いはものすごいですね。

左上の写真が現在の伊東競輪場です。ご多分に洩れず、赤字の競輪場のようで廃止論がでているようです。安吾が引き起こした伊東競輪事件とは、坂口三千代さんの「クラクラ日記」を借りると「私たちが見たのは、福田蘭童氏と坂口と私の三人であったが、一、二車が、写真判定でスリ替えられる、という事件で、写真に手を加えて、着順を変えたと、思われた。」という事件で、坂口安吾は写真判定を不服として沼津地裁に訴えます。結局は判定は覆らず、伊東をでて、東京に戻らざるを得なくなります。

坂口安吾の伊東年表

和  暦

西暦

年    表

年齢

坂口安吾の伊東を歩く

作  品

昭和24年
1949
湯川秀樹ノーベル物理学賞受賞
44
8月 古屋旅館滞在
9月 秦邸に移る、芥川賞選考委員になる
10月 伊東市久治町石原別荘に転居
12月 伊東市岡区広野1-1601に転居
わが精神の周囲
昭和25年
1950
朝鮮戦争
45
9月 伊東競輪開設 肝臓先生
昭和26年
1951
サンフランシスコ講和条約
46
5月 伊東税務署から差し押さえを受ける
9月 伊東競輪事件、東京に戻って大井広介邸、続いて檀一雄邸に移る
安吾新日本地理、負ケラレマセン勝ツマデハ

ango-ito12w.jpg<古屋旅館跡> 2008年7月6日 古屋旅館跡の写真を修正
 昭和24年になると安吾はアドルム(睡眠薬)の乱用で精神状態が極度に悪化していきます。そのため蒲田の南雲先生の提案で伊東に静養に行くことになります。坂口三千代さんの「クラクラ日記」では「南雲先生の提案で、伊東へ気晴らしにでも行ってみましょうということで、伊東へみんなで遊びに行くことに話がきまった。これは確かに名案であった。現状のままここにいることがよくないので、気分転換をすることは効果のあることに違いなかった。早速、私たちは伊東へ発った。長畑先生、南雲先生、高橋青年、私。…伊東では古屋旅館にひとまず落着いた。私たちは再び東京へは帰らなかった。つまり伊東へ住みつく結果になった。」とあります。安吾自信も「我が精神の周囲」で「伊豆の伊東へきて、もう九日になった。ちょうど一週間目に体重をはかったら、私は伊 東へきて四キロふとり、六十七と八を上下する体重になっているのである。ここへ着いた翌日は六十四キロであった。六十七・五キロといえば、ちょうど十八貫、私の生涯でこれほどふとったことはない。」と書いています。伊東の温かい気候が安吾の健康にそうとう寄与したみたいです。しかし安吾はこの古屋旅館の食事に辟易し、一カ月ほどしか滞在せず、秦邸に移ります(秦邸は現存せず、現在は駐車場になっていました)。

左上の写真左側に少し写っているのは伊東大和館です。その右側の小川から先、左側に古屋旅館がありました。昭和20年代後半には古屋旅館は無くなっていたようです。この古屋旅館は南雲先生の親戚の旅館で、南雲先生の二人の息子さんが避暑にきていました。

ango-ito14w.jpg<尾崎士郎記念碑>
 伊東には既に尾崎士郎が住んでいました。「古屋旅館には一カ月余りいた。最初に当時伊東の松川の上流に住んでいられた、尾崎士郎氏を全員で訪ねた。多人数で何のまえぶれもなくお訪ねしたのだから、驚かれたであろうが、坂口は尾崎先生と一緒に野天風呂に入りにいった。尾崎先生も坂口も褌一つで田んぼ道をあるいていた。」と坂口三千代さんは書いています。

右の写真は伊東市広野の交差点脇にある尾崎士郎文学碑です。この碑には「小説人生劇場の作者尾崎士郎先生は、昭和20年前後の数年間、当碑前方三十mの井田邸内の離れに住まわれた。…」とあります。

ango-ito22w.jpg<肝臓先生>
 安吾の「肝臓先生」を読むと「これは笑えない悲劇である。しかし赤城風雨先生の生涯が全部笑えない悲劇であった。悲痛でもあるし、滑稽でもある肝臓先生、イヤ、それは患者の云う、町一般では、肝臓先生、これが赤城先生のあだ名だ。もってて知るべし。」とあります。この肝臓先生にはモデルがあって、そのモデルの佐藤清一先生が伊東市に天城診療所を開業したのは昭和3年です。この佐藤先生を皆が肝臓先生と呼び、親しくしていた坂口安吾が「肝臓先生」として小説を書いたわけです。

左の写真が現在の天城診療所です。なかには肝臓先生記念館があり、尾崎士郎、坂口安吾、谷崎潤一郎などとの記念品があります。

ango-ito15w.jpg<川っぶちの黒い小さな家跡>
 安吾が伊東市で最後に住んだのが音無川の川っぷちの黒い小さな家です。「クラクラ日記」では「彼に提案して、今度は一戸建ちの家にひっ越しをすることに決めた。松川の上流は同じ川なのだが音無川といって、その川っぶちに小さな四間ほどの家を見つけた。……もう一つ私の家の欠点は、玄関のまえに、四、五段のコンクリートの階段があることだった。都会では思い掛けないことだが、地方で暮すと買物はどうしても繁華な街まで出向かなければならないのと、この家に移ってから犬を飼い始めたのが理由で、一日最低三回ぐらいは自転車に乗らなければならなかった。自転車の出し入れに、この階段はひどく邪魔で、自転車を抱えてこの階段を上がったり降りたりが非力の私には出来なかった。」と書いています。安吾も昭和26年5月の別冊文聾春秋のなかで、この家のことを書いています。「大旅館と別荘でもつ町の中で、小さくてみすばらしいから目立った。ちょっとした小イキな別荘ぐらいでは、どの山、どの川沿いを見渡してもザラであるから、目立たないが、私のうちは目立つね。駅から自動車で帰ると、運転手はたいがい隣りの立派な別荘の前で車をとめる。『もう一軒向うだよ』と云わなければならないのである。」、そうとう品粗な家だったようです。  

右の写真の当りが坂口安吾が住んでいた「川っぷちの黒い小さな家」があったところです。現在は坂口三千代さんが昇り降りに苦労した階段が無くなっていますが、隣のアパートには、昔のままの階段がありました。


坂口安吾 伊東地図
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【参考文献】
・評伝 坂口安吾 魂の事件簿:七北数人、集英社
・坂口安吾の旅:若月忠信、春秋社
・定本 坂口安吾全集:坂口安吾、冬樹社
・太宰と安吾:檀一雄、沖積舎
・クラクラ日記:坂口三千代、筑摩書房
・追憶 坂口安吾:坂口三千代、筑摩書房
・新日本文学アルバム(坂口安吾):新潮社
・本格評伝坂口安吾:奥の健男、文藝春秋
・白痴:坂口安吾、新潮文庫
・堕落論:坂口安吾、新潮文庫
・肝臓先生:坂口安吾、角川文庫
・風と光と二十の私と:坂口安吾、講談社文藝文庫
・文人悪食:嵐山光三郎、新潮文庫
・酒場:常磐新平、作品社
・昭和文学盛衰史(上)(下):高見順、福武書店
・新潮2002年9月号:新潮社
 
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