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最終更新日:2006年3月26日

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●坂口安吾の京都を歩く 初版02/9/7 二版04/1/11 伏見稲荷町写真追加 V01L01
  今週は、再び「坂口安吾」に戻って、京都、取手と歩いてみたいとおもいます。彼の奔放さについては友人のe ;檀一雄が「太宰と安吾」のなかで、「彼と会っていると、その自在な活眼によって取捨按配される話の愉快さと放胆さに頤をはずし、誰でも彼と同等の自由人になったような錯覚を、やすやすと与えられたものだ。しかし、その寛濶な魂は、また時によると、たちまち、暗欝で、閉鎖的で、横暴で、独断的で、残忍な時化模様に転移する。この素早い変貌こそ、安吾の文芸の振幅をささえた根源の力であるだろう。」と書いています。現代なら、どんなに奔放さがあっても、横暴さや残忍さがあると認められないのではないかとおもいます。昭和初期から前後までの混乱した時代が、彼を求め、全てを許してしまっているのでしょう。

<伏見稲荷大社>
 安吾は”お安さん”や”矢田津世子との別れ”に疲れ、京都に向かいます。「京都に住もうと思ったのは、京都という町に特に意味があるためではなかった。東京にいることが、ただ、やりきれなくなったのだ。」と安吾は「古都」に書いています。尾崎士郎夫妻に両国橋近くの猪屋で送別会を開いてもらい、京都に向かいます。京都では当初、嵯峨にある友人の隠岐和一の別宅に滞在していましたが、隠岐に京都での下宿先を探してもらいます。隠岐は、京都駅から少し南東にいった伏見に下宿先を見つけます。この伏見には全国の稲荷神社の本山、伏見稲荷大社があります。赤い鳥居が山の上までビッシリ並んでいるので有名な稲荷神社です(昔、資生堂のコマーシャルで使われていたのを覚えています)。稲荷神社のお祭りで有名なのが2月の初午です。これは伏見稲荷大社の神が地上に降りた日がこの日であったとされ、全国の稲荷神社でお祭りをします。

左上の写真は伏見稲荷大社です。坂口安吾の「古都」のなかで伏見稲荷周辺を紹介しています。「伏見稲荷の近辺は、京都でも一番物価の安い所だ。伏見稲荷は稲荷の本家本元だから、ふだんの日でも相当に参詣者はある。京阪電車の稲荷駅から神社までは、参詣者相手の店が立並び、特色のあるものと言えば伏見人形、それに雑肉の料理店が大部分を占めている。ところが、この雑肉が安いのだ。安い筈だ。半ば公然と兎の肉を売っているのだ。この参道の小料理屋では、酒一本が十五銭で、料理もそれに応じている。この辺は、京都のゴミの溜りのようなものであって、新京極辺で働いている酒場の女も、気のきかない女に限って、みんなここに住んでいる。それに、一陽来復を希う人生の落武者が稲荷のまわりにしがない生計を営んでオミクジばかり睨んでいるし、せまい参道に人の流れの絶え間がなくとも、流れの景気に浮かされている一人の人間もいないのだ。」、なかなかおもしろい所です。現在もお土産屋などに当時の面影がありますね。

坂口安吾の京都年表

和  暦

西暦

年    表

年齢

坂口安吾の京都を歩く

作  品

昭和11年
1936
2.26事件
31
2月 尾崎士郎に見送られて京都に赴き、嵯峨にある隠岐和一の別宅に滞在
3月 京都市伏見区稲荷鳥居前22の中尾会計士の二階を借りる
狼園、牧野さんの死
昭和12年
1937
蘆溝橋で日中両軍衝突
32
5月 上田食堂の二階を借りる  
昭和13年
1938
 
22
初夏 東京へ戻る 吹雪物語
昭和14年
1939
ドイツ軍ポーランド進撃
34
5月 出版元の竹村書房の紹介で取手に移る 紫大納言、木々の精・森の精

ango-kyoto11w.jpg<会計士の家の二階> 04/1/11写真追加
 安吾が友人の隠岐に京都での下宿を探してもらったのが、伏見稲荷駅に近い会計士の家の二階でした。安吾の「古都」では「計理士の事務所の二階で、八畳と四畳半で七円なのだ。火薬庫の前だから特に安いのかと思ったら、伏見という所は何でも安い所であった。」とあります。下記の地図を参照してもらうとよく分かりますが、京都府警察学校の所が京都兵器支廠跡で、龍谷大学の所が旧第十六師団跡です。JRでは奈良線の稲荷駅が伏見稲荷大社の参道の斜め前にあります。京阪電車の伏見稲荷駅もすぐ近くです。

左の写真は京都伏見での最初の住まいです(写真中央の家で、建物は当時のままです)。住所は、「京都市伏見区稲荷鳥居前町22-1の中尾という会計士の二階」、で、前回は場所を取り違えて、写真を取り損ないました。今回撮影してきました。

ango-kyoto13w.jpg<上田食堂跡>
 安吾が伏見で会計士の二階の次に住んだのが、京阪電車伏見稲荷駅前の上田食堂の二階です。会計士の先生に探してもらったのですが、まったく凄い所だった様です。「京阪電車の稲荷駅を出た所に、弁当仕出の看板がでている。手の指す方へ露路を這入ると、まず石段を降りるようになり、溝が年中溢れ、陽の目を見ないような暗い家がたてこんでいる。露路は袋小路で、突き当って曲ると、弁当仕出屋と唆味旅館が並び、それが、どんづまりになっている。こんな汚い暗い露路へ客がくることがあるのだろうか。家はいくらか傾いた感じで、壁はくずれ、羽目板ははげて、家の中はまっくらだ。客ばかりではない。人が一人迷いこむことすら有り得ないような所であった。「これはひどすぎる」隠岐は笑った。……そうして、戸をあけて這入ろうとしたが、戸は乱むばかりで開かず、人の気配もなかった。」と書いています。安吾は人生最後の袋小路に入ったようです。現在は上田食堂はありませんが、ご家族の方がお住まいのようで、京阪電車伏見稲荷駅の師団街道側にある角のパチンコ屋から数軒隣の路地(当時と全く同じです)を入った左側です。安吾は吹雪物語を書き続けるために京都に来たのですが、一向に進まず、そのうちに暇に任せて上田食堂の二階で碁会所を始めます。「東京を捨てたとき胸に燃していた僕の光は、もう、なかった。いや、この袋小路の弁当屋へ始めて住むことになった時でも、まだ僕の胸には光るものは燃えていた筈だったのだ。隣りの二階は女給の宿で赤い着物がブラ下り、その下は窓の毀れた物置きで、その一隅に糸くり車のプンブン廻る工場があった。裏手は古物商の裏庭で、ガラクタが積み重り、四六時中拡声器のラジオが鳴りつづけ、夫婦喧嘩の声が絶えない。それでも北側の窓からは、青々と比叡の山々が見えるのだ。だが、僕には、もう、一筋の光も射してこない暗い一室があるだけだった。机の上の原稿用紙に竣がたまり、空虚な身体を運んできて、冷めたい寝床へもぐりこむ。後悔すらなく、ただ、酒をのむと、誰かれの差別もなく、怒りたくなるばかりであった。」、全く安吾はこまったものです。

右の写真の真ん中の建物の所が上田食堂跡です。左側から路地を入ってきます。当時は汚い暗い路地だったようですが、いまは駅に近い住宅街です。


坂口安吾 京都伏見地図
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●坂口安吾の取手を歩く 2002年9月7日 V01L02

※坂口安吾の「京都」と「取手」は、もう少し掲載内容が追加されましたら分離して独立させます。
 

坂口安吾の取手年表

和  暦

西暦

年    表

年齢

坂口安吾の取手を歩く

作  品

昭和14年 1939 ドイツ軍ポーランド進撃 34 5月 出版元の竹村書房の紹介で取手に移る  
昭和15年 1940   35 1月 取手の冬の寒さに耐えかね、三好達治の紹介で小田原に移る 盗まれた手紙の話

ango-toride12w.jpg<旅館 伊勢勘跡>
 昭和13年初夏、安吾は京都から東京に戻ります。昭和14年5月、安吾は作品を書くために、竹村書房が探してくれた東京から少し離れた取手の旅館「伊勢勘」に向かいます。「私ははじめお寺の境内の堂守みたいな六十ぐらいの婆さんが独りで住んでいる家へ間借りする筈であった。伊勢甚のオカミサンがそうきめてくれたのである。ところが私が本屋のオヤジにつれられて伊勢甚へ行くと、「六十の婆サンでも、女は女だから、男女二人だけで一ツ家に住むのは後々が面倒になります。別に探しますから、今夜はウチへ泊って下さい」と言った。このオカミサンは四十四五であったが、旅館へ縁づいて、そこで色々と泊り客の男女関係を見学して、悟りをひらいていたのである。この旅館は主として阪東三十三カ所お大師詣での団体を扱うのであるが、この団体は六十ぐらいの婆サンが主で、導師につれられて、旅館で酒宴をひらいてランチキ騒ぎをやるのである。……建物によることでもあるが、あの団体のドンチャン騒ぎというものは、中学生の団体旅行などの比ではない。本当のバカ騒ぎでありアゲクが色々なこととなる。伊勢甚のオカミサンが六十の婆サンを警戒したのは、営業上の悟りからきたところで、私の品性を疑ったワケではなかったらしい。けれども、いきなりこう言われると、人間はひがむものである。」とあります。昔の六十の婆さんたちの”ドンチャン騒ぎ”とは、どんなものだったのでしょう。”色々なこと”って、あ〜こわいこわい……。

左の写真の道は太師通りで、左側の三階建ての立体駐車場の所が旅館「伊勢勘」があった所です。駐車場の名前が「伊勢勘」になっていますのですぐにわかります。

ango-toride11w.jpg<取手病院跡>
 旅館「伊勢勘」の女将さんが紹介してくれたのが、取手病院の離れでした。「翌日オカミサンは、さる病院を世話してくれた。ここは当主が死んで、もう病院も休業して久しい大建築物であった。「未亡人と、年ごろの美しいお妹さんもいますよ」と言った。つまり、悟りをひらいているのである。六十の婆サンと変なことになるよりは、年頃の美しい娘と変なことになる方がよろしいという悟りであった。こうまで親切にされるのも妙なもので、四十四五のオカミサンが営業上の環境から自然と悟りをひらいて人生の奥義をきわめているというのは、あんまり気持のよいものではない。だいたい女というものは不惑をすぎるころから、自然に一流の悟りをひらくようである。」、うむ〜〜、女の悟りとは・・・…。

右の写真のビルの辺りが取手病院跡です。取手駅東口前は、区画整理があり、道路も変わってしまっています。取手病院跡は、ほぼ現在の「セントラルホテル取手」の所です。取手では坂口安吾はお酒と食事に困ったようです。「この町では食事のために二軒の家しかなく、一軒はトンカツ屋で、一軒はソバ屋であった。私は毎日トンカツを食い、もしくは親子ドンブリを食った。そして夜はトンバチという酒をのむ。トンバチは当八の意で、一升の酒がコップ八杯の割で、コップ一杯が一合以上並々とあるという意味だという。」、安吾が毎日通っていた飲み屋は、伊勢勘の向かいにある「海老屋酒店」です。トンカツ屋とソバ屋はまだ場所がわかりません(何方か教えてください)。


坂口安吾 取手地図
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【参考文献】
・評伝 坂口安吾 魂の事件簿:七北数人、集英社
・坂口安吾の旅:若月忠信、春秋社
・定本 坂口安吾全集:坂口安吾、冬樹社
・太宰と安吾:檀一雄、沖積舎
・クラクラ日記:坂口三千代、筑摩書房
・追憶 坂口安吾:坂口三千代、筑摩書房
・新日本文学アルバム(坂口安吾):新潮社
・本格評伝坂口安吾:奥の健男、文藝春秋
・白痴:坂口安吾、新潮文庫
・堕落論:坂口安吾、新潮文庫
・風と光と二十の私と:坂口安吾、講談社文藝文庫
・文人悪食:嵐山光三郎、新潮文庫
・酒場:常磐新平、作品社
・昭和文学盛衰史(上)(下):高見順、福武書店
・新潮2002年9月号:新潮社
 
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